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第38章:天秤が傾く

戦争は必ずしも剣のぶつかり合いや最強の者の雄叫びによって決着するわけではない。時々、運命の重み全体を一方向に傾けるのに必要なのは、一瞥、選択、明らかにされた真実だけです。


血と煙に染まった野原には、空を裂いた轟音と、時を止めた雷鳴の響きが今も響き渡る。その瞬間を目撃した人々は、何が起こったのか理解できませんでした...しかし、彼らは、バランスの奥深くで何かが永遠に壊れたと感じました。


神々と怪物の戦いは廃墟以上のものを残しました。それは空白でした。疑念、恨み、そして目覚めが芽生え始める空虚。


何世紀にもわたって神の墨で書かれたかのようだった歴史が、人間の手によって、震える手によって、そして決意に満ちた手によって書き換えられ始めている。


灰の中で贖罪を求める者もいれば、誓いを果たす時間をようやく見つける者もいる。


なぜなら、すべての戦争には、勝者は最も強い者ではなく、最後の息をつくまで生き残った者、あるいは世界を燃え上がらせるほどの火花を内に秘めた者という、目に見えない点があるからです。


今日、その火花が散ろうとしています。


————————————————————————————————————————————————————————————————


空が唸り、大地が震える。


混沌の中心で、二つの影が静かに対峙していた――狼と、神。




オーディンは冷ややかな目でその相手を見据えていた。


鋭い牙、燃えるような瞳を持つ巨獣――フェンリルは、神の存在を前にしても一切怯まず立ち尽くしている。




「用心深いな、愚かな狼め……」


オーディンは軽蔑を込めて呟いた。




フェンリルは返事をしない。ただその視線を、戦神に深く突き刺してくる。


その四肢はまるで戦の柱のように、どっしりと地に根を張っていた。




オーディンは目を細める。




(まさか、真正面からの決闘を挑んでくるとはな……


だが、他に道はない)




カメラが戦場を滑るように移動する。


男たち、そして獣たちが互いを引き裂き、屠る音が響く。


だがそれらの叫びは、今この瞬間に起ころうとしている激突の前では、まるで遠い幻のように掻き消えていった。




「たとえ千の兵を集めようと……フェンリルにかかれば、一瞬で粉々にされるだけだ。


奴らは足手まといにしかならん」




オーディンは息を吐いた。


それは、何世紀もの重みを自ら背負う覚悟の音だった。




「仕方あるまい……この手で貴様を引き裂いてやる」




フェンリルが咆哮する。


風を切り裂くその声は、生者にも死者にも震えをもたらした。


その声は、すべてを超えた野獣の吠えだった。


ずっと、ずっとこの時を待ち続けた――復讐の声。




「引き裂いてやるぞ、オーディン!!」




その言葉とともに、フェンリルが全力で飛びかかる――だが、その爪が神へ届く寸前に――




――――――――――――――――――――




回想




暖かく、遠い記憶。




フェンリルがよろめきながらも、投げられた骨を追いかけて走る。


ぎこちなくも、それをくわえると誇らしげに尾を振った。




「よくやったな、フェンリル!」


トールが笑いながらその頭を撫でる。




「おい……俺の息子をペットみたいに扱うな」


腕を組み、不機嫌そうにロキが言った。




「え? でもほら、喜んでるじゃん」




「みっともない」




「はいはい、そう言っても、こいつが楽しいならいいだろ」




トールは大きな肉を投げた。


フェンリルはそれを空中でキャッチし、嬉しそうにしっぽを振って食べ始めた。




――――――――――――――――――――




ヘルヘイム




漆黒の世界。


毒気の漂う空気。煮え立つ大釜の前で、老婆が嗤う。




「また来たのかい?神様が毎月顔を出すなんて、珍しいねぇ」




「もう、片付けるべきことは済んだ」


オーディンの声は重い。




「はいはい……で、今度は何を?」




「前回と同じだ」


オーディンの答えは無機質で、冷たい。




老婆は根と骨、そして何かを混ぜ合わせる。


立ち上る煙の中に、未来の幻影が見えた。




「ふふ……あらまあ」


老婆の声が低く響く。




「お前の運命は、何も変わっちゃいない」




「……なんだと?」




「ラグナロクで、お前は死ぬ。


その戦いの後、お前に未来はない」




オーディンは怒りに任せ、老婆の首を掴んだ。




「ふざけるな! 言われた通りヘラを追放したぞ!? 他に何を望む!?」




「知りたいなら……手を離しな」




オーディンは彼女を放り捨てた。




「お前の最期は、巨大な牙に喰われると記されている。


ある獣の牙。


それは、お前の身近な誰かの“子”だ」




「ふざけるなッ!!」




オーディンが叫ぶ。怒りで震えるその姿は、かつての神の威厳を保ちつつも、どこか脆い。




「言ったはずだろう?


運命を弄ぶな。


隠しても、殺しても、封じても――“変える”ことはできないんだよ」




「運命だと!? 馬鹿馬鹿しいッ!!


俺の未来は、俺が決める!


他の誰にも書かせはしない!!」




「好きにするがいいさ」


老婆は背を向けた。




「だが忘れるな……神とて、死ぬのだよ」




オーディンは槍を地に突き立てる。


その胸に灯る炎は、もはや迷いではなく――抗う意志だった。




「見せてやるさ。運命すら、この俺には勝てんとな」




オーディンの足音がアスガルドの回廊に響き渡る。


その音は、まるで避けられぬ審判の前触れのようだった。


その目には、揺るぎなき決意が宿っている。




まだ幼いフェンリルは、宮殿の庭を無邪気に走り回っていた。


自分に迫る運命など、知る由もない。




その首を、巨大な手が掴み上げる。


まるで獲物を仕留めた捕食者のように。




「父上! 何をしてるんですか!?」


トールが叫ぶ。目を見開き、恐怖に満ちた声だった。




「うちの子を放せ、この老いぼれ!!!」


ロキが怒声と共に魔力を解き放つ。




「黙れ」


オーディンのその一言は、血の温度を凍らせる冷たさを持っていた。




トールは一瞬、動けなかった。


だが、ロキは違った。闇の魔力と神の怒りが、廊下を震わせた――




だが、オーディンはもはや王ではない。


それは、“絶対”という名の存在だった。




一瞬で二人の神は床に沈んだ。


意識を奪われ、無力に倒れる。




「静かにしろ……」


その声は重く、容赦がなかった。




「私に逆らうことは許されぬ」




フェンリルは震えていた。


何が起きているのか、理解できなかった。


逃げることも、戦うこともせず、ただ目を見開いて見つめていた。




それが――憎しみの始まりだった。




――――――――――――――――――――




世界の隠された場所にて




風が唸る。まるでこれから訪れる悲劇を警告するように。




タイールとウッルは、暴れ狂う若き狼を必死に抑えていた。




「大人しくしろ、このバカ狼!!」


タイールが叫ぶ。その腕にはフェンリルの牙が深く突き刺さっている。




だが、彼は叫ばない。


歯を食いしばりながら、血を流していた。




「今だ!縛れ!!」


額に汗を浮かべながら命じる。




「でも……その腕が……!」




「いいからやれ!!」




魔法の鎖が、光の蛇のようにフェンリルの身体を巻きつける。




その瞬間、タイールは迷いなく剣を振るい、自らの腕を切り落とした。




血が地に落ちる。それは、彼の覚悟と誓いそのものだった。




「覚えておけ、フェンリル……」


オーディンが静かに歩み寄る。




「お前がここから出ることはない。


鎖に縛られたまま死ぬ運命だ」




フェンリルは、息を荒げながらも何も返さない。


ただ、その瞳に新たな“火”を灯していた――


決して消えることのない、復讐の炎を。




――――――――――――――――――――




アスガルドに戻る




オーディンが、タイールとウッルと共に王宮へ戻る。




そこには、まだ意識が回復しきっていないトールとロキの姿があった。




「このクソ老害が……」


ロキが低く唸る。




「フェンリルに何をした」




「お前には関係ない」


オーディンの声には傲慢さすらあった。




ロキはその胸倉を掴み、震える手で怒りをぶつけた。




「俺の息子は、どこだッ!!」




「その汚らしいヨトゥンの手を俺の服から離せ」




オーディンはロキの腹に拳を叩き込み、そのまま地面に倒れた彼の頭を踏みつけた。




「俺に口答えするな」




「やめろ!!」


トールが怒鳴る。その拳が震えている。




「俺に逆らうのか?」




「父上であろうと……必要なら、俺がお前を倒す」




オーディンは笑った。


それは誇らしさではなく、威圧だった。




彼はロキの頭から足を離し、くるりと背を向ける。




「命があることを感謝しろ」




そして、振り返ることなく立ち去っていった。




トールはすぐにロキに駆け寄る。




「大丈夫か?」




「殺してやる……殺してやるさ。何度でも」


ロキの瞳は炎のように燃えていた。




「やつから、愛するものすべてを奪ってやる……」




そして――笑った。


喜びではない、狂気に満ちた憎悪の笑みだった。




――――――――――――――――――――




それから数年後




黒く乾いた岩に縛られ、孤独の中で目を開ける一匹の巨狼。




あの時の子供ではない。




鎖は呼吸のたびに軋む。


毛並みは荒れ、体は痩せ細っても――その目だけは、今も燃えていた。




「必ず……殺してやる、オーディン……俺が……」




――――――――――――――――――――




現在




空が割れる。




戦場の只中を、二つの存在が進んでいた。


一つは氷のように燃える炎。


もう一つは、生きた闇。




ロキとフェンリル。




それは、予言そのものだった。


現実に具現化した破滅の象徴。




「ついに俺たちの番だ……」




二人は同時に、心の中でそう呟いた。




その瞬間、世界を震わすほどの力が爆発した。




九つの世界全てが、それを感じ取った。


そして――


天秤は、傾き始めた。




フェンリルの足が大地を踏み鳴らすたびに、雷鳴が響く。


その爪は空を裂き、獲物を捕らえようとするが――オーディンの姿は、そこにはない。


いや、いたのかもしれない。すでにいなかったのかもしれない。




一撃、また一撃。牙の嵐。猛進する咆哮。


だが常にそこにあるのは“空虚”。


攻撃はすべて遅すぎた。




「……何だこれは……」


フェンリルは息を荒げながら思う。


「目の前にいる。気配も、呼吸も感じる。なのに……届かない」




次の瞬間、流れが変わった。




獣は追う者から、追われる者へ。


神は獲物から、血を求める捕食者へと姿を変える。




閃く槍。


オーディンの一撃がフェンリルの脇腹を正確に切り裂く。


力など感じられなかった。ただ、圧倒的な“技”の結晶。




直後、顎への一撃。


空中へと放り投げられたフェンリルは、山を砕いて叩きつけられた。




「チッ……くそっ……この地形じゃ、不利だ……」




瓦礫の中で立ち上がりながら、フェンリルは歯を食いしばった。




オーディンは空中から静かに降り立つ。


その表情には、余裕すらあった。




「どうした?」


肩をすくめて呟く。


「伝説の大狼が……震えているのか?」




フェンリルは笑った。


それは牙を見せない笑み。


傷と痛みによって刻まれた、過去の証。




その爪が赤く、そして黄金に輝く。


怒りと遺志の光――それが彼の本気の証だった。




「ようやくやる気か」


オーディンが静かに応じる。




次の瞬間、フェンリルは目前にいた。


その牙は、エネルギーに包まれ、神を引き裂かんと迫る。




だが、オーディンは一歩も引かない。


その槍が回転し、敵のあらゆる動きを読み切るかのように受け止めた。




反撃――


拳が、フェンリルの鼻面に叩き込まれ、後退させる。




「他の者なら、死んでいた」


オーディンは内心で呟く。


「だが、俺は“他の者”ではない」




フェンリルは後退しながらも、変化していく。


身体が膨れ上がり、筋肉がきしみ、血管が光を放つ。




オーディンは瞬きすらせず、それを見つめていた。




「封印して正解だったな……


もしこの化け物が鍛えられていたら、俺は今頃死んでいた」




「殺してやるッッ!!」


フェンリルが咆哮する。




その牙は剣よりも鋭く、影は大地を覆う。




そして――ついに、届いた。




オーディンの身体が吹き飛ぶ。


山々を突き破り、大地を揺らし、天すらも震わせる。




フェンリルは迷わない。


次の瞬間、すでに追いついていた。




脚が振り下ろされ、神の体を地面へと叩きつける。


大地が沈み、そして閉じた。だが、フェンリルはその土を引き裂いた。


取り出すために――その“戦利品”を。




オーディンは宙吊りとなった。


地と天の狭間、運命の怒りの中で。




冷たい息がその顔をなでた。


地獄の底から吹く風のように。




「今日がその日だ、オーディン……」


フェンリルの声が、怒りで震えていた。




「すべての鎖、すべての打撃、すべての呪いの歳月……


この牙で清算する。祈れ。さあ、祈ってみろ!!」




しかし――オーディンは笑った。




「何がおかしい!!?」




「これが勝利だとでも思ったか?」


その目は、刃のようだった。




「お前ごときが……俺に勝てると、本気で思ってるのか?」




「な……」




「お前は……弱すぎる」




その言葉は、千の刃を越える威力だった。




「この……ッ!!」




フェンリルは力を込めた。


だが、彼が叫んだのは次の瞬間だった。




血が、彼の足元から滴った。




「残念だ……」


オーディンの声は冷ややかだった。




「もっと遊びたかったのに。だが、お前が本気になるなら……


俺も“そう”しなければな」




何かが落ちた。


――小さなパッチ。




その後の沈黙が、すべてを包み込んだ。




「……何だと……?」




フェンリルの目に映ったのは、宇宙を閉じ込めたような“目”。




――神の目だった。




「封印していたんだ……」


オーディンが呟く。




「だが今は違う」




一瞬で、その姿は消えた。




そして、現れた――フェンリルの目の前に。




「……これが、本気だ」




拳が、天地を貫いた。




フェンリルの顔面が歪み、湖へと吹き飛ばされる。


だが、湖はその一撃で蒸発した。




オーディンは空中に浮かび、槍は彼の傍で静かに輝いていた。


まるで終末を告げる光のように。




「終わらせてやろう」




オーディンの槍がゆっくりと浮かび上がり、自ら放つエネルギーを吸収しながら回転し始めた。


数秒のうちにその槍は巨大化し、戦場全体を金と紫の光で染め上げる。




「運命なんざ、クソくらえだ」


オーディンは歪んだ笑みを浮かべながら呟く。


「俺は、お前よりも上だ」




手を振るだけで、その槍は彗星のように放たれた。


——破壊の化身として。




「死ね」




光の矢は空を裂き、不可能な速度でフェンリルへと迫る。


次の瞬間、大地を飲み込むような衝撃が全てを薙ぎ払った。


塵、岩、そして炎。全てが混ざり合い、戦場を包む。




「……外した……?」


オーディンは驚愕の声を漏らした。


「俺が外すなんて……あり得ない……」




煙の中から、ひとつの影が現れる。見覚えのある姿。




「ギリギリだったな」


シュンが軽い笑みを浮かべながら、フェンリルを庇うように立っていた。




オーディンの目が細くなる。


「この野郎……何で貴様がここにいる?」




「特に理由はないさ。ただ、ちょっと用事があってね」


シュンは軽やかに返す。




だが、オーディンが気にしていたのはシュンの存在ではなかった。


どうやって、ここに入ったのか。それが問題だった。




シュンはフェンリルを見下ろす。


「まだ戦えるか?」




「……ああ」




だが、フェンリルの心中は混乱していた。


(……誰だこいつ……このエネルギー……他の全てをかき消すほど濃密だ……)




「それなら良かった。少し手を貸してくれ」




「お前は……特別部隊の人間だろう?」


オーディンが不審そうに尋ねる。




「言っただろ? 用事があるって」




「嘘をつくな。貴様のような階級の者が、自ら動くはずがない」




シュンは軽くため息をついた。


「じゃあ……はっきり言うか。お前を“封印”しに来た。最悪の場合は……殺すために」




空気が一気に張り詰めた。




「……何を言った?」


オーディンが怒声を上げる。


「俺が死ねば、評議会が黙っているとでも思ったか!?」




「これはもう評議会の問題じゃない」


シュンの目が鋭くなる。


「お前の罪は、もはやその範疇を超えている。俺は王の命を受けて来た」




その言葉に、時間が止まったかのようだった。




「……王……?」




「抵抗しなければ、肉体は保存できる。協力すれば、刑期も軽くなるかもな」




沈黙。


(嘘だ……いや……奴は王の側近……可能性はある……)




「オーディン」


シュンの声が強くなる。


「自分にとって何が得か、分かっているはずだ。……俺に勝てないことくらい、な」




風を切る音。


シュンの体に切り傷が走る。




「愚かな選択だな……神ともあろう者が」


彼は淡々と呟いた。




「黙れええええ!!!」


オーディンの怒号が天を揺らす。




「人間如きが、俺に命令するな!!


この俺は、全能の神ぞ!!」




彼の体から黒いエネルギーが噴き出す。毒のように重く、濁ったオーラ。


大地が揺れ、空が歪む。




(封印できるかどうかも怪しいな……)


シュンの眉がひそめられる。


(これはもう……倒すしかない)




オーディンの体に変化が始まる。


耳が尖り、頭に棘のようなオーラが浮かび、背中には白き翼が広がる。




「……おい、狼」


シュンが低く囁く。




「作戦を考えた」




「は?」




オーディンの変貌が完了する。


もはや“神性”などない。あるのは、ねじ曲がった“異形”の力。




「どうだ、これが俺の究極形態だ」


オーディンが誇らしげに言う。


「様々な種族の研究を重ねた成果だ。俺は全ての頂点に立つ者……進化の終着点なのだ」




「へぇ〜……」


シュンは呆れたように笑う。




「ふざけるな!!」


神が吠える。




そして、背中から二つの脈打つ塊が生まれた。


得体の知れないエネルギーを纏い、形を取っていく。




「行け、我が兄弟よ。ヴィリ、ヴェー」




黒く歪んだ二体の戦士が、戦場に立つ。




「……何だこいつら……」


シュンの目に軽い驚きが走る。




「殺せ!!」




二体は一瞬で突撃してきた。


シュンは最小限の動きで攻撃を回避する。




(速い……


死んだはずの兄弟、ヴィリとヴェーか。……ルーン魔術?


こんな高位の存在を制御するなんて……)




彼は流れるような動きで二体をぶつけ合うが、すぐに立ち直って再び襲いかかってくる。




(疲労もしない……物理も効かない……空間干渉もダメか。


ならば、奴を倒すしかない。オーディン本体を)




ヴィリが背後から拘束してくる。


ヴェーの拳が迫る。




ぎりぎりでシュンは脱出し、回転しながら両者を連打。


だが――




「……無駄だな」




何も効いていない。


それでもシュンは打ち続けた。




ヴェーへ、そしてヴィリへ。


連撃、回し蹴り、急所への打撃――全てが虚しく消えていく。




(……急がないと。あいつを止めなければ……)




遠くで、オーディンが笑っていた。




ヴェーの体が空中に吹き飛び、連続で顎に浴びせられた打撃により、石の壁に叩きつけられた。


間髪入れず、シュンはその場で回転し、わずかなエネルギーを腕に集中させて、一撃でヴィリを地平線の彼方へと吹き飛ばした。




オーディンは無言でそれを見つめていた。


(何をしているつもりだ……?)


眉をひそめながら思う。


(あれだけ攻撃してるのに、疲れた様子もない……むしろ、全く本気じゃない……あの男、一体何でできているんだ……?)




その時、シュンの動きが止まる。嵐のような攻防が一瞬で静まる。


彼の目が、まっすぐオーディンを射抜いた。




「認めるよ」


その声は風すら震わせるように響いた。


「君の技術は面白い。だが、それは弱者にしか効かない。あるいは……愚者に、だな」




フェンリルが首をかしげる。


(今……自分が愚かだと認めたのか?)




シュンが片眉を上げた。まるで心を読んだかのように。




「幸運なことに、俺は強い方でね」




フェンリルが歯の間から唸り声を漏らす。


(間違いない……こいつはバカだ)




「そろそろ終わりにしよう」


シュンは指を軽く曲げながら続ける。


「残念ながら……神々には失望した。誰一人として、彼に及ばない」




「彼……?」


オーディンが目を細める。


「誰のことを言っている?」




シュンは目線を逸らした。


「しまった……ちょっと口が滑ったかもな」




フェンリルは細めた目でじっと見つめる。


(本当に天然なのか……それともわざとなのか……?)




シュンは小さく息を吐いた。そして、手を掲げた。




「――神罰」




黒雲に覆われていた空が、轟音と共に裂ける。


神聖な光の輪が戦場を照らしながら降りてくる。虚空から、天使のラッパのような音が鳴り響く。




オーディンが空を見上げた。


(この音……違う……これは……これは――)




中心に現れたのは、光の中の影。


それは“光”ではなかった。“光を食らう”闇だった。




次の瞬間、オーディンの“神の目”が視界を失った。




「……死だ」


彼は呟いた。




エネルギーが彼を包み、貫き、焼き尽くす。


鎧は粉砕され、皮膚は燃え、骨は砕かれ、肉体は彗星のように落下し、大地に触れた瞬間、広範囲を飲み込む爆発が走った。




フェンリルは爆風に吹き飛ばされ、一部の毛皮が焼け焦げる。


彼は息を切らしながら、爆心地を見つめる。




(……何も感じない。力も、気配も……本当に、死んだのか……?)




沈黙を破ったのは、シュンの声だった。




「悪い。……さっきの“作戦”ってやつは、ただの陽動だ」


彼は嘘をついているとは思えない笑みを浮かべた。




フェンリルは低く唸りながら頷く。


「……だろうな」




「いやあ……」


シュンはクレーターの底を見下ろす。


「それにしても、しぶといな」




そこにあったのは、ほとんど骨まで焼かれた死体。


だが、それでも“完全”ではなかった。




「君は本当にタフだな」


シュンは驚いたように言った。


「俺の“力の二割”を受けて、生き残ったのはお前が初めてだ」




すると、焼け焦げた残骸から、かすかな声が漏れた。


「……まだ……終わって……ない……」




フェンリルが息を呑む。


骨に肉が再び生えてくる。――再生。




「……気持ち悪い」


シュンが吐き捨てる。




(こんなことが……このレベルで再生なんて……)


フェンリルの心が軋む。




シュンが奥歯を噛みしめる。


(そこまでやったか……危険だ)




即座に、両手を掲げた。




「――天上封印てんじょうふういん」




無数の光の糸が天から降り注ぎ、生き返ろうとする肉体を包み込む。


光は纏い、縛り、そして閉じ込め、最後には光の箱に収束して“封”した。




フェンリルは何を見たのか分からず、ただ呟いた。


「……今のは、一体……?」




シュンは腕を下ろし、肩で息をしながらも毅然と立っていた。




(……知識のための犠牲が、報われたか……)




「俺の任務は、これで完了だ」




フェンリルは空を見上げながら言った。


「……彼は、これからどうなる?」




「もう現れない。死んだよ」




「……死んだ?」




「悪いな、狼」


シュンは少し笑って肩をすくめる。


「お前の復讐の対象はもういない。あのジジイ……お前が一生かかっても届かない場所に行った」




「……それは、どういう意味だ?」




「……秘密だ」




沈黙が流れる。だが、それはもはや重苦しいものではなく、静かで穏やかなものだった。




「名前は?」


フェンリルが聞いた。




「名前? そうだな……シュンと呼べばいい」




「……また会えるといいな、シュン」




「ああ。またな、フェンリル。新しい人生を楽しめ」




シュンは背を向けて歩き出した。だがその目は、はるか先を見据えていた。




(――さて。あとは“あいつ”の番だ)




丘の上。


エデンとイッスが向かい合い、世界が静止したかのように時が止まっていた。

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