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第24章: 誓い

神々の歴史には、血で結ばれた契約がある…


そして、恐怖を抱く人もいます。


誓いは単なる言葉の合意のように思えるかもしれないが、


しかし、神々の間では、言葉は鋼鉄よりも強い絆です。


誓うということは、自分が言ったことを実行することを宇宙に約束することです。


そして誓いを破ることは…世界の秩序に挑戦することです。


オーディンは賢者の中でも最も賢く、知識のために目を捨てた。


今は敵ではなく、


しかし、彼はそれを完全に理解することは決してできなかった。


運命だ。


予言を先取りした場合、それを止めることはできますか?


父の意志は神々の黄昏を防ぐのに十分でしょうか?


そして、すべての誓いが果たされたなら…


運命が笑うと何が起こるのでしょうか?


ラグナロクは戦争で始まるのではない。


それは矢印から始まります。


とても軽いです...


世界さえも彼女を止めようとは思わなかった。


—————————————————————————————————————————————————————————


アスガルドの黄金の大広間は、朝の光が柱の間から差し込んでいるにもかかわらず、なぜか暗く感じられた。




オーディンはその中心に立ち、かつてないほど深刻な面持ちで息子たちを見据えていた。




「……今、なんて言ったんだ、父上?」


ブラギの声が震える。


「バルドルが……死ぬ? そんなはずがない。誰があの人を傷つけるんだ? 民衆は皆、バルドルを愛している!」




オーディンは目を伏せた。


その声には疑念はなかった。ただ、深い哀しみがあった。




「それは分かっている……だが、ヘルヘイムの魔女がそう告げた。


そして彼女の予言は……常に現実になる」




顔面蒼白のヘモルドが一歩前に出た。




「何か手を打たなきゃ……どんな手でも。どんな犠牲を払ってでも」




「だからこそ、呼んだのだ」


オーディンの声が厳かに響く。


「お前には、九つの世界を回ってもらう。生きとし生けるすべての存在に――バルドルを傷つけぬよう誓わせるのだ。あらゆる生物、物体、武器、何もかもにだ」




「……そ、それは不可能だ……」


ヘモルドが呟く。




「ならば、不可能を成すしかない」


オーディンの決意は、神殿の天井を揺るがす雷鳴のように響いた。


「バルドルが死ねば……ラグナロクは避けられぬ」




「ラ、ラグナロク!?」


ブラギとヘモルドの叫びが重なった。




ブラギはごくりと唾を飲み込んだ。


「……それは、冗談だろ……?」




「いや」


オーディンは、遠くを見つめたまま答えた。


「ラグナロクは現実だ。だが……まだ、それを回避する手は残っている」




その時、玉座の背後に影が揺れた。




ヘルヘイムの魔女が、死の囁きのように空間から姿を現した。




「……全知の父よ、私はすでに告げたはず。バルドルの死は……避けられぬ運命」




オーディンは眉をひそめたが、驚きはなかった。




「何をしに来た?」




「警告よ。運命に逆らうべきではない。


これはもう、お前の手を離れている。神をも超えた流れなのだから」




「運命だと……?」


オーディンはゆっくりと眼帯を外した。




その下には、銀河とルーンが回転する宇宙の渦が広がっていた。




「その程度の戯言に、耳を貸すと思うか。知識において、私に敵う者などいない。必要とあらば、禁じられた魔術さえ使おう」




「……ラグナロクは起こさせん」




魔女は、憐れみと軽蔑を混ぜた視線で彼を見つめた。




「まだ気づかぬとはね。お前の力も、知恵も……


すべて、お前自身を盲目にする鎖でしかない」




「……消えろ」


オーディンの怒声が響いた。


「バルドルは生きる! 神々は、これからも千年の王座に君臨する!」




魔女は立ち止まり、最後の言葉を投げた。




「覚えておけ、オーディン……


いかなる知恵をもってしても、どれほどの力を持とうとも――


お前も、不死ではない。


死は、神さえも……例外ではないのだから」




そして、その身は闇へと溶けていった。




静寂が玉座の間を包んだ。




オーディンは深く息を吐いた。




「時間がない。……ヘモルド、行け」




「はっ!」


彼はすぐさま頷いた。




「ブラギ、お前もだ」




「了解した」




――




《フオオオッ!》




スレイプニル――八本脚を持つ伝説の馬に跨がり、ヘモルドとブラギは旅に出た。


九つの世界を巡り、誓いを集めるために。




最初にたどり着いたのは、ヴァナヘイム。


宙に浮かぶ島々が無限の奈落の上に広がり、空を貫くような森に覆われた幻想の地。




「……こんなに広かったっけ」


ブラギが呆然と見渡したその瞬間、




《カチン!》


氷の刃が、彼らの喉元に突きつけられた。




「なぜアースの神が、我らの地に?」




その声は、雪のように冷たく、鋭かった。


冬の女神――スカジが、険しいまなざしで睨みつけていた。




ヘモルドは両手を上げ、穏やかに答えた。




「スカジ……戦いに来たのではない。全知の父の命で来たのだ」




スカジは目を細め、氷の剣を下ろした。




「なるほど……あの神が馬を貸したとなれば、確かに大事な用件なのだろう」




「バルドルの命が危ない」


ヘモルドは重く告げた。


「あなた方の協力が、必要です」




スカジは無言で頷き、仲間の元へ案内した。




――




ヴァン神族の大広間に、すべての神々が揃っていた。




スカジ、ネルソス、フレイ、フレイヤ、ニョルズ、リティル、ヘーニル、グルヴェイグ、ゲルド。




ニョルズが立ち上がり、重々しく問うた。




「さて、急ぎの話とは何か?」




ヘモルドは、黒い球体を石の祭壇に置いた。




「オーディンの命により、ここにいる全員――


バルドルを傷つけぬと誓ってほしい」




ニョルズは眉をひそめた。




「そんな誓い、して何になる? 言葉だけでは意味がない」




「ですが、これを使えば――」


ヘモルドが球体を指さす。




それは紫色の煙をまとうようにして輝き始めた。




「この球に触れ、心から誓えば――


いかなる方法を使おうとも、バルドルに傷を与えることはできなくなる」




「ほう……」


ニョルズは感心したように呟いた。


「やれやれ、あの老いぼれもやるものだな」




「なんてバカげた話……」


フレイヤが不満げに口を挟む。


「バルドルを傷つけたい者なんて、九界にいるわけないじゃない」




「姉さん」


フレイが真剣な目で言う。


「世界には悪意が満ちている。備えて損はない」




「くだらない……」




だが、ニョルズは手を挙げた。




「よかろう。私と、私に従うすべてのヴァン神族は誓おう。


……だが、あの老人には大きな借りができたことを伝えてくれ」




「その役目、私が負う」


ブラギが頭を下げた。




ニョルズは指を球に置いた。




《カチャッ》




紫のエネルギーが彼の腕を包み、幻のような鎖が手首に絡みついた。




「……これは?」


フレイが剣に手をかけるが、ニョルズが制する。




「問題ない……もう鎖は消えた。恐れる必要はない」




(……不思議な感覚だ)


ニョルズは内心で思った。


(誓ったはずなのに……何も変わった気がしない)




「体調に異変は?」


ゲルドが尋ねる。




「まったくない」




それから一人また一人と、神々は球に誓いを立てた。




「感謝します」


ヘモルドが深く頭を下げる。




「オーディンのためじゃないぞ」


ニョルズは肩をすくめた。


「バルドルが心配なんだ。あの子は、皆にとっての希望だからな」




「……ええ、その通りです」




ブラギとヘモルドは目を合わせた。




「次へ行こう」




――




《フオオオッ!》




二人を乗せたスレイプニルが、次なる世界へと駆け抜けた。




こうして――


バルドルのための「誓い」は、静かに……だが確かに、世界を覆い始めていた。




吹き荒れるブリザードは、まるで目に見えぬ刃のように肌を切り裂き、


ねじれた黒の山々は空へと突き立つ荊のように不気味にそびえていた。


遠くでは、氷の裂ける呻きが低く響く。


この地の空気そのものが、まるで嘘で満ちているかのようだった。




道の中央、砕けた岩の上にロキが座っていた。


まるで何世紀も待ち続けていたかのような顔で、口元に歪んだ笑みを浮かべる。




「……へぇ、驚いたな。こんな場所で会えるとはな」




ブラギは腕を組み、不快げに睨んだ。




「別に会いたくて来たわけじゃない」




ヘモルドが前に出る。




「全知の父より、直接の命を受けて来た」




ロキは顎に手を当て、わざとらしく思案するような仕草を見せる。




「老いぼれが? で、今度は何の用だ?」




ブラギの拳が震える。




「父をそのように呼ぶな。敬意を払え……ヨトゥンのくずが」




ロキは吹き出した。


瞬きの間に、その姿はブラギの目の前に現れる。




《シュッ》




彼の首元に、細い血の線が走った。




「……お前に興味がないのが、唯一の幸運だ」


ロキが囁くように言う。




ブラギは動けなかった。


(……いつの間に!? 見えなかった……)




ヘモルドは黙ってそれを見ていた。


(勝てる相手じゃない……ロキは予測不能で、精密。まさに“嘘”の神だ)




ロキはひょうひょうと岩へと戻る。




「それで……何を求めに来た?」




「バルドルを傷つけないと誓ってほしい」


ヘモルドが躊躇なく言った。




ロキは片眉を上げた。




「……なんでそんな頼みを? まさかとは思うが……


あの爺さん、古代の封印魔法でも使って、誓いを強制するつもりか?」




「答える義理はない」


ブラギが鋭く言い放つ。




「ブラギ、やめろ」


ヘモルドが制止する。




「ロキ……お前には嘘が通じない。だから正直に言う。


父は、バルドルの死が――ラグナロクを引き起こすと恐れている」




沈黙が訪れた。


それは氷よりも冷たい沈黙だった。




ロキは笑みを浮かべたが、その目には光がなかった。




「ラグナロク……ね」


「予言にビビるような男じゃなかったのに、あの爺さんも変わったな」




「お前が追放された頃とは、状況が違う」


ヘモルドが応じる。




ロキは大きく伸びをして、怠そうに言った。




「……退屈な時代になったな。


近いうちに、アスガルドの様子でも見に行くかな」




「お前には立ち入りを禁じたはずだ」


ヘモルドが警告する。




「でもさ、俺がこの頼みを聞けば……恩になるよな?」




「交渉はしない。自分の立場は分かっているはずだ」


ブラギがきっぱりと切り捨てる。




ロキは笑う。だが、その笑いには魂がなかった。




「“俺の立場”……?


……ここでは、お前たちが不利なんだよ」




《ブワッ!》




烈しい吹雪が舞い上がり、あたり一面に赤い目が無数に開いた。


それは氷の闇の中からこちらを見つめていた。




「……ここでは、俺が支配者だ」




「クソが……」


ヘモルドが構えを取る。


「最初から、来るのを知っていたな」




「風の噂ってやつさ」


ロキの声は落ち着いている。




「どうする?」


ブラギが低く問いかける。




「ロキ、お前も分かっているだろう。俺たちを殺せば、父上が黙っていない」




「……オーディンか」


ロキが空を見上げる。


「もう俺に触れることすらできない。来たところで無駄だ」




《パチン!》




雷光が背後で爆ぜた。


そこに現れたのは――トール。


手にはミョルニル、落ち着いた笑みを浮かべている。




「オーディンは無理でも……俺ならお前に触れられるぞ」




ロキがゆっくりと顔を向ける。




「……久しぶりだな、兄さん」




「父の命令だ。誓え。さもなくば後悔する」




ロキは乾いた笑いを漏らす。




「……いつも通りだな。自信満々で、力に満ちて……


でもな、兄さん。近いうちに、あんたの“終わり”が来るぞ」




「そんな脅しは聞き飽きた」


トールがぴしゃりと返す。


「誓え」




ロキはヘモルドとブラギを見やり、そして最後に、空を仰いだ。




「――分かった。バルドルを害さぬと、誓おう」




紫色の鎖が出現し、その腕に巻き付く。


その魔法は鮮やかに、確実に発動された。




ロキは抵抗しなかった。




(……やはり、あの老人はまだ衰えていないな)


ロキは内心、感嘆した。




トールはミョルニルを背負い、背を向ける。




「ヘモルド、ブラギ。先へ進め」




「はい!」


二人は光となって姿を消した。




沈黙。




ロキは座ったまま、空を見上げていた。


トールも、その場を離れなかった。




「……なぜ、残った?」


ロキが静かに問う。




「お前が変わったと思っていたからだ」




ロキは目を伏せる。




「……もう昔には戻れない。


ただ願ったところで、何も変わらないんだよ」




「……違う未来も、あったはずだ」




「そうだな」


ロキは、小さく息を吐いた。


「でも、望んだ通りにいくとは限らない」




トールは雷光に包まれて消えた。




残されたロキは、薄白い空を見上げたまま、独りごちた。




「……また近いうちに会おう、兄さん」




空は灰と銀に染まり、ムニンとフギン――オーディンの鴉たちが九つの世界を飛び回っていた。


その翼は古き影のように広がり、通り過ぎた後には囁きと神命が残された。




――「バルドルを傷つけてはならぬ。」




世界はそれに従った。




光の国アルフヘイムから、


闇の深きスヴァルトアルフヘイムまで。


森に潜む妖精たちから、


洞に響くドワーフたちの金槌の音まで。


獣も、風も、剣さえも――


生あるものも、無きものも、皆が誓いの言葉を紡いだ。




オーディンの命を受け、ヘモルドとブラギは風のごとく世界を巡った。


氷の巨人たちも誓いを立てた。


聖なる石も誓いを立てた。


手に取られたことすらない剣までもが、沈黙の中で誓いを交わした。




宇宙の隅々にまで、言葉の力が浸透していった。




...




アスガルドの城――


重々しく開いた扉の先を、ヘモルドはまっすぐに進んだ。




「全知の父よ――」


彼は膝をつき、静かに告げた。


「長き旅の果てに、我らは成し遂げました。


バルドルを傷つけぬと、すべての存在が誓いました」




オーディンはわずかに身を乗り出した。




「……すべての存在か?」




ヘモルドは一瞬、言葉を詰まらせた。




「……ほぼすべて、です。


ただ一つ、ヤドリギの枝だけが未だ誓っておりません。


必要であれば、すぐに処理いたします」




フリッグが優しく首を振る。




「……その必要はありません」




「……了解いたしました」




オーディンは立ち上がる。




「よくやった、ヘモルド。


その働きには必ず報いがあるだろう」




若き神は頭を垂れた。




「この言葉だけで……我が誇りといたします、父上」




オーディンの視線は、静かに光るステンドグラスの向こう――


穏やかな空の果てへと向けられた。




(運命など……我が意志には勝てぬ。


それがたとえ“定め”でも、私は抗ってみせる)




...




はるか遠く、


影の帳に潜むその男は、


一本のヤドリギの枝を細い指で弄んでいた。




「さて……」


ロキは、懐かしむように微笑んだ。


「次は……どうしようか?」




...




アスガルド――


宴の間は光と笑いに包まれていた。




古き日々のように、神々は長い卓に集い、


杯が交わされ、皿が山と積まれ、


笑い声が空へと溶けてゆく。




オーディンは席の端に座り、その光景を静かに眺めていた。




(ようやく……息子を守ることができた)




反対側の席では、ヴァーリがティールに耳打ちする。




「なあ、ティール……」




「……何だ」




「ちょっと手を貸してくれないか?」




「……あ、ごめん。お前、片腕だったな!」


ヴァーリは爆笑した。




「分かるか? ティールには片腕しかないんだよ、はははは――」




《ガンッ》




ティールは何の躊躇もなく、彼の顔を机に叩きつけた。




「この馬鹿が」




二人は取っ組み合いを始める。




「片腕でも……お前より強い」




ヴァーリは鼻血を出しながら立ち上がる。




「ふん、見せてもらおうか!」




「……ほんとにもう」


フレイヤは額に手を当てて呟く。




「何も変わってないわね。まるで子供みたい」




「まあまあ、いいじゃないか」


フレイが杯を掲げて笑う。


「こんなふうに皆が集まるの、何世紀ぶりだ?」




「……そうね」


フレイヤはため息をつきながら微笑んだ。


「私は……年を取ったのかもね」




その瞬間――




ヴァーリが椅子をティールに投げつける。


ティールはあっさりとかわす。




《バキィッ》




椅子は一直線に――フレイヤの顔面へ。




静寂。




彼女は無言で拳を握り――


次の瞬間、ヴァーリを遠くの机へと吹き飛ばした。




「……ほんと、男って」




大広間は爆笑に包まれる。




「頑張れよ、ヴァーリ!」


ウルが叫ぶ。




ヴァーリは反撃を試みたが、誤って隣にいたニョルズの顔面を殴ってしまった。




「……え? ごめん!」




ニョルズは無言のまま、容赦ない拳で彼を壁までぶっ飛ばした。




「喧嘩だ! 喧嘩だー!!」


誰かが叫ぶ。




こうして酒と拳が飛び交う、無秩序で愉快な夜が続いた。




...




バルドルは静かに微笑んでいた。


その隣で、オーディンも視線を向ける。




「こんなに……皆が一つになるのは久しぶりだ」




オーディンは穏やかに頷いた。




「お前のおかげだ、息子よ。


神々が争いを捨て、団結する理由をくれたのは……お前だ」




バルドルは俯く。




「でもそれは、同時に……


とても、危ういことでもあるのです」




視点が変わり、バルドルと対峙するエデンが映し出される。




「ここで何してるんだ?」


エデンが戸惑いながら尋ねた。




「バルドルから任務を受けた」


トールは腕を組み、静かに応えた。


「それを果たすつもりだ」




「バルドル? それと俺に何の関係がある?」




「お前をヘルヘイムに連れてこいと頼まれた。自分では来られないからな」




「……今日だったのか」


エデンは頭をかいた。


「完全に忘れてた。連れてきてくれてありがとな」




「お前のためだ」


トールは彼の背に手を置き、低く告げた。


「しっかり掴まってろ」




「え? ま、待て、それどういう――」




《カラアアアアアアン!!》




凄まじい雷光がふたりを包み、現世からその姿を消し去った。







数秒後、彼らは氷と闇に覆われた荒涼の地に出現した。


エデンは乱れた髪のまま、ふらつきながら地に着地した。




「な、なんだ今のは!?


あんな方法で移動して、よく無傷でいられるな!」




「遺伝だ」


トールは淡々と答えた。




「遺伝だぁ? 何を言ってるんだよ…」




そのとき、霧の中から一人の女性が現れた。


死の女神――ヘラ。




その歩みは冷たく、そして優雅だった。




「ついに来たか」




エデンは目を細めた。




(……あんたも忘れてたろ)




「俺の役目は終わった」


トールはそう言い残すと、背を向ける。




「任せたぞ、ヘラ」




「ええ、ええ」


ヘラは無感情に頷く。




「そうだ、伝言を預かってた」




「伝言?」




「フレイからだ。“ありがとう” だとよ」




そして、トールは雷と共に消え去った。




「ありがとう…?


なんであいつが俺に礼を――」




「坊や」


氷のような笑みを浮かべながら、ヘラが近づく。




「覚悟しなさい」




「何のだよ」




「これから私が教える訓練は――


地獄のように苦しいわよ」




エデンは腕を組み、不満そうに首をかしげた。




「訓練って言っても、あんたそんな強そうに見えないし、そこまででも――」




ヘラは笑った。


歪んだ、壊れた笑みだった。




次の瞬間、彼女の肌が剥がれ落ち、腐敗し崩れゆく。




エデンの顔から血の気が引いた。




片側は生、もう片側は白骨。


死の女神の真なる姿。




「ようこそ、地獄へ。坊や」




「……クソッ」







その頃、アスガルドでは――




トールが扉をくぐると同時に、騒がしい宴が再び盛り上がった。




「戻ったぞ、父上」




「座れ、トール」


宴の最奥、玉座からオーディンの声が響く。


「話がある」




トールは黙って席に着く。


神々は一斉に静まり返り、オーディンを見つめた。




彼は槍を地に突いた。




《ドン!》




大広間が震えた。




「皆、席につけ」




沈黙の中、神々は従った。




「今日、我が子バルドルを守るため、


皆が誓いを立ててくれたことを、心より感謝する」




「この宴は、その勝利の証だ。


思う存分、飲み、食べ、歌え。


今日は――“運命に打ち勝った日” だ」




歓声が巻き起こる。




杯が高く掲げられ、


酒が注がれ、


音楽が戻る。




オーディンは隣のヘモルドに視線を向けた。




「とくに……お前には感謝している」




ヘモルドは深く頭を下げた。




「父上のお言葉だけで、十分に報われます。


バルドルの友としても……神としても、誇りです」




オーディンが頷こうとしたそのとき――




《ギイィィィィィ――ン》




大扉が乱暴に開かれた。




ロキが姿を現した。


背筋を伸ばし、手を後ろに組みながら、まるで遅れて来た客のように歩いてくる。




空気が凍りついた。




「ずいぶん楽しそうじゃないか。


俺抜きでさ」




最初に動いたのはティールだった。


剣を抜き、ロキの喉元に突きつける。




「ここに何しに来た? アスガルドへの出入りは禁止されたはずだ」




「本当に俺を拒むなら、もっとマシな結界でも張っておけよ」




「この野郎…!」




「やめろ、ティール!」


オーディンの声が響く。




ティールは歯噛みしながら剣を下ろした。




「何の用だ、ロキ」




「ただの宴だろう?


神々の集いに、俺が来て何が悪い?」




ヴァーリが立ち上がる。




「お前のような下劣なヨトゥンは受け入れない!」




ロキは顔を向けた。




「おやおや、ヴァーリ……


じゃあ、なぜフレイヤがここにいるんだ?」




「私を巻き込むな、ロキ!」


フレイヤが睨みつける。




「それに、オーディン――


あなたの血にも、ヨトゥンの血が流れてるんじゃなかったか?」




トールが立ち上がる。




「黙れ、ロキ」




「落ち着けよ、トール。怖い顔は似合わないぜ…」




神々が一斉に武器を構えた。




ロキは両手を上げた。




「わかった、わかった。帰るよ」




「ただ――


バルドル」




「なんだ?」




「すまなかったな」




そして、次の瞬間――




ロキは消えた。




バルドルは眉をひそめた。




(“すまなかった”……?


何に対してだ?)




オーディンは再び槍を打ち下ろした。




「もうよい。


宴を楽しめ」




杯が掲げられた。




「バルドルに!」




「バルドルに! 乾杯!」




そして――




宴は続いた。




アスガルドの中央広場──


夕暮れが空を黄金に染めるなか、神々の笑い声が響いていた。


中心にはバルドルが立ち、四方から投げられる武器を軽やかに受け流していた。


どれひとつとして、彼の肌を傷つけることはない。




ニョルズは目を見開いたまま見つめていた。


「…信じられん」




その隣で、息子のフォルセティが誇らしげに言った。


「お父さんはもう、不死身なんだね」




バルドルは頷いたが、その微笑みにはどこか影があった。


「…そうみたいだ」




「嬉しくないのかい?」




バルドルは深く息を吸った。


「…死には意味があると思ってる。


だが、不死には…意味がない気がするんだ」




その言葉に、フレイはルーンが刻まれた短剣を投げながら笑った。


「何を言ってるんだ、バルドル。


お前がいなければ、神々はどうすればいい?」




ヘモルドも静かに頷いた。


「お前のおかげで、俺たちは再び一つになれた」




ヴァーリが酒杯を片手に近づいてきた。


「お前は俺たちの核だ。


お前がいなければ、全てが崩れる」




バルドルは視線を落とした。


「ちょっと…重すぎるよ、それ」




そう言って、彼は微笑んだ。







広場の端、誰もいない静かな場所で。


灰色のマントを纏った老女が、一人佇むホズルに近づいた。




「どうしてこんな所に、一人でいるの?」




ホズルは振り返り、警戒した目を向けた。


「…誰だ?」




「ただの老婆さ。


バルドルの熱烈なファンの一人だよ」




「…皆そうだ」


ホズルは答えた。


「この世界に、バルドルを嫌う者なんていない」




「ずっと、影にいるのは…辛くない?」




ホズルは肩をすくめた。


「確かに。でもバルドルは…本当に素晴らしい人だから。


妬む理由なんてないよ。


心から、彼を尊敬してる」




老女は微笑んだ。


「なんて優しい心を持ってるんだろうね」




「ありがとう」




「よかったら、あの遊びに参加してみない?」




「武器を投げるやつ? 興味ないよ。


傷つけたくない、たとえ冗談でも」




「心配しないで。


バルドルに傷つけられるものなんて、存在しないわ」




「…しつこいな。そこまで言うなら、やってみるよ」




老女は細く、黒く、冷たい矢をホズルの手に握らせた。


彼の手を取り、ゆっくりと狙いを定めさせる。




「…このままでいい」


老女の声が囁いた。




「兄さん、僕もやるよ!」




バルドルが笑って頷く。


「いいよ。かかってこい」




──ッ!




静寂が落ちた。




矢は弾かれなかった。


突き刺さった。




バルドルは一歩後ずさり、そしてもう一歩。


次の瞬間──


彼の体から、血が噴き出した。




「な…何をしたんだッ!?」


ティールの叫びが響く。




ホズルは矢を放った手を見つめていた。


その顔には、ただただ混乱だけがあった。




「……な、何が起きたんだ…?」




オーディンが立ち上がる。


「……まさか、そんな…!」




フレイヤも前に出る。


「嘘…ありえない!」




怒りに燃えた神々がホズルに殺到し、地面に叩きつけ、無慈悲に殴りつける。




「やめろォッ!!」


オーディンの怒声が炸裂した。




「なぜ止める!?」


ティールが怒鳴る。




「まずはバルドルを救え! 急げ!」




女神エイルが駆け寄り、バルドルの胸に手を当てる。


……そして、ゆっくりと首を横に振った。




「もう…どうにもなりません。


心臓を完全に貫かれている。


私でも……救えない」




オーディンが膝をついた。


「…嘘だろ……


俺が結界を張ったんだぞ…


そんなはずは……!」




「なら、どうしてこうなった」


トールが低く、呟いた。




オーディンは答えなかった。




トールはゆっくりとホズルに歩み寄った。




「ごめんなさい! 僕は……知らなかったんだ!!」




ホズルは泣きながら訴えた。




だが、トールの目に映るのはただの怒り。




「やめろ、トール!!」




──遅かった。




《グシャッ》




ミョルニルが振り下ろされ、


ホズルの頭は一瞬で消えた。




静寂。


誰も動けなかった。


誰も、息を呑めなかった。




「……全員、出て行け」


オーディンの声が低く響いた。




神々は一人ずつ、重い足取りで広場を後にした。




残されたのは、オーディン、フリッグ、トールの三人。




「……何てことをしたんだ……!」


オーディンが怒鳴る。


「私の命令に逆らったのか!? 貴様はまだ子供だ!」




「違うのは、お前だよ」


トールの声は低く、怒気をはらんでいた。




「……何だと?」




「これを見ろよ!!」


トールがバルドルの亡骸を指す。


「……これを、どう説明するつもりだッ!?」




オーディンの周囲に、漆黒の魔力が集まる。




「黙れ…」




「もうやめてッ!!」


泣き叫ぶフリッグが、二人の間に立ちはだかる。




「……私の、せいなの」




オーディンとトールは、言葉を失う。




「ヘモルドが言ってた……


“ヤドリギだけは、誓っていない”って……


でも私は……


重要じゃないと思って……」




フリッグは地面に崩れ落ちた。




「……ごめんなさい……バルドル……」




オーディンは、ただ呟くしかなかった。


「クソッ……」




トールが息を吸い込む。




「……まだ、間に合う」




「……方法があるのか?」




「ヘラに会うしかない」




オーディンは頷いた。




「馬を用意しろ。


夜明けに、ヘルヘイムへ使者を送る」




「承知した」




……




オーディンは一人、沈黙の中に佇む。




「……神々よ……どうか、我らを導きたまえ……」







ヘルヘイムの片隅──


ロキは小さなヤドリギの枝を眺めていた。


それは、真っ二つに折られていた。




「……遅かったな」




霧の中から、フードを被った人物が現れる。




「すまない。やることが多くてな。


そっちは…済んだか?」




「……ああ。第一段階は完了した」




「……その重荷を背負うのは、辛いだろう」




ロキは笑った。だが、そこに喜びはなかった。




「俺がしてきたことを悔いるなら……


永遠があっても足りない」




フードの人物は静かに頷く。




「……だから、彼はお前に託したんだな。


本当にすまない。


これを一人で背負わせてしまって」




「謝るなよ。俺はただの歯車さ。


信じてるんだ。あいつが言ったことを。


もし全部が本当なら――


これで……報われる」




「そう願おう」


フードの人物は微笑んだ。




「最後に会えて、良かったよ。友よ」




「俺もだ……友よ」




その姿が霧の中に消えた。




ロキは、ひとり、石の上に腰を下ろす。




(仮面を被るだけなら簡単だと思ってた……


でも……こんなに、痛いなんてな)




一筋の涙が、静かに頬を伝った。




「……すまない、バルドル」

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