静まり返った闘技場に、新たな気配が満ちていく。観客の視線は、次なる戦いの舞台へと注がれていた。
これまでとは違う緊張感。これはただの試合ではない――何かが始まろうとしている。
彼らが立つのは、神々に見守られる神聖な闘技場。ここで試されるのは、力だけではない。
信念、覚悟、そして――闇の中に潜む「何か」。
その瞬間を見逃すまいと、空気さえ凍りつく。
やがて、誰もが目撃することになるだろう。
“怪物”とは、何なのか。
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コロシアムのざわめきは、これまでの戦いとは違っていた。ただの興奮でも、単なる期待でもなかった。
それは――緊張。
嵐の前に訪れる、重く、濃密な沈黙のようなものだった。
上空から見れば、雲ひとつない空なのに、どこか暗さが漂っていた。
太陽の光は、まるで舞台を照らすスポットライトのように、正確に闘技場の中心へと降り注いでいた。
光そのものが、これから始まる戦いを見届けようとしているかのように。
「それで? あんたはこの戦いで何が見たいわけ?」
腕を組んだナズが、アリーナを一瞥しながら言った。
「もちろん、あの少年以外でって話だけど……」
「まず、あの子に興味なんかない」
目をトンネルの入り口から逸らさずに、彼女は静かに答えた。
「それに名前はエデン。そして……本当に気になるのはもう一人。シュウよ」
ナズは舌打ちしながら、からかうように笑った。
「なるほど、三角関係ってやつか」
ごつん、と鈍い音がナズの頭に響いた。言いかけた言葉は飲み込まれた。
「違うっつーの、バカ。そんなのじゃない。ただ…噂が本当か知りたいだけよ」
「噂?」
「アイツ、もともと学院の上層部から直接スカウトされたって話。三人の選ばれし者の一人だったって。でも本人が断ったってね。
それに…戦うとき、まるで別人になるって言われてる」
「別人? そんなの信じられない」
「私もそう思ってた。さっき会ったときは、そんなに強そうには見えなかったし。どうしてそんな機会を与えられたのか分からない…」
「きっと金持ちの家の出なんだよ。GODSにコネがあるんでしょ」
「……かもね」
彼女は依然として、空っぽの闘技場に視線を向けたままだった。
そのとき、トンネルの扉がゆっくりと開かれた。
二つの影が、ゆっくりとアリーナの中心へと歩み出す。
観客が一斉に歓声を上げた。
エデンは確かな足取りで、シュウはどこか夢の中にいるような穏やかな表情で――
二人は静かに向かい合った。
「この戦い、悪くなさそうだな……」
玉座に腰掛けたゼウスが、好奇心に輝く瞳で呟く。
「お前の弟子がどこまで通用するか、見せてもらおうか、シュン」
背後で扉が閉まり、音が反響する。
空気が息を止めたかのように静まり返る。
そして運命は――再び、その牙を研ぎ澄ませていた。
視線が交差した瞬間、それは剣を交えるような鋭さを放っていた。
微笑む者はいない。言葉を発する者もいない。
ただ――風だけが、まるで戦いを遠くから見守ろうとするかのように、静かにその場を離れていった。
エデンは眉をひそめた。
「さっき、なんであんなこと言ったんだ?」
「別に深い意味はない」
シュウは落ち着き払った声で答える。
「ただ、真実を話しただけさ」
その声、その顔――
だが、さっき階段で出会った時の彼とは明らかに何かが違っていた。
目の奥に潜む、見えない闇。
まるで他人がその身体を操っているかのように。
……誰かが彼の中にいる。
観客席では、シュンが腕を組んだまま黙って見つめていた。
――さあ、エデン。お前の本当の力を世界に見せる時だ。
ゼウスが片手を高く掲げる。
「――戦闘、開始!」
その宣言が響くと同時に、
ズガァァァンッ!!
鋭い金属音が会場を切り裂いた。
最初に動いたのはエデンだった。
一歩、そしてもう一歩、全身を矢のように突き出して突進する。
剣が光を描きながら振り下ろされ、シュウが槍で応じた。
カァンッ――!
金属同士の激突音が、コロシアムを満たす。
観客は息を呑んだ。
ガン! ステップ! 斬撃! 逸らし! 旋回! 反撃――!
シュンは目を細めながら、静かに呟いた。
「……随分、速くなったな。だが……限界を超えてる。このままじゃ……」
――何を狙っている、エデン?
そして、最初の“崩れ”が訪れた。
エデンの剣が、シュウの槍を強く弾き飛ばす。
槍は空を舞い、数メートル後方の地面に突き刺さった。
次の瞬間、エデンは身体をひねり、シュウの腹に強烈な蹴りを放った。
シュウの身体は宙を舞い、観客席との間を隔てる魔法障壁に激突した。
「……悪くないな」
無意識に呟いたヘラクレス。
「……今、褒めた?」
隣で驚いた顔のヘルメスが聞く。
「べ、別に!? あいつ、エネルギー使いすぎだろ! すぐにバテるぞ!」
シュンの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「それが狙いだ」
「……は?」
「長期戦では勝てない。だからこそ、一撃で決めようとしてるんだよ」
シュウは立ち上がり、服の埃を払う。
「なかなかやるじゃないか、エデン」
「君もね。あの一撃で平然と立ち上がるなんて」
「……つまり、まだ本物の強者と戦ったことがないってことだ」
エデンの喉が動き、息が乱れる。
――今だ、終わらせるんだ。
シュウが片手を掲げ、王座に向けて声を上げた。
「ゼウス様。質問があります」
ゼウスは片眉を上げる。
「言ってみろ」
「相手を殺さない限り、反則負けにはならない……そうですよね?」
静寂――氷のように冷たい沈黙が会場を包んだ。
「……その通りだ」
ゆっくりと手を下ろすシュウ。
「なるほど……じゃあ、生きてさえいればいいってことだ」
その瞬間――
スゥゥゥッ……
光が消えた。
黒い霧が地面から湧き上がり、視界を覆い尽くしていく。
それはまるで毒のような、重く濃密な煙だった。
エデンは周囲を見回す。
「……何だこれ……!何も見えない!」
観客席で、シュンが立ち上がる。
――まずい……エデンじゃ、あれには勝てない。
霧のどこかから、シュウの声が響く。
「悪いな、エデン。ここまでだ」
ドガァッ!
息を奪う一撃。
ガッ! ガンッ!
闇そのものが拳となり、エデンを容赦なく打ち据える。
口から血が溢れた。
思考が霞む。
呼吸できない。
何も見えない。
何も……考えられない。
――何かしないと……! ほんの一瞬でいい……!
そのとき――切り裂く痛みが、雷のように全身を貫いた。
ザシュッ!
片腕が地面に落ちる。
「う、うああああああああああっっっ!!」
エデンの叫びが、観客全員の背筋を凍らせた。
シュンが一歩前へ出る。
――まさか……そんなはずは……!
ナズが拳を握りしめる。
ユキは息を呑む。
霧が波打つ。
そしてその中から――現れたのは、シュウ。
虚ろな目で、静かに歩みを進めていた。
「……惨めだな。でも、無理もない。相手は“勝利の怪物”だからな」
「それに、何をしても無駄だ。お前の次の動きは、もう分かってる」
だが――その瞬間、
バシッ!
「――なっ!?」
腕を掴まれた。
「戦いの中で、油断するな」
上空から、影が降る。
あの剣――
エデンが数秒前に宙へと放った剣だった。
シュウが身を引こうとするも――遅かった。
シュウッ!
エデンは剣を空中で掴み、そのまま全力で斬り下ろす!
バシュウウウ――ッ!
黒霧が裂けた。
ドサッ!
シュウが膝をつき、血を吐く。
観客席で、シュンが息を呑む。
――いつの間に、そこまで考えていた……?
そしてその瞬間――すべてが変わった。
――その光景は、現実とは思えなかった。
膝をついたシュウ。
血を流しながら立つエデン。
そして、地面に落ちた――片腕。
観客たちは叫ぶべきか、沈黙すべきかさえ分からなかった。
張り詰めた空気は、呼吸さえ苦痛に変えるほどだった。
観客席の上段で、ユキが目を見開いていた。
――いったい、中で何が起きたの……?
アリーナの中央で、シュウが顔を上げた。
その表情には、もう冷静さはなかった。
代わりに浮かんでいたのは――困惑、怒り、そして屈辱。
――これは……現実なのか?
あんな弱そうな奴に……傷を負わされた、だと?
「……貴様あああああああッ!!」
ドォン――!!
怒声とともに、爆発のような魔力の波動が広がった。
その衝撃はコロシアムの壁を揺らし、観客席を震わせ、
空さえも一瞬、陰ったかのように感じさせた。
ユキは目を細める。
「……やっぱり、噂は本当だったのね」
瞳には、混沌としたオーラに包まれたシュウの姿が映っていた。
「その目……“勝利の怪物”のそれよ」
シュウが一歩前へ出る。
さらに一歩。
踏みしめるたびに、大地が震える。
「絶対に許さない……絶対に、だ!!」
猛獣の如き咆哮。
エデンはまだ立っていた。
布を歯で裂き、傷口を押さえて出血を止めようとする。
上段の王座で、ゼウスの表情が険しくなった。
――時間がない。このままでは意識を失う。
立ち上がろうとした、その時――
エデンが顔を上げた。
ほんの一瞬。
だが、それだけで十分だった。
ゼウスの視線が、血まみれで立ち続けるその若者と交差した。
その眼差しに――ゼウスは静かに腰を戻し、微笑んだ。
「……ヘルメス」
ゼウスは囁いた。
「止めない」
驚いたヘルメスが声を上げる。
「な……何を言ってるんです!あの子、死にますよ!」
「もう……彼は決めたのだ」
「シュン!あんたは師匠だろ!?止めろよ!」
だが、シュンは首を横に振った。
「止められないさ。ああいう奴は」
「“ああいう奴”って……?」
「――退かないと決めた者のことだ」
これまで黙っていたヘラクレスが、視線を逸らさぬまま口を開く。
「……シュンは昔から、信念を貫く者を尊敬していた。命を賭けてでも、道を曲げない奴をな」
「そして今……その一人が、目の前に立っている」
一人、また一人と、神々が立ち上がる。
ユキが戸惑いの声を漏らす。
「……なに?何が起きてるの?」
その背後から、久しぶりに真剣な表情のアフロディーテが近づいた。
「……あの人間。神々の敬意を得たのよ」
「アフロディーテ!? あなたがここに……?」
「説明は後。今は……見届けて」
その頃、シュウが足を止めた。
視線に感じる――神々全員の眼差し。
シュン。ゼウス。アフロディーテ。ヘルメス。ヘラクレス。
全員が――立ち上がっていた。
そして、拍手を送っていたのは――自分ではなく、相手だった。
「……な、なにを……してる……?」
シュウの身体が震える。
「なぜ……なぜあいつなんだ……?
称えられるべきは、この俺だろう!?俺の、この圧倒的な力のはずだろう!!」
「貴様ああああああああああッ!!」
さらに荒々しいオーラが炸裂した。
だがその下で――エデンは微かに笑みを浮かべていた。
「……そこだ。今のが……君の本当の力か」
彼の身体もまた、震え始める。
新たな力が、その奥底から湧き上がってくる。
それは清らかでも、輝かしくもなかった。
だが――確かに、彼自身のものだった。
二人の戦士が、同時に構えを取る。
「――光術・神の閃光!!」
シュウが黄金のエネルギー球を頭上に掲げる。
「――黒炎剣!!」
エデンの剣に、燃えるような漆黒の力が宿る。
光と闇。
正反対の力。
――衝突は避けられない。
ズバァァァッ!!
シュウの光球が宙を飛び――
エデンの剣がそれを一刀両断する。
そのまま、残光がシュウへと襲いかかった。
ドガアアアアアアアアアアン――!!!
壁まで吹き飛ばされ、シュウの身体は数度跳ねてから動かなくなった。
エデンは、一歩。
そして、もう一歩。
「……強かったよ、シュウ。でも……」
掌に浮かぶ、小さなエネルギー球。
「間違えたのは、僕に――何も失うものがないとき、何ができるか……考えてなかったことだ」
……しかし。
彼の身体は、もう限界だった。
バタッ。
エデンの身体が崩れ落ちる。
完全に意識を失い、動かない。
「な……」
シュンの眉間に皺が寄る。
ゼウスがため息をつきながらも笑みを崩さず言う。
「……どうやら、最後まで持たなかったな」
「だが、それでも――見事な戦いだった」
静寂。
かろうじて立ち上がったシュウが顔を上げた。
その瞳の奥にあったのは、もはや人のものではなかった。
ゆっくりと、エデンの意識を失った身体へと槍を向ける。
「……今だ」
ヘラクレスの表情が険しくなる。
「なにを……しようとしてる?」
「……今こそ、俺が……全ての注目を奪う時だ」
だが、その時だった。
ガンッ!
「……ぐっ……!」
頭に鋭い痛み。
どこか遠くから響く声。
怒ってもいない。
哀願してもいない。
ただ――命じるだけ。
《やめろ》
膝をつくシュウ。
誰もが凍りついた。
その瞬間――
ドクン。
強烈な鼓動。
ドクン……ドクン……!
それは次第に、全ての者の心臓に響いた。
「な、なに……?」
ユキが震える声で呟く。
「……感じた?あんたも……?」
ナズの顔も青ざめていた。
「……うん。まるで、何かが……」
「何かが――こう言ってるみたい」
ナズが唾を飲み込む。
「“今、私たちは死ぬんだ”って……!」
その瞬間――
全てが、再び変わった。
意識を失っていたはずのエデンの身体から――
“それ”が現れた。
それは――人間ではなかった。
生きている存在にすら思えなかった。
会場にいた全員の心に、同時に響いた声。
《みんな死ぬ。お前たち、全員殺す》
ゼウスが即座に立ち上がる。
「――悪魔だ……!」
シュウの全身が凍りつく。
――神々は……俺を、見捨てた……?
そして。
バキィィィィン!!
観客を守っていた結界が――崩壊した。
その瞬間、シュンの姿が雷のように現れる。
「――空間術・封印領域!」
エデンの身体を包むように、エネルギーの球体が発動した。
その中で暴走するオーラも、同時に封じられていく。
場内、完全な混乱。
観客たちは叫び、走り出す。
逃げる。
逃げるしかない。
シュンが王座に視線を向ける。
ゼウスが静かに頷いた。
アフロディーテ、ヘルメス、ヘラクレスも合流する。
四人は、球体に封じられたエデンを中心に、護衛陣を敷いた。
そして、ゼウスが一歩前へ出て、明瞭な声で告げる。
「――本日をもって、GODS学院の試験は中止とする」
シュウは、なおも膝をついたまま――
小さく呟いた。
「……悪魔、か……」