肉体を超えて存在するものがある。
地面ではなく意識の中を這う暗い形。
彼らには顔はないが、すべての人の中に反映されている。
彼らには声はないが、心の奥底から叫んでいる。
モンスターが必ずしも破壊するわけではない...
時には生き残る者もいる。
立ち続けるという望み以外、すべてを失った者。
愛するものを守るために、深淵を愛することを学ぶ者。
しかし、越えてはいけない境界線というものがある。
そして、一度越えてしまうと、
あなたが誰だったかはもう問題ではありません...
まさにあなたがそうなったのです。
だってモンスターだって…
かつては人間だった。
————————————————————————————————————————————————————————————————
洞窟の入り口は、まるで死んだ獣の口のようだった。
湿り気を帯び、歪み、忘れ去られた機械と錆びた骨に満ち、
吐き気を催すほど濃密な悪臭が、霧さえも嘔吐しているかのように漂っていた。
エデンは一歩踏み入れた瞬間、思わず足を止める。
胸を圧迫するような空気の重さ。
……怖い。
本当に、怖い。
心の中で呟きながら、暗闇に目を慣らしていく。
背後から、シュンの軽薄な声が静かに緊張を切り裂いた。
「アイツは、本物の怪物だな……」
「戦うたびに進化してる。想像以上に厄介だ」
その直後、ブンッと鋭い音が空気を切り裂いた。
エデンの目の前を、致命的な衝撃波がかすめる。
「っ!」
即座にシュンが反応し、彼を横に突き飛ばす。
ドォン!
爆風が洞窟を揺らし、朽ちた装置の破片が四方に飛び散った。
「……出てこい、パペット」
シュンが剣を構えながら、低く呼びかける。
濃霧が凝縮し、そこから何かが現れる──
それは、ゆがんだ笑みと病的な瞳を持つ男。
パペット。
その体からは目に見えぬ瘴気がうねるように放たれ、
まるで無数の蛇が彼を包んでいるようだった。
「やっぱり……間違ってなかった」
パペットは顔を歪めて笑う。
「君たちのために来たんだよ。そして──君のために、エデン・ヨミ」
「特別なプレゼントがあるんだ」
「黙れ」
シュンが唸るように言った。
「お前の茶番に付き合ってる暇はない」
「……残念だなあ」
パペットは両腕を広げ、舞台監督のように堂々と言った。
「でもこれは僕のショーなんだ。君たちは観客さ」
その瞬間、洞窟内の隠されたライトが一つずつ灯る。
そして、照らされた光景に──誰もが凍りついた。
異形の軍隊。
無数の操り人形たちが、糸に吊るされ、立ち尽くしていた。
眼をえぐられた者。
肉のない者。
苦悶と死の狭間で表情を固定された者。
静寂のなか、シュンがぽつりと呟いた。
「……なんだ、これは」
高所から見下ろせば、さらに異様な光景が広がっていた。
朽ちた兵士。
武器を引きずる子供。
虚ろな瞳の老人。
……悪夢そのもの。
エデンの脳が追いつかない。
これは──死者なのか?
パペットが狂ったように笑い出し、
自分の顔を爪で引き裂き始めた。
血混じりの肉片が床に落ちていく。
「アースの市民たちさ……」
「グレクの住民も……」
エデンの頭に、記憶がよみがえる。
かつて見た死者たち。破壊された町。失われた笑顔。
「そしてノルクの者も……ヴィリ……ヴェ……クー・ナーヴェまで……」
その名を聞いた瞬間、彼の目がとらえた。
「……タケミ……」
喉が震える。怒りと嫌悪が混じった声にならない声。
拳を握る。
爪が手のひらに食い込むほどに。
「……ふざけるな……!」
「抑えろ」
シュンの声が鋭く響く。
「ここで感情を乱せば──死ぬぞ」
シュンには分かっていた。
この場所に、"甘さ"は通用しない。
パペットが片腕を上げた。
口元は裂けんばかりに歪んでいた。
「幕を上げろ!!」
その目が虚ろになる。
命令が吐き出された。
「攻撃開始──!!」
操り人形たちが、咆哮を上げながら一斉に突撃してくる。
シュンは即座に動いた。
冷静かつ鋭利な動きで切り払い、敵を一掃していく。
だが──
「たす……けて……」
その声が、壊れた人形のひとつから漏れ出た瞬間、
エデンの体が止まる。
そして──
ドガァッ!!
壁に激突し、深い亀裂が岩肌に刻まれた。
「エデン!!」
シュンが叫ぶ。
剣を一閃し、目の前の敵をまとめて切り捨てる。
パペットは、満足げに笑った。
「弱い……あまりにも、人間らしすぎる」
「偽善者ぶるな。腐った人形を救って何になる?」
黒い唾を地面に吐く。
石に当たって、濁った音を立てた。
「……吐き気がする」
「……悪いな」
シュンが小さく呟くと、
一閃で残っていた敵を一掃した。
エデンの元へ駆け寄る。
「大丈夫か」
「……こんなの、あんまりだ……彼らは、こんな目に……」
「じゃあ、お前はそこでうずくまるのか?」
「苦しむ人を、見殺しにするのか?」
エデンはゆっくりと顔を上げた。
その目には、もう迷いはなかった。
代わりに──燃える怒りが宿っていた。
「俺は……信じてる」
「彼らには、もっと良い結末があるべきだと」
「……ああ。その通りだ」
シュンが頷く。
エデンが立ち上がる。
だが、その瞬間──
再び操り人形たちが集まり、彼を囲む。
シュンは迷わなかった。
跳躍一閃。
純粋なエネルギーを込めた斬撃が、敵をバラバラにしていく。
奥の方で、パペットが笑みを浮かべていた。
「……やっぱり、奇襲は無理か」
シュンの目が細まる。
何かがおかしい。
この男、既にとんでもない量のエネルギーを使っているはずなのに──
なぜまだ動ける?
……このまま消耗戦になれば──負ける。
その時。
ミシミシ…バキバキ……
不気味な音が洞窟に響く。
操り人形たちの身体が──
再生し始めた。
「……ふざけんな」
シュンが目を見開く。
「エデン。何をすべきか、分かってるな」
シュンの声が、沈黙を切り裂いた。
エデンは静かに頷いた。
もはや迷いなど入り込む余地はなかった。
次の瞬間、シュンが桜色の稲妻のように駆け出す。
剣が空を裂き、正確かつ破壊的な舞を描きながら、操り人形を次々に葬っていく。
その通った跡には、ただ腐臭と破片だけが残った。
「──今だ!」
エデンが歯を食いしばり、剣の先に莫大なエネルギーを集中させる。
その瞳には、眩いほどの覚悟が宿っていた。
「……深淵斬しんえんざん」
闇を切り裂く、絶対なる一閃。
空間に黒き裂け目が生まれ、虚無のごとき裂け目が全てを吸い込んでいく。
人形、肉体、断片、そしてこの場の「ささやき」すら──
その流れに、タケミの姿もあった。
歩みは遅い。けれど、確実に裂け目へと向かっていた。
エデンは手を伸ばした。届かないと知りつつも──
そのとき、タケミがこちらを見た。
そして、微笑んだ。ほんの少し、でも確かに。
安堵のような、優しい笑み。
エデンの心が、完全に崩壊した。
裂け目が閉じ、そして──
爆ぜた。
「エデン、終わってないぞ!」
シュンの叫びが、残響を断ち切る。
「──はい!」
涙を拭い、怒りを力に変えて立ち上がる。
二人は同時に跳び出した。
まるで二つの音が重なる旋律のように。
一方が防ぎ、一方が斬る。
一方が叫び、一方が沈黙の中で誓う。
操り人形は、次々と崩れ落ちた。
そして──
「このクソがぁぁぁあああああッ!!」
パペットが絶叫する。
怒りに震え、理性を失っていた。
そのとき──
ヴィリとヴェが、シュンに襲いかかった。
洞窟内が、光と鋼とエネルギーの爆発で満ちる。
斧が空を裂く。
剣が応じる。
音が追いつくのに、数秒かかるほどの速さ。
シュンはヴィリの斧を受け止め、その瞬間に膝蹴りを叩き込む。
ヴェの足元へと身体を回転させ、足首を叩き斬った。
そして、迷いなく──
ヴェの首を一撃で斬り落とした。
黄金の瞳が光を放ち、続けざまにヴィリの胸を貫いた。
拳を握りしめ、心臓ごと破壊する。
「──これで、休めるな」
静かに、祈るように呟く。
その時、天井から一筋の光が差し込んだ。
二人の体は灰へと還る。
そして、微笑んだ。
やっと……安らぎが来たのだ。
「……そんな、そんなことが……!」
パペットが呟く。
「勝ってるはずだ!俺がッ!俺が強いはずなんだッ!」
シュンが死体の上から彼を見下ろす。
「降伏しろ、パペット。情報を渡せば、裁きは軽くしてやる」
だが──パペットの瞳は、もうここにいなかった。
「……俺は……強い……強いはずなのに……こんなはずじゃ……!」
シュンが息をのむ。
崩れた。
心の奥から。
「分かった……ようやく、分かったよ」
パペットが歪んだ笑みを浮かべた。
「勝つためには……全てを捧げる必要がある。自分さえも」
その瞬間──
全ての糸が切れた。
操り人形が、一斉に崩れ落ちる。
地面に叩きつけられ、割れ、爆ぜ、腐臭とともに広がっていく。
内臓、黒く爛れた肉、見開かれた眼──
まるで、生きた墓場。
シュンもエデンも、言葉を失っていた。
「残念だな……」
パペットの声が、静かに響いた。
「君の全盛期を制御できなかったのは……心残りだけど」
「君で、実験できたのは……楽しかったよ」
霧の中から、巨大な影が現れる。
その体は、無数の傷と縫い目で覆われていた。
筋肉は常軌を逸して膨らみ、髪は灰のような色。
瞳は獣のように鋭く、橙色に光っていた。
「──出でよ。ゲン・ヨミ」
パペットが、儀式のように宣言した。
エデンの顔が歪む。
「うそだろ……そんなの、信じられない……!」
記憶が、蘇る。
あの声。
あの守り。
あの最期の言葉。
──そして、カイとリュウに奪われた、その瞬間。
「……悪い冗談にも、ほどがある……」
「てめぇ……!」
シュンが剣の柄を強く握る。
ゲンの体はひどく損傷していた。
右手は無く、胴には縫い目が無数に走っている。
まるで一度バラバラにされた後、無理やり繋ぎ止められたかのように。
「……おじいちゃん……」
エデンが膝をつく。
「ごめん……俺、弱かったんだ……」
「もっと、もっと近くにいたかったのに……」
「こんな結末、望んでなかったのに……っ!」
涙が、頬を濡らす。
「おじいちゃん……俺、もっと……」
シュンは歯を食いしばる。
(このままじゃ……戦えない。壊れる)
「エデン、逃げろ」
「え……?」
「戦うな。今のお前じゃ無理だ。早く──!」
──光。
次の瞬間、ゲンが目前に現れ、蹴りを放つ。
バギィィッ!
骨の砕ける音。
内臓が破裂する感覚。
エデンの体は空を舞い、岩柱に激突する。
「──エデンッ!!」
シュンの絶叫。
しかし、遅かった。
動きも、気配も、何も感じなかった。
ただ──
そこに、ゲンがいた。
立ち尽くすその手には、白い剣。
今まで眠っていたはずの、エデンの剣。
ゲンはそれを見つめ、
ゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、シュンの魂にまで響く威圧が走る。
──これは、獣だ。
鎖も理性もない、ただの本能。
そして、斬撃が放たれた。
シュンが剣で受け止めた刹那──
地面が割れ、爆風が洞窟を襲った。
岩が飛び、血が舞い、
音すら吹き飛ぶような、圧倒的な一撃だった。
戦いの轟音が、太古の戦争の残響のように洞窟に響き渡る。
シュンとゲンがぶつかり合うたび、空気が裂け、空間に亀裂が走る。
一撃ごとに爆発。
刃が交わるたびに、世界と世界が衝突した。
そして──静寂。
両者が後退し、荒い息を吐きながら、互いを獣のように睨み合う。
同じ群れに属する、野生の本能。
その隅に、エデンがいた。
その身体は、もはや残骸。
折れた骨。裂けた皮膚。乾いた血と新しい血が混ざり合い、一つの敗北の絵を描いていた。
(そうだ……全部……俺のせいだ……)
その思考は甘く、そして毒のように心を蝕んでいく。
痛みではない。もっと深い。
自分が存在するだけで、周囲を壊してしまうという確信──
(何も変わらない……皆を不幸にする……俺は呪われてるんだ……)
死の匂いが全身を包み込む。
それと共に、記憶が蘇る。
──暖かい日々。
──日本。
──家族。
──友達。
──太陽の下でのサッカー。
──笑い声。告白。曲がったケーキと、素直なハグ。
──それらは、すべてもう──
(戻ってこない……)
パキン、と音がした。
骨でも、筋肉でもない。
──意志だった。
濃く、粘るようなエネルギーが彼の身体から噴き出した。
黒い絶望の色をしたそれは、生きていた。
(今からは……)
暗黒が囁いた。
地面が震える。
シュンとゲンの動きが止まる。
生まれ始めた圧力に、全員が息を呑んだ。
(俺が──創る)
肌から走る黒い稲妻。
それを、パペットは「感じ」、
シュンは「理解し」、
ゲンは──「嗅ぎ取った」。
(俺だけの……運命を)
洞窟の天井から、漆黒の光柱が降り注ぐ。
その中で、エデンの傷が瞬時に癒える。
そして現れたのは──かつての彼ではなかった。
その身体は、闇のエネルギーで形成された金属の鎧に包まれていた。
紫の輝き。金の紋様。
顔全体を覆うヘルメット。
だが、その瞳だけは見えた──血のように燃える、真紅の瞳。
虚無から、誰かの声が囁く。
──「tnecrep evif-ytnewt」
空気が変わる。
その存在感が、場を圧倒する。
シュンが一歩後ずさる。
「……エデン……?」
「アイツを任せる」
エデンは、ためらうことなく言い放つ。
「……ここは俺に任せてくれ」
その瞳を見たシュンは、言葉を失った。
──それは、決意を宿した男の瞳だった。
「フッ……本当に、驚かされっぱなしだな。エデン・ヨミ」
シュンが笑う。だが、目は真剣だった。
その上空──パペットは冷静に見つめていた。
(……それでも足りない。俺の最高傑作でも足りない……なら、"あれ"を使うしか──)
──だが、間に合わなかった。
シュンが、まるで神の審判のように現れ、
パペットの頭を掴んで、遥か彼方へと投げ飛ばした。
その体は、燃える流星のように洞窟を横切り、遥か彼方の岩山へと激突した。
静寂。
力のうねりだけが、残された。
その場に残る、エデンとゲン。
言葉はなかった。
──だが、必要もなかった。
「……おじいちゃん……」
エデンが小さく呟く。
「君を、この地獄から救い出す……!」
両者が、剣を構える。
──そして、咆哮が響く。
戦いが、始まった。
✦ ✦ ✦
一方その頃──
遠くの山に叩きつけられたパペットの身体は、血と岩で出来た亀裂の中にあった。
その肉体はバラバラに近かった。
(なんだった……今の……!?)
(まったく反応できなかった……!)
その前に──シュンが、静かに屈んでいた。
「……それだけか? もっとやると思ってたぜ」
パペットが血を吐きながら笑う。
「クク……まだ切り札はあるさ……」
「回復が必要なら……」
──シュンは腕を伸ばし、背を向ける。
「……好きなだけ時間をやるよ」
その仕草が──理解できなかった。
(なんだ……これは……?)
(さっきまで俺が押していたはずなのに……どうして……!?)
否定した。
(いや……そんなはずはない)
(まさか……今までずっと、手加減されていたのか……?)
──馬鹿な。
しかし、震える身体は嘘をつけない。
額の汗も、止まらない。
シュンはただ、首を回してストレッチしていた。
まるで試合前の、余裕のある選手のように。
(……この感情は……なんだ……)
(まさか、俺が……恐れてる……!?)
その瞬間、動いた。
音もなく、殺気もなく。
──だが、目が合った。
黄金の瞳。
それだけで、心臓が凍る。
「──準備はいいか?」
無表情のまま、シュンが問う。
「は、はい……!」
砕けた骨が再生される。
破れた皮膚が塞がる。
パペットの身体が再構築されていく。
──けれど、足だけは、震えていた。
「じゃあ──遊んでやるよ」
歪んだ笑みを浮かべ、パペットの身体が死の瘴気を放つ。
粘りつくような、腐った匂い。
シュンが舌打ちした。
「──やれやれ。まだ遊び足りないのかよ」
「今度こそ……」
かすれた声で、どこか壊れたようにパペットが呟いた。
「今度こそ、俺が楽しむ番だ……!」
突如、虚無から現れた数百本の深紅の糸が彼の全身を貫いた。
それは武器ではなかった。
──拷問だった。
糸は肉を、神経を、骨を、眼球さえも貫いた。
痛みが全身を犯す。
パペットは叫んだ。
──だが、その声はもはや人のものではなかった。
空気が泣いているかのような、歪みきった残響。
血が噴き出し、視界が赤に染まる。
鼻が潰れ、耳から血が流れ落ちた。
それでも──彼は笑った。
まるで、苦痛そのものが甘美な悦びであるかのように。
「今度こそ……制限なんてねぇ!!」
血に染まりながら絶叫する。
「今度こそ、てめぇを──ぶっ壊す!!」
糸が彼の眼球を突き刺し、
温かい血が地面に飛び散った。
その光景は──もはや地獄。
死にかけの肉体が、笑みを絶やさないまま崩れ落ちる。
シュンは言葉を失い、一歩後ずさった。
──何が起きている……?
その瞬間、爆発した。
ズタボロのパペットの肉体の奥から、別の何かが現れる。
骨まで焼かれたような──
痩せ細り、異様に長い──
人間ではない何か。
生きた──人形。
現実に顕現した──悪夢。
そして、そいつは笑っていた。
真っ白な歯。
鋭い笑み。
血に塗れた口元。
シュンが瞬きをした、その刹那──
──数百本の糸が彼の身体を貫いた。
「ぐあっ……!」
背中から血が噴き出す。
すぐさま糸を切り裂き、反射的に身を翻す。
だが、傷口から紫の液体が滲み出ていた。
──毒……? いつの間に……? どうやって……?
身体がふらつく。
口から血があふれる。
筋肉が、内部から焼けるように疼き、
肺が──潰れていく。
(……時間がない。早く、決着を……)
震える呼吸を整え、立ち上がる。
剣を握り──突撃。
鋭い一閃。
パペットの胸が紙のように裂けた。
「……捕まえた!」
──だが。
パペットがシュンを抱きしめる。
その背から、巨大な二本の鎌が生え、
左右から彼の身体を貫いた。
「ぐっ……!」
喉から絞り出すような叫び。
血が洪水のように吹き出す。
パペットの腕に力がこもる。
身体を、真っ二つに引き裂こうとしている。
骨が軋む音。
内臓が潰される感覚。
その声は、地下世界の隅々まで響いた。
(……終わりだ)
パペットはそう確信していた。
目の前の男は、もう──ただの人形だった。
シュンの腕が力なく垂れ下がる。
床を、真紅の川が染めていく。
全てが止まった。
静寂。
──病的なほどの静けさ。
そして、勝利。
「……俺が……勝者だ……」
──そのとき。
声がした。
「もう、十分楽しんだろう」
パペットの瞳が見開かれる。
目の前のシュンが──笑っていた。
次の瞬間、凄まじいエネルギーがシュンの身体から爆発する。
パペットの腕が粉砕された。
背中の鎌が木端微塵に砕け散る。
地面が震えた。
「な、なにが……!?」
思考すら追いつかない。
「……なぜ生きてる……!? なんで……!?」
シュンの身体から蒸気が立ち上る。
傷が一つずつ、自然と塞がれていく。
──まるで、死にさえも許されたかのように。
「……残念だな」
穏やかに、そして淡々と彼は言う。
「気に入ってた服だったのに……台無しだ」
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳に、野性の自信が宿っていた。
「Let’s go, bitch.」
その言葉と共に、動き出す。
斬撃。突き。閃光。衝撃。
それは──目では追えない舞。
だが、パペットは避け続けた。
その身体は、まるで全ての動きを予知しているかのように。
制限のない、完璧な動き。
──もはや、人ではない。
「ふうん……」
シュンが小さく呟き、距離を取る。
攻撃を再開するも、全て空を切る。
一撃も届かない。
「本物の怪物になったんだな」
「──もう、お前に人間の部分は残ってない」
(意味がない……)
(こいつの身体は、俺の思考の先を行く……)
(……俺がパターンに縛られてる限り……)
目を閉じる。
深く呼吸。
そして、微笑む。
「じゃあ──理屈抜きで遊んでやるよ」
右手に──新たな剣が現れる。
真紅に燃える、命を宿したような剣。
パペットが後退する。
(なに……? その剣……どこから……!?)
(……待て……この気配……)
──そして、初めて。
彼は──震えた。
シュンの紅い剣には、黒きオーラが絡みついていた。
まるで──その鋼が怒りを呼吸しているかのように。
そして、爆ぜた。
彼の身体は一瞬で姿を消し、閃光のようにパペットの眼前へと現れる。
「ぐあっ……!」
パペットはどうにか腕を上げるが、斬撃は止まらない。
一撃、また一撃──
雷のように、裁きのように。
シュンは双剣で舞う。
秒ごとに距離が削ぎ落とされる。
パペットは回避を試みるが、反応が追いつかない。
(バカな……! 近づいてくる……どんどん……!)
焦燥に駆られ、深紅の糸を乱射。
嵐のような糸の群れがシュンを襲う。
だが、彼は空中で螺旋を描きながら回転し、
全ての糸を斬り裂いていく──
鋼と火花の交響曲。
その最後の剣は、天空へと舞い上がる。
──死を告げる約束のように。
パペットは後退。
「近寄るなァッ!!」歪んだ声で吠える。
だがシュンは止まらない。
剣すら持たずに、拳を握って突進する。
──その瞬間、パペットは微笑む。
(今だ……! 俺のものだ……!)
腕を広げ、捕らえようとした。
だが、シュンの拳の方が速かった。
一撃──
パペットの身体が吹き飛ばされる。
そして、その瞬間。
空から落ちてきた剣を、彼は掴んだ。
その瞳は冷たい。
その意思は揺るぎない。
「……今度は、お前が俺のものだ」
紅い斬撃がパペットの胸を切り裂いた。
その衝撃波で彼は地面に叩きつけられ、巨大な亀裂が走る。
だが──
シュンは追撃を止めない。
再び現れ、上から押し潰すように叩き込む。
爆発。
轟音。
沈黙。
(……こんな、馬鹿な……)
パペットの意識が霞む。
再び、シュンが目の前に現れる。
両手に剣を構え、冷たい眼差しを向ける。
(こんなの……現実じゃない……)
刃が振り下ろされる。
一閃、また一閃。
容赦ない、死の舞踏。
パペットの肉体は切り刻まれる。
叫びはもはや人のものではなかった。
痛みだけが──彼の言語。
「負ける……わけには……いかないッ!!」
絶叫と共に、彼の体内から暴力的な力が放出される。
シュンは吹き飛ばされる。
パペットが立ち上がる。
傷が、ぬるりとした音と共に塞がっていく。
四肢が歪みながら再生する。
そのオーラは──狂気の嵐。
「死ねェェェェェェェ!!」
無数の糸を放ち、周囲の死体を操る。
──死体の軍勢。
──操り人形の兵士たち。
「皮を剥いで、魂を砕いて、何度でも使い潰してやる……シュン……貴様を呪ってやる……!」
シュンは一歩も動かず、ただ見つめる。
「……残念だな、実験体009」
その言葉に、パペットの動きが止まる。
その番号──
「君も、他の者たちも……望んでそうなったわけじゃない」
「君の苦しみを、俺は想像すらできない」
「君に起きたことを正当化するつもりもない」
その声は穏やかだった。
どこか……哀しみにも似ていた。
「──だが、一つだけ言える」
「俺の大切な人たちを、巻き込んだ」
「──それだけは、絶対に許さない」
彼の身体が光を放ち始める。
白い輝き。
金色の粒子。
空が裂け、
ラッパの音が響き、
天の歌声が降り注ぐ。
大地が揺れる。
「なぜ──俺がこう呼ばれるのか、見せてやる」
その瞳が、純金に輝いた。
背から白い翼が現れ、金糸がそれを飾る。
頭上に、光の輪。
白銀の剣が、神光を帯びる。
その力が、戦場すべてを照らす。
──遥か遠く。
兵士たちが次々に気絶し、
ヨゲンが膝をつく。
「ふ、ふざけんなよ……」
「隊長、早く退避を──!!」ウィロックが叫ぶ。
だがヨゲンは答えない。
(こいつ……最初からこんな奴だったのか……?)
アフロディータは、唖然とする。
「嘘でしょ……? こんなの……人間じゃない……」
ティレシアスは遠くの崖で目を閉じる。
(……もうすぐ終わる)
エスカトスは笑った。
「──悪魔が……仮面を外したな」
天から見下ろす、王の従者たる天使が静かに頭を垂れる。
エデンは、ゲンとの戦いからふらつきながら後退していた。
(初めから──お前は、普通じゃなかった……)
(だが、それでも……お前は、誰よりも人間らしいよ、ピンク髪)
シュンが剣を掲げる。
天から──光の柱が降り注ぐ。
それは──神の裁き。
「──さようなら」
「安らかに眠れ」
「俺は、もう二度と──あんな地獄はごめんだァァァァッ!!」
パペットの叫びが、世界を揺らす。
──記憶の中。
カプセル……
黄金の液体……
見下ろす科学者たち……
「──二度と、同じ目には……!!」
最後の一撃。
──魂の咆哮。
──絶望の咆哮。
だが、シュンの声がそれを切り裂いた。
「──永遠の眠りを」
そして、光が降る。
全てを──飲み込む。
パペットの身体から、数百の魂が解き放たれる。
歪んだ顔。
泣き叫ぶ無垢な顔。
──解放された命たち。
全てを照らす──純白の輝き。
そして──
静寂。
残されたのは、焦土と化した大地。
その中心に、
シュンが立ち尽くしていた。
静かに、空を見上げる。
「……これから先は、お前に任せるよ──エデン」
その足元に──
一輪のスイセンが咲いた。
白く、清らかに。
──灰の中から、命が芽吹く。