戦いの残響は、崩壊しつつある世界の断片の中で今も響き渡っている。かつては確実性があった場所に、今は失望の深い沈黙だけが残っている。
痛みは身体からではなく確信から生まれることもあります。自分がこれまで持っていた、あるいは信じてきたすべてが、もはや十分ではないという残酷な認識から。
エデンはいろいろなものを見てきました。人生を始めたばかりの人にとっては多すぎる。しかし、時間や傷では学べないことがあります。それは、孤独であることがどういうことかということです。
なぜなら、本当の地獄は永遠の火の燃える場所ではなく、壊れた良心の場所だからです。空っぽの心。果たされなかった約束。
そして今、すべてを飲み込もうとする闇の中で、誰かが目を開く。世界をあるがままに見るのではなく、破壊された世界を見るのです。
なぜなら、希望がなくなったとき、愛が十分でなくなったとき、怒りだけが残ったとき、魂の中に形成される怪物よりも大きな怪物は存在しないからです。
新たな悪魔が目覚めようとしている。
しかし、異星の影から生まれたものではありません。
しかし、それは常にそこにあった。
眠っている。
期待して。
出血。
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ヘルヘイムの影が震える。イッスはエデンの前に立ち塞がり、その声には決意と哀しみが混ざっていた。
「最後のチャンスをあげるわ」
彼女はかすかなため息を漏らしながら告げる。
「私たちに加わるか……それとも、力尽くで連れて行くか」
エデンは迷った。言葉が喉でつかえる。
「僕は……」
だが、その答えは許されなかった。
――ビィィィィィン……
空気が震えた。
裂け目が現れ、ヘルヘイムの空間が裂かれる。まるで新しい傷がこの世界に刻まれたかのように。
イッスは即座に振り返る。
「何よ、これは……?」
裂け目の奥から、痩せた、優雅な影が歩み出る。
存在そのものが異質すぎて、周囲の空気すら避けているようだった。
その足音は聞こえないのに、足跡の一つ一つが空間に傷を残す。
「お前……」
イッスは怒りをこらえた声で呟く。
「……何しに来たのよ、パペット」
現れた男は不気味なまでに丁寧な笑みを浮かべる。
「ちょっとした予定変更があってね」
まるで天気の話でもするかのような口調だった。
「予定変更?」
イッスが一歩踏み出す。
「何のこと?」
「君が勝手に動いたのを、ボスは快く思っていない。だから、僕が来た。彼の意思を実現するために」
その声は穏やかすぎて、逆に寒気を呼ぶ。
エデンは沈黙のまま見ていた。
(この気配……彼らと同じ……ブラックライツの――)
イッスは目を細める。
「つまりどういう意味?」
答えは一瞬で来た。
パペットの指先が動いた時には、すでにイッスの腹が貫かれていた。
赤い血が空中に広がる。
彼女の膝が地を打ち、顔から血の気が引いていく。
「何を……したの……?」
イッスが震える唇で絞り出す。
「申し訳ないね」
パペットは演技じみた悲しみを浮かべながら言う。
「でも、誰もボスの上に立てない。彼の言葉は絶対だ。もし神でなければ、前に出る者は殺される」
イッスの体が地に伏す。
血が地面に広がっていく。
「母さん!!!」
エデンの絶叫が、静寂を切り裂く。
パペットはゆっくりと彼に向き直る。
「さあ……任務の時間だ。神よ、あなたを“本当の場所”へとお連れする」
だが、エデンの口からは言葉ではなく――
黒いエネルギーが彼の体から溢れ出す。
鎖が音を立てて弾け、彼の周囲に荒れ狂う嵐が巻き起こる。
「……美しい」
パペットは恍惚とした声で呟く。
「これが……我らが神の力……」
そして、エデンの内なる世界。
そこに響くのは、自分のものではない笑い声だった。
「ほぉ……戻ってきたのか」
「……黙れ」
「その目……いいねぇ」
「力をくれ。どうすれば得られる?」
エデンの声は鋭く、躊躇いがなかった。
だが別の声が割り込む。
老いた、荒れた声だ。
「それは許さん」
「黙れ。許可なんて求めてない」
「お前は……祖父よりも無礼だな」
「その名を出すな!!!」
エデンは叫び、最初の声へと戻る。
「答えろ」
その声が笑う。
「俺の力は……弱者のものではない。使えば死ぬぞ?」
「それがどうした」
「……好きにしろ」
老いた声が嘆息する。
「だが、その悪魔には触れさせん」
「邪魔するな」
エデンの声は、もはや崩れていた。
「あいつを……殺す。何を失っても構わない」
その瞬間――
鎖が砕ける音が鳴り響く。
「俺の番だ」
その声は、背筋が凍るほど冷たい笑みと共に。
――現実へ戻る。
エデンの瞳は、すでに“彼”のものではなかった。
赤が全てを支配する。
パペットの息が荒くなる。
(なんてことだ……これが“我らの神”の力……)
「さあ……お言葉を、わが神よ――」
だが言葉の途中で拳が顔面に叩き込まれる。
パペットの体が遠くへ吹き飛び、壁に激突する。
地面を転がりながらも、まだ笑っている。
「……素晴らしい……」
彼は血を吐きながら呟く。
その身体に、今度は漆黒のエネルギー球が炸裂する。
彼を壁ごと押し潰す。
エデンが歩みを進める。
ゆっくりと。だが、確実に。
エデンの足音が、砕けた岩の軋みと重なって響く。
真っ赤に染まったその瞳は、壁に半ば埋まったパペットの体から一瞬たりとも離れない。
「そうだ!そうだぁ!!」
ファナティックな笑い声を上げるパペット。
「これだ…これを待っていたんだよ!見せてくれ…すべてを!我が神よ…その力を!」
だが、エデンは一言も発さない。ただ、動く。
ためらいなく首根っこを掴み、軽々と持ち上げると、彼の頭を壁に何度も何度も叩きつける。
ゴン、ゴン、ゴン……
鈍い音と共に、赤黒い血がパペットの額から滴り落ちる。
それでも――笑っていた。
床へと叩きつけられると、次は拳の嵐。
一発、二発、三発、十発……そのすべてが深く、容赦ない。
敵の身体は、まるで地面が飲み込むように、徐々に沈んでいく。
しかし――声はない。ただの、笑い。
空っぽな、狂った、笑い声。
やがてエデンは手を止め、息を荒げながら相手を見下ろす。
剣の柄を握りしめ、ためらいなく振り下ろす。
刃が真っ直ぐに――頭を狙って。
――ズバッ。
だが、何かが…おかしい。
パペットの頭は遠くに転がっている。だが、その唇が、動いた。
「……すみませんね、我が神よ」
皮肉たっぷりの声が響く。
「楽しい時間は、もうおしまいです。今度は……僕の番だ」
異常な速度で立ち上がるパペット。
エデンの顔を手で押さえつけ、そのまま地面に叩きつける。
「預言者は理解してくれるさ」
淡々とした声でそう言い、次の瞬間――
連打。
拳、膝、足――容赦ない暴力の雨が、エデンに降り注ぐ。
彼は立ち上がろうとするが、腕が掴まれ――首に一撃。
エデンの体は宙を舞い、地面に転がる。
その身を包んでいた“悪魔の力”が、ゆっくりと…消えていく。
闇。
血。
痛み。
彼を包んでいた力が、風に舞う灰のように散っていく。
「ま、でも……」
パペットは唇の血を拭いながら言う。
「今のお前は……あまりに弱すぎる。相手にならないよ」
エデンは血を吐きながら、思う。
(本当に…こんなにも弱いのか? 母さんの仇すら、取れないのか?)
その心の中。
嘲るような笑い声が響く。
「何してんだ、クソ悪魔が!!」
怒りに満ちた“16番”の声が怒鳴る。
「まさか、本気で力を渡すと思ったか?」
悪魔の声が返す。
「こいつが死ぬのを見たくてね。無価値だよ、このガキは」
「テメェ……」
そして――通信が途切れた。
現実へ。
「さて……」
パペットは一歩下がりながら呟く。
「そろそろ行こうか」
だが――その瞬間。
――ズブッ!
腹部を貫く剣。
口元から血が噴き出す前に、声が出ない。
彼は目を落とし、自分の赤く染まった手を見る。
「……なんだ、これは……?」
そして、目の前に――現れた。
漆黒の鎧を纏った男。
その存在は、畏怖と静寂を伴っていた。
「……遅れてすまないな、エデン」
冷たい声が響く。
――ハデスだった。
パペットは血を大量に吐き出しながらよろめく。
その体は傷の衝撃で震えていたが、唇にはまだ傲慢さが残っていた。
「まさか……」
かすれた声で呟きながら顔を上げる。
「冥界の神ご本人が…ここまで足を運ぶとはね」
ヘルヘイムの闇を吸い込むような漆黒の鎧に身を包んだハデスは、氷のような冷静さで彼を見下ろしていた。
「父親というものは……息子のためなら、なんでもするものだ」
言葉の余韻を待たずして、動きが起こる。
影の中から、ヴァリとヴェの人形が異常な速度で襲いかかる。
ハデスは、まだパペットの腹に突き刺さっていた剣を一気に引き抜き、そのまま回転させて迎撃した。
衝突は凄まじいものだった。
金属が金属を裂き、力が精密さとぶつかり合う。
ヘルヘイムの廃墟は、衝撃のたびに大きく揺れた。
(この男……)
蹴りをかわしつつ、素早く反撃の突きを繰り出しながらハデスは考える。
(人形をここまで自在に操るとは……なるほど、ブラックライツの幹部と呼ばれるだけのことはある)
隙を突いて、ハデスは剣に波動を込めて放つ。
ヴァリとヴェの人形たちは布の人形のように吹き飛ばされ、遥か遠くの壁を貫いた。
「たとえ強かろうと…」
声を荒げることなく、ハデスは静かに言う。
「この距離で、あれを制御し続けられるとは思えない」
パペットは壁にもたれながら這うように移動し、歯を食いしばって叫び声をこらえた。
(クソが……)
(たった数秒で戦局を支配しやがった。これが“最も危険な男”と呼ばれる理由か……この傷のまま戦えば、確実に死ぬ)
「それで終わりか?」
ハデスが、ゆっくりと歩み寄る。
「ブラックライツの名が泣くな」
パペットの唇が笑みの形に歪む。痛みを知らぬ狂気のように。
「また会おう……冥界の神よ。次は、油断しない」
だが――返答は、剣だった。
ハデスは、ほぼ瞬間移動のような速度でパペットの目の前に現れると、真下に振り下ろす斬撃を放った。
――ドオォォン!!
地割れが走る。
ヘルヘイム全体を引き裂くような大地の亀裂が、壁をも飲み込みながら広がっていく。
だが、そこにパペットの姿はなかった。
遥か遠く。
砕けた岩の上に、傷だらけの身体を引きずりながらも、パペットはなお笑っていた。
「また……会えるさ」
血まみれの手を地面につける。
――ドクン。
その瞬間、漆黒の脈動が波紋のように広がっていく。
ヘルヘイム全体が――震えた。
柱が砕け、洞窟が崩れ、天井から無数の岩が落ちてくる。
世界が崩壊を始めた。
「クッ……!」
ハデスは低く唸った。
パペットは、ズタズタの体でポータルをくぐる。
だがその顔には、恍惚ともいえる表情が浮かんでいた。
「じゃあな……冥界の神よ」
黒き断片の闇に包まれながら、パペットは姿を消した。
ハデスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
呼吸は整っていたが、脈は激しく打っていた。
(追うべきか……?)
拳を握りしめながら思考する。
(……いや、今は――)
振り返る。
そこには、まだ生きている二人の姿があった。
エデンと……アイザック。
そしてそれだけで、父としては――十分だった。
ポータルの光が消え、パペットは闇に飲まれるように姿を消した。
壊れた笑いと、なおも残る不穏な脅威を背に――。
ハデスは、ただ黙って立ち尽くしていた。
そこに勝利はなかった。安堵もなかった。
残されたのは――瓦礫の山だけ。
ヘルヘイムの壁が震える。
頭上から岩が降り注ぎ、地面は裂け、大地は崩れる。
一瞬の猶予も与えず、ハデスは身を屈め、瀕死のアイザックとエデンの身体を慎重に抱き上げる。
片方は意識を失い、もう片方は……微かに息をしているだけ。
だがその時。
――かすかな音。
――途切れそうな呼吸。
ハデスは即座に振り返った。
瓦礫と血の中、イッスがまだ生きていた。
「何してるのよ……」
命の灯が消えかけた声で、イッスが呟いた。
「さっさと……行きなさい……」
「それはできない」
ハデスは静かに近づく。
「何を……言って……」
咳と共に、真紅の雫が岩を染める。
「このままじゃ……ヘルヘイムに……潰される……」
返事の代わりに、ハデスは彼女をしっかりと背中に担ぎ、シャツの一部を裂いて固定する。
「しっかり掴まっていろ」
前を見据えたまま、彼は言った。
「馬鹿ね……放っておいて……」
「お前がこの子たちにしたことを考えれば、死なせるには……まだ早すぎる」
イッスの顔に、疲れ切ったような苦笑が浮かんだ。
「本当に……迷惑な男ね……」
「その通りだな……俺はずっとそうだった」
彼女が背にしがみつき、ハデスは走る。
迫る影。追う裂け目。
崩れ落ちる黒曜石の柱。
叫ぶように鳴動するヘルヘイムの空。
終わりなき時間。
乱れた呼吸。
そして――最後の跳躍。
……静寂。
冥界の神は、地上に膝をついて崩れ落ちた。
三人の身体を守りながら。
地上の空気は違っていた。
だが、そこにも喪失の匂いが漂っていた。
「……どうして?」
イッスの声は、もはや囁きのように弱々しかった。
ハデスは彼女を見つめた。
「何がだ?」
「どうして……助けたの?」
「せめて……借りを返したかっただけだ」
イッスは短く笑った。
それは、風に消えそうな吐息のようだった。
「やっぱり……下手くそね……気持ちを伝えるの……」
「……ああ」
「でももう遅いわ……」
「そんなこと……言うな……」
「パペットに……内臓を全部潰されたのよ……」
その声は震え、消えかけていた。
「もう……時間がないの……」
ハデスは首を横に振った。
皮膚の下で怒りと絶望が沸き立つ。
「黙れ……必ず助ける……どんな手を使ってでも……自由に生きられるようにしてやる」
「もういいの……」
イッスの目が優しく、懐かしげな色に染まる。
「今が……夢の中みたいなのよ……」
「夢?」
「ええ……」
霞む瞳の中で、微かな微笑が浮かぶ。
「初めて……三人が一緒にいるから……」
口元から血が再び溢れる。
朱色の線が頬を伝う。
「イッス……」
「どうやら……あの子……友達を連れてきたみたい……」
その声はもう、風のように儚かった。
「まだだ……」
ハデスの声が震える。
「まだ……終わらせない……」
「もう……時間がないの……」
冥界の神は、彼女の手を握った。
「何でも言ってくれ……最後に……」
「守ってあげて……」
「私たちの子を……連れて行かれないように……あいつらには……触れさせないで……」
「……あいつら? ブラックライツのことか? まさか……目的を知って……?」
イッスの瞳が静かに閉じられる。
呼吸が――止まる。
「全部……お願いね……」
そして、沈黙。
声も。
呻きも。
命の音も――すべてが、消えた。
「イッス……?」
沈んだ声が、虚空に消える。
「イッス……!? やめろ……行くな……!」
だが、もう遅かった。
彼女の心の最奥に――一つの映像が浮かぶ。
腕に抱く、小さな命。
赤ん坊。
あの子。
あの光。
『元気でね……私の大切な子……』
イッスの意識は、完全に消えた。
ハデスの体が震える。
歯を食いしばり、叫びを押し殺す。
今は――痛みに飲まれている暇などない。
まだ……終わっていないのだから。