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第73章: 悪魔と契約した男

絶望が魂を捕らえた時、私たちは皆、ある時点で声を聞くと言われています。時々それはかすかで、ほとんど気づかれないこともあります。またある時は、それは聞いてもらうことを要求する本能的な叫びです。誰もがそれに屈するわけではありません…しかし、屈する人もいます。悪意からではなく、貪欲からでもありません。時には、単に他に何も残っていないからです。


知っていた世界が灰燼に帰してしまったら、闇の中へ歩みを進めることを決意した人を、誰が裁けるだろうか?あなたの魂が人生そのものによって裏切られたら、それは反逆罪になるのでしょうか?それは弱さなのか…それとも、彼が立ち続けるために残された唯一の方法なのか?


悪魔との契約は野心からだと信じる者もいる。しかし、最も残酷な真実は、最も危険な契約は欲望からではなく、苦痛から生まれるということです。


そして、失われた愛と純粋な憎しみの間の細い線上で、正義を叫び続ける男がいる...たとえ正義を成し遂げるために全世界を血で染めなければならないとしても。


————————————————————————————————————————————————————————————————


「……シュン……」


マモンの声が、毒に染まった残響のように巨大な洞窟に響き渡った。




シュンは目を逸らさず、ティーチの方へ数歩進み出た。




「ティーチ、なぜ俺をここへ? 何が目的だ?」




黒ひげの表情には怒りも喜びもなかった。


ただ、長年の苦悩にねじれた影が沈んでいた。




「……知らん。帰るがいい」




「こいつと何をするつもりか知らねえが、マモン。俺は黙って見てねえぞ」


シュンの目が鋭く光った。




悪魔はカラカラと乾いた笑いを漏らす。




「人間ごときが、冥府の王子に向かってその口を利くとは……」




返事はなかった。


代わりに、シュンの殺意が刃のように言葉を切り裂いた。




「黙れ、クズ。次に喋ったら、その舌を切り落とす」




マモンは鼻で笑いながら、甘く腐った声でティーチに囁く。




「ティーチ。この男を殺せば、望むものすべてを与えよう……金、名声、力……永遠の命だってな」




「嘘ばかりだな、悪魔め」


シュンはマモンを見もせずに呟いた。


「……ティーチ、何があってもこいつに渡せるものなんてない」




ティーチが彼を見つめる。


その目に、理解も赦しもなかった。


ただ、絶望だけが宿っていた。




「お前にできるのか? 俺の望みを叶えられるのか?」




シュンは黙ったまま、目だけで答えた。




「他に道はない……」


ティーチの声が、一瞬だけ震えた。


「この希望にすがるしかない……俺の……唯一の希望なんだ」




その瞬間、黒ひげの身体を黒く濁った闇が包み込んだ。


まるで叫ぶような、狂気の闇。




「……すまない」


低く、苦しげに呟き――




ドンッ!!




空気を裂くほどの拳がシュンに向かって炸裂した。


その衝撃音が洞窟全体を戦の鼓動のように揺らした。




「終わりだ……」


マモンが満足げに笑った。




だが、次の瞬間――


その目に映ったのは、無傷でその拳を剣で受け止めたシュンの姿だった。




「……本当に、それが望みか?」


彼の声は静かで、しかし圧倒的だった。




黒ひげが歯を食いしばる。




「もう、戻れないんだ……!」




ズドンッ!!




シュンの蹴りが炸裂し、ティーチの身体が岩壁に叩きつけられる。


石が砕ける音が洞窟に響いた。




「じゃあ、俺も手加減はしない」




ドォォォォン……




その瞬間――


島の中心から光が爆発するように広がった。


まるで島の心臓が目覚めたかのように。




「……何だ、あれは!?」


エデンが目を覆いながら叫ぶ。




「本気で……戦ってるのか……? なぜ……?」


アレスの声が震える。




「……人間なのか……?」


タイレシアスが低く呟いた。









その頃、島の反対側。


アレクスボルドが荒い息をつきながら走っていた。




「待ってくれ、シュン……これは……俺の戦いなんだ……!」




一方、瓦礫の中から黒ひげが立ち上がった。


その身体は震えていたが、痛みのせいではなかった。


――中で何かが蠢いている。




「……戻れねぇ。やるしかねぇ……!」




空気が変わった。


聞こえてきたのは、世界の外から響くような悲鳴――


深い悲嘆の叫びが洞窟を満たしていく。




モヤのような闇が空間を覆う中、シュンが口角を上げた。




「ふふ……面白くなってきたな」


「……呪われてるみたいだな」




ティーチが拳を握りしめる。




(何があっても……お前を取り戻す)




「――ハナァァァ!!」




ズドォォォォン!!!




島が裂けた。


一つは光に包まれ、もう一つは嵐と闇に飲まれた。




シュンが剣を構え、静かに立ち上がる。




「来い……ティーチ!!」




その瞬間――


光が砕け、時間が止まった。









回想フラッシュバック




――ポート・ロイヤル。


暖かな風と潮の匂いに包まれた海辺の町。




小さな少年が家の扉を開け、駆け込む。


そのまま女性の腕に飛び込んだ。




「ただいまーっ!」




「おかえり、ティーチ。今日はどうだった? お友達できた?」




ティーチは視線を伏せた。




「……うん……」




「大丈夫よ」


彼女は優しく頭を撫でた。


「あなたは良い子だもの。きっと、すぐにたくさんできるわ」




「……ほんと?」




「ええ! さあ、手を洗って。ご飯できてるわよ」




「うんっ!」









次の場面は教会。


ステンドグラスから光が差し込む中、人々のざわめきと視線が交差する。




「……ママ……」




「どうしたの?」




「なんか……みんなこっち見て、ひそひそしてる……」




母親は微笑んで、目を細めた。




「気にしなくていいの。あなたが可愛いから、きっと見とれてるのよ」




「ママ、やめてよ……」




「どうして? 私の息子は、とっても可愛いんだから」




「ママぁ……」




二人は笑い合い、抱き合った。









場面が切り替わる。


ティーチが屋台の前で立ち尽くしていた。




「どうしたの、ティーチ? パンが食べたいの?」




少年は口元に涎をたらしながら、首を横に振った。




「ううん……だいじょうぶ」




「はい、これ。行っておいで。すぐ戻るのよ?」




「ありがとう、ママ!」




少年がコインを握って走っていく。


母親はその背中を見守りながら、静かに呟く。




「さあ、坊や……何が欲しいの?」




「チョコパン、ひとつください」


ティーチは遠慮がちに微笑みながら言った。




「はいよ、お坊ちゃん」


店主は茶色の紙に包まれたパンを手渡した。




ティーチはすぐにかぶりつき、目を見開いた。


――甘い……!


その瞬間だけ、心の奥に小さな光が灯った。




だが、その甘さは長くは続かなかった。




「見て見て……あの子じゃない?」


通りの向こうで、女たちの囁きが始まった。




「かわいそうにね。父親に捨てられたんだって」




「私は聞いたわよ。母親が男を買ってるって」




「……神父の子どもなんじゃないかって噂もあるわよ」




その言葉はナイフだった。


ひとつずつ、ティーチの首筋に突き刺さっていく。




彼は震える瞳で振り返り、顔を赤らめながら叫んだ。




「ママのことを悪く言うな!」




「まあ、汚い子……親に似るのね。父親がいないから、躾もできないのかしら」




「かわいそうに……毎日違う男が家に入ってくるのを見なきゃいけないなんて」




ティーチの拳が震えたのは、怒りからではなく――愛からだった。




「――ティーチ!」


その場を裂くように、母の声が響いた。




「ママ……」




「早く帰るって言ったでしょ? さあ、行くわよ」




「でも……」




ルシアは女たちに向かって、わずかに頭を下げた。


その礼は、どこか諦めと誇りを混ぜたものだった。




「うちの子がご迷惑をおかけしました」




「気にしないで」


女の一人が、偽善的な笑みを浮かべながら言った。


「主は赦すことを教えてくださいましたから」




「では、失礼します」


ルシアはそれだけ言って、背を向けた。









家に戻ると、しばし沈黙が流れた。




「ママ……ぼく……」




「大丈夫、ティーチ」


ルシアが優しく遮る。


「謝る必要はないわ」




「でも、わからないよ。どうして、みんなママのことを悪く言うの? ママ、何かしたの?」




ルシアはため息をついた。


その瞳には疲れがあったが、誇りだけは消えていなかった。




「何もしてないわ。でもね、昔からそういう人はいるの。だから、強くならなきゃいけないのよ、ティーチ」




彼女はティーチを強く抱きしめた。


その腕には、恐怖も、優しさも、そしてひとつの約束も込められていた。




「ママ……」




「お願い、ティーチ。良い子でいて。家族を大切にして、どんなときも優しい人でいてね」




「うん、約束する」




「あなたは、最高の息子よ……」


ルシアの頬を、一粒の涙が伝った。


それはティーチの額に落ちた。









しばらくして、ティーチはお弁当袋を持って学校へと向かった。


心にはまだ混乱が残っていた。




「いってらっしゃい!」


玄関から、母の声が聞こえた。




だが――




通りを曲がると、数人の男たちが家の前に立っていた。


そのうちの一人が、乱暴にドアを開けて中へ入る。




「な、何の用ですか?」


ルシアは怯まずに訊いた。




「本気で聞いてるのか?」


男はにやりと笑った。


「三ヶ月も“神”への献金を払ってないだろう?」




「……私はそんな契約、した覚えはありません」




その言葉に、男は彼女の首を乱暴に掴んだ。




「俺たちに逆らう気か? 今までは噂だけで済ませてやったんだ。だが次は……もっとひどいことになるぜ。お前の坊やに何かあったら、どうする?」




ルシアの瞳に獣のような光が宿った。




「うちの子に手を出したら、絶対に許さない……!」




彼女は男の腕に爪を突き立て、悲鳴を上げさせた。




怒った男は、ルシアを鏡へ投げつけた。


ガシャン!!


ガラスが砕け、彼女の顔と腕を切り裂いた。




「これが最後の警告だ、ルシア。教団を拒否すれば……次は俺たちじゃない誰かが来る」




「もし坊やに指一本でも触れてみろ……殺してやる!」









数時間後。




玄関の扉がゆっくりと開いた。


ティーチがフラフラと帰ってきた。


体中にアザがあり、制服には泥と血がついていた。




「ティーチ!? どうしたの!?」




ルシアが膝をついて駆け寄る。




「みんな……ママの悪口を言ってた……」




「ティーチ……」




「止めなきゃって思ったんだ……僕が、止めなきゃって……」




彼の記憶の奥底に、焼き付くような光景が蘇る。


――笑いながら殴ってきた子供たち。


その背後にいた、黒い影。




声がした。




『殺せ……殺せばいい……望むものをくれてやる……殺せ……』




「やだっ! やだ! やめて! やめてくれ!」









学校の帰り道、まだ身体が痛む中で、ティーチは空を見上げた。




――煙……?




彼の胸に、恐怖が炸裂する。




「……まさか……」




走った。


これまでにないほど必死に。




そして見た。




自分の家が――燃えていた。




「ママァァァァッ!!」




張り裂けるような叫びが、辺りに響いた。




そこへ、パン屋の店主が近づく。




「……あんた、前に来た子だな」




「中に、ママがいるんです!!」




「違う……さっき警察に連れて行かれたって聞いたぞ……」




「警察……!? ママが!? なんで……!?」




「詳しいことは知らないが……」


パン屋の男は目を合わせようとせず、低く呟いた。


「……どうやら、魔術を使っていたところを見られたらしい。処刑されるってさ……」




「ぼ、僕が……」


ティーチは声を震わせながら言葉を絞り出した。




走り出そうとしたその瞬間、男が彼の腕を掴んだ。




「やめとけ」


男の顔は青ざめていた。


「今行ったら、お前も巻き込まれるかもしれない」




「でも……ママなんだよっ!」




沈黙。




「すまない……」




そのとき――


少年の目に映る世界が、音もなく崩れた。




ダメだ……ママは、ママだけは……!


たとえ命を失っても、僕が助けにいかなきゃ。




ティーチは絶望の中で腕を振り払い、石畳の道を駆け抜けていった。


ポート・ロイヤルの空は灰色に染まり、雨が地を叩くように降り始めた。









広場は満員だった。




無表情な群衆。


正義を叫ぶ無数の口。




そして、その中央には――


ルシア。




柱に縛られ、濡れそぼった姿で、静かに立っていた。




「これが偉大なる神を拒んだ者の末路だ!」


宗教指導者が叫ぶ。


「真理を否定する者は、永遠の炎に焼かれるのだ!」




ルシアはそっと目を閉じた。


――よかった。ティーチが来ていない。




彼女は微笑んだ。


その刹那、火が彼女を包んだ。




そして――ティーチが現れた。




彼の足は止まった。


だが、魂は奈落へと落ちた。




僕たちは、何をしたというの?


本当にそんなに悪かったの?


誰かを殺した?


違う。ただママと一緒に、生きていただけなのに……




――なぜ?


――なぜ、僕たちが罰を受けるの?




炎が唸る。


ルシアが叫ぶ。


群衆が拍手を送る。




その背後に、影が現れる。




『殺せ……』


古く、腐った声が囁く。


『殺してしまえ……』




「黙れっ!!」


ティーチの目が狂気に染まる。


「俺が全部、ぶっ殺してやる!!!」




影が笑った。




雨が降る。


まるで、空が血を流すかのように。









数分後――




広場には、死体。


血。


そして沈黙。




バーバ・ネグロは膝をついていた。


視線は虚ろで、腕には焼け爛れた肉片と黒い煙がまとわりついていた。




彼の隣には――


母の遺体。


焦げて、何も残っていなかった。




それでも彼は、それにすがりついていた。




「……僕、悪い子だったの?」


その声は、人のものとは思えなかった。




パン屋の男は顔を引きつらせ、後退りした。


そして――逃げた。









バーバ・ネグロの意識は、再び記憶へと沈んでいった。




痛み、悲しみ、血にまみれた過去へ。




「僕は……罰を受けるべきだと思った。何度も自殺を試みた。でも……皮肉なことに、死ぬのが怖かった。あんなに望んでいたのに」




彼は立ち上がる。


目的も、希望もなく。




「だから、海へ出た。死を探す旅に。諦めたくなかった。ただ、罰を受ける方法を探してたんだ」




声が震える。




「……そんなとき、ある女性に出会った。救ってくれた。愛してくれた。娘もできて、やっと家族を手に入れたんだ」




記憶が赤く染まる。




「でも、あの神が……また来た」




血だまりの中に、妻の無表情な顔が映る。




「これは……何なんだ……?」




足音が近づく。




影から現れた男が、静かに言った。




「お前がティーチか」




「お前がやったのか……」




「その女、俺たちに協力しようとしなかった。お前のことを思って、死を選んだようだ」




ティーチの目が怒りで燃える。




「二度と……あの人のことを口にするな、クズが!!」




怒りの拳を叩き込もうとした瞬間、男は――一本の指で、それを止めた。




「身の程を知れ」




ティーチは地に伏した。


殴られたわけじゃない。


ただ、その差が絶望的だった。




「こ、これは……?」




「お前と俺の力の差だよ、魔女の息子」




「お前は……誰だ!? 何のためにこんなことを!? なぜだッ!?」




「お前があの事件を起こした時、分かったんだ。特別な血を持っているってな。だが、今となっては用済みだ。だが……お前の娘は、使える」




ティーチの瞳が見開かれる。




「ハナ……」




「彼女なら完璧だ。我々の“実験”にふさわしい。まあ……お前の母親と女房の死も、将来の役に立つってわけだ」




男はにやりと笑った。




ティーチが咆哮する。




その叫びは、空を裂いた。




「ハナァァァァァッ!! テメェ、どこに連れて行きやがったああああ!!!」




だが、男はそのまま立ち去る。


ハナを連れて。




「返せっ!! 返せぇぇぇっ!! この野郎ォォォッ!!!」




その叫びは怒りではなかった。


魂の終焉だった。




そして、彼は見た。




男の首元に刻まれた紋章――




『十二家』。




すべてが――つながった。




全部、自分のせいだ。


全部、彼らに奪われた。




「今度こそ……逃げたりしない。今度こそ……お前たちが、地獄を見る番だ」









後日、新聞にこう報じられた。




《実験失敗。複数の未成年死亡。事件は非公開に。》




死体の山の中に――


ひとつのブレスレットが転がっていた。




「……ハナ……」









二つの墓の前に立つ男。




バーバ・ネグロはもう、ただの男ではなかった。




それは、誓いだった。




「今度こそ……償わせてやる」









現在――




咆哮。


閃光。


悪魔のような憎しみを纏った男が、シュンに襲いかかる。




剣と拳がぶつかるたび、山が軋む。


彼の魂が崩れた日と同じように。




シュンは息を切らしながら、その瞳を見つめた。




「……その目は……もう、何も失うものがない奴の目だ……」




黒髭の手から放たれたのは、濃く、唸るような闇の爆発だった。


そのエネルギーは空気を歪ませながら激しく弾け、まるで世界を壊すような怒りを孕んでいた。




だが、その前に立つのは――シュン。


一歩も動かず、無表情のまま、剣をひと振り。




闇は、灰と化した。




「まだ続けるつもりか?」


シュンの声は低く、静かだった。


「自分でも分かってるはずだろう。俺には勝てないって」




黒髭は荒い息をつきながら、それでも目を逸らさずに立っていた。


膝は震えている。けれど――退かない。




「逃げるつもりはない。もう後がないんだ。すべてを賭けるしかない」




シュンはその言葉に目を細め、静かに剣を持ち上げた。


「望み通りにしてやる。その代わり……覚悟しろ」




「ティーチ!!」




その名が呼ばれた瞬間、空が裂けた。


遥か遠くから、聖なる――それでいて恐ろしいラッパの音が鳴り響いた。




アレスが呻いた。


「ふざけんなよ……」




ヨサはごくりと唾を飲む。


「どうやら、ボスが本気を出すみたいだね……」




ジャンヌ・ダルクは、緊張を隠しきれない笑みを浮かべた。


(よかった……私は味方で)




「……この気配……何だ……?」


エデンが呟いた。背筋を冷たい震えが駆け上がる。




シュンは静かに剣を下ろす。




「さよならだ、ティーチ」




「来い――『天罰カスティゴ・ディビーノ』」




天から――光の柱が降り注いだ。


雲を突き破り、山頂を包み込むように落ちる。


大地が裂け、山が爆ぜた。


轟音。閃光。沈黙。




死の霧の中――


シュンが立っていた。




「……それで、諦めるのか? 本当にそれでいいのか? お前の望みは……そんなものだったのか?」




その視線の先に――立っていたのは、無傷のティーチ。




「な、なんだ今のは……」


ティーチの声が震える。


「完全に……食らったはずなのに……死んでなきゃおかしいのに……」




「……馬鹿が」


シュンは吐き捨てるように言った。


「ただの幻だ。本当の狙いは――」




そのとき、マモンの叫びが空気を裂いた。


片腕を失ったその姿で、狂ったように笑っていた。




「嘘だろ……!」




「邪魔するなって言っただろ、クソ悪魔」


シュンの声は、冷たく平坦だった。


「次は、マジでお前を狙う」




マモンは血まみれの顔で、狂った笑みを浮かべた。




「ハハハハッ!! やるじゃねぇか、人間! 最高だよ! クソッたれぇぇぇッ!!」




その叫びと共に、マモンの体から異様な闇があふれ出す。


空気が震え、島が唸る。




アレスが膝をつく。


「マジかよ……」




ジャンヌとヨサは口から血を吐いた。


エデンもまた、膝をつき、口元から赤い線を垂らす。




「このエネルギーは……!」


エデンの目が見開かれる。




一方、ティレシアスは微笑む。


「久々だな、ここまでの波動は……だが、それ以上の何かが来るぞ」




シュンは静かに溜息をつく。




「……だから言っただろ。邪魔するなって」




彼は首から下げていた鎖を外す。




その瞬間――


太陽のような光が、体中から溢れ出した。




マモンが一歩後ずさる。初めて、その顔に恐れが浮かぶ。




「な、何だそれ……!? それ外したからって、勝てると思ってんのか!?」




「いや……」


シュンの声は、これまでで一番低く、重かった。


「――殺す」




一拍。




そして、世界は光に包まれた。




島全体が白く染まり、海の向こうでは空が裂けた。


神々の議会の者たちが立ち上がる。動揺し、怒り、警戒する。




遠く離れた地――


ヨヘイとゼフが修行を中断する。




「な、何だよこれは……!?」


ヨヘイの体が冷たい汗に濡れる。




「化け物だ……」


ゼフが呟く。


「ポセイドンでさえ敵わねぇ……」




「これは本当に……現実か?」


エデンの声も震えていた。




マモンが後退する。


その視線の先――




見たのは、剣。




「……嘘だろ……そんな……!」




次の瞬間。


もう一本の腕が飛んだ。




マモンの悲鳴が空を割く。




シュンが剣を下ろす。




「つまらないな。もっとやるかと思ったが……ただの雑魚か」




「この野郎ぉぉぉッ!!!」


マモンが巨大な波動を放つ。




だが、それも――


シュンの指パッチン一つで消し飛んだ。




「力も使いこなせていない。弱すぎる。もう飽きた」




彼は歩み寄る。




「……そろそろ、地獄に帰る時間だ」




次の瞬間――


マモンの全身に切り傷が走った。




肉が崩れ、目玉が爆ぜる。




そして、最後に放たれた光球が、すべてを飲み込んだ。




マモンという存在は――


この世から消えた。









ティーチは、ただ黙っていた。


荒い息を吐きながら、信じられない表情で立ち尽くしていた。




「なぜ……俺を殺さなかった……?」




シュンは振り向かずに答える。




「言っただろう。今お前が死ぬのは――もったいない」




そして、彼は振り返った。


真っ直ぐ、ティーチの目を見る。




「教えろ。なぜ俺をここに呼んだ?」




ティーチは視線を落とす。




「……俺の仇を討ってほしかったんだ」




シュンの目が細くなる。




「仇だと? 俺を……殺し屋か何かだとでも?」




「違う……でも……あいつらを、このままにしておけない……。母さんを……妻を……ハナを……殺した連中を……」




「“あいつら”……?」




ティーチは力強く頷いた。


歯を食いしばり、涙を流さず、拳を握る。




「十二家だ」




その瞬間。


世界が――止まった。




シュンの顔に、影が差す。




「……まさか……俺が……」




「――黒髭ッ!!」




怒声が、沈黙を打ち破った。




瓦礫の中から現れたのは、アレックスボールド。


その目は――血のように赤かった。

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