癒えない傷もあります。
彼らは沈黙することだけを学ぶ。
しかし沈黙は忘却ではない。
記憶が詰まっています…
魂の奥底に隠れているもの、
叫ぶ瞬間を待っています。
本当の痛みは泣きやまない。
固まってしまいます。
それは怒りに変わり、強さに変わり、執着に変わります。
そして、戻ってきたら、お土産として戻ってくるわけではないのです…
しかし、生きた炎のように、消すことは不可能です。
なぜなら、時間が経っても消えないエコーが存在するからです。
彼らはただ答えを待つだけです。
そして過去が呼ぶとき、
誰もがその反応を生き延びるわけではない。
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闇の中で叫ぶような気配──
それはフードをかぶった男の背後から、じわじわと滲み出ていた。
エネルギーではない。もっと古く、もっと禍々しい何か。
この世に存在してはならない、そう感じさせる「異質」そのものだった。
ヨサは、肌に直接それを感じていた。
「……こいつは、今までの奴らとは違う」
その存在には形がなかった。輪郭もなければ、限界も見えない。
まるで「呼吸する深淵」と戦っているかのような錯覚。
彼は横に立つ仲間へと顔を向けた。
「……四つ目。お前は下がれ。これは危険すぎる。二人とも生きて帰れる保証はない」
だが、フレーム越しにジュアナが鋭い視線を返す。
「はあ? なに言ってんのよ」
怒りを含んだ声が返る。
「私は最初からそのつもりで来たの。今さら何よ」
「……だが──」
「黙って。邪魔しないで。
逃げるなら、あんたでしょ。あんたの能力、そう長くは持たないでしょ」
白髪の男が奥歯を噛み締めた。
「……うるせえ、四つ目。俺が先に倒れるもんかよ」
二人が同時に力を解放した。
緑と緋。守りと攻撃。耐久と烈火。
相反しながらも補い合う、ふたつのオーラが激しく渦巻いた。
「死なないでよ、コアラ」
そう言って、二人は同時に前方へと跳んだ。
敵は彼らを待ち構えていた──笑みを浮かべながら。
両手を広げる。片手ずつ、二人の攻撃を受け止める。
「もっとだ……もっと驚かせてくれ、人間たちよ」
その手が、正確無比な動きで旋回する。
次の瞬間──ヨサとジュアナの額が激突。
乾いた音が響き、二人の身体が吹き飛ばされる。
地面に叩きつけられ、土煙が舞った。
だが、敵は止まらない。
両手に黒く脈打つ球体を構えた。
内側で赤い稲妻が渦を巻いている。
そして、それを一気に投げた。
常識を逸した速度。
「──今だ!!」
ジュアナの声。
二人はすんでのところで跳ね起き、その弾を切り裂いた。
交差するオーラのうねりが、敵の攻撃を中和していく。
しかし、その直後──左右から放たれた二本の血の矢。
回避する間もなく、二人の身体に直撃。
ジュアナは脇腹を押さえ、ヨサは歯を食いしばる。
「なんなんだこいつ……雷、血、エネルギー……全部かよ……!? ありえねぇ……!」
「全部出すしかない……このままだと……殺される……!」
「はぁ……退屈だな」
敵が呟くように言う。つまらなさそうに。
「──コアラ!!」
「わかってる!!」
ヨサの緑のエネルギーが爆発した。
密林のような気が、全身を包み込む。
背中から灰色の毛が生え、爪が鋭く伸びた。
瞳孔が細まり、視線が野獣のそれへと変わっていく。
「ラック:コアラ」
変化は一瞬だった。
その姿は人と獣の中間。重厚かつ威圧的。
「……ねみぃ……」
まるで全てがどうでもいいとでも言いたげに、彼は首を掻いた。
ジュアナは真剣なまなざしでその背中を見つめる。
(今が最大の防御態勢……このタイミングで奴が来たら……)
その予感は当たる。
敵が背後に現れ、狂気じみた笑みを浮かべていた。
が──
その手が触れる寸前、ヨサが現れた。
拳が敵の胸に炸裂。
そのまま吹き飛び、木々をいくつも破壊していく。
「……ねみぃ……」
敵──いや、もはや人とは呼べぬ何か──が立ち上がる。
胸には、三本の爪痕がくっきりと残っていた。
そして、笑った。
「……そう……そう、それだ……それが欲しい」
ジュアナの脳裏を戦術が巡る。
(持久戦だ……この形態なら、時間が味方。
あとはキャプテンが片付けるまで耐えるだけ……)
だが、敵はそれを許さない。
ヨサの死角から現れ、急襲を仕掛ける──
だが、ヨサの反応は早かった。
体をひねり、拳で返す。
敵の腹に食い込んだその拳は、肉を裂き──
爪が胸を貫いた。
敵の体から血が噴き出す。
苦悶と陶酔が入り混じった顔で、後退する。
「……この感覚……忘れていた……
……この興奮……」
満身創痍のはずだった。
だが、男は──笑った。
狂気じみた、圧倒的な笑い声。
「アハハハハ!! 面白い!! 面白すぎる!! 楽しい!!」
その瞬間、周囲の空気が変わる。
凶悪なオーラが爆発する。
黒く、重く、圧し潰すような闇。
そして──
その口から、何かが這い出す。
それは剣だった。
血に濡れた黒い刃。喉の奥から、まるで呪われた炉から鍛えられたかのように。
ジュアナが後退する。
「……なんだそれは……?」
ヨサが凍りついた。
「その剣……」
男はその剣を指先で摘み、微笑んだ。
「──死ね」
猛突進。
ヨサに向かって。
「──ヨサァァァ!!」
ジュアナが飛び込んだ。
黒い剣が彼女の身体を切り裂く。
血をまき散らしながら、彼女は倒れた。
男はその姿を見下ろす。
「へぇ……また驚かされたよ」
ヨサは言葉を失った。
その目は、彼女を貫いた剣だけを見つめていた。
「その剣……」
──七年前のことだった。
シュンの声は、隠しようのない重さを帯びていた。
「……すまない」
最初、ヨサは何も反応しなかった。
だが、次の瞬間、否定が心を支配する。
「嘘だろ……そんなの……」
「すまない」
シュンは再び頭を下げた。
「戦いの後、彼の遺体は見つからなかった……
仮に生き延びていたとしても、あの場所では……」
その瞬間、映像が頭に突き刺さる。
洞窟。
壁にこびりつく血。
足元の水たまりに混じる赤。
岩肌すらも、血に染まっていた。
「……そんな……まさか……師匠が……」
ヨサはうめくように呟いた。
隣で、ティレシアスが腕を組み、冷静に言った。
「さらに調査隊を送る。生死を問わず、必ず見つける」
ヨサはわずかに頷いたが、口を開くことはなかった。
何かが、心の奥で壊れていた。
•
数メートル離れた場所で、シュンとティレシアスが小声で会話を交わす。
「本当に……痕跡すら残さず消えるなんて、あり得るのか?」
ティレシアスが眉をひそめる。
シュンは腕を組み、深く考え込んでいた。
「それができるとしたら、極めて強大な攻撃だけだ。
でも、そんな痕跡はなかった。
あの洞窟……崩落の気配もなかった」
「……そうか」
声を潜める。
「危険な任務だとはわかっていた。相手はブラックライツだ。
だが……ここまでとは」
「全滅か?」
「そうだ。カグツチが率いていた部隊……全員、死亡。
カグツチ本人も含めて……そう思っている」
重たい沈黙が流れた。
脳裏に浮かぶのは──あの惨状。
切断された手足。
噛みちぎられた肉体。
原形をとどめない屍。
シュンは視線を逸らしながら呟いた。
「……人間の仕業とは思えなかった」
ティレシアスは歯を食いしばりながら言う。
「やるべきことは一つだ。
こんな地獄を作った奴を、必ず見つけてぶちのめす」
シュンは小さく頷いた。
「──あの子は?」
「ヨサか?」
「ひとりでは乗り越えられないかもしれない……」
意外そうにティレシアスが振り向いた。
「お前が、他人の心配をするとはな」
シュンはかすかに笑みを浮かべる。
「……どうしてだろうな」
視線の先。
地面に座り込んだヨサは、ぼんやりと宙を見つめていた。
瞳は涙で濡れ、顔は崩れ、ただ静かに、ぽたぽたと涙が流れていた。
ティレシアスが呟く。
「俺が預かる。
カグツチは、よくあいつの話をしてた。
“とんでもない潜在能力を持っている”ってな」
「……頼む」
「任せろ」
•
──ヨサは、すべてを覚えていた。
寒さ。
血の匂い。
喪失。
「……あの時、俺は……何をしていいかも分からなかった」
いま、彼の目の前にあるのは──
敵の手に握られた、一本の剣。
「俺の師──俺にとっての父……
子供の頃からずっと、俺を導いてくれた人……
生き方を教えてくれた。戦い方も、考え方も、すべてを」
その人が消えた後。
ティレシアスが代わりとなり、力の使い方を教えてくれた。
暴走し、自ら命を落としかけた時、彼が命を救ってくれた。
「命の恩人だ。尊敬する存在でもある」
だが、どれだけ支えられようと──
どれだけ成長していようと──
変わらなかったものが、一つ。
「ずっと、頭から離れなかった。
……俺の大切な人を奪ったのは……誰だ?」
訓練の日々。
涙を流した夜。
強くなりたいと願った理由は──
ただ一つ。
「いつか必ず見つけ出す。そして、全部返してやる。
あの地獄の痛みも、喪失も、怒りも……すべて」
──七年。
何の手がかりもなく。
遺体もなく。
犯人も分からず。
残されたのは、虚無。
だが、今。
「その剣……」
目を細めたヨサの瞳が、鋭く光る。
「どこで見たって、絶対に分かる。
あの剣は──カグツチのものだ」
──現在。
敵の手に握られた黒剣は、今も震えていた。
刃先からは、ジュアナの血がぽたぽたと滴り落ちていた。
まるで、その血に嗤っているかのように──
ヨサは、その剣から目を逸らせなかった。
敵は皮肉げに微笑みながら、ヨサの表情を読み取る。
まるで魂の奥まで覗き込むかのように。
「どうした? その顔は……」
「まさか、諦めたのか?」
あまりにも満足げで、不快な声だった。
ヨサは奥歯を噛み締める。
「……その剣……どこで手に入れた?」
敵は首を傾げ、わざとらしく驚いた表情を見せた。
「おや……前の持ち主を知っていたのか?」
「黙れ」
ヨサの目は鋭く、氷のように冷たかった。
「質問に答えろ」
敵はすぐには言葉で返さなかった。
代わりに、自らの顔の皮膚を爪で裂きはじめた。
ゆっくりと、狂気を楽しむように──
その体は、興奮で震えていた。
「そう……あの悲鳴、まだ覚えている……」
「本当に、美しい音だった」
ヨサの体に電流が走る。
「骨が砕ける音。皮膚が裂ける音……」
敵はうっとりと目を閉じ──
そして、開いた。
そこにあった顔は、もはや彼のものではなかった。
それは──カグツチの顔だった。
涙に濡れた目。
苦痛と絶望が刻まれた表情。
ヨサの師の顔。
冒涜の仮面。
ヨサは動けなかった。
呼吸すら、忘れていた。
思考も、止まっていた。
ただ、見つめていた。
「そうだ……それが欲しかった」
敵は陶酔の中で呟いた。
「その顔だ……その目……たまらない」
ヨサの呼吸は荒くなり、肩が震える。
「師匠……親父……ジュアナ……」
「……ごめん」
背後で、ジュアナのか細い声が聞こえた。
「ヨサ……」
だが、もう遅かった。
ヨサの目は、氷のように冷え切っていた。
「……この化け物……必ず殺す」
背中から吹き上がるエネルギーは、まるで嵐。
大地が割れ、空が裂けた。
「二度とこの力は使わないと誓った……」
「でも、選択肢はない。ジュアナはもう限界だ……」
「そして……目の前にいる。俺のすべてを奪った奴が」
「たとえ死ぬとしても──」
「必ず消し去る」
筋肉が膨張し、骨がきしみ、皮膚は硬質化していく。
鼻は潰れ、毛が全身を覆っていく。
空気が震える。
「ジュアナ……本当はずっと、伝えたかったんだ……」
「ごめんな……」
「うおおおおおおおおっっっ!!」
敵が叫ぶ。
「もっとだ!もっと楽しませろ!」
•
数キロ離れた場所──
ティレシアスが顔を上げた。
凄まじい力の波動が森全体を貫いた。
「まさか……」
その言葉が終わる前に、目の前に影が現れた。
「よそ見すんなよ、ジジイ」
“第39の者”が、腕を振り上げる。
ティレシアスは即座にその攻撃を受け止め、後方へと跳ねた。
「頼むぞ……ヨサ……あと少し……!」
•
戦場に戻る──
“第59の者”が猛スピードでヨサに突進する。
「巨大化している……ということは、動きが鈍くなってるな」
そう考え、拳を振り下ろそうとした──その瞬間。
ドガッ。
一撃。
地面がめり込み、大地が揺れた。
ヨサの拳が、敵を地中に叩きつけた。
ヨサは咆哮する。
野生の、苦痛の、怒りの叫び。
その咆哮は、森全体に響き渡った。
そして──殴打が始まる。
止まらない。
容赦ない。
リズムも戦略もない。
あるのは、怒りだけ。
敵の体は、砕かれ、潰され、叩き込まれる。
ジュアナは、地面から身を起こそうとする。
その目が震えていた。
「……強い……でも……」
「何か、おかしい……なにか……違和感がある……」
虐殺のような殴打が、ようやく止まる。
血に染まった大地。
引き抜かれた木々。
砕かれた岩。
敵は、原形をとどめないまま、地に埋まっていた。
「……勝った……」
ヨサは荒い息を吐きながら、そう思った。
──だが、その時。
笑い声が響く。
甲高く、ひび割れ、悪夢のような声。
「な……に……?」
ヨサは腕を振り上げ、止めを刺そうとした。
だが、その拳は──
変形した手によって、止められた。
敵は顔を上げた。
肉は裂け、骨が露出し、目は血で滲んでいる。
それでも──笑っていた。
「やっぱり間違ってなかった……お前、本当に面白い」
「でもな……少しだけ、お前を甘く見ていた」
「だから──」
敵の体が再構築されていく。
骨が繋がり、肉が覆い、神経が走る。
「“名誉”を与えよう……」
皮膚が灰のように剥がれ落ち──
そこに現れたのは、もはや“人”ではなかった。
伸びた黒い四肢。
細長く、刃のような指。
非対称の体。
真っ白な瞳。
魂を持たぬ力。
「これが……」
「俺の“真の姿”だ」
怪物は立ち上がる。
「一寸の肉さえ残さず……貴様を喰らってやる、ヒトよ」