世界は、物理的な境界だけでなく、魂の気候によっても地域に分けられているように思われることがあります。子ども時代のような温かさで迎えてくれる土地があります。あるいは、避けられない運命のように冷たいものもある。そして、他にも…未知の声とともに風が吹く場所があります。それはノークでした。
外国に入ると、身体が旅するだけでなく、精神も試されるのです。風景は変化しますが、旅行者もさらに変化します。なぜなら、本当の挑戦は必ずしもあなたを待ち受ける敵の中にあるわけではなく、あなた自身の疑念の反響の中にあるからです。
戦闘前の沈黙は戦争そのものよりも残酷になることがある。体が準備している間、魂は自分が下した決断に従うかどうか疑問に思う。しかし、もう後戻りはできません。
今日、エデンとその仲間たちは、古い伝説と破られた約束が刻まれた地を歩んでいます。丁重に歓迎してくれる場所ですが…親切ではありません。ノルウェーは歓迎すべき土地ではありません。それはテストであり、フィルターであり、警告です。
そして彼らを包む寒さは天候からだけではなく、潜む運命からも来ている。
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朝は、刺すような冷気とともに訪れた。
それはただの寒さではなく、何か…もっと深い何かを告げるための前触れのようだった。
「今日は…特別に寒いな」
イサクが手を擦り合わせながら呟いた。
「まだ冬じゃないはずだろ」
シュウは、白く染まる地平線を見据えたまま、わずかに顔を向けた。
「時に、自然は何かを伝えようとしてるんだよ」
落ち着いた声だった。
「それ、深いこと言いたいのか? それとも話すのが面倒なだけか?」
イサクは片眉を上げて返した。
その瞬間、彼らの前にアフロディーテが現れた。
変わらぬ穏やかな口調ではあったが、目の奥には緊張の色が潜んでいた。
「全員、そろっているようね」
静かにそう言うと、シュウが一歩前に出て、腕を組んだ。
「どうやってノルクまで行くんだ? 遠いって聞いてるけど」
「心配しないで」
アフロディーテは歩を止めずに答えた。
「その役目は彼が担ってる」
地面がわずかに震え、空間にひびが走った。
そして、その光の裂け目から現れたのは――
漆黒の馬に引かれた黄金の馬車だった。
その馬の瞳は、異世界の火のように輝いていた。
「すごい…」
思わずエデンが息を呑んだ。
馬車から優雅に降り立ったヘルメスが、手を挙げて合図した。
「準備はいいか?」
三人は言葉を交わさず、しかし迷いなく馬車に乗り込んだ。
ヘルメスはすぐに御者席へ戻り、指を鳴らす。
「リンク」
再び空間が裂け、馬車は異なる世界へと滑り込んだ。
――そこは、地でも天でもなく、虚無ですらなかった。
ただ…時空を繋ぐためだけに作られた、王の古き創造物。
「ここは…何なんだ?」
エデンは窓に額を当てながら訊ねた。
シュウは視線を前に向けたまま、静かに答えた。
「ずっと昔、王がこの空間を作った。
世界の果て同士を繋ぐために。普通の手段じゃ、何十年もかかるからな」
「じゃあ、俺たちは今…どこにいるんだ?」
さらに問いかけるエデン。
「それは…誰にもわからない。知っているのは、王だけだ」
その時、エデンの表情が歪んだ。
突然こめかみを押さえ、苦しげに目を閉じる。
「どうした!?」
シュウが振り向く。
「わからない…今、一瞬だけ…何かが見えた。映像のような…でも、もう思い出せない」
「一つも?」
イサクが真剣な目で問う。
「…全部、消えた」
そのやり取りの一方で、馬車の屋根の上ではアフロディーテとヘルメスが、静かに言葉を交わしていた。
「本当に…これでよかったのか?」
ヘルメスが背後の光の残滓を見つめながら訊いた。
「選択肢なんて、もう残っていない」
アフロディーテは迷いのない声で応じた。
「正しいかどうかなんて、もう関係ない。ただ、やるしかないのよ」
「でも、それでこの子たちが犠牲になるかもしれない」
彼女の瞳は、まったく揺れなかった。
「世界を救うために必要なら――私はそれも受け入れる」
ヘルメスは長く息を吐いた。
「……言うことがシュンに似てるな」
「違うわ」
アフロディーテはわずかに苦笑を浮かべた。
「シュンは“正しさ”なんて気にしない。あいつは…楽しんでるのよ」
「だったら、一番人間らしいのは…彼かもしれないな」
「あるいは、怪物なのは…私たちかもね」
その瞬間、馬車がポータルから飛び出した。
眼前に広がるのは――
灰色の空の下、一面の氷と雪。
どこまでも広がる、無音の世界だった。
「着いたぞ」
ヘルメスが声をかけた。
一人、また一人と馬車を降りる。
最後に降りたエデンは、雪の上に足をつけた瞬間、
――何かが、彼を待っているような感覚に襲われた。
アフロディーテが彼の様子を伺う。
「大丈夫?」
「……うん」
答えながらも、その胸の奥には確信の持てぬ何かがあった。
――ノルクでの物語が、いま始まる。
アスガルドの扉が、長く軋んだ音を立てて開かれた。
まるでその金属までもが、これから足を踏み入れる者たちへの畏敬を示しているかのようだった。
その向こうに広がるのは、氷の反射が金色に光る静謐な美しさ。
空へと突き刺すようにそびえる尖塔の数々が、荘厳な都市の威厳を語っていた。
門を越えた彼らを、長き時を背負った男――ヘイムダルが数歩だけ付き添った。
そして黒き石の像の前で足を止める。
「ここから先は、各々で進め。私は他の任務がある」
アフロディーテは、皮肉の混じった声で返した。
「それで? どこに滞在すればいいの? 北欧のもてなしって、観光客を門前で放り出すことなのかしら」
「ナイが案内する」
ヘイムダルは腕を組み、苛立ちを隠さずに答えた。
「接客態度は星二つね」
アフロディーテがぼそりとつぶやく。
「黙れ」
と、背を向けながらヘイムダルが唸るように返した。
「世界の繋がりを守る方が、案内役より遥かに重要だ」
「はいはい、“お忙しい”方ね」
そんな軽口のやり取りの中、金色の回廊から一人の少女が姿を現した。
氷のような金髪を高く束ね、鋭利な印象を纏ったその女性は、まるでこの地に根を張る精霊のようだった。
「ついて来い。すぐそこだ」
ナイは言い、迷いなく進む。
彼女の背に従いながら、戦士の像が並ぶ道を抜けると、重厚な木で造られた小さな小屋が見えてきた。
漆黒の屋根には霜が光り、建物全体がまるで古代の加護に包まれているかのような雰囲気を纏っていた。
「着いた」
ナイが扉の前で足を止める。
「何かあれば衛兵に頼れ。…せめて、敗北の時くらい快適に過ごせるようにしておこう」
その言葉に、エデンは思わず眉をひそめた。
「今…なんて言った?」
「聞こえただろ」
ナイは冷笑しながら続けた。
「勝てると思ってるのか? 笑わせるな」
エデンは無言で一歩前に出た。拳を強く握る。
「…お前、今なんて言った?」
「お前ら三人の中で戦えるのは、せいぜい緑髪のやつくらいだ。他の二人は足手まといにしかならん」
次の瞬間、エデンの手がナイの服の胸元を掴み、わずかに引き寄せる。
「言い直せ」
シュウがすかさず近づき、彼の肩に手を置いた。
「やめろ、そんな奴に構うな。言い返すより…見せてやれ」
歯を食いしばったエデンは、ゆっくりとナイを放した。
相手は衣服を整えながら、なおも余裕の笑みを浮かべている。
「自信たっぷりだな。だが、口だけで終わるのは見飽きたよ」
「俺は“口”じゃなく、“拳”で語る」
シュウの瞳が鋭く光る。
「楽しみにしてるよ、“神童”くん」
ナイはそう言うと、雷光に包まれ、その場から消えた。
残された三人。沈黙が落ちる。
「…俺のこと、知ってるみたいだな」
シュウが腕を組みながら呟いた。
その言葉に、他の二人は何も言わず頷き、小屋へと足を運んだ。
ギシ…ギシ…
木の床が、彼らの一歩ごとに小さく軋む。
温かみのある作りではあったが、その空間に満ちる空気は、張り詰めた弓のように緊張していた。
外では、ノルクの風が――まるで太古の神が囁くように、唸っていた。
そして、すべては…まだ始まったばかりだった。
夜は、まるで世界を丸ごと飲み込むかのような速さでノルクを覆った。
灰色だった空は、今や光すら呑み込むような深い蒼黒へと変わっていた。
エデンは一人、石畳の道を歩いていた。
厚手のマントに身を包んではいたが、骨の芯まで冷えるこの寒さには到底足りなかった。
静寂の中、彼は確信していた。
――自分は、ひとりじゃない。
気づけば、古びた街並みに足が向かっていた。
低い屋根、剥げかけた石壁、風に揺れる松明の炎が頼りない光を投げかけている。
その一角で、彼の目に留まったのは小さな看板。
《ゼノルの武具と秘密》
迷いもせず、扉を押した。
カラン…という鈴の音と共に、鉄と火の匂いが彼を包んだ。
どこか懐かしい、けれど緊張感のある空気。
店の奥には、太い髭と鋭い目を持つ老人が立っていた。
「こんばんは…って、いや、もう“おやすみ”の時間かね」
布で手を拭いながら、ゼノルと名乗る男が微笑む。
「剣を探してます。でも…どれを選べばいいか、全く分からないんです」
「なるほどな」
ゼノルは目を細め、鍛冶師特有の重みある声で続ける。
「――自分を象徴する一本を求める若者ってのは、いつの時代も変わらん」
「軽くて、でも丈夫なやつ。できるだけ正確に振れるものがいいです」
「ほう」
ゼノルは何も言わず、棚の奥から一振りの剣を取り出した。
黒く美しい刀身に、金の縁取り。
松明の火に照らされ、その刃は凛と輝いていた。
「こいつが合うだろうな」
思わず息をのむエデン。
だが、手を伸ばしかけたそのとき。
「待て」
ゼノルの視線が、彼の腰元に注がれた。
「その剣…見せてくれんか?」
「これですか? はい、どうぞ」
エデンは慎重に鞘を外した。
ゼノルは、その古びた剣を両手で受け取ると、まるで神聖なものに触れるかのように、静かに見つめた。
「信じられん…まさか本当にこれを…」
「そんなにすごい剣なんですか?」
「冗談じゃない。これを知らん奴はモグリだ」
鍛冶師の瞳が、炎のように熱を帯びる。
「神々ですら畏れたと言われる、伝説の剣だ」
「そんな大げさな…」
エデンは苦笑したが、ゼノルは首を横に振る。
「何でこの剣があるのに、別のを探してるんだ?」
「抜けないんです。何度試しても、途中で止まってしまって…」
「…やはりな」
ゼノルは静かに鞘を撫でる。
「この剣は“呪われて”いる。いや、正確には“封印”されている。かつての持ち主が、自らの意志で」
「……封印?」
「この剣には、数えきれない命が宿っている。使いこなせるのは、罪も力も全てを受け入れ、その重みを背負う覚悟のある者だけだ」
エデンの喉がごくりと鳴った。
「まさか…この剣って、祖父の?」
「その通りだ。かつて“火の獅子”と呼ばれた英雄、ゲン・ヨミ。…その剣だ」
震えるように、視線が刀に落ちる。
「ゲンは――戦争の神にすら恐れられた男だった。だが、今お前がそれを握っている。ということは…きっと、ゲンはお前に託したんだ」
「けど、俺は…そんな器じゃない」
「今は、な」
ゼノルは苦笑した。
「だが、いつか必要になる。そのときが来るまで、この剣は眠り続けるさ」
彼はそっと剣を返し、別の一本――先ほどの黒金の剣を差し出した。
「それまでは、こいつを使え。代金? いらんさ。あんたの戦いが面白くなるなら、それで充分」
「ありがとうございます…ゼノルさん」
「礼はいい。その剣に恥じるなよ」
深く一礼し、エデンは店を出た。
吹雪はさらに強くなっていたが、その背中は先ほどよりも、少しだけ…強くなっていた。
手にした新たな剣。
腰にある、目覚めぬ伝説の刃。
その両方が、彼の運命に繋がっていた。
ノルクの石畳の街路はまるで眠っているように静かだった。だが、エデンにはわかっていた。
その沈黙の中に、確かに何かが蠢いている。
吐く息は白く、足音は不安げに響きながら、彼の緊張を街全体に伝えていくようだった。
「……出てこい。隠れてるのはわかってる」
低く、鋭く呟いたその声は、氷のような夜気を切り裂いて広がった。
──カサリ。
屋根の上で何かが動いた。すぐさま、小さな影がいくつも降りてくる。動きは不規則で不気味だった。
緑色の肌、尖った耳、ギラついた眼光。
――ゴブリンたちだった。
「……それは俺たちのモノだ」
先頭に降り立った一体が、舌をチッチと鳴らして睨みつけてきた。
腰に差した祖父の剣の柄――ほんの少し露出したそれに、奴らは反応していた。
「渡す気はない」
エデンは一歩踏み出し、構えを取る。
脇から飛びかかってきたゴブリンを、反射的に蹴り返す。
そのまま身体を反転し、ゼノルからもらった黒金の剣を抜いた。
「その剣に触るな、クソども!」
叫ぶと同時に、別のゴブリンが突っ込んできた。
エデンはすかさず斬りかかる。動きは素早く、数も増えていく。
(……きりがねぇ)
斬っても斬っても、数は減らない。
周囲を取り囲むように跳ね回るゴブリンたち。攻撃の合間にも、汗が凍るほどの寒さが骨に染みる。
「くそっ……!」
と、次の瞬間――
ゴォォォォン……!
空が割れた。
黄金の光が天から差し込み、槍のごとく中央に突き刺さった。
まばゆい光の柱が広場を照らすと、ゴブリンたちは絶叫し、溶けるように闇へ逃げていく。
「……これ以上騒がれると困るんだ」
落ち着いた、だが圧倒的な声が光の中から響く。
光が収まると、そこに立っていたのは、銀の鎧をまとい、長い金髪を風に揺らす青年だった。
その瞳には、怒りではなく慈しみすら宿っていた。
「助かった。ありがとう」
エデンは息を整えながら礼を言った。
「気にするな。最近、旅人への襲撃が増えているからな」
青年は地面に残る足跡を見つめながら肩をすくめる。
「剣は無事か?」
「こっちのは問題ない。でも、あっちの方は……」
エデンは腰の封じられた剣に視線を向ける。
「ふむ。ゴブリンに理解できるほどの知性はないが……」
青年は少しだけ口元を緩めた。
「感謝するよ。ところで、名前は?」
「バルドル。ここらでは、ただのよくいる男さ」
(そんな風には見えないけどな……)
エデンは内心で思いながら、自分も名を告げた。
「俺はエデン・ヨミ」
「また会おう、エデン」
そう言い残すと、バルドルの姿は光に包まれ、ふっと消えた。
残された広場には、再び静寂だけが戻った。
エデンは夜空を見上げる。
ノルクの星たちは、まるで彼の迷いを映すように、静かに瞬いていた。
「……いい奴だったな」
そう呟いた彼の背後――遠くの木立の奥に、
ひとつの影が、じっと彼を見つめていた。
ノルクの北方、誰も近づかぬ黒き沼地。
そこは命よりも腐臭が支配する場所だった。
枯れた大木の根が這い出し、蛇のようにぬるりと岸辺に伸びる。
粘ついた水面は不気味に泡を立て、星も映らぬ空を歪めていた。
——ズル… ズル…
その中心にそびえるのは、泥と骨と乾いた枝で築かれた異様な王座。
その上に座すのは、漆黒の髪を垂らした妖艶な男。
彼の指先で、小さなナイフがくるくると静かに回っていた。
「さあ、聞かせてくれよ……」
声は錆びた刃物のように冷たく、鋭く。
「……約束の品は、どこにある?」
恐怖に震えながら進み出たのは、一体のゴブリン。
群れの奥から押し出されたように膝をつき、泥に顔を擦りつけながら答えた。
「ロ……ロキ様……っ。予想外の事態が……バルドル神が……介入を……っ」
ロキの動きが止まる。
ナイフも、微笑も、ぴたりと静止した。
「……バルドル」
低く呟いたその名には、感情が感じられなかった。
立ち上がり、泥の階段を一段ずつ踏みしめて降りると、ゴブリンの前に立ち塞がった。
その瞳が、まるで蛇のようにすべてを見透かす。
「強いよな、バルドル。ええ、とても強い……」
一拍置いて、口元が歪む。
「……だが、それが何だと言うんだ?」
——スパッ。
金属の閃き。
次の瞬間、血飛沫が舞い、ゴブリンの首が地に落ちた。
周囲のゴブリンたちは一斉に顔を伏せた。誰も目を合わせようとはしない。
「貴様らの事情など、私の興味の範囲外だ」
ロキの声が冷たく響く。血に濡れたナイフを握りしめたまま、群れへと視線を向けた。
「次、手ぶらで戻ってきたら——百体を殺す」
沈黙。
そして一斉に、震えた声が応えた。
「は、ははっ! 承知いたしました、ロキ様っ!!」
「消えろ」
その一言で、ゴブリンたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。転び、ぶつかり合いながら、我先にと闇へ沈んでいく。
残されたロキは、ゆっくりと泥の玉座へと戻る。
深く腰掛け、閉じた瞳の奥に、何かを描くように口元を緩めた。
やがて、目を開く。
瞳の奥には、赤い炎がゆらゆらと灯っていた。
「もうすぐだよ……」
小さく呟いたその言葉と同時に、大地がかすかに震えた。
それは、ロキの呟きに怯えたかのような震えだった。