神々の間のバランスは叫びや戦争によって崩れることはありません。信頼が崩れるとき、表情に千の言葉以上の非難が込められているとき、ささやき声で平和が打ち砕かれるとき、それは沈黙の中で壊れます。
かつては団結と祝賀の象徴であった神々のテーブルは、今やあらゆる身振りが潜在的な引き金となる緊張の場となっている。ワインは血のような味がし、パンは契約のように破られ、宴会は栄養を与えるのではなく、暴露するだけだ。
お互いを憎み合っている人たちが、それでも一緒に暮らせるふりをして座っている場所ほど危険な場所はありません。
なぜなら、過去が皮膚の下で燃え上がり、秘密が毒のように亀裂から染み出すとき、どんな神も安全ではないからです。
本当のラグナロクは剣のぶつかり合いで始まるのではなく、晩餐会で始まるのです。
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広間は満員だった。
何十もの神々が、何も祝わぬ宴に列席していた。
誰一人として口を開かず、笑う者もいない。
沈黙を裂くのは、ロキが咀嚼する湿った音だけ。
まるで肉を切り裂く刃のように、その音は場を支配していた。
ティールは鋭い視線を逸らさずに睨んでいた。
「……なんであの忌々しいヨトゥンがここにいる?」
軽蔑を込めた声で呟く。
「どうやら、“全ての父”が自ら招いたらしい」
ヘモルドが応える。視線はずっと卓の中央に向けられたままだ。
「……なぜだ?」
「知る由もない。だが彼の意志なら……俺たちに口出しする権利はない」
――ガンッ。
乾いた音が三度、広間に鳴り響いた。
主座の玉座に座るオーディンが、槍の柄を床に打ち付けたのだ。
その反響は、刃物の音をも沈めるほどの重さだった。
「突然呼び出してすまない」
その声は揺るぎなく、堂々としていた。
「だが……混沌が広がっている。愛しきバルドルの死は、九つの世界すべての均衡を崩した。
ミッドガルドでは氷点下二十度の寒波が吹き荒れ、作物は全滅し、動物は死に絶え……人間たちは今にも崩壊しようとしている。
……そして我々も、例外ではない」
空気が一段と重くなる。
誰も動かず、誰も息を飲む音すら漏らさなかった。
「さらに……ミッドガルドにおいて重要な“二つの存在”が倒された。
“フェンリルの息子たち”を名乗る狼どもによってな」
ティールが激昂して立ち上がる。
「そんな馬鹿な!俺自身が、あの呪われた狼を鎖で封じたんだぞ!」
「わかっている」
オーディンは静かに応じる。
「その封印はいまだに破られていない。
……だが、もし奴が自由であったなら、今ごろここに現れ、我々を一人残らず喰らっていただろう」
クク……。
ロキの喉から、不気味な笑いが漏れた。
まるで全てを知っている者のように。
「驚くことか? あれだけのことをしておいて、赦されると思っていたのか?」
ティールの拳が震える。怒りに満ちた目でロキを睨みつけた。
「黙れ、貴様……! 貴様の息子が、俺の腕を食いちぎった!」
「それだけで済んだのが奇跡だな。……殺されるべきだった」
「……何だと!?」
「――静まれ!!」
オーディンの怒声が広間に響き渡る。
その重みに、皿も器も静まり返った。
ティールは悔しげに唇を噛み、ゆっくりと席に戻る。
「……我々がどう思おうと関係ない」
オーディンの声が、再び場を支配する。
「神々も、世界も、滅びの淵にある。
……憎しみを抱いている時ではない。今こそ、協力せねばならぬ」
ロキの目が細められる。
「……お前が、それを言うか。今さら、何をほざく」
オーディンはその言葉に動じることなく、冷ややかに見つめ返した。
「何が言いたい?」
「フフ……じゃあ、言ってやろうか?」
ロキが口元を吊り上げる。
「“光のエルフ”たちに、何をしたか――皆に話してやれよ」
その一言が、広間にざわめきを呼んだ。
ざわ……ざわ……と、不安が伝播する。
「もう隠すなよ。
この崩壊の始まりは……全部、お前の“力”への欲望のせいだ。
知識を貪り、力を貪り……お前はバルドルすら道具としか見ていなかった。
自分の息子ですらな。
お前はわかっていた。バルドルが死ねば、ラグナロクが始まると……
……そして、お前がその戦いで死ぬことも。しかも、俺の息子の手によって」
「……愛しい人……?」
フリッグが囁いた。混乱と哀しみに満ちた声だった。
「そうさ、オーディン。
父親ヅラはやめろ。お前の“本性”を見せてやれ」
――キィッヒッヒッヒ……!
突然、鋭く狂った笑い声が弾けた。
笑っているのはオーディンだった。瞳は開かれたまま、魂の抜けたような目で。
「ロキ、お前……まさか本気で……」
「さあ、ロキ」
老人のような声色で、オーディンが穏やかに言った。
「席に戻り、戯言はそれくらいにしておけ」
にやりと、顔に浮かぶその笑みは――底知れない。
ロキは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……貴様……思っていた以上に……厄介な化け物だな」
「ふむ。ということは……お前も気づいているんだな」
ブゥゥゥゥゥン……!
空気が唸るような音が鳴り始める。
それは耳鳴りのようでいて、全身を凍らせるような気配だった。
玉座の中心から、巨大な“ゼンカ”の波動が放たれ、
神々を包み込んでいく――
ロキを除いて、全員を。
「そうか……お前は、俺の言葉を“忘れさせる”つもりか」
オーディンはゆっくりと頷いた。
「さすがだな、嘘の神よ」
「……じゃあ、あれも……五十年前の件も……全部お前か」
その瞬間、オーディンの目が紅く燃え上がる。
まるで熾火のように、激しく。
「やはり……お前も、あの一派か」
ロキは無言で頷いた。
「……その通りだ」
そして――それは起こった。
闇よりも濃い“存在”が、その場を満たし始める。
それは神のものではなかった。虚無そのもののような力。
宴は始まったばかりだ。
だが、“戦争”はすでに……皿の上に並べられていた。
「……それが、お前の本当の姿か?」
ロキが低く囁いた。
視線は決して、目の前の老人――オーディンから離れなかった。
返答はなかった。
その代わりに、漆黒の影がオーディンの体を這い始める。
闇は彼の顔半分を覆い、まるで“影そのもの”が彼を飲み込もうとしているかのようだった。
残された片目――それは血のように赤く、灼熱のように燃えていた。
その眼差しには、宇宙すらも凝縮されているかのような、底知れぬ力があった。
「違うよ」
やがて彼が答えた。
その声は、口から発されたものではなかった。
空間そのものから響くような、空虚で、無機質な音だった。
「これは……ほんの一部に過ぎない」
「わざわざ来てくれて助かったよ、ロキ。
お前を探しに行くのは面倒だったからな……」
言いながら、オーディンは軽く笑う。
「逃げることだけは得意だと認めてやろう。そこは褒めてやる」
「褒め言葉として受け取っておくよ、ジジイ」
ロキがにやりと笑い返す。
「……でも、お前の可愛い息子については、同じことは言えないな」
赤い瞳が細められる。
「……今、何と?」
「残念なお知らせを持ってきたんだ」
ロキの口元には、ねじれた笑みが浮かんでいた。
「バルドルを殺したのは……この俺さ」
――ゴォォン……!
広間が低く唸りを上げた。
オーディンの表情が歪む。
歯を食いしばり、憤怒を露わにする。
「貴様……クズめ……!」
「盤上から、お前の女王を排除した」
ロキの声は変わらず冷静だった。
「次は王様をいただくだけ。チェックメイトだ、ジジイ」
一瞬の沈黙の後、オーディンは口元を吊り上げた。
その笑みには皮肉が混じっていた。
「悪くない……ヨトゥンにしては、な」
「王様も……お前を褒めてくれるといいな」
「それじゃ、つまらないからな」
ロキが肩をすくめ、軽く笑った。
「だから、少しだけ“ルール”を変えさせてもらったよ」
「……何をした?」
オーディンの奥歯が鳴る。
「不思議に思わないか?」
ロキは首を傾げる。
「信者が殺されているのに、誰一人として捜査に来ない。誰も何も気づかない。
……残念だったな。予知するのは、お前だけじゃない」
――グググ……!
壁が振動し、広間の光が一斉に落ちる。
そして、場面は切り替わる。
世界樹――ユグドラシル。
その幹は、脈打つような黒いドームに覆われていた。
それは毒のように世界へと広がり、各世界を繋ぐ“道”を封じ込めていく。
「……貴様……!」
玉座から立ち上がるオーディン。
その怒気は空間を裂くほどに鋭い。
両手を広げるロキ。
まるで司祭のような仕草で――
「ようこそ……俺のゲームへ。ジジイ」
――ドンッ!
その瞬間、凄まじい“殺気”が爆発した。
それは嵐。
何世紀にもわたり抑え込まれていた咆哮が、今、解き放たれたのだ。
「……今、なんと言った……?」
声は震えていなかった。
だが、世界が震えた。
トール。
その目にはすでに雷が灯っていた。
「貴様……バルドルを殺したのか?」
ロキはゆっくりと顔を向け、静かに――そして笑った。
「そうさ。俺だよ」
その言葉と同時に――
神々全員が一斉に立ち上がる。
まるで同じ“感情”に突き動かされたかのように。
それは――恐怖だった。
そして宴は……戦争へと変わった。
「この……クズがああああっ!!」
フリッグの叫びが広間に響いた。
怒りと涙に濡れたその顔には、もはや神の威厳すら残っていなかった。
だが、トールの耳にはもう何も届いていなかった。
彼の視界には、赤しか存在していなかった。
――バチバチバチバチッ!!
雷光が四方八方に弾け、まるで生きた嵐のように彼の周囲を荒れ狂う。
歩くたびに空気が裂け、見つめるだけで空間が歪む。
呼吸一つで、全てが爆ぜそうだった。
「さすがだな」
ロキが血まみれの笑みを浮かべた。
「その力、よく制御してるな……ジジイ」
「貴様を殺す……!」
トールの咆哮と共に、雷が地を裂いた。
ドゴォォォン!!
ロキが構えを取る暇すらなく、
見えない雷槌が彼の身体を床に叩きつける。
ドンッ!ドンッ!ドンッ!
一撃、二撃、五撃、十撃――
雷鳴が拳に乗って炸裂するたび、
白い大理石の床に、ロキの血が飛び散った。
「死ねぇええええっ!!」
トールの絶叫が、全てをかき消す。
「やめろ!!」
オーディンの命令にも、彼は動きを止めなかった。
その怒りは、溢れた海のように収まることなく暴れ続けていた。
「父上……止めろなんて、言わないでくれ!」
「命令だ、トール。やめよ!!」
――ズン……!
その声に、雷が止まる。
響くのは、トールの荒い息と、拳を締める音だけだった。
「バルドルを殺した奴だ……!俺の手で……殺さなければ……!」
オーディンは静かに視線を落とす。
「……死など、こいつにとっては褒美にすぎん」
「その通りだな、ジジイ……」
ロキが口から血を流しながら、笑った。
「なあ? 雷の神よ?」
トールは無言で拳を再び振り上げた。
だが――
カキンッ!!
その拳は、一本の槍によって止められた。
オーディンの槍だった。
「もういい……」
「クソッ!!」
怒りのままに、トールが地を叩きつけると、
床の一部がひび割れ、柱がぐらついた。
オーディンの目は冷たいまま、動かなかった。
「こいつには……永遠の罰を与える」
――ククク……
ロキが笑い出す。
それは人の笑いではなかった。
狂い、砕けた獣のような声だった。
ドサッ。
トールが膝をついた。
空っぽなまま、砕け散った心のまま。
涙が頬を伝うも、その表情には何もなかった。
「……トール……」
ティールが静かに近づく。
ロキの傷だらけの顔に、ぽたりと涙が落ちた。
「そうだ……そうだよ……」
ロキの囁きは狂気に染まっていた。
「もっと……もっと泣け……雷神……もっとくれよ……」
他の神々は、ロキの狂気に目を背けた。
――ガシッ。
オーディンがロキの首根っこを掴み、力任せに持ち上げた。
「存在しなければよかったと……心の底から思わせてやる、ヨトゥンのクズが」
「おやおや、そんなに親しげに……」
ロキが血を吐きながら笑う。
「ティール。例の準備をしろ」
「……はい」
ティールの顔は強張っていた。
* * *
場面は変わる。
影と沈黙に閉ざされた、遠い洞窟。
「……温泉とは……気が利くじゃないか、オーディン」
ロキが毒気の抜けた声で呟いた。
岩の間から、ぬるい湯気が立ち上るのが見えた。
しかし、そのとき――
それが、目に入った。
巨大な蛇。
鎖で縛られ、眠っている。
その口から滴る毒は、石をも溶かす猛毒だった。
「ほぉ……これは……」
そして――彼は全てを見た。
血。肉片。臓物。
そこに転がっていたのは……人間の残骸だった。
「ナ……ナルフィ……」
ロキの声が震えた。
オーディンが近づいてくる。
その顔に浮かぶのは、冷たく沈んだ影。
「まだ……小さな息子の顔を覚えていたか」
「てめぇら……何をした……!!」
ロキの中の何かが音を立てて崩れる。
その光景に、ティールは嘔吐した。
耐え切れなかったのだ。
だが、ロキは……笑い始めた。
喜びではない。
狂気だった。
「完全に……イカれたな」
オーディンの声が呆れと軽蔑に満ちていた。
――ガチャン!!
ロキは岩に縛り付けられる。
容赦のない鎖が彼の体を締め上げる。
「ここが……お前の永遠の終着地だ、ロキ」
ポタ……ッ
毒の一滴が、彼の額に落ちる。
――ギャアアアアアアアアアアッ!!!
魂が引き裂かれるような悲鳴が、九つの世界を震わせた。
オーディンは、散らばる人間の残骸を拾い集める。
「皮肉だと思わんか……?
貴様は私の息子を奪った。だから私は……貴様の“全て”を奪う。
一人ずつ、全員な」
ひとつずつ、肉片を鎖に組み込みながら、オーディンは呟く。
「こうすれば、死んだ家族たちも……ずっとお前と共にいられる。
美しいだろう? ロキの“家族団らん”だ」
ロキは何も言わなかった。
ただ、虚ろな瞳で天井を見つめていた。
……だが、やがて――
「殺す……」
「ん? 何か言ったか?」
オーディンが首を傾げる。
ロキの声が強くなる。
「殺す……お前たち全員……一人ずつ……必ず報いを受けさせてやる……
死ぬまで……いや、死んだ後も……貴様らを呪い続けてやる……
殺す……殺す……殺す……」
ポタ……ッ
再び毒が落ちる。
その瞬間、断末魔の咆哮が世界を引き裂いた。
――九つの世界が、その声で凍りついた。