夜はいつも突然訪れるわけではない。時にはそれは、誰にも気づかれずに、次々と明かりを消す目に見えない毒のように、ゆっくりと忍び寄ってきます。
エデンはそれを知っていた。これまでにも何度も感じたことがあった…空からではなく、内側からやってくるあの暗闇を。かつて希望があった胸の中に落ち着くもの。その夜も例外ではなかった。星も、約束も、確実なものも何もなかった。あるのは、沈黙した牢獄、脆弱な計画、そして誰が最初に裏切るのかという絶え間ない疑念だけだ。
なぜなら、そのような場所では、誰もが値段がついているからです。道徳は贅沢であり、忠誠心は必死の行為であり、優しさは死刑宣告である。
しかし、その深い暗闇、抑圧された叫び声、そして誰も見ていない戦争の残響の真っ只中にあっても、まだ火花を散らそうとする者たちがいる。風が吹けば消えてしまうことは分かっているのに。たとえ、挑戦すれば死ぬことになるとわかっていても。
なぜなら、時々 ― ほんのたまに ― 男を定義するのはその人が何を達成するかではなく、何を裏切らないと選択するかだからだ。
そして今夜、エデンはその決断を下すだろう。
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食堂には、金属の酸化した匂いと湿った壁の気配、そして絶望の沈黙が漂っていた。
だがそんな空気の中で、三つの影がまるで時間がまだ自分たちのものかのように語り合っていた。
「でさ…」
アミネが静寂を破るように口を開いた。
「逃げる方法って、何かあるのか?」
「ない」
エデンはまるで天気の話でもするように答えた。
「は? それでどうやって脱獄する気だよ」
「安心しろ。俺には俺のやり方がある」
タケミは腕を組み、警戒心を露わにした。
「やめるつもりはないけど…力ずくで逃げるのは現実的じゃない。能力も使えないし、武器もないんだぜ」
「わかってる」
エデンは固いパンから視線を外さず、ぽつりと訊ねた。
「一つ聞いていいか?」
「どうした?」
タケミが首を傾げる。
「この施設に王の家族っているのか?」
ふたりは視線を交わした。口を開いたのはアミネだった。
「噂では、いるって言われてる。でも俺たちは見たことないな」
「本当に?」
「ああ、囚人たちの間で流れてる話さ」
アミネは肩をすくめて続けた。
「王に逆らった家族が幽閉されたって」
「……なるほど」
エデンは目を伏せ、思考をめぐらせた。
(わかっている限りじゃ、王はこの人々を生贄にするつもりらしい。仮に正気が少しでも残っているなら、身内は隔離してるはずだ。内乱を避けるために)
「おい、どうした」
タケミが彼の思考の隙間に割って入った。
「いや、ちょっと考えてただけさ」
エデンは視線を戻し、言葉を紡いだ。
「もしその噂が本当なら…ここの衛兵の誰かが、自分の家族を囚われてる可能性もあるだろ?」
「それで…何がしたいんだ?」
タケミが眉をひそめる。
「人質でも取るつもりか?」
アミネが怪訝そうに尋ねた。
「馬鹿言うな」
エデンは声色一つ変えずに返した。
「そんな余裕はない。家族の解放を約束してやる。それでこっちの話を聞かせる」
「でもよ、どうやってそんな約束を? 俺たち自身が出られる見込みもないのに」
アミネが食ってかかる。
「つまり、衛兵と交渉するってことだろ?」
タケミが口を挟んだ。
エデンはうなずいた。
「その通り。でも、その交渉…俺たちじゃなく、もっと適任がいる」
「まさか…!」
タケミの目が見開かれる。
「え、何だよ?」
アミネは困惑した。
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場面が変わり、空気は重く、照明はかすかに揺れていた。
エデンはある扉の前に立っていた。その奥からは、荒い呼吸音が聞こえる。
「何の用だ」
低く唸るような声が響いた。
「衛兵とパイプがあるって聞いた。頼みたいことがある」
「頼み? 俺に? 寝言は寝て言え」
「命令だ」
乾いた笑いが扉の向こうから返ってくる。
「夢見がちなガキだな」
「上の命令に逆らえる立場か?」
壁を揺らすような拳が扉を打った。
「その口、二度と開けなくしてやろうか」
「馬鹿じゃないはずだ。自分にとって得になることを選ぶタイプだろ。だから、俺は来た」
「は。何を持ってきたって、金も食い物も意味ねぇ。欲しいもんなんて、もうない」
「自由をくれてやるよ。ここのじゃない。王国ごとの自由だ」
沈黙。重たく、鈍く、切り裂くような沈黙だった。
「正直なところ」
エデンの声は低く、静かに続いた。
「お前の首を今すぐ落としたい。殺人鬼には特別な嫌悪感がある。でもな…時には汚い選択をしなきゃ、生き残れない」
「ふっ、でかい口叩くガキだ。だが、興味はねぇ。逃げ道なんてないし、お前みたいなひよっこに命預ける気もない。それに……」
「“カメラに気をつけろ”って言いたいんだろ?」
「なに?」
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監視室のモニターが映し出される。全て、ブラックアウトしていた。
「……何をした?」
「ちょっとした取引さ。悪くないだろ?」
「貴様……何者だ?」
「ただの、檻の中に飽きたガキさ」
扉の隙間から、囚人がエデンの目を見た。
そしてそこに映ったのは──死と共に生きる者の眼光だった。
「衛兵を多数、こちら側に引き入れる。必要なのはこの施設の全体図、そして彼らの家族の名前」
「……それだけ? その名前で何をするつもりだ」
「もし未来が読めたら守ってやれるんだがな。残念ながら、俺は預言者じゃない」
「……解放、するつもりか?」
「それが俺の目的だ。そのために、お前が動いてくれ」
長いため息のあと、男は唸るように言った。
「わかったよ…だが、忘れるな。必要とあらば、俺はお前を殺す」
「了解。覚悟のうえさ。じゃあな、殺人鬼」
カメラが再び点灯する。
エデンは一度も振り返ることなく、廊下を歩き去った。
「今夜は…長い夜になりそうだ」
囚人の独白が、静かに檻の中で消えていった。
食堂の薄暗さは、囚人たちの震える手を隠しきれなかった。金属製のトレイを叩くスプーンの音の合間に、三人の声が囁くように交わされた。まるで、この忘れ去られた世界にとって重すぎる秘密を共有しているかのように。
「情報は手に入ったか?」アミネが、硬いパンを噛みながら訊ねる。
「まあ…それなりにね」エデンは視線を上げることなく答えた。
タケミは少し驚いたように目を細める。
「アイツが交渉に応じたってのは驚きだな」
「人間だからな。結局、誰だって何かを求めてる」エデンはスプーンを指の間で回しながら言った。
「そうだな…誰でも何かに縋って生きてる…」タケミはその言葉に重みを感じたようにつぶやく。
「で?」アミネがパンくずを払いつつ口を開く。「逃げる日は決まったのか?」
「二日後だ。準備は整ってる」
「早すぎるだろ…」タケミがむせかけた。「どうやって?」
「アイツのおかげだ。思ってた以上に交渉上手でね」
「俺たちの命と交換じゃなけりゃいいが」アミネが冗談っぽく言ったが、目は笑っていなかった。
「少なくとも自分の命ではないだろうな。俺のは…まあ、問題ない。なんとかする」
タケミはじっと彼を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、エデン」
「え?何がだよ」
「ここに閉じ込められて、何もできずに死ぬだけだと思ってた。でもお前に会えて…少しだけ希望が持てたんだ」
「死ぬみたいなこと言うなよ、バカ」エデンは片方の口角を上げて笑った。「俺たちは全員ここを出る。絶対にな」
「そーだそーだ」アミネが無理やり元気を出すように合わせた。
だが、エデンの胸には鈍い不安が残っていた。
(…まずい。これはまずいな)
背中を冷たい影が這い、暗い霊たちが彼の周囲を舞い始める。
(道具に情を抱くわけにはいかない…絶対に)
日々はまるで一瞬のように過ぎ去り、サンタイ刑務所の夜が再び訪れた。だが、あの食堂にはすでに仕掛けが完成していた。
その時、地鳴りのような音が監獄の静寂を裂いた。
「緊急事態発生!全房のロックが解除されました!囚人たちが脱走中!」
(来たか)エデンは立ち上がる。
混乱が広がった。悲鳴、衝突、金属音、走る足音——戦場のような騒乱が監獄を包み込んだ。
エデンは廊下を駆ける。しかし、その前に一人の男が立ちふさがった。
「クソ…!」
オルゼが彼の手首をつかむ。
「放せ、クソ野郎!」
だが攻撃は来なかった。オルゼはただ静かに彼を見つめていた。
「何だよ、もう捕まえただろ。何がしたい?」
「いい計画だ。…幸運を祈るよ」そう言って彼は煙と叫びの中に消えた。
「…何だったんだ、今のは」
エデンは首を振って走り出す。時間はない。やるべきことがある。
「アミネ!」
「ここだ!」
アミネが肩に手を置く。能力が発動し、情報が彼に流れ込んだ。
「助かった」
「だろ?俺ってすげぇ」
「はいはい…」
監視兵たちは、家族を避難ルートへと案内していた。反乱は始まっていたが、その真の首謀者を知る者は少なかった。
「逃走ルートB、成功だ」タケミが走りながら報告する。「あとは俺たちが抜けるだけだ」
しかし、幻想はすぐに砕かれる。凄まじい悲鳴、空を裂いて飛んできた肉塊。
「まずはあの化け物を片付けないとな」エデンが唸る。
「そうだな」
「任せても?」
「まあな。足止めはできるが…殺すのは難しい。あれは実験で作られた。あまりにも頑丈だ」
「ってことは…他にもいるってことか?」
「多数は高セキュリティ区域だがな」
(クソ運の悪さだ…)エデンは心の中でぼやく。
「アミネ、タケミ。ここで待ってろ。俺にはまだ果たすべきことがある」
「了解」タケミが即答した。
「任せておけ」アミネも笑みを浮かべた。
そして、エデンは地獄の最深部へ向けて走り出した。
呼吸は荒く、足取りは鋭く、狙いはただ一つ。
(戦ってる余裕はない。素早く取って、すぐ出る)
醜く歪んだ怪物たちが襲いかかる。だがエデンはその間を幽霊のようにすり抜け、ひとつとして無駄な動きがなかった。
(もうすぐだ。あと少し…)
だが、彼を止めたものがあった。
それは罠でも、傷でもない。
——恐怖だった。
(なんだ…なんで…なぜ俺が、怖いと感じてる…?)
胸が圧迫され、空気が重くなる。足元が脈打つように震える。最深部の牢から、毒のような霊圧が漏れ出していた。
(これは…なんて力だ…?)
不意に、手を叩く音がした。遅く、冷たく、皮肉な拍手。
囚人1号の崩れた肉体が、彼の足元に転がる。
エデンの目が大きく見開かれる。
(な…何が起きてる…?)
静寂を破ったのは、囚人1の崩れ落ちた体ではなく、重くゆっくりと響く足音だった。
闇の中から現れたのは、歪んだ笑みを浮かべるグアヤス。その瞳には一片の情も宿っていなかった。
「この男には賞を与えないとな」
嘲るようにそう言った彼の声に、エデンの拳が強く震えた。
「グアヤス…」
「このクズ野郎が最初の一分でゲロると思ったが、驚いたよ。二日間の拷問にも耐えて、一言も吐かなかったんだ。すごいとは思わないか?」
「お前…どうしてそんなことを…?」
一歩、また一歩とグアヤスが近づいてくる。笑みは絶えず、ぞっとするほど冷たい。
「勇気を讃えて、ネズミからプレミアムネズミに昇格させてやらないとな? いい称号だと思わないか?」
「クソ野郎…何をしたんだ!」
「奴に殺してもらうか、情報を吐かせるか、どちらかだった。でもな、バカなことに感情に流されたんだよ。王国の外に娘がいるらしいぞ。会いたい一心だったらしいが…なぜかお前を守る道を選びやがった」
「なんで…なんで教えてくれなかったんだよ!」
エデンの叫びに、血を吐いた囚人1がわずかに唇を動かした。
「ガキが知ることじゃない…それに、あの子は…俺のこと、誇りに思わないだろうな。俺は…見捨てたんだ…見つからないように…。許してくれるとは思えねえ。俺は最低な親父だ」
「バカかよ…!なんで…なんで俺なんか守ったんだ!会いに行くべきだったのに!お前は…お前は娘を守ったんだ…それって、立派な父親だろうが!」
優しげに、そして弱々しく、囚人1が微笑んだ。
「うるさい奴だな…お前、アイツに似てるな…」
「感動的だな」
グアヤスが皮肉たっぷりに笑いを漏らす。
「親の愛ってのは、いい見世物だよな?」
「ぶっ殺してやる!」
怒りと悲しみに濡れたエデンの瞳が燃え上がる。
「ガキ」
囚人1がもう一度、掠れた声で呼びかけた。
「行け。あいつに殺されるなよ…俺があの世から戻ってでも、お前を殺してやる」
「でも…!」
「行けっつってんだよ!」
エデンは震えながら彼の傍にしゃがみ込み、歯を食いしばる。
「…ごめん。約束、守れなかった」
「ありがとう…」
そう呟くと、囚人1の目は静かに閉じられた。
一瞬、世界が止まった。
だがその沈黙を破ったのは、新たな声だった。
「いい場面だね、エデン?」
振り返ったエデンの目に飛び込んできたのは、瀕死のタケミを抱えるアミネの姿だった。
「タケミっ!」
「ほらよ」
まるで荷物のようにタケミを投げ捨てながら、アミネが冷たく言った。
「俺の役目は終わった。さっさと報酬をよこせよ」
「アミネ…お前、何してんだよ…?」
「まさか気づいてなかったのか?」
グアヤスが腕を組みながら笑う。
「誰が情報を流してたと思ってる? 今頃、裏切り者どもは全員捕まって、家族も処分される頃だ」
「嘘だろ…? アミネ、お前が…?」
「うるせえ」
アミネの口調は鋭く、冷酷だった。
「お前らにも理想があるんだろ? 俺にもある。金さえあれば、それでいい」
「そういうことだ」
笑みを深めたグアヤスが、袋いっぱいの金貨をアミネに投げた。
「これで俺の問題も全部…」
その瞬間、アミネの額を槍が貫いた。
言葉を終える間もなく、彼の体は地面に崩れ落ちた。
世界がまた沈黙した。
タケミが微かに息を吐いた。
エデンは呆然とその光景を見つめていた。
「ネズミは所詮、ネズミだ」
静かにグアヤスが言う。槍を放った手を戻しながら。
「必要になれば、いくらでも取り替えが利く」
反応できないまま、エデンは内面で崩れ落ちていた。
「もう終わりだ…計画は失敗した…タケミは死にかけてる…全部無駄だった…俺は…」
「まさか…今さら諦める気じゃないよな?」
力弱い声が空気を揺らした。
「…タケミ?」
「もっと根性あると思ってたんだけどな」
「でも…もう、どうにもならないよ…俺、間違えたんだ」
「だから何だよ」
タケミの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「…何言ってるんだ?」
「それが人間ってもんさ。…正直、お前が俺たちを見捨てて逃げるんじゃないかって思ってた。でも、お前は…あいつすら見捨てなかった。エデン、お前はいい奴だ」
「タケミ…」
「頼む…これ、持っててくれ」
小さな金色の物体をエデンに手渡す。
「タケミ…」
「ありがとな…」
そう呟きながら、彼の命の灯火が消えた。
「…タケミ? …タケミ? 冗談だろ…やめろよ、なぁ!」
崩れ落ちたエデンの膝に、冷たい涙がこぼれ落ちた。
「もう待ちくたびれたぞ!」
グアヤスが叫び、エデンに襲いかかる。
だがその一撃は、突如現れた影によって切り裂かれた。
白髪にピンクの瞳をした男が、エデンの前に立ちはだかった。
「やれやれ…今がどんな場面か、分かってないのか?」
「て、てめぇは誰だっ…?!」
後退するグアヤスの瞳が大きく揺れる。
「こいつ…なぜここに? いつの間に…」
「尋問ってやつは苦手でね」
頭を掻きながら、男がぼやいた。
本能がグアヤスに告げていた。
「この相手には勝てない…引け…今は、引け…!」
グアヤスは踵を返し、全速力で逃げ出した。
「マジかよ…逃げやがった…」
肩を落とし、男がため息をついた。
「アイツ、いつも手間かけさせやがって…」
エデンに目を向ける。
「おい、お前」
「…なんだよ…」
エデンの声には力がなかった。
「少しは役に立つ話をしてやる。お前の計画、全部が失敗ってわけじゃない。仲間たちも、家族も…生きてるよ」
「な、何…?」
「悪くない計画だったさ。お前が、もう少しだけ人を疑えてたらな」
「でも…やつらは全て知ってたはずだ。どうやって逃れた…?」
「話すと長い。まぁ…ちょっとだけ手を貸したってことさ」
倒れたグアヤスの兵たち。彼らの動きを封じたのはこの男だった。
「…お前、誰なんだ?」
「質問は後だ。今はやるべきことがある。来るか?」
エデンは、タケミと囚人1の亡骸を見つめた。
「…行く」
男は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、行こう。だがその前に…」
武器を差し出す。
「必要になる。あいつはただ逃げたんじゃない。何かを…でかいことを企んでる」
エデンはそれを強く握りしめた。
その瞳に、再び光が灯る。
「二人の仇は…必ず取る」
タケミと囚人1の静かな遺体が、エデンの心に刻まれた。
「絶対に…誓う」