人間の心は最も複雑な戦場であると言われています。それは、そこで使用される武器のためではなく、そこに宿る声のためです。
思い出がもはや単なる過去の名残ではなくなる時があります。彼らは刃になる。火災中。意志を溺れさせる目に見えない鎖の中で。エデンはそれを知っていた。あるいは知り始めていた。なぜなら、いつも埋もれていたと思っていた過去が、その目を開こうと決心したからだ。
そして、それとともに疑念も湧き起こった。
彼は本当は誰だったのでしょうか?息子?武器?選ばれたもの?それとも、古代の戦争での単なる過ちでしょうか?
時々、真実はあなたを自由にしてくれない。時にはケージの形が変わるだけのこともあります。
世界の影がこれまで以上に激しく動く中、かつては安らぎを与えてくれた顔は今や混乱を招いているだけだ。愛は借金になります。血、運命。そして約束は、甘さに包まれた罠。
エデンは目覚めたが、英雄としてではない。まだ。彼は、あまりにも多くのことを見てきたが、まだ信じてよいのかどうかわからない人のようにそれをやった。
これは、神々の気まぐれ、人間の欲望、そして隠された計画が取り返しのつかないほど衝突し始める章です。あらゆる選択が傷跡を残す場所。愛さえも…憎しみよりも傷つけることがある。
読者の皆さん、あなたは、どれも正しくないと思われるときに、あえて道を選びますか?
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沈黙は、かつてないほど重くなった。
「……そんなはずが……」
エデンは震える声で呟いた。
目の前に立つイッスは、視線を逸らすことなく彼を見つめていた。
その瞳には、微かな罪悪感の光があった。
「混乱しているのはわかってる。…理由はあるの」
「そんなはずが……母さんは、もう数年前に……亡くなったはずだ……」
エデンは一歩後ずさった。
「全部、私のせいなのよ」
「……何を言ってるんだ?」
「今にわかるわ」
イッスはそっと手を伸ばし、静かにエデンの額へと手のひらを当てた。
「――解放(ブロック解除)」
その瞬間、六芒星の光が彼の額に浮かび上がり、すぐに砕け散った。
そして――映像が溢れ出す。
1つや2つではない。数百の記憶が、エデンの頭の中に雷のように流れ込んだ。
――「見てごらん、エデン。あれがあなたの祖父母よ」
――「君の兄、ゼロを紹介するよ」
――「ごめんね、エデン……いつかきっとわかる」
――「エデン!」
――「ごめんね、お兄ちゃん……」
子どもの悲鳴が、過去の亡霊のように頭の中で反響する。
エデンは頭を抱え、よろめきながら、必死に息をしようと喘いでいた。
「……なに……これ……どういうことだ……?」
イッスは、静かに、しかし確かな口調で答えた。
「今、あなたが見たもの……それが、本当の“エデン・ヨミ”よ」
顔を上げたエデンは、青ざめ、目を震わせながら囁いた。
「なんで……なんで僕は思い出せなかった? 記憶が……偽物だったのか? なぜ……?」
「ごめんなさい……そうするしかなかったの」
イッスの声には、長年の後悔が滲んでいた。
「もし、あなたの記憶を封じなければ、あなたも、あの人も……きっと殺されていた」
「……ゼロって……誰なんだ……? 兄さん……? なんで僕は……知らなかった……?」
その声は、もう涙に崩れかけていた。
「……答えるわ」
イッスは一度目を閉じ、語り始める。
「あなたが生まれた時、私は“自分の民”から追われていたの。
アルテミスの部族では、恋愛はもちろん……出産なんて許されなかった」
「最初は……あなたを産みたくなかった。
だって、あなたは“ある神”に無理やり……」
空気が止まった。
「でもね……あなたには罪なんてないって、気づいたのよ。
だから私は逃げた。自分の“故郷”を捨てて、人間界へ」
「……そして、ゲンとその妻に出会った。
彼らは私を娘のように迎えてくれた。
本当に……家族だと思えたの」
一瞬の沈黙。イッスの目が苦悶に歪む。
「でも――あの日、奴らが現れたの」
記憶が切り替わる。
黒いフードを被った11人の影が、悪夢のように浮かび上がる。
「“誰だお前たちは!”って叫んだわ……」
その時、1人が名乗った。
「――“ブラックライツ”のリーダーです。
我々の組織に、貴女を迎えに来ました」
場面は現在へ戻る。
「私の周囲の人間を殺さない代わりに、組織に加わることが条件だった。
でも……全てが変わったの。12月10日に――あなたの力が目覚めたあの日」
「……12月10日……」
その日付に、エデンの表情が強張る。
「その日、“奴ら”が言ったの。
“その子を回収しろ。予言は明白だ”と」
「――“大戦の後に生まれた神と人の子が、新しい世界の王となる”――」
「なぜ……それが僕だと……?」
「一致する点が多すぎたの。
そして、彼らは正しかった。あなたこそが、予言の子」
呼吸が荒くなる。
父は神? 僕を狙う? 新世界の王? ふざけるな……
イッスは一歩近づいた。
「……全部受け止めるのは辛いと思う。でも、私を信じて。
“もしあなたが一緒に来てくれるなら……”
……また幸せになれる」
その瞬間、エデンが、低く、震える声で口を開いた。
「……おじいちゃんは……?」
イッスの顔が凍りつく。
「……その話は……」
「彼は……ブラックライツの二人に、捕まったんだ」
「……なん……ですって……?」
イッスの表情から、感情の制御が崩れた。
「――ブラックライツに加わる。ただし、一つだけ条件がある」
エデンの声は静かで、しかし強い意志に満ちていた。
「祖父を取り戻す。それだけだ」
その言葉は、部屋の空気を切り裂くように響いた。
彼の瞳に迷いはなかった。ただ、揺るぎない決意だけがあった。
(ごめん……シュン、サラ、シュウ、ヴィオレット、アフロディーテ……でも、僕は祖父を取り戻さなきゃいけない。どんな代償を払っても)
イッスは一瞬だけ視線を落とした。
(……ゲンが捕まった……? どうして私は、それを知らなかったの?)
だが、彼女が返事をする前に――
「こいつの言葉に騙されるな」
怒りを含んだ声が、影の中から響いた。
「師匠……!」
エデンが目を見開く。
イッスは忌々しげに振り返った。
「……生きてたのね」
「エデン、奴の言葉を信じるな。あれは自分の目的のためだけに動く女だ」
ヘラは、辛うじて立つような体で必死に訴えた。
「黙れ」
イッスが指を鳴らすと、燃え上がる炎がヘラの体を包んだ。
「ヘラ!」
エデンが一歩後ずさる。
(どうすれば……? 祖父を見つけるにはイッスに従うしかないかもしれない……けど、この人が嘘をついてるなら……)
思考が止まりかけたその時――
空間全体を包み込むような“闇”が、静かに広がり始めた。
炎はその闇に飲まれ、温度さえも奪われていく。
「……なんだ、これは……?」
闇の中から一人の男が現れた。独特の皮肉を含んだ笑みを浮かべながら。
「よぉよぉ……お前、何やってんだ?」
ロキ。
彼が手を軽く振るだけで、ヘラを包んでいた炎は煙のように消えた。
彼はゆっくりとイッスに歩み寄り、冷たい目で見下ろす。
「俺の娘を弱いと思ってるようだけどな――
もう一度でも手を出してみろ。次はお前の骨を一本ずつ折ってやる」
イッスはゆっくりと剣を抜いた。
「本気で……私に勝てるとでも?」
だがロキの動きは早かった。
彼女の手首を捻じり、剣を弾き、あっという間に首元を締め上げる。
「“勝てるか”じゃない。“勝つと分かってる”んだよ」
イッスは小さく唾を飲み込んだ。
「……少し、ふざけただけよ。そんなに怒らないで」
ロキは手を離し、肩をすくめた。
「……だろうな」
彼はエデンのもとへ歩き、まっすぐ目を見た。
「お前が噂の“エデン・ヨミ”か。初めまして、坊や」
そのエネルギーに、エデンの眉がわずかに動いた。
(この気配……覚えてる……あの日……)
「お前……あの日、グレクを襲った時、バリアを張ったのは――お前だな?」
ロキは興味深そうに片眉を上げた。
「へえ……エネルギーの気配で相手を識別できるとは。なるほど、こりゃ興味を持たれるわけだ」
(でも、何かが違う……このエネルギー……中にあるのは怒りと憎しみ。変わった……)
「さて、話はここまでね」
イッスが割って入る。
「これが、契約の報酬よ」
彼女の指が弾けると、金貨の詰まった袋が宙に浮かび、ロキの前に現れた。
「実際に見ると、ちょっと多すぎじゃね?」
ロキは笑いながら肩をすくめる。
「黙ってそれを持って行け。私はこの子との用事があるの」
「はいはい、了解了解」
ロキはしゃがみ込み、ヘラの胸元に手をかざした。
穏やかでやわらかな光が、彼女の傷を癒していく。
(……すごい。ロキなのに……こんな力もあるのか)
「……辛かったな、娘よ……」
ロキは、誰にも聞こえないような声で呟いた。
やがて彼は立ち上がり、イッスに視線を向ける。
「ところでさ……他の連中、どうしてんの?」
「……他?」
「惚けるなよ。お前が俺を殺すために送った奴らのことだよ」
「さすがは“嘘の神様”ね」
イッスは笑みを作るが、その目は笑っていない。
「残念だけど、もうみんな死んでる」
「……なに?」
「最初は許そうかと思ったんだよ?
でもな、ヘラに何をしようとしたか聞いた瞬間、気が変わった」
イッスの歯がきしんだ。
「……クソが」
「感謝しろよ? 地獄で拷問する代わりに、せめて一思いに片付けてやったんだから」
イッスは吐き捨てるように笑った。
「……どうでもいい。元から使えない奴らだったわ」
「そうかそうか。
じゃあ“あの人”が知ったらどう思うかな?
“勝手に部下を集めて、しかも最大の標的に手を出した”って」
イッスの顔から血の気が引く。
「……お前、まさか……」
「さあな」
ロキは無表情に肩をすくめた。
そして、エデンのそばに寄り、低く囁いた。
「お前の力は――誰のものでもない。決めるのは、お前自身だ。
さあ、エデン・ヨミ。
お前はどの道を選ぶ?」
そう言いながら、ロキはさりげなく何かをエデンのポケットに滑り込ませた。
「幸運を祈るぜ、“神の子供”……またな、イッス」
彼は何事もなかったかのように、ヘラを抱き上げ、闇の中へと消えていった。
「――待て!」
奥から声が響いた。
ロキの足が止まる。彼はゆっくりと振り返った。
「ん? お前は誰だ?」
闇の中からイサクが姿を現す。手には槍を構え、ロキの首元を狙っていた。
「もう忘れたのか、このクソ野郎」
ロキは小さく首をかしげた。
「うーん……思い出せないな」
エデンはその声に驚き、顔を上げた。
「イサク……?」
「何のつもりだ?」
ロキは表情を変えずに問いかける。
「取引は完了した。次はお前の番だ」
イサクは怒りを抑えながら言った。
ロキは目を細めた。
「うーん……やっぱり誰だったか思い出せないな」
「ふざけるな! これ以上は我慢できない……お前を殺す!」
ロキは指を鳴らす。
「おおっ! 思い出したぞ。グレクの学生だよな……ザックだったか?」
「俺の名はイサク・ヨイ。アレスの息子だ」
「おおっ! イサク! そうだったな。で、何が望みだ?」
「妹を返せ、このクソ野郎!」
エデンは目を見開いた。
「……妹?」
「……ああ、思い出した」
ロキは天気の話をするかのように呟いた。
「お前の妹を使ってお前をスパイにしたんだったな。なつかしいねぇ」
「都合のいい時だけ記憶力がいいな……」
「で、そのことなんだけどさ……」
ロキはニヤリと笑った。
「嘘だった」
イサクの顔が一気に強張る。
「なん……だと?」
「まぁまぁ、怒るなよ」
ロキは楽しそうに言った。
「怒るなだと? 俺はあいつを取り戻すためにここまで……!」
「良いほうに考えようぜ」
「どこがだ!!?」
「……うん、やっぱないわ」
イサクは堪えきれず、槍を光らせて突進する。だがロキは片手でそれを止めた。
「残念だったな。やらない方がよかったのに」
鋭い一撃がイサクの腹を抉る。彼は膝をついた。
「イサク!」
エデンが叫ぶ。
「妹に会いたいのか? 安心しろ、すぐに会える」
ロキは彼を踏みつけ、容赦なく殴り続ける。
「さあ、立てよ。お前の妹の方がまだ根性あったぞ」
「どこにいる!?」
血を吐きながらイサクが叫ぶ。
「どこだって? ……取引の翌日、殺したよ」
空気が凍った。誰もがその言葉に動けなくなる。
「彼女の叫び声は……最高だったな」
ロキは狂ったように笑い出す。その笑いは異常で、歪んでいた。
イサクの体が震える。体内からあふれる漆黒のエネルギーが空間を満たす。
「こりゃヤバそうだな」
ロキは笑みを浮かべたまま呟いた。
「ロキ! 何をやってるのよ! ここで暴れる気!?」
イッスが叫び、エデンと自分を結界で包んだ。
だが遅かった。
イサクはロキに飛びかかり、首を掴んで壁へ叩きつけた。岩が砕け、空間が揺れる。
彼の目は空虚で、怒りしかなかった。
「殺してやる……!」
ロキは血を流しながら、狂気じみた笑みを浮かべる。
「さあ、見せてみろ。お前の力を」
イサクの拳が次々と炸裂する。ロキの顔が歪み、血が飛び散る。
だが、ロキはその拳の一つを片手で止めた。
「そろそろ、お返しだな」
アゴへの蹴りがイサクをぐらつかせる。そして次の瞬間、神の拳が容赦なく降り注いだ。
「どうした? 失望したぞ。妹のために何かするかと思ったら……泣き虫なだけじゃないか」
最後の一撃が彼の頭部を打ち抜いた。
イサクは気絶し、沈黙が訪れる。
「……つまらんな」
ロキはつぶやいた。
(……イサクをこんなにも簡単に……この男、一体どこまで……)
「好きにしろよ、イッス。もう興味ない」
ロキが指を鳴らすと、ヘルヘイムの死体が黒いエネルギーを帯び始めた。
「な、何だ……?」
大地が揺れる。腐肉と空虚の巨獣――ニーズヘッグが現れた。
「遅かったな、ニーズヘッグ……さあ、神々を滅ぼす時だ」
咆哮が空間を裂く。ドラウグルたちが壁を打ち砕き、ロキの道を切り開く。
イッスは歯を食いしばる。
(……ロキがすでに報告を? ……孤立した。彼に頼るしかない。でもその前に――時間を稼がなければ)
エデンは膝をついたまま、胸を押さえる。
(これでよかったのか……おじいちゃん……どうすれば……)
思考がまとまらない。記憶が次々と溢れてくる。
「……一つ、聞いてもいいか」
彼は視線を逸らしながら言った。
イッスはゆっくり顔を向ける。
「なに?」
「どうして……本当に去ったの? ……何か、もっと深い理由があるのか?」
イッスは笑った。その笑みは冷たくて、痛々しかった。
「鋭いわね。……教えてあげる」
その瞳が暗く染まる。
「お前なんて……大嫌い。死んでればよかったのに」
世界が止まった。
「本気で私が“欲しかった”と思ってたの? あの神のせいで、私の人生は台無し。全部、奴らのせいよ。神々なんて、心底憎んでる」
その声には、怒りと憎しみ、絶望が交じっていた。
「だから――私は、全てを奪ってやる。神々を一人残らず滅ぼしてやる。そのためには……お前の力が必要なのよ」
空間に沈黙が落ちた。
「……そうか」
エデンはかすれた声で言った。
「……僕は、ただ利用されてたんだな」
「そうよ。そうに決まってる」
イッスの声は、悲鳴のように響いた。
「でもそれでいい。あいつが……お前の“父親”が、苦しむなら。あいつが失った気持ちを味わうなら。私はそれで……ようやく報われるのよ」
――フラッシュバック――
戦場は煙と炎、そして死体で覆われていた。戦の叫びが絶え間なく響き渡り、イースは槍を閃かせながら敵を正確に仕留めていた。
「クソッ…こいつら、一体何人いるんだ」
そう呟きながら、彼女はまた一人の兵士の胸を貫いた。
汗が額を伝い、傷がじわじわと重くのしかかる。
次の瞬間、矢が彼女の頭を目がけて飛んできた――だが、それは寸前で逸れた。
「なに…?」
その矢を放った敵の背後に影が飛びかかり、首をつかんでそのまま真っ二つに引き裂いた。
彼女の前に現れたその影は、兜を脱いだ。
「大丈夫か?」
落ち着いた声の主はハデスだった。
「ええ、ありがとう」
イースは驚きながらも、冷静さを保って答えた。
ハデスは彼女をじっと見つめ、少しだけ長く黙っていた。
「悪い…あまりに美しくて、見とれてしまった」
彼は照れ笑いを浮かべた。
「戦場で油断するのは命取りよ」
「冷たいな…」
彼は内心で思った。――あの制服…アルテミスの戦乙女か。なるほど。
―――
数時間後、焚き火の光に照らされた兵士たちは勝利を祝い、酒を酌み交わしていた。
「乾杯!」
歓声があがる中、ハデスは静かに座るイースに近づいた。
「飲まないのか?」
「戦闘中に酔うなんて愚か者のすることよ。いつ敵が来るか分からない」
「一杯くらいなら死なないだろ?ほら、楽しまないと損だぞ」
彼女は無言で剣をハデスの首元に突きつけた。
「たとえ神でも、必要ならこの場で斬るわよ」
「わかった、わかったって!」
彼は両手を挙げて後ずさった。
焚き火の向こうからアルテミスが小さく笑った。
「何が可笑しい?」
ハデスが聞くと、
「何でもない。ただ警告しておくわ――あの子に手を出したら、二人まとめて殺す」
「はいはい、仰せのままに…」
ハデスは小声でつぶやいた。
―――
日々が過ぎ、ハデスとイースは戦場で何度も共に戦った。
まるで互いの動きを読んでいるかのように、完璧に連携していた。
「ったく…こいつら永遠に湧いてくるのかよ!」
血と土にまみれながらハデスが叫ぶ。
「文句言う暇があるなら、剣を振れ」
イースが一喝する。
その瞬間、矢が彼女の脇腹を貫いた。
装甲を突き破り、肋骨の間に深く刺さる。
イースは膝をつき、苦しげにうめいた。
「イース!」
ハデスの目が見開かれる。
一人の敵兵が逃げ出そうとしたが――
空気が、凍りついた。
「逃がさない…」
低く囁いたその声と同時に、ハデスの姿が闇に変わる。
次の瞬間、敵兵は数えきれないほどの斬撃により、跡形もなく消え去っていた。
「大丈夫か?」
普段の姿に戻り、彼が駆け寄る。
「た、多分…」
イースは動揺していた。――今のは何?全く見えなかった。
この男…こんな力を隠していたの?なのに、なぜ私にあれだけ普通に接して…?
「まずいな。この矢、骨も臓器も貫いてる」
「平気よ…自分で抜けば…」
だが彼は何も言わず、彼女を肩に担ぎ上げた。
「ちょっ…何してるのバカ!すぐ降ろせ!」
「無理だ。今すぐ治療だ。お前が俺の腕の中で死ぬなんて絶対に許さない」
数分が過ぎた。
即席の担架の上で、イースは胸に丁寧に巻かれた包帯を身にまとっていた。
その青ざめた顔は、まだ気丈さを失ってはいなかった。
「間に合って良かったな」
医者がバイタルを確認しながら言った。
「もう少し遅れていたら、あの矢の毒で死んでいたぞ」
ハデスは深く息を吐いた。
「ありがとう、先生」
医者は視線をイースに移した。
「お前は数日間は絶対安静だ。言い訳は無用だ。休まなければ、戦場では邪魔なだけだ」
イースは視線を逸らしたが、やがて小さく頷いた。
「…はい」
ハデスは彼女の隣に腰を下ろす。
「安心しろ、イース。ローマ軍に対して優位に立った」
「分かってる…でも…」
イースの声はかすかだった。
「この戦争はすぐに終わる。俺を信じてくれ」
ハデスは穏やかに笑いかけた。
彼女は何も言わなかったが、その瞳には、ほんのわずかな希望が灯っていた。
―――
日が経つにつれ、二人の関係は深まっていった。
戦場では背中を預け合い、まるで長年の相棒のように動いていた。
ある夜、静かな部屋の中で。
灯された一本のろうそくが、ふたりを照らしていた。
「今夜の君は…とても綺麗だ」
ハデスがぽつりと呟く。
イースは小さく鼻を鳴らした。
「何を言おうが、あなたと寝るつもりはないわ」
「わかってるよ。アルテミスに禁じられてるんだろう?」
「その通り」
「でも…もしバレなければ?」
「そんなリスク、負えるわけがない。もし何かあれば…私は死刑よ」
「俺が守る」
ハデスの声は真剣だった。
イースは彼を見つめた。その視線は、長くて、静かだった。
「…何も起きないって、言ったでしょう」
「…ああ、わかってる」
―――
数日後。食事中のハデスに、アルテミスがじっと目を向けていた。
「…なに?」
彼が訊ねると、
「怪しいわね。何か隠してる?」
「そんなことはないよ」
「そう。なら…イースに手を出してないわよね?」
「もちろん出してない」
「ふぅん…でも分かってる。あの子が好きなんでしょう?」
ゴホッと、ハデスは盛大に食べ物を吹き出す。
「ち、違うってば!」
「嘘は通じないわよ。あなたのことはよく知ってるから。言っておくけどね――私の戦士は誰とも交際してはいけない。子供なんてもってのほかよ。覚えておきなさい」
「何度も聞いたよ、その話…」
「なら、バカな真似はしないことね」
―――
夜が訪れる。
静かな寝室、ひとつのベッド。
二人の間には緊張が漂っていた。
「本当に…大丈夫なの?」
イースが囁く。
「ああ。絶対に問題は起こらない」
ハデスの声は優しく、確信に満ちていた。
―――
数日後。イースは眩暈と吐き気に襲われるようになる。
ある日、廊下で彼女を見かけたネミスが、異変に気づいた。
「大丈夫?」
「うん…心配いらないわ」
だが次の瞬間、イースは膝から崩れ落ちた。
「…なに? どうしてこんなに身体が…」
「これはマズいわね。さあ、ついてきて」
ネミスは迷いなく言った。
オラクルの前に辿り着いたふたり。
そこで突きつけられたのは――
「あなたは…子を宿しています」
「…そんな…」
イースの顔から血の気が引いた。
―――
怒りと混乱を抱えたまま、イースはハデスに詰め寄った。
だが、彼は何も言わずに背を向け…去っていった。
―――
日が経ち、イースは誰とも口を利かず、部屋に閉じこもるようになった。
その顔は青ざめ、目に光はなかった。
「もう…こんなの耐えられない…」
小さく呟いた。
「アルテミスに知られたら…私は処刑される…友達のときのように…」
そして、ひと振りの刃を手に取った。
一度。
二度。
三度目――
「イース!やめて!!」
ネミスが扉を蹴破って飛び込む。
ナイフを奪い取り、治癒の魔法で出血を止めながら叫ぶ。
「しっかりして!あの子には何の罪もないのよ!父親が馬鹿だっただけ!私が…私があんたを守る!」
―――
夜、ふたりは森へと逃げた。
だが、矢が一本、進路を遮る。
「まさか…」
ネミスが呟く。
「イース」
アルテミスが現れた。
「逃げて。今のあなたじゃ勝てない」
ネミスが言った。
「…私の動物たちが、全部聞いてたのよ」
アルテミスが冷たく笑う。
「赤ちゃん…ほんとうにできたのね?」
「…なんてこと…あの窓の小鳥が…」
「逃げようと? 無駄なことを」
イースが何か言おうとするが、それを遮ってアルテミスが叫ぶ。
「黙れ、裏切り者!人間の欲望に負けた愚か者が!」
そして刃を振り下ろした――だが、ネミスがそれを受け止める。
「逃げて、イース!」
「ネミス…!」
「いいから早く!!」
ふたりの戦いが始まった。
だが――アルテミスの刃が、ネミスの喉を一閃で裂いた。
「ちっぽけな人間が…」
――ネミスの力が…消えた…。
イースは足元に魔法陣を展開し、転移した。
直後、剣が彼女のいた場所を切り裂く。
「…逃げた? 確かにここにいたのに…どこへ?」
―――
別の場所。
月明かりの差す庭。
イースは血を流しながら倒れていた。
「…死んだのかな…ここが天国…?」
やさしい声が返る。
「大丈夫かい、お嬢さん?」
彼女の目が向いた先には、優しい男の顔――ゲンがいた。
「怪我がひどい。すぐに手当が必要だ。安心しなさい」
「…天国も、案外悪くないかも…」
そう思いながら、イースは意識を手放した。
―――
現在へ戻る。
沈黙の中、エデンは言葉を失っていた。
あまりの真実に、ただ涙がこぼれた。
「…ごめん…」
「謝罪なんていらない」
イースの声は冷たく、鋭かった。
「私に必要なのは、あなたの力。神々を滅ぼすための力だけよ」
エデンは視線を落とす。
心の中で、答えの出ない問いが渦巻いていた。
(…拒むべきだろうか? いや…こんなにも彼女が苦しんできたのは、俺のせいだ…)
「もうすぐ、お前のちっぽけな命にも意味が生まれる。そのことを、誇りに思いなさい」
「……はい」
遠く、意識を失ったイサクの唇がわずかに動いた。
「…お姉ちゃん……」