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第39章: 痛みの悪魔

戦いの残響は、崩壊しつつある世界の断片の中で今も響き渡っている。かつては確実性があった場所に、今は失望の深い沈黙だけが残っている。


痛みは身体からではなく確信から生まれることもあります。自分がこれまで持っていた、あるいは信じてきたすべてが、もはや十分ではないという残酷な認識から。


エデンはいろいろなものを見てきました。人生を始めたばかりの人にとっては多すぎる。しかし、時間や傷では学べないことがあります。それは、孤独であることがどういうことかということです。


なぜなら、本当の地獄は永遠の火の燃える場所ではなく、壊れた良心の場所だからです。空っぽの心。果たされなかった約束。


そして今、すべてを飲み込もうとする闇の中で、誰かが目を開く。世界をあるがままに見るのではなく、破壊された世界を見るのです。


なぜなら、希望がなくなったとき、愛が十分でなくなったとき、怒りだけが残ったとき、魂の中に形成される怪物よりも大きな怪物は存在しないからです。


新たな悪魔が目覚めようとしている。


しかし、異星の影から生まれたものではありません。


しかし、それは常にそこにあった。


眠っている。


期待して。


出血。


————————————————————————————————————————————————————————————————


ヘルヘイムの影が震える。イッスはエデンの前に立ち塞がり、その声には決意と哀しみが混ざっていた。




「最後のチャンスをあげるわ」


彼女はかすかなため息を漏らしながら告げる。


「私たちに加わるか……それとも、力尽くで連れて行くか」




エデンは迷った。言葉が喉でつかえる。


「僕は……」




だが、その答えは許されなかった。




――ビィィィィィン……




空気が震えた。


裂け目が現れ、ヘルヘイムの空間が裂かれる。まるで新しい傷がこの世界に刻まれたかのように。




イッスは即座に振り返る。


「何よ、これは……?」




裂け目の奥から、痩せた、優雅な影が歩み出る。


存在そのものが異質すぎて、周囲の空気すら避けているようだった。


その足音は聞こえないのに、足跡の一つ一つが空間に傷を残す。




「お前……」


イッスは怒りをこらえた声で呟く。


「……何しに来たのよ、パペット」




現れた男は不気味なまでに丁寧な笑みを浮かべる。


「ちょっとした予定変更があってね」


まるで天気の話でもするかのような口調だった。




「予定変更?」


イッスが一歩踏み出す。


「何のこと?」




「君が勝手に動いたのを、ボスは快く思っていない。だから、僕が来た。彼の意思を実現するために」




その声は穏やかすぎて、逆に寒気を呼ぶ。




エデンは沈黙のまま見ていた。


(この気配……彼らと同じ……ブラックライツの――)




イッスは目を細める。


「つまりどういう意味?」




答えは一瞬で来た。


パペットの指先が動いた時には、すでにイッスの腹が貫かれていた。




赤い血が空中に広がる。


彼女の膝が地を打ち、顔から血の気が引いていく。




「何を……したの……?」


イッスが震える唇で絞り出す。




「申し訳ないね」


パペットは演技じみた悲しみを浮かべながら言う。


「でも、誰もボスの上に立てない。彼の言葉は絶対だ。もし神でなければ、前に出る者は殺される」




イッスの体が地に伏す。


血が地面に広がっていく。




「母さん!!!」


エデンの絶叫が、静寂を切り裂く。




パペットはゆっくりと彼に向き直る。


「さあ……任務の時間だ。神よ、あなたを“本当の場所”へとお連れする」




だが、エデンの口からは言葉ではなく――




黒いエネルギーが彼の体から溢れ出す。


鎖が音を立てて弾け、彼の周囲に荒れ狂う嵐が巻き起こる。




「……美しい」


パペットは恍惚とした声で呟く。


「これが……我らが神の力……」




そして、エデンの内なる世界。


そこに響くのは、自分のものではない笑い声だった。




「ほぉ……戻ってきたのか」




「……黙れ」




「その目……いいねぇ」




「力をくれ。どうすれば得られる?」


エデンの声は鋭く、躊躇いがなかった。




だが別の声が割り込む。


老いた、荒れた声だ。




「それは許さん」




「黙れ。許可なんて求めてない」




「お前は……祖父よりも無礼だな」




「その名を出すな!!!」


エデンは叫び、最初の声へと戻る。


「答えろ」




その声が笑う。




「俺の力は……弱者のものではない。使えば死ぬぞ?」




「それがどうした」




「……好きにしろ」


老いた声が嘆息する。


「だが、その悪魔には触れさせん」




「邪魔するな」


エデンの声は、もはや崩れていた。


「あいつを……殺す。何を失っても構わない」




その瞬間――




鎖が砕ける音が鳴り響く。




「俺の番だ」


その声は、背筋が凍るほど冷たい笑みと共に。




――現実へ戻る。




エデンの瞳は、すでに“彼”のものではなかった。


赤が全てを支配する。




パペットの息が荒くなる。


(なんてことだ……これが“我らの神”の力……)




「さあ……お言葉を、わが神よ――」




だが言葉の途中で拳が顔面に叩き込まれる。




パペットの体が遠くへ吹き飛び、壁に激突する。


地面を転がりながらも、まだ笑っている。




「……素晴らしい……」


彼は血を吐きながら呟く。




その身体に、今度は漆黒のエネルギー球が炸裂する。


彼を壁ごと押し潰す。




エデンが歩みを進める。


ゆっくりと。だが、確実に。




エデンの足音が、砕けた岩の軋みと重なって響く。


真っ赤に染まったその瞳は、壁に半ば埋まったパペットの体から一瞬たりとも離れない。




「そうだ!そうだぁ!!」


ファナティックな笑い声を上げるパペット。


「これだ…これを待っていたんだよ!見せてくれ…すべてを!我が神よ…その力を!」




だが、エデンは一言も発さない。ただ、動く。




ためらいなく首根っこを掴み、軽々と持ち上げると、彼の頭を壁に何度も何度も叩きつける。


ゴン、ゴン、ゴン……


鈍い音と共に、赤黒い血がパペットの額から滴り落ちる。


それでも――笑っていた。




床へと叩きつけられると、次は拳の嵐。


一発、二発、三発、十発……そのすべてが深く、容赦ない。


敵の身体は、まるで地面が飲み込むように、徐々に沈んでいく。




しかし――声はない。ただの、笑い。


空っぽな、狂った、笑い声。




やがてエデンは手を止め、息を荒げながら相手を見下ろす。


剣の柄を握りしめ、ためらいなく振り下ろす。


刃が真っ直ぐに――頭を狙って。




――ズバッ。




だが、何かが…おかしい。


パペットの頭は遠くに転がっている。だが、その唇が、動いた。




「……すみませんね、我が神よ」


皮肉たっぷりの声が響く。


「楽しい時間は、もうおしまいです。今度は……僕の番だ」




異常な速度で立ち上がるパペット。


エデンの顔を手で押さえつけ、そのまま地面に叩きつける。




「預言者は理解してくれるさ」


淡々とした声でそう言い、次の瞬間――




連打。




拳、膝、足――容赦ない暴力の雨が、エデンに降り注ぐ。


彼は立ち上がろうとするが、腕が掴まれ――首に一撃。


エデンの体は宙を舞い、地面に転がる。


その身を包んでいた“悪魔の力”が、ゆっくりと…消えていく。




闇。


血。


痛み。




彼を包んでいた力が、風に舞う灰のように散っていく。




「ま、でも……」


パペットは唇の血を拭いながら言う。


「今のお前は……あまりに弱すぎる。相手にならないよ」




エデンは血を吐きながら、思う。


(本当に…こんなにも弱いのか? 母さんの仇すら、取れないのか?)




その心の中。


嘲るような笑い声が響く。




「何してんだ、クソ悪魔が!!」


怒りに満ちた“16番”の声が怒鳴る。




「まさか、本気で力を渡すと思ったか?」


悪魔の声が返す。


「こいつが死ぬのを見たくてね。無価値だよ、このガキは」




「テメェ……」




そして――通信が途切れた。




現実へ。




「さて……」


パペットは一歩下がりながら呟く。


「そろそろ行こうか」




だが――その瞬間。




――ズブッ!




腹部を貫く剣。




口元から血が噴き出す前に、声が出ない。


彼は目を落とし、自分の赤く染まった手を見る。




「……なんだ、これは……?」




そして、目の前に――現れた。




漆黒の鎧を纏った男。


その存在は、畏怖と静寂を伴っていた。




「……遅れてすまないな、エデン」


冷たい声が響く。




――ハデスだった。




パペットは血を大量に吐き出しながらよろめく。


その体は傷の衝撃で震えていたが、唇にはまだ傲慢さが残っていた。




「まさか……」


かすれた声で呟きながら顔を上げる。


「冥界の神ご本人が…ここまで足を運ぶとはね」




ヘルヘイムの闇を吸い込むような漆黒の鎧に身を包んだハデスは、氷のような冷静さで彼を見下ろしていた。




「父親というものは……息子のためなら、なんでもするものだ」




言葉の余韻を待たずして、動きが起こる。


影の中から、ヴァリとヴェの人形が異常な速度で襲いかかる。




ハデスは、まだパペットの腹に突き刺さっていた剣を一気に引き抜き、そのまま回転させて迎撃した。




衝突は凄まじいものだった。


金属が金属を裂き、力が精密さとぶつかり合う。


ヘルヘイムの廃墟は、衝撃のたびに大きく揺れた。




(この男……)


蹴りをかわしつつ、素早く反撃の突きを繰り出しながらハデスは考える。


(人形をここまで自在に操るとは……なるほど、ブラックライツの幹部と呼ばれるだけのことはある)




隙を突いて、ハデスは剣に波動を込めて放つ。


ヴァリとヴェの人形たちは布の人形のように吹き飛ばされ、遥か遠くの壁を貫いた。




「たとえ強かろうと…」


声を荒げることなく、ハデスは静かに言う。


「この距離で、あれを制御し続けられるとは思えない」




パペットは壁にもたれながら這うように移動し、歯を食いしばって叫び声をこらえた。




(クソが……)


(たった数秒で戦局を支配しやがった。これが“最も危険な男”と呼ばれる理由か……この傷のまま戦えば、確実に死ぬ)




「それで終わりか?」


ハデスが、ゆっくりと歩み寄る。


「ブラックライツの名が泣くな」




パペットの唇が笑みの形に歪む。痛みを知らぬ狂気のように。




「また会おう……冥界の神よ。次は、油断しない」




だが――返答は、剣だった。




ハデスは、ほぼ瞬間移動のような速度でパペットの目の前に現れると、真下に振り下ろす斬撃を放った。




――ドオォォン!!




地割れが走る。


ヘルヘイム全体を引き裂くような大地の亀裂が、壁をも飲み込みながら広がっていく。




だが、そこにパペットの姿はなかった。




遥か遠く。


砕けた岩の上に、傷だらけの身体を引きずりながらも、パペットはなお笑っていた。




「また……会えるさ」




血まみれの手を地面につける。




――ドクン。




その瞬間、漆黒の脈動が波紋のように広がっていく。




ヘルヘイム全体が――震えた。




柱が砕け、洞窟が崩れ、天井から無数の岩が落ちてくる。


世界が崩壊を始めた。




「クッ……!」


ハデスは低く唸った。




パペットは、ズタズタの体でポータルをくぐる。


だがその顔には、恍惚ともいえる表情が浮かんでいた。




「じゃあな……冥界の神よ」




黒き断片の闇に包まれながら、パペットは姿を消した。




ハデスはしばらくその場に立ち尽くしていた。


呼吸は整っていたが、脈は激しく打っていた。




(追うべきか……?)


拳を握りしめながら思考する。


(……いや、今は――)




振り返る。




そこには、まだ生きている二人の姿があった。


エデンと……アイザック。




そしてそれだけで、父としては――十分だった。




ポータルの光が消え、パペットは闇に飲まれるように姿を消した。


壊れた笑いと、なおも残る不穏な脅威を背に――。




ハデスは、ただ黙って立ち尽くしていた。


そこに勝利はなかった。安堵もなかった。


残されたのは――瓦礫の山だけ。




ヘルヘイムの壁が震える。


頭上から岩が降り注ぎ、地面は裂け、大地は崩れる。




一瞬の猶予も与えず、ハデスは身を屈め、瀕死のアイザックとエデンの身体を慎重に抱き上げる。


片方は意識を失い、もう片方は……微かに息をしているだけ。




だがその時。




――かすかな音。


――途切れそうな呼吸。




ハデスは即座に振り返った。


瓦礫と血の中、イッスがまだ生きていた。




「何してるのよ……」


命の灯が消えかけた声で、イッスが呟いた。


「さっさと……行きなさい……」




「それはできない」


ハデスは静かに近づく。




「何を……言って……」


咳と共に、真紅の雫が岩を染める。


「このままじゃ……ヘルヘイムに……潰される……」




返事の代わりに、ハデスは彼女をしっかりと背中に担ぎ、シャツの一部を裂いて固定する。




「しっかり掴まっていろ」


前を見据えたまま、彼は言った。




「馬鹿ね……放っておいて……」




「お前がこの子たちにしたことを考えれば、死なせるには……まだ早すぎる」




イッスの顔に、疲れ切ったような苦笑が浮かんだ。




「本当に……迷惑な男ね……」




「その通りだな……俺はずっとそうだった」




彼女が背にしがみつき、ハデスは走る。




迫る影。追う裂け目。


崩れ落ちる黒曜石の柱。


叫ぶように鳴動するヘルヘイムの空。




終わりなき時間。


乱れた呼吸。


そして――最後の跳躍。




……静寂。




冥界の神は、地上に膝をついて崩れ落ちた。


三人の身体を守りながら。


地上の空気は違っていた。


だが、そこにも喪失の匂いが漂っていた。




「……どうして?」


イッスの声は、もはや囁きのように弱々しかった。




ハデスは彼女を見つめた。




「何がだ?」




「どうして……助けたの?」




「せめて……借りを返したかっただけだ」




イッスは短く笑った。


それは、風に消えそうな吐息のようだった。




「やっぱり……下手くそね……気持ちを伝えるの……」




「……ああ」




「でももう遅いわ……」




「そんなこと……言うな……」




「パペットに……内臓を全部潰されたのよ……」


その声は震え、消えかけていた。


「もう……時間がないの……」




ハデスは首を横に振った。


皮膚の下で怒りと絶望が沸き立つ。




「黙れ……必ず助ける……どんな手を使ってでも……自由に生きられるようにしてやる」




「もういいの……」


イッスの目が優しく、懐かしげな色に染まる。


「今が……夢の中みたいなのよ……」




「夢?」




「ええ……」


霞む瞳の中で、微かな微笑が浮かぶ。


「初めて……三人が一緒にいるから……」




口元から血が再び溢れる。


朱色の線が頬を伝う。




「イッス……」




「どうやら……あの子……友達を連れてきたみたい……」


その声はもう、風のように儚かった。




「まだだ……」


ハデスの声が震える。


「まだ……終わらせない……」




「もう……時間がないの……」




冥界の神は、彼女の手を握った。




「何でも言ってくれ……最後に……」




「守ってあげて……」


「私たちの子を……連れて行かれないように……あいつらには……触れさせないで……」




「……あいつら? ブラックライツのことか? まさか……目的を知って……?」




イッスの瞳が静かに閉じられる。




呼吸が――止まる。




「全部……お願いね……」




そして、沈黙。




声も。


呻きも。


命の音も――すべてが、消えた。




「イッス……?」


沈んだ声が、虚空に消える。


「イッス……!? やめろ……行くな……!」




だが、もう遅かった。




彼女の心の最奥に――一つの映像が浮かぶ。




腕に抱く、小さな命。


赤ん坊。


あの子。


あの光。




『元気でね……私の大切な子……』




イッスの意識は、完全に消えた。




ハデスの体が震える。


歯を食いしばり、叫びを押し殺す。


今は――痛みに飲まれている暇などない。




まだ……終わっていないのだから。

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