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第72章:私たちを区別するもの

時々、人々を分けるのは権力や知識ではなく、誰も見ていないときに下す小さな決断です。


血の栄光を求める者もいれば、自らの罪から逃げる者もいるが、脆弱な状態でも留まることを決意する者もいる。力によってではなく、運命によってでもない。彼らがそうするのは、恐怖に襲われたときに一歩も退くことができないように心のどこかで何かが妨げているからです。


怪物が泣き、英雄が血を流すこの地で本当に重要なのは、誰が勝つかではなく、誰が降伏を拒否するかだ。


そして、そうした沈黙の行為、混沌の中の決意に満ちた視線の中にこそ、私たちが他と異なる点を見出すことがあるのです。


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船内は濃密な闇に包まれていた。


乾いた血と腐った木材の臭いが混ざり合い、空気は重く沈んでいた。


足音の反響は、切断された死体の残骸、砕けた武器、ひび割れた壁の間に吸い込まれていく。


ここで起きたのは、明らかに人間の仕業ではなかった。




「まるで地獄ね……」


ジュアンヌが槍の先で骨片を避けながら呟いた。


「いったい何があったのかしら」




「どう見ても、生き残った者はいないようだ」


アレスが警戒した目で周囲を見回しながら答えた。




「おい、将軍。ここに一人いるぞ」


奥の通路からヨサが声をかけた。




「何?」




ヨサはいつもの乱暴な手つきで、ひとりの海賊を引きずってきてアレスの前に放り投げた。


その男は全身を震わせ、目を見開き、意味不明な言葉を呟いていた。




「地下の牢にいた。隠れてたんじゃなくて……怯えで動けなかったんだろ」




アレスは男の首元に目をやり、眉をひそめた。


そこには黒ひげ海賊団の印が刻まれていた。




「お前は誰だ。ここで何があった?」




男の口は動いているが、声はほとんど聞こえなかった。




「なあ、ボスが質問してるんだ。答えなきゃ舌を引っこ抜かれるぞ」


ヨサが低く唸った。




「で、でも……」




「殺したりしない」


ジュアンヌが声を和らげて間に入る。


「教えて。仲間たちはどうなったの? なぜ一人で生き残ってるの?」




男は視線を床に落とし、肩を震わせる。


やがて、恐怖に染まった目を見開き、震える声で言った。




「に、逃げろ……」




アレスが眉を寄せた。


「逃げろ? 俺たちを脅してるつもりか?」




「早くッ……!」


突如、男の身体が痙攣を起こす。




白い泡が口から溢れ、筋肉が異常に膨張し始める。まるで何かが内部から身体を突き破ろうとしているかのように。




「ボス、これはヤバい気がするぞ……」


ヨサが呟いた、その時。




骨を砕くような音が鳴り響く。


巨大な腕が、男の喉から内側を突き破って現れた。


その腕は振り上げられ、ヨサを遥か後方へと吹き飛ばす。




「なんてこった……!」


アレスが身を引きながら槍を構える。




ジュアンヌも顔をしかめながら一歩後退した。


「アレス……どうやら全員死んだわけじゃないみたい」




「……何を言ってる?」




そのとき、彼らは見た。


船の割れた窓の外、海岸に無数の影が現れ始めた。


数十体、いや、数百体の異形が波打ち際を埋め尽くしていく。




それらはもう人ではなかった。


肉塊が融合し、再構築された、異形の生き物たち。


皮膚でできた蜘蛛、人面の狼、全身に目と口が生えた這いずる塊……




「クソッ……」


アレスが奥歯を噛みしめる。


「これは長丁場になりそうだな」




その中でもひときわ気味の悪い一体が、船へと這い寄ってきた。


その顔は、さきほどの男とまったく同じだった。




「……最低」


ジュアンヌが武器を強く握りしめた。




少し離れた森の中、エデンは肩で息をしながら前を見据える。


額には汗が滲み、身体中に傷が走っていた。


その隣では、タイレシアスが次々と怪物を打ち倒していた。


彼の杖がうなるたびに、敵が吹き飛んでいく。




バカみたいだ……


俺一人じゃ一体倒すのがやっとなのに、あのジジイは全部片づけてやがる……


俺は……足手まといじゃないか。




「どうした? 自信でも失くしたか?」


タイレシアスが横目で言った。




「……俺は……」




その時、山の方角で轟音が響いた。


何かが激しく岩に叩きつけられ、砂埃が舞い上がる。




「今の……なんだ?」


エデンが目を見開く。




「いってぇ……」


埃の中から聞こえた声に、エデンは言葉を失った。




そこにいたのは、ボロボロになったヨサだった。


服は破れ、泥まみれのまま、手を振りながら歩いてくる。




「よっ」


彼は苦笑しながら、よろよろと二人の元へ戻ってきた。




「ずいぶん面倒なことになってきたみたいだな」


タイレシアスが楽しげに言う。




「見りゃわかるだろ……」


ヨサが呟くと、次の瞬間にはタイレシアスの杖が彼の頭にクリーンヒットした。




「いてえな……なんで殴るんだよ」


頭をさすりながらヨサが文句を言う。




「三人だったはずだろ……?」


「あとの話は後だ。今は手を貸せ」




彼らの前には、次々と化け物たちが現れる。


そのすべてが、人間の苦悶に歪んだ顔をした肉の怪物だった。




「ジジイ、ちゃんと見てろよ」


ヨサが笑いながら言った。


「今日こそ、お前を超えてみせる」




「ふふ……百年早いわ、坊主」


タイレシアスが愉快そうに返す。




「今に見てろよ!」




次の瞬間、ヨサの身体が炎に包まれた。


熱気が空気を震わせる中、剣が現れ、灼熱の火に包まれていく。




「う、うそだろ……?」


エデンが目を見張る。




「驚いたか?」


タイレシアスがニヤリと笑った。




「……ああ」




ヨサは一言も発せず、燃え盛る剣を握り、怪物の群れへと飛び込んでいった。




ヨサの剣が怒れる火花のように化け物たちの間を舞った。


その一閃ごとに、異形の肉体が聖なる炎に包まれ、絶叫を上げながら燃え尽きていく。


その声は、もはや人のものではなかった。




次々と敵が倒れ、灰となって崩れる中、ヨサは一度だけ動きを止めた。


額から汗が滴り、顔は煤と血で黒ずんでいた。


彼は深く息をつき、剣を静かに鞘へと収める。




後ろでそれを見ていたエデンが、思わず呟く。




「……すげぇ……」




「いや……」


タイレシアスが重い声で否定した。




その瞬間、ヨサの身体がぐらりと揺れた。


口から鮮血が勢いよく噴き出し、足元に赤い染みを作る。




「今のは……何だ?」


エデンが慌てて駆け寄る。




「限界を超えたのだ」


タイレシアスは弟子から目を逸らさずに言った。


「才能はあるが、まだ肉体がついてきていない」




またかよ……


ヨサは腹を押さえ、内心で毒づいた。


足が思うように動かない。




その背後で、影が蠢いた。


皮膚を剥がされた狼のような化け物が、全身に人間の目を宿し、彼に襲いかかる。




「……動けねぇ……」


ヨサが絶望に満ちた声で呟いた。




だが、動く必要はなかった。


一閃。


タイレシアスの杖が化け物の頭蓋を粉砕し、肉片をまき散らした。




「なかなかだな」


老人がわずかに微笑む。




ヨサはよろめきながら顔を上げた。


「……いつか、アンタより強くなってやるよ、ジジイ」




「夢は大きくな」


タイレシアスがくすりと笑う。




彼はエデンの方へ向き直った。




「さっさと終わらせるぞ。戦いが始まるのも、もうすぐだ」




エデンは無言で頷いた。


その手に握られた剣には、地面と同じ脈動を持つ闇の気が纏っていた。









その頃、海岸ではジュアンヌとアレスが腐乱した死体の山を越えていた。


乾いた血がブーツにこびりつき、顔には土と汗が浮かんでいた。




「……終わったようだな」


アレスが槍を地面につきながら呟いた。




「……予想以上に手強かったわ」


ジュアンヌが息を整えながら答える。




その時、音がした。


――泣き声。


歪んだ嗚咽が、肉の残骸の中から響いた。




アレスがゆっくりと顔を向けると、ひとつの変異体がまだ息をしていた。


その身体は震え、粘液を撒き散らしながら地面を這っていた。




ジュアンヌは喉を鳴らした。




「……もう十分よ。せめて楽にしてあげましょう」




アレスは返事をせず、虚ろな目でその化け物に歩み寄った。


槍を持ち上げたその瞬間、異形が人のような声で囁いた。




「た、たす……けて……」




その声に一瞬も揺らぐことなく、アレスは無言で槍を突き立てた。


化け物は動かなくなった。









「向こうも片付いたようだな」


タイレシアスが海岸に姿を現しながら言った。




「ヨサ、大丈夫か? 顔色が悪い」


ジュアンヌが心配そうに尋ねる。




「大したことじゃねぇ……」


ヨサは目を逸らしながら答えた。




タイレシアスが首を振る。




「……いや。限界を越えただけだ」




その時、アレスが振り返る。


血にまみれ、息を切らしたエデンが歩いてくるのが見えた。




「生きてたか、ヨミ」




「……まぁ、なんとか」









突然、山が揺れた。


地響きとともに、島全体を震わせる咆哮が轟いた。




「タイレシアス、ジュアンヌ、それとバカ」


アレスが真剣な声で言い放つ。


「船へ戻れ。俺は残って本物のバカとアレクスボルドを待つ」




「はあ!? ふざけんなよ、もっと暴れたかったのに!」


ヨサが文句を言う。




「黙れ。まともに動けないくせに」


ジュアンヌが一蹴する。




「剣を使えるようになってから言え」


タイレシアスが容赦なく刺すように言った。




「うるせぇ、ジジイ」




すると、エデンが一歩前に出た。




「アレス……」




「なんだ?」




「……俺も残りたい」




「聞こえなかったのか? お前は戻れと言ったはずだ」




「お願いだ……」




アレスは目を細め、彼を睨んだ。




「本気で、自分が何かできると思ってるのか? 傷だらけで戻ってきたお前を見れば、誰が戦ったかは明らかだろう」




「……その通りだ。けど、それでも残る」




「ふざけるな……」




「大切な人が危険に晒されているのを、黙って見てるなんてできないんだ」


エデンが叫ぶように言った。


「殺したければ殺せ。でも俺は、お前とは違う。俺は守る。――大切な人を」




アレスは無言で彼の首を掴み、持ち上げた。


だが、エデンの目は微動だにせず、まっすぐにアレスを見据えていた。




「……殺せよ」




「アレス、やめておけ」


タイレシアスが静かに言った。




アレスはエデンを手放し、そのまま無言で背を向けた。




「邪魔だけはするな」









他の者たちは船へ向けて歩き出した。


残されたのは、夕焼けに染まる水平線を見つめるアレスとエデンだけ。




「なぜ戻らせなかったの?」


ジュアンヌが振り返りながら問う。




「……シュンに頼まれていた」


タイレシアスが答える。


「どうやら、あの子にしかできないことがあるらしい」




「……でも、あまり強そうに見えないわ」




「目に見えるものだけが真実とは限らないよ、ジュアンヌ」


タイレシアスの言葉に、彼女はしばし黙る。




……あの子に何を期待してるの?


本当に……あの子が何かを変えられるというの?









――数分前。




重い足音が山の奥深くに響いていた。


血と塵にまみれたバルバロッサが、古の紋章が刻まれた回廊を進んでいく。


その目には、強欲の光が宿っていた。




「ついに……たどり着いた……」




彼の視線の先に、黄金の足が石台に休んでいた。




「お前か……深淵の王冠とやらは……」




すると、闇の中から一人の男が現れた。




「ええ、私がそうですよ」


不気味に笑うその男の名は――マモン。




「何を望みますか? 永遠の命? 力? 富? 望むものを言いなさい。叶えて差し上げましょう」




バルバロッサは唾を飲み込んだ。




「お、俺は……」




その時、回廊中に響き渡る軽快な足音。




「やれやれ、間に合ったみたいだな」




シュンが現れた。


その目は戦の炎に燃えていた。




「――で? 誰から殺されたいんだ?」

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