時間は何も消し去らない。
遺跡を新たな思い出の下に隠すだけです。
時々、誰かが言葉にするまで、傷は痛まないことがあります。
そして、犯罪よりも重い名前もあります。
なぜなら、過去にあったものは決して消えることはないからです。
そして、隠されたものは、あなたが最も期待しないときに戻ってきます。
恨みは千年も潜伏することがあります…
しかし、再び燃え上がるまでには数秒しかかかりません。
そして彼がそうするとき…
昨日から安全な現在は存在しません。
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空気が張り詰め、息すら困難になるほどの緊張が場を包んでいた。
暗黒の鎧を纏った巨人──「第六十号指揮官」と呼ばれる存在の前に、アフロディーテとケツァルコアトルが立ちはだかっていた。だが、彼らの間には協調の気配はなかった。視線を交わすたび、神技すら霞むほどの火花が散る。
「無駄な時間はない……」
アフロディーテは思った。
──地平の彼方から、強大な存在の気配が次々と迫ってくる。
「……状況は最悪ね」
「ケツァルコアトル……」
彼女が静かに声をかけた、その瞬間──
「黙れ、貴様の声など聞きたくない」
彼は視線すら向けずに吐き捨てた。
「……馬鹿」
怒りを噛み殺しながら、アフロディーテは眉をひそめた。
「今は感情に流されている場合じゃない。協力しなければ勝ち目はないって、あなたもわかってるはず」
「うるさいっ!」
彼の叫びは獣の咆哮のようだった。
アフロディーテは目を細める。
「……このままだと、負けるわよ」
次の瞬間、羽を持つ蛇神が地を蹴った。
大地が割れるような轟音とともに、一撃ごとに雷鳴のような力を叩き込む。
しかし──指揮官は微動だにしなかった。
まるで子どもの遊びを受け流すかのように、全ての攻撃を片手で防ぐ。
「何をしようと無駄だ」
その声は静かで、残酷だった。
「力の差を思い知るがいい」
「黙れぇぇぇぇッ!!」
ケツァルコアトルの拳が鋭く振り抜かれる──だが。
その手首を、鉄のような力が掴んだ。
「なっ──!?」
次の瞬間、彼の身体は地に叩きつけられた。まるで壊れた人形のように。
「──死ね」
圧縮されたエネルギーが指揮官の掌に集中する。
放たれようとしたその瞬間、青き激流が戦場を切り裂いた。
その奔流は海の怒りそのものの如く、敵を弾き飛ばす。
空から舞い降りるように、アフロディーテが姿を現した。
その体にはまだ、蒼き稲妻のような力が残っていた。
「ちょっとピンチだったみたいね、羽蛇さま」
「……よく喋るな」
ケツァルコアトルは立ち上がりながら睨む。
「次に口を開いたら、貴様を先に潰す」
「お前たち──」
重く低い声が二人の背後から響く。
「どうでもいいが、その喧嘩はさっさと終わらせろ。でないと、ここで死ぬことになるぞ」
振り返ったアフロディーテの目が、わずかに見開かれる。
「ゼフ……?」
少年王が歩いてきた。
その腕には鱗が浮かび、口元には鋭い牙が覗いている。
かつての彼にはなかった異形の力が、今そこにあった。
敵──指揮官はわずかに眉をひそめた。
「ほう、まだ動けたのか。王様」
ゼフは鋭い目を向ける。
「俺を舐めるなよ、ウィロック……『賢者』よ」
その名が、アフロディーテの心に重く響く。
「……やっぱり、あの力に見覚えがあると思った」
アフロディーテは深く息をついた。
「ウィロック。アトランティス最強の騎士。空間魔法の達人。高位のルーン術師。戦場の魔導師──そして、静かなる脅威」
ウィロックは首をわずかに傾け、微笑む。
「……私のことをよく覚えているようだね、女王様」
「お前には失望したぞ」
ケツァルコアトルの声は冷たかった。
「テロリストに成り下がったか。落ちぶれたな」
「そう言ってもらえるとは、光栄だ」
ウィロックは楽しげに笑った。
「我々も随分と名が知れ渡ってきたらしい」
「名声じゃなく、憎悪を集めてるんだ」
ケツァルコアトルが吠える。
「どこへ行っても殺戮ばかりじゃないか!」
「……でも、君たちと何が違うのかな?」
「俺たちを貴様らと一緒にするな、クズが!」
ウィロックの目が細くなり、声が囁くように低くなる。
「そう思うかい? 君たちは『平和のため』と言って人を殺す。
でも……本当に、それが平和なのかな?」
一瞬、場が静まる。
「……エルフ、ヒュペルボレア、ゴールド、アトランティス……」
彼は消えゆくような声で続ける。
「かつて繁栄を誇った種族は、なぜ消えたのか。偶然だと思うかい?」
アフロディーテの表情が曇る。
「……何を言ってるの?」
「我々もその一部だった。『知りすぎた者たち』のね。だからこそ、狩られた」
ウィロックの声には、哀しみと怒りが混じっていた。
「くだらない妄言を……」
ケツァルコアトルは呻いたが、その声には揺らぎがあった。
「我々だけではない。王も、科学者も、神も──時に人間すら。
この真実を知る者は皆、選ばれなければならない。
沈黙か、反逆か。命を賭けるか、背を向けるか──それだけだ」
「黙れ……貴様の口調が癇に障る!」
ケツァルコアトルが叫んだ。
その心には、抑えきれぬ記憶が蘇っていた。
──血。
──震える手。
──腕の中で命を失いかけた、あの女性の姿。
「……なんで今、そんなことを思い出す……」
アフロディーテがそっと彼を見た。
「……あの日のことを、まだ許せてないのね。
あなた自身が」
その場に漂う影は、古く、重かった。
──数年前。
「……なにを言ってるだとッ!?」
ケツァルコアトルが机を叩き、鋼のような声で吠えた。目は見開き、胸は怒りで膨らみ、心臓が戦鼓のように鳴り響いていた。
目の前の諜報員は表情ひとつ変えずに告げた。
「上層部からの正式な命令だ」
「ふざけるなッ!!」
鋼鉄の机が彼の拳できしむ。
「そんな馬鹿げた話、信じられるか!」
「信じるかどうかは自由だ。ただし、命令は命令だ。
──ソチケツァルは“裏切り”の罪で、処分対象となった」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍った。
二人の男が睨み合う。片や怒り、片や冷酷な無感情。
「……彼女にそんなこと、できるはずがない」
ケツァルコアトルの声は震えていた。
「間違いだ……罠だろう……」
「異論があるなら、辞めればいい」
諜報員は肩をすくめて言った。
沈黙が数秒続いた。
ケツァルコアトルは深く息を吐き、胸元の特殊部隊の証を引きちぎった。
金属のプレートが床に落ち、冷たい音を立てる。
その音は、戻れない扉が閉じた音だった。
「勝手にやれ……だが、俺は信じない命令には従わん」
部屋の隅から、アフロディーテがその光景を見つめていた。
「ケツァルコアトル……」
彼女は、もう一人の男に視線を向けた。
金色の瞳。王者の風格をまとう存在──ギルガメッシュ。
「……止める気はないの?」
「必要ない」
ギルガメッシュは静かに答えた。
「何を言っても無駄だ。
……相手が“妻”ならな」
アフロディーテは拳を握りしめた。
「……そうね」
彼女は走り出した。
通路が永遠に続くように伸びる。
足音が大理石の床に響く。オーラが警報のように振動していた。
(彼女の気配が……消えかけてる……!?)
扉を蹴り開けた。
そこには──血に染まったソチケツァルの身体が横たわっていた。
「……間に合わなかった……」
彼女の眼は潤み、だが命の灯はかすかに残っていた。
「まだ……助けられる……!」
アフロディーテは彼女の胸に手を置き、癒しのエネルギーを流す。
だが──流れが、途中で断ち切られる。
「……なに……?」
再度試みる。しかしまたもや、途切れる。
「なぜ……どうして……どうしてなのよッ!!」
その時、かすかな声が耳をかすめた。
「……もう、無理よ……」
「ソチケツァル!? 喋らないで、今助け──」
「いいの……」
口元から血を吐きながらも、彼女は微笑んだ。
「結局……最後まで真実に辿り着けなかった……」
「……方法はあるはずよ、きっと──」
「あなたも……見えてるでしょ……?」
アフロディーテは黙って頷いた。
ソチケツァルの全身には、呪われたルーンが刻まれていた。
それらは脈打ち、震え、彼女の命を蝕んでいた。
「……お願い……ひとつだけ……」
「なんでも言って……」
「ケツァルコアトルを……あの馬鹿を……どうか守ってあげて……」
アフロディーテは涙を堪えた。
「……命を懸けてでも、守るわ。約束する」
「ありがとう……」
その瞬間。
空間が重くなり、空気が圧し潰される。
扉の向こうに、彼が立っていた。
ケツァルコアトル。
その目は虚ろで、魂が砕けたようだった。
体から溢れるエネルギーは制御不能。
そしてその目に映ったのは──血に染まったアフロディーテの手。
「待って……!」
アフロディーテが叫ぶ。
「違うの、説明させて──!」
「黙れッ!!」
怒りの咆哮とともに、拳が壁に炸裂した。
アフロディーテの体は吹き飛び、血を流しながら倒れた。
「一言も聞きたくないッ!!
殺してやる……!」
彼の中で、何かが壊れていた。
その心は、もう戻れない場所へと堕ちていた。
(……あれ以来、言葉を交わすことさえできなくなった)
記憶が脳裏に押し寄せる。
──星空の下の約束。
「ねぇ……」
「ん?」
「みんなに嫌われても……私のこと、好きでいてくれる?」
「当然だろ。なんでそんなこと聞くんだよ?」
「……ううん、なんでもない」
彼女は微笑んだ。
だが、何度も同じことを聞いてきた。
「……本当に、君のしていることが正しいと思う?」
「もちろんだ。王に背く者は排除されるべきだ。それが平和のためなんだ」
「……そう」
(どうして……そんなに聞いてきたんだ……
もし、違う答えをしていたら──)
(真実を話してくれたのか?
こんな結末を、避けられたのか……?)
(もう、わからない……
ただ今は……アフロディーテを、殺したい……!)
現実に戻る。
ケツァルコアトルが怒りに任せて突進する。
アフロディーテは寸前でそれをかわす。
拳が頬をかすめ、血がにじんだ。
「なぜ……?」
「……え?」
拳を振り抜いた彼の顔には、涙が伝っていた。
「彼女は……こんな結末、望んでたのか……?」
そのまま、膝から崩れ落ちた。
悲痛な叫びが、空間を引き裂いた。
アフロディーテは血を拭いながら、静かに彼を見つめていた。
──癒せない。
この痛みは、肉体のものではない。
魂そのものが、裂けていた。
──現在。
(あれからずっと……)
アフロディーテは横目でかつての仲間を見ながら思った。
(私たちは一言も交わさなかった。……脱走者と呼ばれて当然ね。でもそれでも──)
胸に刻んだ誓いだけは、まだ消えていない。
(たとえ命を落としても、私は約束を守る)
彼女の身体が、決意とともに立ち上がる。
燃えるようなエネルギーが皮膚を這い、頬に黒い紋様が浮かび上がる。
それは脈打つたびに闇の心臓のように鼓動し、悲しき愛の烙印となった。
「──彼を守る」
アフロディーテは正面を見据えた。
「羽ある蛇……邪魔するなら容赦しないわ」
ケツァルコアトルが眉をひそめた。
「……は?」
だが、返答の暇はなかった。
彼女の姿が一瞬で消える。
次に現れた時にはすでに、ウィロックの目前。
その刹那、連撃が炸裂した。
拳、蹴り、エネルギーの刃が怒涛のように襲いかかる。
(くっ……! どんどん速度が上がっている……何をした!?)
ウィロックは防御しながらも一歩、また一歩と押し下がっていく。
アフロディーテの両手から放たれる光弾が連続で撃ち出される。
ウィロックが放つ弾をかき消すように、あるいは倍の速度で貫くように。
「アトラクション・エロティカ」
彼女の声は囁きのように艶めいていた。
次の瞬間、濃い薔薇の香気が空間を包み込み、視界と感覚を麻痺させていく。
幻想的な桃色の結界が二人を覆う。
香りの霧の中から、ひとつの影が近づいてきた。
アフロディーテ。
その姿は美しく、そして妖艶。
ただ近づくだけで心を惑わすような魔性のオーラ。
そっとウィロックの頬を撫でる。
「今夜……何がしたい?」
甘く誘うようなその声が、彼の思考を揺らした。
「お、俺は……」
「ふふ、なに?」
一瞬、彼の表情がとろけかける──
だが、その瞳が冷たく変わった。
「──お前を殺す」
その言葉と共に、結界が砕け散った。
香りも幻も、すべてが霧消する。
「残念だが、君の“本性”にはもう慣れている。
そんな手には乗らないさ、魅惑の女神よ」
「……クソッ」
アフロディーテは小さく舌打ちをした。
(やはり……肉弾戦で倒すしかない)
エネルギーが彼女の四肢に集中し、腕と脚に鋭利な刃のようなオーラが纏われていく。
(……この状態では防御が甘くなる。でも……仕方ない!)
ウィロックが構えた、その時。
割って入った影が一つ。
「……陛下」
そこには、ゼフの姿があった。
「進ませるわけには……いかない」
その瞳には、恐れではなく炎が宿っていた。
「今の俺じゃ勝てないかもしれない……
──でも、彼女ならきっと……!」
ゼフが雄叫びとともに飛びかかる。
激突。
拳と拳、膝と肘、エネルギーの衝突が何度も繰り返される。
しかし──ウィロックの一撃は重く、鋭かった。
ゼフは鼻から血を流し、脇腹を切り裂かれ、それでもなお立っていた。
最後の一撃で、二人は距離を取る。
ゼフは地面に膝をつき、丹田に力を集中させた。
(もう少し……もう少しだけ……!)
──だが、異変が起きた。
腕に、青い棘が浮かび上がる。
「……なっ……?」
毒だった。
即座に全身に回り、体を崩壊させていく。
ゼフは倒れ込んだ。呼吸が荒くなる。
ウィロックが悠然と近づいてくる。処刑人のように。
「──終わりだ」
その瞬間、アフロディーテが割って入った。
その眼には炎。
「ありがとう、ゼフ。
──これで、あの男をぶっ飛ばせる」
一発目の拳が、ウィロックを後退させた。
二発目が、彼の腹を折り曲げた。
三発目──血が口から噴き出す。
ウィロックの腕が紫に染まり、まるで毒が巡ったようだった。
アフロディーテは止まらなかった。
連撃。連撃。連撃。
膝。肘。掌底。
光を纏った怒りの猛打が雨のように振り注ぐ。
(こいつ……なんて……)
脚を蹴られ、体勢を崩したところに──
顔面への回し蹴り。
ウィロックの体が宙を舞う。
ゼフは地面に伏しながらその姿を見上げた。
「速すぎる……」
瓦礫の中から姿を現したウィロック。
鼻から血を垂らしながら、笑っていた。
「……最高だ」
「こんなに楽しいのは初めてだ。
──期待を裏切るなよ」
その瞬間、彼の体に異変が。
血が青く変わる。
胸元から、鱗が現れる。
「──危ないッ!!」
ゼフが叫ぶ。
凶悪な一撃。
アフロディーテを狙って──
彼女には届かなかった。
最後の力を振り絞って、ゼフが割って入った。
「──っ!!」
骨が砕け、体が柱に叩きつけられる。
(なんて破壊力だ……)
意識が闇に飲まれていく。
再びウィロックがアフロディーテに迫る。
「──油断するなよ」
拳が振り下ろされる──
「もういい」
それを止めたのは、別の手だった。
──ケツァルコアトル。
その体は蛇の鱗に覆われ、
目は神の炎のように燃えていた。
「……ケツァルコアトル……」
アフロディーテは驚きに声を漏らす。
「……許したわけじゃない」
敵から視線を逸らさず、彼は告げる。
だが、心の中には、
最後に微笑んだソチケツァルの姿が浮かんでいた。
「……けど、彼女なら、
お前を見捨てることは許さなかっただろう。
だから──今だけは、共に戦う」
数メートル先。
血を流しながらも意識を保つゼフが、震える声でつぶやいた。
「……神が二人、全力で戦うのを見るのは……初めてだ……」
「……怖いくらいだ……」
戦場を覆う気配が変わる。
神々の咆哮が、空間を支配する。
しかし──
(いや……)
ゼフは目を凝らした。
(ウィロック……まだ本気じゃない……)
彼の体を這う鱗は、まだ完成していない。
(あの姿……まだ“完全体”じゃない……)