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第9話 土の断章

 祠の中央、沈黙の泉を囲む石畳の上。

 ひときわ古びた黒い石柱が一本だけ、立っていた。


 触れる者を拒むように、ぬめりを帯びた苔がびっしりと覆っていた。

 その中心には、薄く人の手形のような跡が残されている。


 ロイクが剣の柄に手を添える。


「……何か、来るな」


 聖剣が、微かな地鳴りに震えた。

 その瞬間、祠全体が重たく沈むような感覚に包まれる。

 地の底から、まるで問いかける声が響いた。


 ――なんじらは、記録されぬ祈りを引き受ける覚悟があるか。

 忘れ去られた声を、知らぬ誰かの願いを、名を持たぬ痛みを――

「己のもの」として、受け入れる覚悟があるか。



 空気が振るえた。

 その問いは、理屈ではなく、「質量」として三人にしかかった。


 アムルは口を開こうとして、言葉を失う。

 パンドラは片手を胸に当て、息を殺す。

 ロイクの頬から、汗がひと筋、落ちる。


 これは、信仰を試す問いではない。


「名を与えられなかった者たち」の祈りを、担えるのか――という、根源的な問いだった。

 そして、応えるためには、誰かの祈りを「身を以て知る」しかない。


 黒い石柱の手形が、微かに輝いた。

 パンドラが呟く。


「……これは、土の神グラナイオスの試練。祈りの“記憶”を受け取る……儀式だわ」


 三人は、やがて静かに頷いた。

 彼らの足元に、光が一筋走る。

 その先で、黒い土の塊がゆっくりと膨らみ、ひとつの記憶の扉を形作っていく。

 それは、忘れられた誰かの祈り。


 今、彼らはその祈りの「中」へと踏み込もうとしていた――。


 そして、視界が反転する。

 三人の足元が崩れ、まるで大地に呑まれるようにして沈み込む。

 落ちていく感覚ではない。

 染み込む。

 重さも、時間も、輪郭を失っていく。


 やがて、光が戻った。


 そこは――名も無き村だった。

 木と泥で編まれた家々。焼け焦げた祠。

 濁った井戸のそばで、誰かがうずくまっている。


 それは、名も知らぬ娘の祈り。


 膝を抱え、泥だらけの足元にひとしずくの水を注ぎながら、彼女は、何度も、何度も「名を呼んでいた」。


「グラナイオスさま……グラナイオスさま……どうか、弟の命だけでも……わたしの命なんて、どうなってもいいから……」


 空は曇り、雨は降らず、大地は干上がっていた。

 人々は神を罵り、祈りをやめ、彼女だけが、ひとり祈り続けていた。


 でも。


「そんな神……もう居ないんだってさ」


 誰かがそう言ったとき、娘は静かに、祠に背を向けた。

 それでも、その背中からは、祈りが零れていた。

 言葉ではなく、願いのかたちをした祈り。それはもう「誰か」に向けられたものではない。

 ただ、「祈らずにはいられなかった」心そのものだった。


 アムルは、ふと胸元を押さえる。胸の奥に、その娘の震えが伝わる。

 パンドラもまた、涙が頬を伝っていることに気づかない。

 ロイクは拳を握り、ただ黙って、祈りの最後を見届けていた。


 そのとき――

 娘の手のひらから、淡い土色の光が滲み出た。

 緑と金茶の混ざった、温かいそれは。

 名も無き祈りの残響――その一滴が、三人の中へと流れ込む。


 ――なぜ祈るのか、わからなくなっても。

 それでも誰かを想ったことだけは、本当だった。


 その言葉なき祈りが、土に染み込み、再び暗転する。

 次の瞬間、三人は元の祠の中へと戻っていた。

 祠の中心には、静かに浮かび上がる土の神詩の断章。

 それは「名も無き祈りの蓄積」から生まれた、記録なき神との対話の証だった。




 再び祠に戻った三人の前で、土の気配が震えた。

 中心の石床に、ひび割れのような光が走る。

 それはまるで、長い時を経てようやく「口を開いた地層」だった。


 石の奥から、低く、重い声が響く。


 ――祈りは忘れられても、土は記憶している。


 その声は神の言葉ではなかった。

 だが、確かに「神の記憶」だった。


 床のひび割れから、淡い褐色の光が染み出していく。

 それは土の神詩の断章――

 形なき祈りの残響が、結晶となって現れたもの。

 ロイクの聖剣が静かに震え、その刃先に光が吸い込まれるように流れ込む。

 アムルの胸にも、パンドラの額にも、淡く揺れる土の紋章が浮かび上がった。


 断章は、声ではなかった。けれど、大地の深奥から、確かな「詩」が響いてきた。



 記されぬ祈りを、我は知る

 言葉を持たず、名を持たずとも

 根を張る願いは、忘れられぬ



 忘れたのは人。忘れなかったのは土。

 いま、踏みしめるこの地に、祈りはある。


 ロイクが、そっと目を閉じる。


「……それでも、残っていたんだな」


 アムルが静かに微笑み、パンドラが小さく頷く。

 それは祝福でも、赦しでもない。

 ただ、「確かに記憶された」という証。

 それだけが、土の神グラナイオスからの応答だった。


 祈りは言葉ではなかった。

 けれど、歩んだ先に、それが刻まれていた。


 祠の静寂が、再び訪れる。

 けれど三人の胸には、もう確かな「根」があった。

 揺らがず、見えなくとも、そこに在ると信じられる何かが。


 ――それが、グラナイオスの「祈り」だった。


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