夏の夜。虫の声がざわめく村の神社に、一匹の猫が現れた。
漆黒の毛並みは月明かりを吸い込み、しなやかな四肢が音もなく石段を登る。首元には、場違いなほどキラキラしたアクリルキーホルダー――推しの名前入りだ。
「ようやく……見つけたにゃ。霊野月陵」
そう呟くと、猫は一息に鳥居を飛び越え、闇に溶けるように姿を消した。
――そして、朝。
「おーい、月陵、こっち手伝ってー」
畑で鍬を振るう幼なじみ・ツグミの声に応え、俺――霊野月陵(れいの つきりょう)は、汗をぬぐいながら作業を続けていた。平穏そのものだった。あの猫が空から降ってくるまでは。
「ついに見つけたにゃああああ!!」
「うわっ!? ちょ、なんだお前、顔近い顔近いって! 舐めるなああああ!」
「これが契約のキスにゃ! 今日からあなたは、私のものにゃ!」
「いや怖い! 怖すぎる! 物理的にも倫理的にも法的にも怖い!!」
呆然と見守っていたツグミが、ぽつりと呟く。
「……なにその猫? 新種の呪い?」
「呪いじゃないにゃ! 私は彼の運命の使い魔、“ミケ”にゃ!」
そう宣言する猫は、アクリルキーホルダーを陽光にきらめかせながら、ふわっと俺の額を舐め――。
「ちょっ、また顔舐めた!? お前、そういう趣味!?」
その瞬間、俺の体からもやもやとした白い霊気が立ちのぼる。
「な、なんだこれ……!?」
「これが月陵くんの真の力……“
「名前ダサッ!! ていうかそれ、使い道がモテる系霊障限定じゃん!」
「その通りにゃ! これからは、恋に未練を残した霊たちが、あなたに吸い寄せられるにゃ!」
「やめてくれ!! 俺、ついに“霊にモテる”とかいうジャンル開拓したくなかったんだけど!」
***
それからというもの、俺の周囲には恋の未練を抱えた霊が行列を作るようになった。
「元カレのこと、どうしても忘れられなくて……」
「初恋の人が……実は蛇でした」
「推しが結婚して、祝福したいのに、無理……オタクやめられない……」
「いやそれSNSの愚痴案件じゃね!?」
もう俺の生活は崩壊寸前である。
そんなある夜。
村はずれの古びた祠の跡地が、地鳴りと共に震えた。
地中から浮かび上がる“それ”は、白無垢の花嫁姿を模した石像――
「これ……誰だ?」
ミケの表情が曇る。
「伝説の存在、“笑い神”の婚約者、“泣き姫”にゃ。負の感情を封じるため、この祠に封印されていたにゃ」
ツグミが眉をひそめた。
「……つまり、この村って、“笑い”と“泣き”のバランスで守られてたってこと?」
「その通りにゃ。でも、“笑い神”が消えた今、“泣き姫”の封印も解けかけているにゃ」
***
その夜、俺は不思議な夢を見る。
真っ白な着物に身を包んだ女が、静かに佇んでいた。
「あなたが……あの人を、封じたのね……」
「え、誰? “あの人”って?」
「……“笑い”が消えた世界で、残るのは“涙”だけ……」
目を覚ましたとき、窓の外は土砂降りだった。
「始まったにゃ。泣き姫が、“感情の嵐”を降らせているにゃ」
「え、なにそれ……ポエム?」
「違うにゃ。実害あるにゃ。泣きすぎて田んぼが沈むにゃ!」
「俺、この村で生き延びられる気がしないんだけど!?」