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第89章:モンスター

肉体を超えて存在するものがある。


地面ではなく意識の中を這う暗い形。


彼らには顔はないが、すべての人の中に反映されている。


彼らには声はないが、心の奥底から叫んでいる。


モンスターが必ずしも破壊するわけではない...


時には生き残る者もいる。


立ち続けるという望み以外、すべてを失った者。


愛するものを守るために、深淵を愛することを学ぶ者。


しかし、越えてはいけない境界線というものがある。


そして、一度越えてしまうと、


あなたが誰だったかはもう問題ではありません...


まさにあなたがそうなったのです。


だってモンスターだって…


かつては人間だった。


————————————————————————————————————————————————————————————————


洞窟の入り口は、まるで死んだ獣の口のようだった。


湿り気を帯び、歪み、忘れ去られた機械と錆びた骨に満ち、


吐き気を催すほど濃密な悪臭が、霧さえも嘔吐しているかのように漂っていた。




エデンは一歩踏み入れた瞬間、思わず足を止める。


胸を圧迫するような空気の重さ。




……怖い。


本当に、怖い。


心の中で呟きながら、暗闇に目を慣らしていく。




背後から、シュンの軽薄な声が静かに緊張を切り裂いた。




「アイツは、本物の怪物だな……」


「戦うたびに進化してる。想像以上に厄介だ」




その直後、ブンッと鋭い音が空気を切り裂いた。


エデンの目の前を、致命的な衝撃波がかすめる。




「っ!」




即座にシュンが反応し、彼を横に突き飛ばす。




ドォン!




爆風が洞窟を揺らし、朽ちた装置の破片が四方に飛び散った。




「……出てこい、パペット」




シュンが剣を構えながら、低く呼びかける。




濃霧が凝縮し、そこから何かが現れる──


それは、ゆがんだ笑みと病的な瞳を持つ男。




パペット。




その体からは目に見えぬ瘴気がうねるように放たれ、


まるで無数の蛇が彼を包んでいるようだった。




「やっぱり……間違ってなかった」


パペットは顔を歪めて笑う。


「君たちのために来たんだよ。そして──君のために、エデン・ヨミ」




「特別なプレゼントがあるんだ」




「黙れ」


シュンが唸るように言った。


「お前の茶番に付き合ってる暇はない」




「……残念だなあ」


パペットは両腕を広げ、舞台監督のように堂々と言った。


「でもこれは僕のショーなんだ。君たちは観客さ」




その瞬間、洞窟内の隠されたライトが一つずつ灯る。


そして、照らされた光景に──誰もが凍りついた。




異形の軍隊。




無数の操り人形たちが、糸に吊るされ、立ち尽くしていた。


眼をえぐられた者。


肉のない者。


苦悶と死の狭間で表情を固定された者。




静寂のなか、シュンがぽつりと呟いた。




「……なんだ、これは」




高所から見下ろせば、さらに異様な光景が広がっていた。


朽ちた兵士。


武器を引きずる子供。


虚ろな瞳の老人。


……悪夢そのもの。




エデンの脳が追いつかない。




これは──死者なのか?




パペットが狂ったように笑い出し、


自分の顔を爪で引き裂き始めた。




血混じりの肉片が床に落ちていく。




「アースの市民たちさ……」


「グレクの住民も……」




エデンの頭に、記憶がよみがえる。


かつて見た死者たち。破壊された町。失われた笑顔。




「そしてノルクの者も……ヴィリ……ヴェ……クー・ナーヴェまで……」




その名を聞いた瞬間、彼の目がとらえた。




「……タケミ……」




喉が震える。怒りと嫌悪が混じった声にならない声。




拳を握る。


爪が手のひらに食い込むほどに。




「……ふざけるな……!」




「抑えろ」




シュンの声が鋭く響く。


「ここで感情を乱せば──死ぬぞ」




シュンには分かっていた。


この場所に、"甘さ"は通用しない。




パペットが片腕を上げた。


口元は裂けんばかりに歪んでいた。




「幕を上げろ!!」




その目が虚ろになる。


命令が吐き出された。




「攻撃開始──!!」




操り人形たちが、咆哮を上げながら一斉に突撃してくる。




シュンは即座に動いた。


冷静かつ鋭利な動きで切り払い、敵を一掃していく。




だが──




「たす……けて……」




その声が、壊れた人形のひとつから漏れ出た瞬間、


エデンの体が止まる。




そして──




ドガァッ!!




壁に激突し、深い亀裂が岩肌に刻まれた。




「エデン!!」




シュンが叫ぶ。


剣を一閃し、目の前の敵をまとめて切り捨てる。




パペットは、満足げに笑った。




「弱い……あまりにも、人間らしすぎる」




「偽善者ぶるな。腐った人形を救って何になる?」




黒い唾を地面に吐く。


石に当たって、濁った音を立てた。




「……吐き気がする」




「……悪いな」




シュンが小さく呟くと、


一閃で残っていた敵を一掃した。




エデンの元へ駆け寄る。




「大丈夫か」




「……こんなの、あんまりだ……彼らは、こんな目に……」




「じゃあ、お前はそこでうずくまるのか?」




「苦しむ人を、見殺しにするのか?」




エデンはゆっくりと顔を上げた。




その目には、もう迷いはなかった。


代わりに──燃える怒りが宿っていた。




「俺は……信じてる」


「彼らには、もっと良い結末があるべきだと」




「……ああ。その通りだ」


シュンが頷く。




エデンが立ち上がる。




だが、その瞬間──


再び操り人形たちが集まり、彼を囲む。




シュンは迷わなかった。


跳躍一閃。


純粋なエネルギーを込めた斬撃が、敵をバラバラにしていく。




奥の方で、パペットが笑みを浮かべていた。




「……やっぱり、奇襲は無理か」




シュンの目が細まる。




何かがおかしい。


この男、既にとんでもない量のエネルギーを使っているはずなのに──


なぜまだ動ける?




……このまま消耗戦になれば──負ける。




その時。




ミシミシ…バキバキ……




不気味な音が洞窟に響く。




操り人形たちの身体が──


再生し始めた。




「……ふざけんな」




シュンが目を見開く。




「エデン。何をすべきか、分かってるな」




シュンの声が、沈黙を切り裂いた。


エデンは静かに頷いた。


もはや迷いなど入り込む余地はなかった。




次の瞬間、シュンが桜色の稲妻のように駆け出す。


剣が空を裂き、正確かつ破壊的な舞を描きながら、操り人形を次々に葬っていく。


その通った跡には、ただ腐臭と破片だけが残った。




「──今だ!」




エデンが歯を食いしばり、剣の先に莫大なエネルギーを集中させる。


その瞳には、眩いほどの覚悟が宿っていた。




「……深淵斬しんえんざん」




闇を切り裂く、絶対なる一閃。


空間に黒き裂け目が生まれ、虚無のごとき裂け目が全てを吸い込んでいく。


人形、肉体、断片、そしてこの場の「ささやき」すら──




その流れに、タケミの姿もあった。


歩みは遅い。けれど、確実に裂け目へと向かっていた。




エデンは手を伸ばした。届かないと知りつつも──




そのとき、タケミがこちらを見た。


そして、微笑んだ。ほんの少し、でも確かに。


安堵のような、優しい笑み。




エデンの心が、完全に崩壊した。




裂け目が閉じ、そして──




爆ぜた。




「エデン、終わってないぞ!」




シュンの叫びが、残響を断ち切る。




「──はい!」




涙を拭い、怒りを力に変えて立ち上がる。




二人は同時に跳び出した。


まるで二つの音が重なる旋律のように。


一方が防ぎ、一方が斬る。


一方が叫び、一方が沈黙の中で誓う。




操り人形は、次々と崩れ落ちた。




そして──




「このクソがぁぁぁあああああッ!!」




パペットが絶叫する。


怒りに震え、理性を失っていた。




そのとき──




ヴィリとヴェが、シュンに襲いかかった。




洞窟内が、光と鋼とエネルギーの爆発で満ちる。




斧が空を裂く。


剣が応じる。


音が追いつくのに、数秒かかるほどの速さ。




シュンはヴィリの斧を受け止め、その瞬間に膝蹴りを叩き込む。


ヴェの足元へと身体を回転させ、足首を叩き斬った。




そして、迷いなく──




ヴェの首を一撃で斬り落とした。




黄金の瞳が光を放ち、続けざまにヴィリの胸を貫いた。


拳を握りしめ、心臓ごと破壊する。




「──これで、休めるな」




静かに、祈るように呟く。




その時、天井から一筋の光が差し込んだ。


二人の体は灰へと還る。


そして、微笑んだ。


やっと……安らぎが来たのだ。




「……そんな、そんなことが……!」




パペットが呟く。


「勝ってるはずだ!俺がッ!俺が強いはずなんだッ!」




シュンが死体の上から彼を見下ろす。




「降伏しろ、パペット。情報を渡せば、裁きは軽くしてやる」




だが──パペットの瞳は、もうここにいなかった。




「……俺は……強い……強いはずなのに……こんなはずじゃ……!」




シュンが息をのむ。


崩れた。


心の奥から。




「分かった……ようやく、分かったよ」




パペットが歪んだ笑みを浮かべた。




「勝つためには……全てを捧げる必要がある。自分さえも」




その瞬間──


全ての糸が切れた。




操り人形が、一斉に崩れ落ちる。


地面に叩きつけられ、割れ、爆ぜ、腐臭とともに広がっていく。


内臓、黒く爛れた肉、見開かれた眼──


まるで、生きた墓場。




シュンもエデンも、言葉を失っていた。




「残念だな……」




パペットの声が、静かに響いた。




「君の全盛期を制御できなかったのは……心残りだけど」




「君で、実験できたのは……楽しかったよ」




霧の中から、巨大な影が現れる。




その体は、無数の傷と縫い目で覆われていた。


筋肉は常軌を逸して膨らみ、髪は灰のような色。


瞳は獣のように鋭く、橙色に光っていた。




「──出でよ。ゲン・ヨミ」




パペットが、儀式のように宣言した。




エデンの顔が歪む。




「うそだろ……そんなの、信じられない……!」




記憶が、蘇る。




あの声。


あの守り。


あの最期の言葉。


──そして、カイとリュウに奪われた、その瞬間。




「……悪い冗談にも、ほどがある……」




「てめぇ……!」




シュンが剣の柄を強く握る。




ゲンの体はひどく損傷していた。


右手は無く、胴には縫い目が無数に走っている。


まるで一度バラバラにされた後、無理やり繋ぎ止められたかのように。




「……おじいちゃん……」




エデンが膝をつく。




「ごめん……俺、弱かったんだ……」




「もっと、もっと近くにいたかったのに……」




「こんな結末、望んでなかったのに……っ!」




涙が、頬を濡らす。




「おじいちゃん……俺、もっと……」




シュンは歯を食いしばる。




(このままじゃ……戦えない。壊れる)




「エデン、逃げろ」




「え……?」




「戦うな。今のお前じゃ無理だ。早く──!」




──光。




次の瞬間、ゲンが目前に現れ、蹴りを放つ。




バギィィッ!




骨の砕ける音。


内臓が破裂する感覚。


エデンの体は空を舞い、岩柱に激突する。




「──エデンッ!!」




シュンの絶叫。


しかし、遅かった。




動きも、気配も、何も感じなかった。


ただ──




そこに、ゲンがいた。




立ち尽くすその手には、白い剣。


今まで眠っていたはずの、エデンの剣。




ゲンはそれを見つめ、


ゆっくりと顔を上げる。




その瞬間、シュンの魂にまで響く威圧が走る。




──これは、獣だ。


鎖も理性もない、ただの本能。




そして、斬撃が放たれた。




シュンが剣で受け止めた刹那──


地面が割れ、爆風が洞窟を襲った。




岩が飛び、血が舞い、


音すら吹き飛ぶような、圧倒的な一撃だった。




戦いの轟音が、太古の戦争の残響のように洞窟に響き渡る。


シュンとゲンがぶつかり合うたび、空気が裂け、空間に亀裂が走る。


一撃ごとに爆発。


刃が交わるたびに、世界と世界が衝突した。




そして──静寂。


両者が後退し、荒い息を吐きながら、互いを獣のように睨み合う。


同じ群れに属する、野生の本能。




その隅に、エデンがいた。


その身体は、もはや残骸。


折れた骨。裂けた皮膚。乾いた血と新しい血が混ざり合い、一つの敗北の絵を描いていた。




(そうだ……全部……俺のせいだ……)




その思考は甘く、そして毒のように心を蝕んでいく。


痛みではない。もっと深い。


自分が存在するだけで、周囲を壊してしまうという確信──




(何も変わらない……皆を不幸にする……俺は呪われてるんだ……)




死の匂いが全身を包み込む。


それと共に、記憶が蘇る。




──暖かい日々。


──日本。


──家族。


──友達。


──太陽の下でのサッカー。


──笑い声。告白。曲がったケーキと、素直なハグ。




──それらは、すべてもう──




(戻ってこない……)




パキン、と音がした。


骨でも、筋肉でもない。




──意志だった。




濃く、粘るようなエネルギーが彼の身体から噴き出した。


黒い絶望の色をしたそれは、生きていた。




(今からは……)




暗黒が囁いた。




地面が震える。


シュンとゲンの動きが止まる。


生まれ始めた圧力に、全員が息を呑んだ。




(俺が──創る)




肌から走る黒い稲妻。


それを、パペットは「感じ」、


シュンは「理解し」、


ゲンは──「嗅ぎ取った」。




(俺だけの……運命を)




洞窟の天井から、漆黒の光柱が降り注ぐ。


その中で、エデンの傷が瞬時に癒える。


そして現れたのは──かつての彼ではなかった。




その身体は、闇のエネルギーで形成された金属の鎧に包まれていた。


紫の輝き。金の紋様。


顔全体を覆うヘルメット。


だが、その瞳だけは見えた──血のように燃える、真紅の瞳。




虚無から、誰かの声が囁く。


──「tnecrep evif-ytnewt」




空気が変わる。


その存在感が、場を圧倒する。




シュンが一歩後ずさる。




「……エデン……?」




「アイツを任せる」


エデンは、ためらうことなく言い放つ。


「……ここは俺に任せてくれ」




その瞳を見たシュンは、言葉を失った。




──それは、決意を宿した男の瞳だった。




「フッ……本当に、驚かされっぱなしだな。エデン・ヨミ」




シュンが笑う。だが、目は真剣だった。




その上空──パペットは冷静に見つめていた。




(……それでも足りない。俺の最高傑作でも足りない……なら、"あれ"を使うしか──)




──だが、間に合わなかった。




シュンが、まるで神の審判のように現れ、


パペットの頭を掴んで、遥か彼方へと投げ飛ばした。




その体は、燃える流星のように洞窟を横切り、遥か彼方の岩山へと激突した。




静寂。




力のうねりだけが、残された。




その場に残る、エデンとゲン。




言葉はなかった。




──だが、必要もなかった。




「……おじいちゃん……」




エデンが小さく呟く。




「君を、この地獄から救い出す……!」




両者が、剣を構える。




──そして、咆哮が響く。




戦いが、始まった。




✦ ✦ ✦




一方その頃──




遠くの山に叩きつけられたパペットの身体は、血と岩で出来た亀裂の中にあった。


その肉体はバラバラに近かった。




(なんだった……今の……!?)


(まったく反応できなかった……!)




その前に──シュンが、静かに屈んでいた。




「……それだけか? もっとやると思ってたぜ」




パペットが血を吐きながら笑う。




「クク……まだ切り札はあるさ……」


「回復が必要なら……」


──シュンは腕を伸ばし、背を向ける。


「……好きなだけ時間をやるよ」




その仕草が──理解できなかった。




(なんだ……これは……?)


(さっきまで俺が押していたはずなのに……どうして……!?)




否定した。




(いや……そんなはずはない)




(まさか……今までずっと、手加減されていたのか……?)




──馬鹿な。




しかし、震える身体は嘘をつけない。


額の汗も、止まらない。




シュンはただ、首を回してストレッチしていた。


まるで試合前の、余裕のある選手のように。




(……この感情は……なんだ……)


(まさか、俺が……恐れてる……!?)




その瞬間、動いた。


音もなく、殺気もなく。




──だが、目が合った。




黄金の瞳。


それだけで、心臓が凍る。




「──準備はいいか?」




無表情のまま、シュンが問う。




「は、はい……!」




砕けた骨が再生される。


破れた皮膚が塞がる。


パペットの身体が再構築されていく。




──けれど、足だけは、震えていた。




「じゃあ──遊んでやるよ」




歪んだ笑みを浮かべ、パペットの身体が死の瘴気を放つ。




粘りつくような、腐った匂い。




シュンが舌打ちした。




「──やれやれ。まだ遊び足りないのかよ」




「今度こそ……」


かすれた声で、どこか壊れたようにパペットが呟いた。


「今度こそ、俺が楽しむ番だ……!」




突如、虚無から現れた数百本の深紅の糸が彼の全身を貫いた。


それは武器ではなかった。


──拷問だった。




糸は肉を、神経を、骨を、眼球さえも貫いた。


痛みが全身を犯す。


パペットは叫んだ。




──だが、その声はもはや人のものではなかった。




空気が泣いているかのような、歪みきった残響。


血が噴き出し、視界が赤に染まる。


鼻が潰れ、耳から血が流れ落ちた。




それでも──彼は笑った。




まるで、苦痛そのものが甘美な悦びであるかのように。




「今度こそ……制限なんてねぇ!!」


血に染まりながら絶叫する。


「今度こそ、てめぇを──ぶっ壊す!!」




糸が彼の眼球を突き刺し、


温かい血が地面に飛び散った。




その光景は──もはや地獄。




死にかけの肉体が、笑みを絶やさないまま崩れ落ちる。




シュンは言葉を失い、一歩後ずさった。


──何が起きている……?




その瞬間、爆発した。




ズタボロのパペットの肉体の奥から、別の何かが現れる。


骨まで焼かれたような──


痩せ細り、異様に長い──


人間ではない何か。




生きた──人形。


現実に顕現した──悪夢。




そして、そいつは笑っていた。




真っ白な歯。


鋭い笑み。


血に塗れた口元。




シュンが瞬きをした、その刹那──




──数百本の糸が彼の身体を貫いた。




「ぐあっ……!」


背中から血が噴き出す。




すぐさま糸を切り裂き、反射的に身を翻す。


だが、傷口から紫の液体が滲み出ていた。




──毒……? いつの間に……? どうやって……?




身体がふらつく。


口から血があふれる。




筋肉が、内部から焼けるように疼き、


肺が──潰れていく。




(……時間がない。早く、決着を……)




震える呼吸を整え、立ち上がる。


剣を握り──突撃。




鋭い一閃。




パペットの胸が紙のように裂けた。




「……捕まえた!」




──だが。




パペットがシュンを抱きしめる。




その背から、巨大な二本の鎌が生え、


左右から彼の身体を貫いた。




「ぐっ……!」




喉から絞り出すような叫び。


血が洪水のように吹き出す。




パペットの腕に力がこもる。


身体を、真っ二つに引き裂こうとしている。




骨が軋む音。


内臓が潰される感覚。




その声は、地下世界の隅々まで響いた。




(……終わりだ)


パペットはそう確信していた。


目の前の男は、もう──ただの人形だった。




シュンの腕が力なく垂れ下がる。


床を、真紅の川が染めていく。




全てが止まった。




静寂。


──病的なほどの静けさ。




そして、勝利。




「……俺が……勝者だ……」




──そのとき。




声がした。




「もう、十分楽しんだろう」




パペットの瞳が見開かれる。




目の前のシュンが──笑っていた。




次の瞬間、凄まじいエネルギーがシュンの身体から爆発する。




パペットの腕が粉砕された。


背中の鎌が木端微塵に砕け散る。




地面が震えた。




「な、なにが……!?」


思考すら追いつかない。




「……なぜ生きてる……!? なんで……!?」




シュンの身体から蒸気が立ち上る。


傷が一つずつ、自然と塞がれていく。




──まるで、死にさえも許されたかのように。




「……残念だな」


穏やかに、そして淡々と彼は言う。


「気に入ってた服だったのに……台無しだ」




ゆっくりと顔を上げる。


その瞳に、野性の自信が宿っていた。




「Let’s go, bitch.」




その言葉と共に、動き出す。




斬撃。突き。閃光。衝撃。




それは──目では追えない舞。




だが、パペットは避け続けた。




その身体は、まるで全ての動きを予知しているかのように。


制限のない、完璧な動き。


──もはや、人ではない。




「ふうん……」


シュンが小さく呟き、距離を取る。




攻撃を再開するも、全て空を切る。


一撃も届かない。




「本物の怪物になったんだな」




「──もう、お前に人間の部分は残ってない」




(意味がない……)


(こいつの身体は、俺の思考の先を行く……)


(……俺がパターンに縛られてる限り……)




目を閉じる。




深く呼吸。




そして、微笑む。




「じゃあ──理屈抜きで遊んでやるよ」




右手に──新たな剣が現れる。




真紅に燃える、命を宿したような剣。




パペットが後退する。




(なに……? その剣……どこから……!?)


(……待て……この気配……)




──そして、初めて。




彼は──震えた。




シュンの紅い剣には、黒きオーラが絡みついていた。


まるで──その鋼が怒りを呼吸しているかのように。




そして、爆ぜた。




彼の身体は一瞬で姿を消し、閃光のようにパペットの眼前へと現れる。




「ぐあっ……!」


パペットはどうにか腕を上げるが、斬撃は止まらない。




一撃、また一撃──


雷のように、裁きのように。




シュンは双剣で舞う。


秒ごとに距離が削ぎ落とされる。




パペットは回避を試みるが、反応が追いつかない。


(バカな……! 近づいてくる……どんどん……!)




焦燥に駆られ、深紅の糸を乱射。


嵐のような糸の群れがシュンを襲う。




だが、彼は空中で螺旋を描きながら回転し、


全ての糸を斬り裂いていく──


鋼と火花の交響曲。




その最後の剣は、天空へと舞い上がる。


──死を告げる約束のように。




パペットは後退。


「近寄るなァッ!!」歪んだ声で吠える。




だがシュンは止まらない。


剣すら持たずに、拳を握って突進する。




──その瞬間、パペットは微笑む。




(今だ……! 俺のものだ……!)




腕を広げ、捕らえようとした。




だが、シュンの拳の方が速かった。




一撃──


パペットの身体が吹き飛ばされる。




そして、その瞬間。


空から落ちてきた剣を、彼は掴んだ。




その瞳は冷たい。


その意思は揺るぎない。




「……今度は、お前が俺のものだ」




紅い斬撃がパペットの胸を切り裂いた。


その衝撃波で彼は地面に叩きつけられ、巨大な亀裂が走る。




だが──


シュンは追撃を止めない。




再び現れ、上から押し潰すように叩き込む。




爆発。


轟音。


沈黙。




(……こんな、馬鹿な……)


パペットの意識が霞む。




再び、シュンが目の前に現れる。


両手に剣を構え、冷たい眼差しを向ける。




(こんなの……現実じゃない……)




刃が振り下ろされる。




一閃、また一閃。


容赦ない、死の舞踏。




パペットの肉体は切り刻まれる。


叫びはもはや人のものではなかった。




痛みだけが──彼の言語。




「負ける……わけには……いかないッ!!」




絶叫と共に、彼の体内から暴力的な力が放出される。


シュンは吹き飛ばされる。




パペットが立ち上がる。


傷が、ぬるりとした音と共に塞がっていく。


四肢が歪みながら再生する。




そのオーラは──狂気の嵐。




「死ねェェェェェェェ!!」




無数の糸を放ち、周囲の死体を操る。


──死体の軍勢。


──操り人形の兵士たち。




「皮を剥いで、魂を砕いて、何度でも使い潰してやる……シュン……貴様を呪ってやる……!」




シュンは一歩も動かず、ただ見つめる。




「……残念だな、実験体009」




その言葉に、パペットの動きが止まる。




その番号──




「君も、他の者たちも……望んでそうなったわけじゃない」


「君の苦しみを、俺は想像すらできない」


「君に起きたことを正当化するつもりもない」




その声は穏やかだった。


どこか……哀しみにも似ていた。




「──だが、一つだけ言える」




「俺の大切な人たちを、巻き込んだ」




「──それだけは、絶対に許さない」




彼の身体が光を放ち始める。


白い輝き。


金色の粒子。




空が裂け、


ラッパの音が響き、


天の歌声が降り注ぐ。




大地が揺れる。




「なぜ──俺がこう呼ばれるのか、見せてやる」




その瞳が、純金に輝いた。


背から白い翼が現れ、金糸がそれを飾る。


頭上に、光の輪。




白銀の剣が、神光を帯びる。




その力が、戦場すべてを照らす。




──遥か遠く。




兵士たちが次々に気絶し、


ヨゲンが膝をつく。




「ふ、ふざけんなよ……」




「隊長、早く退避を──!!」ウィロックが叫ぶ。




だがヨゲンは答えない。


(こいつ……最初からこんな奴だったのか……?)




アフロディータは、唖然とする。


「嘘でしょ……? こんなの……人間じゃない……」




ティレシアスは遠くの崖で目を閉じる。


(……もうすぐ終わる)




エスカトスは笑った。


「──悪魔が……仮面を外したな」




天から見下ろす、王の従者たる天使が静かに頭を垂れる。




エデンは、ゲンとの戦いからふらつきながら後退していた。




(初めから──お前は、普通じゃなかった……)


(だが、それでも……お前は、誰よりも人間らしいよ、ピンク髪)




シュンが剣を掲げる。




天から──光の柱が降り注ぐ。


それは──神の裁き。




「──さようなら」




「安らかに眠れ」




「俺は、もう二度と──あんな地獄はごめんだァァァァッ!!」




パペットの叫びが、世界を揺らす。




──記憶の中。




カプセル……


黄金の液体……


見下ろす科学者たち……




「──二度と、同じ目には……!!」




最後の一撃。




──魂の咆哮。


──絶望の咆哮。




だが、シュンの声がそれを切り裂いた。




「──永遠の眠りを」




そして、光が降る。




全てを──飲み込む。




パペットの身体から、数百の魂が解き放たれる。




歪んだ顔。


泣き叫ぶ無垢な顔。


──解放された命たち。




全てを照らす──純白の輝き。




そして──




静寂。




残されたのは、焦土と化した大地。




その中心に、


シュンが立ち尽くしていた。




静かに、空を見上げる。




「……これから先は、お前に任せるよ──エデン」




その足元に──




一輪のスイセンが咲いた。




白く、清らかに。


──灰の中から、命が芽吹く。

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