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第8章: 勝利の怪物

静まり返った闘技場に、新たな気配が満ちていく。観客の視線は、次なる戦いの舞台へと注がれていた。


これまでとは違う緊張感。これはただの試合ではない――何かが始まろうとしている。




彼らが立つのは、神々に見守られる神聖な闘技場。ここで試されるのは、力だけではない。


信念、覚悟、そして――闇の中に潜む「何か」。




その瞬間を見逃すまいと、空気さえ凍りつく。


やがて、誰もが目撃することになるだろう。


“怪物”とは、何なのか。


—————————————————————————————————————————————————————————


コロシアムのざわめきは、これまでの戦いとは違っていた。ただの興奮でも、単なる期待でもなかった。


それは――緊張。


嵐の前に訪れる、重く、濃密な沈黙のようなものだった。




上空から見れば、雲ひとつない空なのに、どこか暗さが漂っていた。


太陽の光は、まるで舞台を照らすスポットライトのように、正確に闘技場の中心へと降り注いでいた。


光そのものが、これから始まる戦いを見届けようとしているかのように。




「それで? あんたはこの戦いで何が見たいわけ?」


腕を組んだナズが、アリーナを一瞥しながら言った。


「もちろん、あの少年以外でって話だけど……」




「まず、あの子に興味なんかない」


目をトンネルの入り口から逸らさずに、彼女は静かに答えた。


「それに名前はエデン。そして……本当に気になるのはもう一人。シュウよ」




ナズは舌打ちしながら、からかうように笑った。


「なるほど、三角関係ってやつか」




ごつん、と鈍い音がナズの頭に響いた。言いかけた言葉は飲み込まれた。




「違うっつーの、バカ。そんなのじゃない。ただ…噂が本当か知りたいだけよ」




「噂?」




「アイツ、もともと学院の上層部から直接スカウトされたって話。三人の選ばれし者の一人だったって。でも本人が断ったってね。


それに…戦うとき、まるで別人になるって言われてる」




「別人? そんなの信じられない」




「私もそう思ってた。さっき会ったときは、そんなに強そうには見えなかったし。どうしてそんな機会を与えられたのか分からない…」




「きっと金持ちの家の出なんだよ。GODSにコネがあるんでしょ」




「……かもね」


彼女は依然として、空っぽの闘技場に視線を向けたままだった。




そのとき、トンネルの扉がゆっくりと開かれた。




二つの影が、ゆっくりとアリーナの中心へと歩み出す。




観客が一斉に歓声を上げた。




エデンは確かな足取りで、シュウはどこか夢の中にいるような穏やかな表情で――


二人は静かに向かい合った。




「この戦い、悪くなさそうだな……」


玉座に腰掛けたゼウスが、好奇心に輝く瞳で呟く。


「お前の弟子がどこまで通用するか、見せてもらおうか、シュン」




背後で扉が閉まり、音が反響する。




空気が息を止めたかのように静まり返る。




そして運命は――再び、その牙を研ぎ澄ませていた。




視線が交差した瞬間、それは剣を交えるような鋭さを放っていた。


微笑む者はいない。言葉を発する者もいない。


ただ――風だけが、まるで戦いを遠くから見守ろうとするかのように、静かにその場を離れていった。




エデンは眉をひそめた。


「さっき、なんであんなこと言ったんだ?」




「別に深い意味はない」


シュウは落ち着き払った声で答える。


「ただ、真実を話しただけさ」




その声、その顔――


だが、さっき階段で出会った時の彼とは明らかに何かが違っていた。


目の奥に潜む、見えない闇。


まるで他人がその身体を操っているかのように。




……誰かが彼の中にいる。




観客席では、シュンが腕を組んだまま黙って見つめていた。


――さあ、エデン。お前の本当の力を世界に見せる時だ。




ゼウスが片手を高く掲げる。


「――戦闘、開始!」




その宣言が響くと同時に、


ズガァァァンッ!!


鋭い金属音が会場を切り裂いた。




最初に動いたのはエデンだった。


一歩、そしてもう一歩、全身を矢のように突き出して突進する。


剣が光を描きながら振り下ろされ、シュウが槍で応じた。


カァンッ――!


金属同士の激突音が、コロシアムを満たす。




観客は息を呑んだ。




ガン! ステップ! 斬撃! 逸らし! 旋回! 反撃――!


シュンは目を細めながら、静かに呟いた。


「……随分、速くなったな。だが……限界を超えてる。このままじゃ……」




――何を狙っている、エデン?




そして、最初の“崩れ”が訪れた。




エデンの剣が、シュウの槍を強く弾き飛ばす。


槍は空を舞い、数メートル後方の地面に突き刺さった。


次の瞬間、エデンは身体をひねり、シュウの腹に強烈な蹴りを放った。




シュウの身体は宙を舞い、観客席との間を隔てる魔法障壁に激突した。




「……悪くないな」


無意識に呟いたヘラクレス。




「……今、褒めた?」


隣で驚いた顔のヘルメスが聞く。




「べ、別に!? あいつ、エネルギー使いすぎだろ! すぐにバテるぞ!」




シュンの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「それが狙いだ」




「……は?」




「長期戦では勝てない。だからこそ、一撃で決めようとしてるんだよ」




シュウは立ち上がり、服の埃を払う。


「なかなかやるじゃないか、エデン」




「君もね。あの一撃で平然と立ち上がるなんて」




「……つまり、まだ本物の強者と戦ったことがないってことだ」




エデンの喉が動き、息が乱れる。




――今だ、終わらせるんだ。




シュウが片手を掲げ、王座に向けて声を上げた。


「ゼウス様。質問があります」




ゼウスは片眉を上げる。


「言ってみろ」




「相手を殺さない限り、反則負けにはならない……そうですよね?」




静寂――氷のように冷たい沈黙が会場を包んだ。




「……その通りだ」




ゆっくりと手を下ろすシュウ。




「なるほど……じゃあ、生きてさえいればいいってことだ」




その瞬間――




スゥゥゥッ……




光が消えた。




黒い霧が地面から湧き上がり、視界を覆い尽くしていく。


それはまるで毒のような、重く濃密な煙だった。




エデンは周囲を見回す。


「……何だこれ……!何も見えない!」




観客席で、シュンが立ち上がる。


――まずい……エデンじゃ、あれには勝てない。




霧のどこかから、シュウの声が響く。


「悪いな、エデン。ここまでだ」




ドガァッ!


息を奪う一撃。




ガッ! ガンッ!




闇そのものが拳となり、エデンを容赦なく打ち据える。




口から血が溢れた。


思考が霞む。


呼吸できない。


何も見えない。


何も……考えられない。




――何かしないと……! ほんの一瞬でいい……!




そのとき――切り裂く痛みが、雷のように全身を貫いた。




ザシュッ!




片腕が地面に落ちる。




「う、うああああああああああっっっ!!」




エデンの叫びが、観客全員の背筋を凍らせた。




シュンが一歩前へ出る。


――まさか……そんなはずは……!




ナズが拳を握りしめる。


ユキは息を呑む。




霧が波打つ。




そしてその中から――現れたのは、シュウ。


虚ろな目で、静かに歩みを進めていた。




「……惨めだな。でも、無理もない。相手は“勝利の怪物”だからな」




「それに、何をしても無駄だ。お前の次の動きは、もう分かってる」




だが――その瞬間、




バシッ!




「――なっ!?」




腕を掴まれた。




「戦いの中で、油断するな」




上空から、影が降る。




あの剣――


エデンが数秒前に宙へと放った剣だった。




シュウが身を引こうとするも――遅かった。




シュウッ!




エデンは剣を空中で掴み、そのまま全力で斬り下ろす!




バシュウウウ――ッ!




黒霧が裂けた。




ドサッ!




シュウが膝をつき、血を吐く。




観客席で、シュンが息を呑む。


――いつの間に、そこまで考えていた……?




そしてその瞬間――すべてが変わった。




――その光景は、現実とは思えなかった。




膝をついたシュウ。


血を流しながら立つエデン。


そして、地面に落ちた――片腕。




観客たちは叫ぶべきか、沈黙すべきかさえ分からなかった。


張り詰めた空気は、呼吸さえ苦痛に変えるほどだった。




観客席の上段で、ユキが目を見開いていた。


――いったい、中で何が起きたの……?




アリーナの中央で、シュウが顔を上げた。


その表情には、もう冷静さはなかった。


代わりに浮かんでいたのは――困惑、怒り、そして屈辱。




――これは……現実なのか?


あんな弱そうな奴に……傷を負わされた、だと?




「……貴様あああああああッ!!」




ドォン――!!




怒声とともに、爆発のような魔力の波動が広がった。


その衝撃はコロシアムの壁を揺らし、観客席を震わせ、


空さえも一瞬、陰ったかのように感じさせた。




ユキは目を細める。


「……やっぱり、噂は本当だったのね」




瞳には、混沌としたオーラに包まれたシュウの姿が映っていた。


「その目……“勝利の怪物”のそれよ」




シュウが一歩前へ出る。


さらに一歩。


踏みしめるたびに、大地が震える。




「絶対に許さない……絶対に、だ!!」




猛獣の如き咆哮。




エデンはまだ立っていた。


布を歯で裂き、傷口を押さえて出血を止めようとする。




上段の王座で、ゼウスの表情が険しくなった。


――時間がない。このままでは意識を失う。


立ち上がろうとした、その時――




エデンが顔を上げた。




ほんの一瞬。


だが、それだけで十分だった。




ゼウスの視線が、血まみれで立ち続けるその若者と交差した。




その眼差しに――ゼウスは静かに腰を戻し、微笑んだ。




「……ヘルメス」




ゼウスは囁いた。


「止めない」




驚いたヘルメスが声を上げる。


「な……何を言ってるんです!あの子、死にますよ!」




「もう……彼は決めたのだ」




「シュン!あんたは師匠だろ!?止めろよ!」




だが、シュンは首を横に振った。


「止められないさ。ああいう奴は」




「“ああいう奴”って……?」




「――退かないと決めた者のことだ」




これまで黙っていたヘラクレスが、視線を逸らさぬまま口を開く。


「……シュンは昔から、信念を貫く者を尊敬していた。命を賭けてでも、道を曲げない奴をな」




「そして今……その一人が、目の前に立っている」




一人、また一人と、神々が立ち上がる。




ユキが戸惑いの声を漏らす。


「……なに?何が起きてるの?」




その背後から、久しぶりに真剣な表情のアフロディーテが近づいた。


「……あの人間。神々の敬意を得たのよ」




「アフロディーテ!? あなたがここに……?」




「説明は後。今は……見届けて」




その頃、シュウが足を止めた。


視線に感じる――神々全員の眼差し。




シュン。ゼウス。アフロディーテ。ヘルメス。ヘラクレス。


全員が――立ち上がっていた。




そして、拍手を送っていたのは――自分ではなく、相手だった。




「……な、なにを……してる……?」




シュウの身体が震える。




「なぜ……なぜあいつなんだ……?


称えられるべきは、この俺だろう!?俺の、この圧倒的な力のはずだろう!!」




「貴様ああああああああああッ!!」




さらに荒々しいオーラが炸裂した。




だがその下で――エデンは微かに笑みを浮かべていた。




「……そこだ。今のが……君の本当の力か」




彼の身体もまた、震え始める。




新たな力が、その奥底から湧き上がってくる。


それは清らかでも、輝かしくもなかった。




だが――確かに、彼自身のものだった。




二人の戦士が、同時に構えを取る。




「――光術・神の閃光!!」




シュウが黄金のエネルギー球を頭上に掲げる。




「――黒炎剣!!」




エデンの剣に、燃えるような漆黒の力が宿る。




光と闇。


正反対の力。




――衝突は避けられない。




ズバァァァッ!!




シュウの光球が宙を飛び――


エデンの剣がそれを一刀両断する。




そのまま、残光がシュウへと襲いかかった。




ドガアアアアアアアアアアン――!!!




壁まで吹き飛ばされ、シュウの身体は数度跳ねてから動かなくなった。




エデンは、一歩。


そして、もう一歩。




「……強かったよ、シュウ。でも……」




掌に浮かぶ、小さなエネルギー球。




「間違えたのは、僕に――何も失うものがないとき、何ができるか……考えてなかったことだ」




……しかし。




彼の身体は、もう限界だった。




バタッ。




エデンの身体が崩れ落ちる。


完全に意識を失い、動かない。




「な……」


シュンの眉間に皺が寄る。




ゼウスがため息をつきながらも笑みを崩さず言う。


「……どうやら、最後まで持たなかったな」




「だが、それでも――見事な戦いだった」




静寂。




かろうじて立ち上がったシュウが顔を上げた。


その瞳の奥にあったのは、もはや人のものではなかった。




ゆっくりと、エデンの意識を失った身体へと槍を向ける。




「……今だ」




ヘラクレスの表情が険しくなる。


「なにを……しようとしてる?」




「……今こそ、俺が……全ての注目を奪う時だ」




だが、その時だった。




ガンッ!




「……ぐっ……!」




頭に鋭い痛み。


どこか遠くから響く声。




怒ってもいない。


哀願してもいない。




ただ――命じるだけ。




《やめろ》




膝をつくシュウ。




誰もが凍りついた。




その瞬間――




ドクン。




強烈な鼓動。




ドクン……ドクン……!




それは次第に、全ての者の心臓に響いた。




「な、なに……?」


ユキが震える声で呟く。




「……感じた?あんたも……?」


ナズの顔も青ざめていた。




「……うん。まるで、何かが……」




「何かが――こう言ってるみたい」




ナズが唾を飲み込む。




「“今、私たちは死ぬんだ”って……!」




その瞬間――




全てが、再び変わった。




意識を失っていたはずのエデンの身体から――


“それ”が現れた。




それは――人間ではなかった。




生きている存在にすら思えなかった。




会場にいた全員の心に、同時に響いた声。




《みんな死ぬ。お前たち、全員殺す》




ゼウスが即座に立ち上がる。


「――悪魔だ……!」




シュウの全身が凍りつく。




――神々は……俺を、見捨てた……?




そして。




バキィィィィン!!




観客を守っていた結界が――崩壊した。




その瞬間、シュンの姿が雷のように現れる。




「――空間術・封印領域!」




エデンの身体を包むように、エネルギーの球体が発動した。


その中で暴走するオーラも、同時に封じられていく。




場内、完全な混乱。




観客たちは叫び、走り出す。


逃げる。


逃げるしかない。




シュンが王座に視線を向ける。


ゼウスが静かに頷いた。




アフロディーテ、ヘルメス、ヘラクレスも合流する。




四人は、球体に封じられたエデンを中心に、護衛陣を敷いた。




そして、ゼウスが一歩前へ出て、明瞭な声で告げる。




「――本日をもって、GODS学院の試験は中止とする」




シュウは、なおも膝をついたまま――




小さく呟いた。




「……悪魔、か……」

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