時々、私たちの決断の本当の重みは私たち自身ではなく、残された人々にかかってきます。
魂が安らぎを見出せないとき、夜はより濃くなります。壊れた世界においては、沈黙は言葉よりも重く、過去はしつこいエコーのように戻って来ようとしつこく迫ってくる。
ただ前進し続けるだけでは不十分な場合があります。立ち止まり、自分の内面を見つめ、自分のどの部分を守る価値があるのかを判断しなければなりません。
戦う人すべてが栄光のために戦うわけではないからです。
ただ単に許しを求める人もいます。その他、理由あり。
そして、心の底ではただ逃げるのをやめたいと願っている人たちもいます。
今日、荒廃した世界の不確かな空の下、誰かが選択を迫られるだろう。
そして、あらゆる選択は…必ず後悔を伴います。
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山頂に吹きつける風は鋭く、冷たかった。
その風に押されるように、厚い雲がゆっくりと流れていく。
まるで、これから訪れる運命の重さを知っているかのように。
ゼロとキルは、言葉を交わさぬまま、ただ遠くの地平線を見つめていた。
その間には、語られなかった過去と、埋まらない沈黙の溝が横たわっていた。
「…どうして?」
静かにキルが呟く。
ゼロはわずかに顔を傾けたが、驚いた様子はなかった。
「ん? どうかしたか?」
「変わったわね」
懐かしさと確信が混じった声だった。
「俺が? そうか? 初対面のはずだろ?」
「違うわ。何年も前、トーナメント・オブ・ゴッドで…あなたを見たの」
「へぇ、それは驚いた」
感情のこもらない口調で返すが、否定もせずに。
「最初は気づかなかった。でも…エネルギーの流れを見れば、すぐに分かった」
「そうか…」
ゼロが視線を落とす。
「…まるで私のことを避けてるみたい」
「すまない、陛下」
彼は少しだけ戸惑いをにじませながら続けた。
「過去の話は、あまり好きじゃないんだ」
「そう…。ごめんなさい」
「謝る必要はありません。…ただ、少し変な気分になるだけです」
「…分かるわ」
短い沈黙が訪れる。
だがそれを破ったのは、ゼロのほうだった。
「一つ…聞いてもいいですか?」
「ええ。なに?」
「グアヤスは…何のために、あれほどの犠牲を?」
「彼は直接言わなかったけど…いつも“神になる”と口にしていたわ」
「神、ね…」
ゼロは、乾いた皮肉混じりの息を漏らす。
「人間の願望ってのは、ほんと奇妙だな」
視線が空へ向かう。雲よりも暗い考えが、その瞳の奥を通り抜ける。
「もし、あの“犠牲者”たちからゼンカを吸い取っていたなら…とんでもない量のエネルギーが蓄積されてるはずだ。でもな…それだけじゃ神にはなれない。少なくとも、人間の体では無理だ」
「グアヤス、他に何か言ってなかったか?」
「いいえ…あの人、私には何も共有しなかった」
「神への供物…そういうことだったのか?」
「…そうみたい」
ゼロは舌打ちした。
「ちっ…やな予感しかしないな」
「なにが?」
「間違っててくれりゃいいけど、あいつ…利用されてる気がする」
「利用?」
「エネルギーはグアヤスのためじゃない」
「じゃあ、神々のため?」
「違う。神々には、それを吸収することはできない」
その瞳が一瞬だけ光を放った。
「…扉を開ける気だな」
「扉? どういうこと?」
「詳しくは言えない。でも、多分…“何か”を呼ぼうとしてる。別の世界から」
空気が凍るような、冷たい風が吹き抜けた。
――その頃、遥か遠くでは。
闇に染まる儀式の空間を、エデンがひとりで進んでいた。
放たれるエネルギーに、影たちが震えている。
「ふふ…よく来たな」
グアヤスが歪んだ笑みを浮かべる。
「今回は…震えて動けなくなるなんてことはないのか?」
「…黙れ。ぶっ殺す」
エデンの瞳は燃えていた。
「来てくれてうれしいよ。僕の最後の舞台を…見届けてくれ」
「僕が神になる瞬間を。新世界の…唯一の神に」
地面が揺れる。空気がひび割れる。
儀式陣から解き放たれるエネルギーは、欲望と闇に染まっていた。
「こ…これは…」
エデンの体が、力に圧され動けなくなる。
「これだ…これこそが…神の力だッ!!!」
グアヤスの叫びは、狂気に満ちていた。
その様子を、遠くからゼロが睨みつけていた。
「…やれやれ。やっぱり出番か」
「でも、俺ひとりじゃない。もう…アイツがついてるはずだ」
ゼロが静かに振り返る。
その視線の先にいるキルへ、優しくも確かな声で告げた。
「陛下。少しの間、お別れです。安全な場所までお送りします」
「えっ、あ…はい」
次の瞬間、ゼロの姿は風と共に消えた。
再び現れたのは、避難していた人々のいる仮設キャンプだった。
「陛下…!」
護衛のひとりが駆け寄る。
だがゼロの姿を見るなり、険しい表情に変わる。
「おい、そこの怪しい奴は誰だ!」
「…お前、海賊か何かか?」
ゼロが呆れたように返す。
「陛下を放せ、この野郎!」
シュッ。
ゼロの手が一閃。剣が真っ二つに砕けた。
「おい、ミン。バカ。俺だ」
「…え? オルゼ!? 何その顔!? その貧弱ボディはどこ行った!?」
「演技だよ、バーカ」
「で、なんで陛下と一緒にいる!?」
「長い話になる。いずれ聞かせる。今は頼みがある」
「俺に?」
「ああ、お前にだ。彼女を守れ。誰一人近づけるな」
「っ、了解ですッ!」
風のざわめきが、不安のささやきと混ざり合う。
キルは山頂に立ち尽くしていた。震えていたのは寒さのせいではない。疑いと、重すぎる責任感のせいだった。
彼女を囲む山々は広大だったが、その胸に圧し掛かるものに比べれば、取るに足らない存在だった。
「どうして…私をここに連れてきたの…?」
彼女はゼロを見ずに、か細い声で尋ねた。
「陛下」
ゼロは迷わず、まっすぐに言葉を返す。
「今、この民を導けるのは…あなただけです」
「で、でも…私は、ずっと何も守れなかった。みんな…私を憎んでるはず…」
「かもしれません」
だが、ゼロの声には一切の責めがなかった。
「それでも…取り戻す努力をしてみてはどうですか?」
「…どうやって…?」
「それは…あなた自身で、見つけてください」
感情の張り詰めた静寂が流れた。
すると、避難民の中から、はっきりとした声が響いた。
「陛下…私たちは、命を懸けてあなたをお守りします」
「…え…?」
キルが目を見開く。
「王グアヤスを止めようと、命を懸けて尽くしていたこと…私たちは知っています。
誰も…あなたを責めたりしません」
「な、なんで…そんなことを…?」
「私が…」
別の声が割り込んだ。かつての近衛兵のひとりが、うつむいたまま進み出る。
「私が、みんなに伝えました。…すべてを」
キルは彼の顔をすぐに思い出した。
「あなたは…」
「申し訳ありません…私の過ちのすべてを、命をかけて償う覚悟です」
数秒の沈黙。
だが、キルの足はゆっくりと彼に向かって進み出した。
「立ちなさい、ニウ」
「…え…? 陛下…?」
「あなたが悪いだけじゃない。…私も、同じです」
「王として、命を懸けてでも民を守るべきでした。でも私は…恐れて、黙っていた」
「でも…もう違う。この地に誓います。私は、命をかけて民を守ります」
ニウは震えながらその場に膝をついた。
それにつられるように、民たちも次々と頭を垂れた。
「キル陛下万歳! 万歳!」
キルは何かを言おうとしたが、声が詰まり、唇を噛みしめた。
そのまま、静かに顔を上げ、ゼロを探す。
「ゼロ、あな…」
だが、もうその姿はなかった。
風と共に、音もなく消えていた。
「ありがとう…」
かすれた声が、森に響いた彼の名前を追いかけた。
―――――――――――――――――――
遠く離れた場所で、世界が黒に染まりはじめる。
儀式は、ついにその頂点へと到達していた。
「ここに…!」
叫びかけたグアヤスの声が、突然途切れた。
ドシュッ!!
悪魔の腕が、彼の胸を貫いた。
暗く濃い血が噴き出し、儀式陣に亀裂が走る。
音にならない悲鳴が、空間を引き裂いた。
「な、なに…?」
グアヤスが言葉にならない呻きを漏らす。
中央から現れたのは、醜悪な姿をした存在。
赤く光る眼。黄金の鎧に包まれたねじれた体。
宝石のような装飾は、まるで囁いているかのように微かに震えていた。
肉体に収まらぬように伸びるその身体は、存在そのものが拒絶されているようだった。
「なあ…欲しいか?」
低く、皮肉たっぷりに囁く。
「莫大な富が…」
一瞬でその姿はエデンの前に現れた。
鋭く尖った指が、彼の額に向かって突き出される。
「チッ!」
刹那、ゼロの剣がそれを阻んだ。風のように現れ、斬り裂く。
「面白いなぁ…」
悪魔は笑いながら吹き飛ばされる。
壁に激突するゼロ。
衝撃に空気が震えた。
「動けなかった…」
エデンは呟く。
圧倒的な力の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。
その間、グアヤスは血を押さえ、地面に膝をついていた。
「こんなはずじゃ…こんな結果のために、俺は…」
「違う、俺は…神になるはずだった…! すべてを捨てて…すべてを超えて…! 今度こそ…!」
彼の視線は、過去へと沈んでいく。
空が叫び、地が唸る。
そして記憶の奥底に、壊れた約束が痛みとなって甦る――
*回想:グアヤスの若き日*
山々に囲まれた素朴な村。
そこでは、人々は一日の労働にだけ価値を見出していた。
その中で、土の匂いのする広場。
父の厳しい眼差しのもと、ひとりの少年が剣を振るっていた。
グアヤス(語り)
運命ってのは、最初から決まってるもんじゃない。
兄は選ばれし者。
部族の誇り。跡取り。
俺は…ただの“もう一人”。
でも、“もう一人”にも飢えはある。
…もっと強くなりたいっていう、飢えが。
若きグアヤスが、修練中に他の少年を打ち倒す姿。
その顔には誇りと空虚が交錯していた。
夜。焚き火の前で父・クナクと語らう。
「お前、本当に行くつもりか?」
「うん。父さん。俺はもっと強くなりたい。
この地を越えて、力をつけて…いつか、この村を守りたい」
クナクは石で作られた小さなお守りを手渡す。
「ならば行け、グアヤス。
我らは、お前が帰る日を待っている」
夜明け。少年は山を越えて旅立つ。
その瞳は、ただ真っ直ぐ前を見ていた。
グアヤス(語り)
俺は誓った。
力を得て、知恵を得て――帰ると。
だが、この世界は…
夢を見る者には、あまりにも残酷だった。
――次々と流れる映像。
古文書、契約、闇の神々の囁き、血と犠牲、
そして――鏡の中で笑う、もはや自分ではない顔。
グアヤス(語り)
ハナン・パチャ。インカの神々が住まうとされる地。
伝説だと思っていた。
でも――それは差し出せば、得られるものだった。
…すべてを差し出せば。
最後の光景。
大人になったグアヤスがサンタイの王冠を戴き、祭壇の前に立つ。
その手は震えていた。
だが、それは恐怖ではなかった。
自分がここまで来るために…何を犠牲にしたかを、知っていたからだ。
グアヤス(語り)
力を求めて、遠くまで来すぎると…
最初に守りたかったものを、見失ってしまうことがある。
時には――
なぜ歩き出したのかすら、忘れてしまう。