時には、戦いの終わりや山の頂上に力は見つからないこともあります。
時には、真の力は放棄の中に生まれる。
過去、癒されていない傷、痛みから生まれた誓いを放棄してください。
グアヤスは最初から英雄だったわけではない。
彼は地図も持たず、確信もなく、ただ「他者」であることをやめ、注目されたいという欲求に突き動かされて歩いた子供だった。
しかし、運命は神々と同様、嘆願に応じてくれない。
運命の試練。運命が始まる。
そして、それに挑戦する者は誰でも、自分の一部を捨てる覚悟を持たなければなりません。
今日、その失われた部分が戦士の姿となって形を取り始めている。
神からではない。殉教者ではない。
しかし、結局のところ、彼は破壊したものでなく、愛したもので記憶に残りたいと望んでいる男なのだ。
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森は終わりがないように感じられた。
霧に濡れた葉が、グアヤスの足元で静かに音を立てる。
その一歩一歩が、彼の中にある誓い――
「強くなる」という決意への、無言の票のようだった。
「長い旅になりそうだな…」
低く垂れた枝をかいくぐりながら、彼は心の中で呟く。
「でも…強くなるためなら、命だって惜しくない」
遠くで雷鳴が轟いた。
空を覆う雲は重く、今にも崩れ落ちそうだった。
グアヤスは足を速め、雨を避けようと木々の間を駆け抜ける。
やがて、蔦と苔に覆われた洞窟の入口を見つけた。
「…ここでいいな」
即席の荷から松明を取り出し、火を灯す。
揺れる炎が、洞の奥を照らす。
「…ん?」
そこにいたのは、熊の家族だった。
母熊が威嚇の唸り声を上げ、グアヤスに飛びかかろうとする。
だが彼は目を逸らさず、腕でその一撃を受け止めた。
その瞳には恐怖ではなく――尊敬の色が宿っていた。
「…お前が母親か。安心していい。害を加えるつもりはない」
母熊はなおも唸りを続ける。
しかし、グアヤスは静かに武器を地面に置いた。
そして、マントの内側から小さな木製の笛を取り出し――
目を閉じ、ゆっくりと吹き始めた。
その旋律は木々の囁きのように穏やかで、空気に温もりをもたらす。
次第に子熊たちは身体を丸め、母熊も警戒を緩めた。
「な? 俺の目的は、あんたらを傷つけることじゃない。
ただ…生き延びたいだけなんだ」
思いがけず、母熊はわずかに頭を下げた。
言葉を超えた理解が、そこにはあった。
だが、その静寂を破る足音が響く。
「ほうほう…」
洞窟の入口から、低く落ち着いた声が聞こえた。
「動物を手懐けるのが上手いんだな」
グアヤスが素早く振り向く。目は鋭く警戒に満ちていた。
「誰だ」
男は両手を挙げ、敵意のないことを示す。
「そんな顔しないでくれよ。殺されそうな気分になるな」
「今の俺の気分は、まさにそれだ」
男はため息をついた。
「俺の名はアタワルパ。ただ、嵐から逃れる場所を探してただけだ」
その名が、稲妻のようにグアヤスの胸を打つ。
「ア、アタワルパ!? あのアタワルパ!?」
「まあ…たぶん、そうだな」
グアヤスは反射的に深く頭を下げる。
「あなたは…俺の憧れです、先生…!」
「…ん?」
アタワルパは目を瞬かせる。
「伝説のインカ戦士…一人で千人を打ち倒した男。無敵のアタワルパ…!」
「聞いていいか? こんなところで、あんたは一体何を?」
アタワルパの表情が固くなる。
「長い話になるが…俺は“インカの神々の地”を探してる」
「…あなたが? どうして?」
その瞳に、深い影が差す。
「娘を…奴らに奪われた。
…復讐のためだ」
グアヤスは黙って視線を落とす。
「すみません…」
「で、お前は? こんな森に、一人で?」
「強くなりたいんです。
いつか、民の誇りになれるように」
アタワルパの口元が、わずかにほころんだ。
「立派な志だな、若者。
…お前なら、きっと成し遂げられる」
「ありがとうございます、先生…!」
「飯でも食うか?」
「は、はい…!」
「お前らもな、熊たち。腹減ってんだろ?」
その夜、彼らは火を囲みながら、
パンと干し肉を分け合い、静かな風と共に眠りについた。
翌朝、朝日が木々の隙間から差し込む頃――
二人は、それぞれの旅路へ出発しようとしていた。
「じゃあな。また会えるといいな」
「…待ってください!」
「ん? どうした?」
「…俺も、連れて行ってください。
ハナン・パチャに」
アタワルパの目が細くなる。
「…あそこは危険だ。
命を落とすかもしれん」
「構いません。
神と戦うくらいの覚悟がなければ、強くなんてなれない」
その言葉に、アタワルパは笑った。
「…いいだろう。ついて来い。ただし、泣き言はなしだぞ」
「絶対に…失望させません!」
こうして、二人は未知なる道へと旅立った。
深い森を抜け、隠された谷を越え、
鋭い風が吹き荒ぶ山々を登っていく。
やがて、冬が牙を剥く。
空腹と疲労が彼らの身体を蝕んでいった。
アタワルパの視界は霞み、足取りも重くなる。
「…くそっ。もう何日、食ってない…?
眠ってない…? この山、どこまで続いてる…?」
「おい、若造…ついてきてるか?」
…返事がない。
グアヤスは、雪の中で倒れていた。
「…クソッ!」
迷わずロープで彼を縛り、自分の背に担ぎ上げる。
雪嵐が顔を叩き、視界が真っ白に閉ざされる。
だが、その先に…かすかな光が見えた。
「誰か…!助けてくれ!」
足が崩れ、雪に膝をつく。
「キル! 熱いものを用意してくれ!」
「はい、お父さま!」
木造の小屋の中から、少女の声が響いた。
暖かな炎の光が、石と木でできた小屋の壁を優しく照らしていた。
空気には重たい静寂が満ちていて、時折聞こえる薪のはぜる音だけがそれを破っていた。
アタワルパは、ぼんやりと目を開けた。
重たい毛布が身体を包み、鼻先には温かいスープの香りが漂っていた。
「ようやく目が覚めたようだな」
穏やかで落ち着いた声が耳に届いた。
目の前にいたのは、白髪混じりの髭をたくわえた老人。
疲れた目に、優しい笑みを浮かべていた。
「…ここは…?」
「ようこそ、私の小さな小屋へ。嵐の中、よくここまで辿り着いたものだ」
アタワルパはゆっくりと上体を起こす。
「…あの子は? 若者は…無事か?」
「冒険者のことか。ああ、君のおかげで助かったよ。もし間に合わなければ…手遅れだっただろうな」
アタワルパは目を閉じた。安堵が心を満たすと同時に、重い罪悪感が胸を締めつけた。
「違う…あんたたちがいなければ、彼は…俺のせいで死んでいた」
老人は首をかしげた。
「…腹が減ってるようだな。キル、温かい物を持ってきてくれ」
「はい、お父さま」
別室から、少女の声が返ってきた。
アタワルパは声の主に目を向けた。
先ほど自分を看病してくれた少女だった。
その微笑みの奥には、長い苦難の末に身に着けた静かな強さが宿っていた。
再び視線を老人に戻す。
「ひとつ…聞いても?」
「なんだ?」
「なぜ、こんな場所に小屋を?」
老人の目が薪の炎へと向けられる。
そのまま、静かにため息をついた。
「…昔、村を捨てて逃げたんだ。巨大な奴らに襲われて、何もかもを失ってな」
アタワルパの眉がわずかに動く。
「…あいつら、お前たちの地にも?」
「そうだ。だが…お前も知っているだろう? あの怪物たちを」
「…ああ。いまだに何とか食い止めてはいるが、あいつらは止まらない。あまりにも盲目的で、従順すぎる」
老人はゆっくりとうなずいた。
「従順、だが…何かに従ってるんだ。何者かに」
アタワルパの歯が軋んだ。怒りが胸を灼く。
「…奴らは、あの神々に遣わされた。…一体、何を望んでやがる…?」
その時、キルが姿を現し、湯気の立つ器をそっと差し出した。
「…どうぞ」
「…ありがとう」
老人が問いかける。
「こんな山奥まで、何の目的で?」
「…ハナン・パチャを探している」
老人の手が止まり、一瞬呼吸が止まった。
「…ハナン・パチャ? 神の地…?」
「そうだ」
老人の表情が変わる。目を伏せたまま、低く語る。
「やめておけ。あそこに近づくな。決して戻れなくなるぞ」
アタワルパは静かに尋ねる。
「…知っているのか? 場所を」
「…ああ」
「じゃあ――」
だがその先は言えなかった。
老人の顔が恐怖に歪んでいたからだ。迷いではない。本物の、根源的な恐怖だった。
「…すまんな。
でも、あそこは天国じゃない。…地獄だ」
その声には、偽れない重さがあった。
「昔な…俺も遠征を率いたんだ。数百の兵を連れて、神の加護を求めてな。
だが…奴らは言ったんだ。“生き残った者には力と富を与える”と」
アタワルパの脳裏に、兵士たちが野獣のように殺し合う幻影がよぎる。
「仲間同士で殺し合いが始まった。誰一人残らなかった…
…俺だけが…生き残ってしまったんだ」
声が震え、嗚咽に変わる。
その肩に、そっと手が置かれる。
グアヤスだった。今まで黙って座っていたが、目は強く、まっすぐだった。
「…その無念、必ず晴らします。
あんたのために…そして、命を落とした仲間たちのために」
老人は目を見開いた。
「…神を殺す…か?」
「悪くない響きだろ?」
グアヤスが口元を歪めて笑う。
アタワルパが振り向いた。
「若者…もう大丈夫なのか?」
「…ええ。前より、ずっと」
「…それなら、よかった」
老人が咳払いをして言う。
「そういえば…名前をまだ聞いてなかったな。君たち、名は?」
「俺は…アタワルパ」
「グアヤスだよ」
「言ってなかったっけ?」
「…いや、初耳だ」
「そうか」
「俺の名はパチ。よろしく頼む」
「ここでゆっくりしていけ。身体を休めなきゃな」
「ありがとうございます。でも、元気になったらすぐ出発します」
「…やれやれ、若いってのはすごいな」
「まったくだ」
アタワルパも微笑んだ。
グアヤスは一瞬、視線を落とす。
「…父さん。俺は、あと少しで…叶えるよ。絶対に」
夜が訪れた。
アタワルパは外に寝そべり、星を見つめていた。
「すぐ出発するつもりだったみたいだけど…どうやら理由ができたようだな」
「まあ、無理もない。あの気持ちは…強いからな」
小屋の中では、グアヤスとキルが食事をしながら、笑い合っていた。
言葉は少なくても、目は確かに通じ合っていた。
それを遠くから見つめるアタワルパの顔には、微かな優しさと…そして静かな諦めがあった。
「…もうすぐ出発するべきだろうけど…
あいつの人生に踏み込むわけにはいかない。
…死ぬ覚悟の旅に連れていくには、まだ…早すぎる」
そう呟いて、空を最後に一瞥すると――
アタワルパは闇の中に溶けて消えた。
「…グアヤス? どうかしたの?」
キルが気づいて尋ねた。
グアヤスは少しの間だけ黙り、そして微笑んだ。
「…いや、なんでもないよ」
――遠く、火を噴く火山の山頂。
そこに、ひとりの男の影が立っていた。
アタワルパが、深紅の空を見上げながら、呟く。
「…ずいぶんな所に隠れてやがるな…
クソッたれな神どもめ――」
火山の炎は、古の獣の咆哮のように唸っていた。
地面を焼き尽くすような熱が全身を襲う中、アタワルパは一歩も退かず、
燃え盛る深淵を見下ろしていた。
「…誰もここを見つけられないのも、当然だな」
「そりゃそうだ。好き好んで噴火中の火山に飛び込むバカなんて、そういない」
口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「…でも俺は、そのバカだ。てめぇらとは違うんだよ」
「どこへ行くつもりだ?」
背後から声が飛んだ。
アタワルパが振り返ると、煙と黒い岩の中に――
そこにはグアヤスの姿があった。
「…お前…なんでここに?」
「悪いな。仲間を見捨てる趣味はなくてな」
「命を救ってくれた相手を、ましてや一人にはできない」
「…帰れ」
アタワルパの声は、厳しく突き放すものだった。
「ここは危険すぎる。入れば、お前は――死ぬぞ」
「…何様のつもりだ。俺の親か?」
アタワルパは言葉に詰まる。
「…俺には、もう戻る場所なんてない。
すべてを失った。ここで死んでも…どうでもいい」
だがグアヤスの瞳がそれを遮る。
「バカか、お前」
「…は?」
「俺は、お前をここで死なせる気なんてねぇよ。
一緒に帰るんだよ、バカ野郎!」
その言葉に、火山の咆哮さえ一瞬だけ止まったかのように感じられた。
そして、アタワルパの顔に微かな誇らしげな笑みが戻った。
「…グアヤス…」
「さあ、神共の尻でも蹴りに行こうぜ」
「…ああ!」
ふたりは、業火に飛び込んだ。
炎が彼らを包み込んだ瞬間――それは焼き尽くす熱ではなく、
彼らを別の世界へと導く“門”だった。
―――――――――――――――――――
落ちていった先は、溶岩でも灰でもなかった。
光に包まれた金色の草原。
永遠の午後のような空気が漂う世界。
「生きてる…?」
グアヤスが、荒く息を吐く。
「…ああ、どうやらな」
アタワルパも目を見開き、周囲を見渡した。
広がる丘、輝く湖、雪に覆われた遠い山々。
そして空気は…永遠の香りがした。
「ここは…どこなんだ?」
アタワルパが静かに言う。
「――ようこそ、ハナン・パチャへ。
インカの神々の王国だ」
グアヤスは息を飲んだ。
「…なんて場所だ…美しすぎる…」
「気を抜くな」
アタワルパの目が鋭く光る。
「な、何が?」
「…俺たちが来たこと、もう知られてる。
見られてるぞ」
そして――彼らは見た。
森の奥、湖のほとり、空の高みから。
巨大な鳥、幻のような猫、光る角を持つ鹿たち。
…そして、動く木々。
「…なぁ、アタワルパ」
グアヤスが目だけで指し示す。
「…なんだ」
「…木が歩いてるぞ」
確かに。根を這わせ、歩く樹――エントたちが近づいてくる。
「それが普通に見えるかよ」
アタワルパが苦笑交じりに言う。
エントたちはふたりを取り囲んでいく。
そのうちの一本が枝を伸ばし、グアヤスを捕えた。
「うおっ!? 離せよ!」
「くそが…!」
アタワルパが剣を抜き、一瞬で枝を斬り落とす。
グアヤスを解放するも、さらに多くのエントが円を描いて包囲してきた。
「待てッ!!」
その瞬間、すべてのエントが動きを止めた。
若い男が現れる。
銅色の肌、鋭い目をした青年。
死を恐れぬ者の歩き方だった。
「何者だ…」
アタワルパが唾を吐くように言う。
「せっかくだ、ボスのところに連れていこう。ここまで来た者は珍しい」
「黙れ。テメェみたいなクズと話す気はねぇ」
だが、男は言葉では応えなかった。
代わりに――
一瞬でアタワルパの右腕が空を舞った。
「…あ…っ!?」
グアヤスが凍りつく。
「愚かな人間め」
青年が冷たく言い捨てる。
「誰に向かって口を利いている?」
アタワルパは膝をつき、血を抑えながら顔を歪めた。
「…くだらん…こんなことで…」
だが、そこに――静かに手を置く者がいた。
「…何をしているんだ?」
男の肩に手を置いたのは、パチだった。
「お前か…!」
アタワルパが目を見開く。
「やめろ!来るな!」
「なぜ…なぜ落ち着いていられるんだ…?」
グアヤスが震えながら呟く。
老人は頭をかき、少しだけ気まずそうに笑った。
「そうだなぁ…そういえば、ちゃんと名乗ってなかったな」
そのまま――声の調子すら変えずに。
「…俺の名はインティ。
インカの神々の王だ」
世界が、止まった。
―――――――――――――――――――
「は…? 何言ってんだよ…頭打ったのか?」
グアヤスが呆然と声を漏らす。
「…キルは…どうなるんだ…?」
「キルか。ああ、あの子か」
インティは穏やかに答える。
「娘として扱ってるが…実際のところ、俺が何者かは知らない。
だから安心しろ。あの子はあの子のままだ。お前も、まだ彼女と幸せになれる」
アタワルパの目が怒りに震える。
「…何のつもりだ…?」
「俺? うーん…気まぐれ、ってところかな」
「ふざけるな…! 本当の目的はなんだ!」
「知りたい? なら教えてやるよ」
インティの目が細くなる。
「お前には…興味があったんだ、アタワルパ。
兵に欲しかった。俺の側に立てば、命は助けてやる」
「兵だと…? くだらねぇ…」
アタワルパが血を吐くように吐き捨てる。
「俺は…貴様らを…全員、殺す」
「おいおい、そんなに意固地になるなよ。
お前の娘が…それを望むか?」
その一言で、アタワルパの中の何かが崩れた。
あの日、目にした“影”が蘇る。
「…お前か。あの日――」
インティは、にやりと笑う。
「やれやれ、やっぱり賢いな。少なくとも、猿よりはマシだ」
「貴様ぁぁぁぁああああああ!!!!!」
アタワルパは、もう迷わなかった。
古の風のごとく、彼はインティへと突進する。
剣が空を裂き、神を名乗る男の首を狙う。
だが――その一撃は止められた。
指一本で。
「そんなに死に急ぎたいか?」
インティは冷たく囁きながら、微動だにせず攻撃を防いだ。
「今だ、グアヤス! 何をしてる!」
アタワルパが叫ぶ。全身に力を込め、見えざる力の壁に抗う。
だが――応えはなかった。
鋭い拳がアタワルパの腹を打ち抜いた。
その身体は宙を舞い、神聖な岩と砂の上を転がった。
グアヤスの膝が震える。
心臓が、喉元で暴れる。
「…む、無理だ…」
彼はかすかに呟いた。
「助けたい…けど…あいつは格が違いすぎる…」
地に伏せたまま、アタワルパが彼を見つめる。
その瞳には…失望が宿っていた。
「さっきのお前の言葉は…全部、嘘だったのか?」
グアヤスは唾を飲み込んだ。喉が焼けるほど痛かった。
それは炎のせいではなく、恥だった。
アタワルパは視線を外した。
「…責めはしない。お前には…お前の理由があるだろう」
その時だった。
彼の身体が、光に包まれた。
怒り、苦しみ、哀しみ、愛――
すべてが凝縮されたような、重く古いエネルギーがほとばしる。
「ほう…」
インティが、面白そうに口元を歪める。
「やはり、お前は面白い」
「だからこそ…!」
アタワルパが立ち上がる。
「俺は、命を懸けて――彼を守る!」
空気が裂ける。
ふたりの身体が衝突する。
剣と掌。
轟音と衝撃。
一歩一歩が地を揺らし、一閃一閃が嵐を起こす。
それは、破壊の舞。
グアヤスは、ただ立ち尽くす。
拳を握る。何もできずに。
「…ごめん…」
アタワルパの動きが鈍くなる。
全身から血が噴き出し、呼吸は荒くなる。
だが、瞳だけは――燃えていた。
「バカ…謝るなよ…」
「俺だって、昔は怖かった…でもお前が…俺に、やり直すチャンスをくれた。
だから…生きろ。…生き続けてくれ…!」
「…愚か者だな」
インティが呟く。
一閃。
鋭く、正確で、致命的な一撃。
アタワルパの胸を斬り裂き、彼は血を撒きながら膝をつく。
「アタワルパ!」
グアヤスが叫び、駆け寄る。
「…俺、ちゃんと戦えたか?」
かすれた声で、アタワルパが問う。
「バカなこと言うなよ…一緒に帰るんだ…」
「…お前は、生きろ…俺のようになるな…」
「…黙れ。絶対にお前を助ける。必ずだ。
そして――俺の結婚式に招待するんだ!」
アタワルパが、うっすらと笑う。
「結婚するのか…? キルと…?」
「ああ」
「そっか…おめでとう、友よ。
…俺は…行けそうにないけどな…」
「アタワルパ…!」
「…いい別れだな」
インティが無感情に言い放つ。
「黙れ…」
グアヤスが歯を食いしばり、血に濡れた友を抱きしめる。
血は止まらない。
アタワルパの目が閉じられようとしていた。
「今…何を話してたんだっけ…」
その意識が、闇に沈みかけていた。
インティが一歩、近づいた。
「愚かだったな。俺の申し出を断るとは。
すべてが…無駄だ」
「待て」
グアヤスの声が響いた。
インティの足が止まる。
「…ほう? 何だ?」
「…交渉がしたい」
「…面白いな」
―――――――――――――――――――
時が経ち――
鳥のさえずる、どこか別の地。
アタワルパがゆっくりと目を開ける。
「…グアヤス…?」
「…よかった」
隣で、安堵の息が漏れる。
「…ここは…?」
「…調子はどうだ?」
アタワルパはゆっくりと上体を起こす。
「…胸の傷は…? それに…俺の腕が…ある…?」
グアヤスは目を逸らす。
「…ここを出よう。もう安全じゃない」
「…質問に答えてくれ」
「…お願いだ。
…これ以上…何も聞かないでくれ…」
アタワルパは彼を見つめる。
「…グアヤス…」
だが、彼の声はもう返らなかった。
風が、誰のものでもない嘆きを運んでいた。
――その頃。
グアヤスの故郷は、地獄の業火に焼かれていた。
顔を持たぬ怪物たちが、家々を破壊し、
人々を、希望を、未来を喰い尽くしていた。
何も残らなかった。
ただ――罪の意識だけが、そこに残された。