祠の中央、沈黙の泉を囲む石畳の上。
ひときわ古びた黒い石柱が一本だけ、立っていた。
触れる者を拒むように、
その中心には、薄く人の手形のような跡が残されている。
ロイクが剣の柄に手を添える。
「……何か、来るな」
聖剣が、微かな地鳴りに震えた。
その瞬間、祠全体が重たく沈むような感覚に包まれる。
地の底から、まるで問いかける声が響いた。
――
忘れ去られた声を、知らぬ誰かの願いを、名を持たぬ痛みを――
「己のもの」として、受け入れる覚悟があるか。
空気が振るえた。
その問いは、理屈ではなく、「質量」として三人に
アムルは口を開こうとして、言葉を失う。
パンドラは片手を胸に当て、息を殺す。
ロイクの頬から、汗がひと筋、落ちる。
これは、信仰を試す問いではない。
「名を与えられなかった者たち」の祈りを、担えるのか――という、根源的な問いだった。
そして、応えるためには、誰かの祈りを「身を以て知る」しかない。
黒い石柱の手形が、微かに輝いた。
パンドラが呟く。
「……これは、土の神グラナイオスの試練。祈りの“記憶”を受け取る……儀式だわ」
三人は、やがて静かに頷いた。
彼らの足元に、光が一筋走る。
その先で、黒い土の塊がゆっくりと膨らみ、ひとつの記憶の扉を形作っていく。
それは、忘れられた誰かの祈り。
今、彼らはその祈りの「中」へと踏み込もうとしていた――。
そして、視界が反転する。
三人の足元が崩れ、まるで大地に呑まれるようにして沈み込む。
落ちていく感覚ではない。
染み込む。
重さも、時間も、輪郭を失っていく。
やがて、光が戻った。
そこは――名も無き村だった。
木と泥で編まれた家々。焼け焦げた祠。
濁った井戸のそばで、誰かがうずくまっている。
それは、名も知らぬ娘の祈り。
膝を抱え、泥だらけの足元にひとしずくの水を注ぎながら、彼女は、何度も、何度も「名を呼んでいた」。
「グラナイオスさま……グラナイオスさま……どうか、弟の命だけでも……わたしの命なんて、どうなってもいいから……」
空は曇り、雨は降らず、大地は干上がっていた。
人々は神を罵り、祈りをやめ、彼女だけが、ひとり祈り続けていた。
でも。
「そんな神……もう居ないんだってさ」
誰かがそう言ったとき、娘は静かに、祠に背を向けた。
それでも、その背中からは、祈りが零れていた。
言葉ではなく、願いのかたちをした祈り。それはもう「誰か」に向けられたものではない。
ただ、「祈らずにはいられなかった」心そのものだった。
アムルは、ふと胸元を押さえる。胸の奥に、その娘の震えが伝わる。
パンドラもまた、涙が頬を伝っていることに気づかない。
ロイクは拳を握り、ただ黙って、祈りの最後を見届けていた。
そのとき――
娘の手のひらから、淡い土色の光が滲み出た。
緑と金茶の混ざった、温かいそれは。
名も無き祈りの残響――その一滴が、三人の中へと流れ込む。
――なぜ祈るのか、わからなくなっても。
それでも誰かを想ったことだけは、本当だった。
その言葉なき祈りが、土に染み込み、再び暗転する。
次の瞬間、三人は元の祠の中へと戻っていた。
祠の中心には、静かに浮かび上がる土の神詩の断章。
それは「名も無き祈りの蓄積」から生まれた、記録なき神との対話の証だった。
再び祠に戻った三人の前で、土の気配が震えた。
中心の石床に、ひび割れのような光が走る。
それはまるで、長い時を経てようやく「口を開いた地層」だった。
石の奥から、低く、重い声が響く。
――祈りは忘れられても、土は記憶している。
その声は神の言葉ではなかった。
だが、確かに「神の記憶」だった。
床のひび割れから、淡い褐色の光が染み出していく。
それは土の神詩の断章――
形なき祈りの残響が、結晶となって現れたもの。
ロイクの聖剣が静かに震え、その刃先に光が吸い込まれるように流れ込む。
アムルの胸にも、パンドラの額にも、淡く揺れる土の紋章が浮かび上がった。
断章は、声ではなかった。けれど、大地の深奥から、確かな「詩」が響いてきた。
記されぬ祈りを、我は知る
言葉を持たず、名を持たずとも
根を張る願いは、忘れられぬ
忘れたのは人。忘れなかったのは土。
いま、踏みしめるこの地に、祈りはある。
ロイクが、そっと目を閉じる。
「……それでも、残っていたんだな」
アムルが静かに微笑み、パンドラが小さく頷く。
それは祝福でも、赦しでもない。
ただ、「確かに記憶された」という証。
それだけが、土の神グラナイオスからの応答だった。
祈りは言葉ではなかった。
けれど、歩んだ先に、それが刻まれていた。
祠の静寂が、再び訪れる。
けれど三人の胸には、もう確かな「根」があった。
揺らがず、見えなくとも、そこに在ると信じられる何かが。
――それが、グラナイオスの「祈り」だった。