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第90章: ぼやけた記憶

時々、魂は爆発や涙もなく、静かに崩壊します。


残っているのは遠い声と漠然とした感覚、かつて私たちが何であったかの残響だけです。


記憶は、傷つくと歪んでしまう。


それらは霧の後ろに隠れ、まるで私たちの心が私たち自身を守ろうとしているかのように、時間の裂け目の中に溶け込んでいきます。


しかし、忘れることは決して癒されない。ただ埋めてしまえばいい。


そしてその瞬間が訪れます。


過去が記憶としてではなく、傷として蘇る瞬間。


忘れようと選択したものに直面したとき、私たちは何になるのでしょうか?


愛する人の姿に映った自分自身さえも認識できなくなったとき、私たちに何が残るのでしょうか。


ただ前進するだけでは不十分な場合があります。


私たちはそれに立ち向かわなければなりません。


モンスターの目を見つめなければなりません。


たとえその怪物が我々自身の顔を持っていたとしても。


————————————————————————————————————————————————————————————————


洞窟は、完全な静寂に包まれていた。


戦いの痕跡など一切ない。


ただ舞い上がる塵と、わずか数歩の距離を隔てて立つ二つの影だけ。




裂け目から差し込む風が、緊張をなぞるようにそっと吹き抜ける。




エデンはゆっくりと頭を垂れ、目の前の男をまっすぐに見据える。




「……おじいちゃん」




ジェンの瞳は、嵐のように冷たく、すべてを見尽くした者の静寂に満ちていた。


その身体に刻まれた無数の傷が、語らぬ痛みを物語っている──


過去の傷、罰、時の重み……そして、捨てられた記憶。




「こんなことになって……ごめんなさい。本当に……ごめん」




その声は震えていた。


弱さからではない。


──長いあいだ隠してきた罪悪感が、ようやく溢れ出たから。




「言葉はいらないよ。君の傷が、すべてを語っている」


「痛みも、怒りも……沈黙も。全部、僕のせいなんだ」




エデンの拳が震える。


指を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。


堪えてきた怒りが、ついに沸騰し始めた。




「一年以上……ずっと訓練してた。毎日、願ってたんだ」


「おじいちゃんがまだ生きていてくれるように──」


「そして、許してくれるようにって……」




潤んだ目が、迷いなく相手を見据える。




「俺と出会った人たちみんな……何かを失ってしまった」


「まるで……俺が歩く呪いみたいに」




少しの沈黙。




「何度も……何度も思った。あの日に死んでいればよかったって……」


「あるいは、その後のどこかで、終われていればって」




傷だらけの顔が脳裏に蘇る。


拷問された夜。


呼吸だけを頼りに這い続けた日々。


終わりを願った祈り──




「そしたら……誰も、俺のせいで傷つかずに済んだのに」




その唇が、微かに震える。




「……でも、それでも……」




瞳に、炎が灯る。




「生きたいんだよ、おじいちゃん」


「心の奥底から、そう願ってる」




風が洞窟の奥で唸る。


まるで、大地が彼の言葉を聞いているかのように。




「もう逃げるのはやめたい。


ただ惰性で生きるのも、もう終わりにしたい」




一歩、前へ。




「“善”のため? どうでもいい」


「人類? くたばればいい」


「この世界? 壊してやるさ」




喉の奥から絞り出した叫びが、天井を揺らす。




「聞いてるか、運命ッ?! ふざけんな! もう俺の物語を勝手に書くな!!」




その瞳が真紅に染まる。


闇のエネルギーが渦を巻き、意志と怒りの嵐となって身体を包む。




「──俺が、俺の道を描く」




剣を高く掲げる。




「そして……お前を、地獄から解放する」




地面が震える。


二人が同時に動いた。


剣が交差する──


その速さは、肉眼では追えない。




火花。


斬撃。


力の衝突。




エデンは咆哮しながら剣を振るい、


ジェンは沈黙の中でそれを受け止める。




洞窟に響く金属音。


まるで、響きそのものがこの戦いから逃げ出したいと訴えているかのよう。




一撃ごとに、記憶がよみがえる。


剣が交わるたびに、言えなかった告白が刻まれる。


吐息が漏れるたびに、過去の傷が開く。




やがて──




「闇術・シャドウ」




エデンが呟き、顔のない影が彼の隣に現れる。




攻撃が加速する。


エデンとその影が完璧な連携で畳みかける。


ジェンは壁際に追い詰められる。




そして、影が砕け散る刹那──


エデンが背後に現れた。




──一閃。




ジェンの身体が壁に叩きつけられ、土煙が上がる。




エデンは息を切らし、汗で濡れている。




「……チクショウ……この技、消耗がデカすぎる……」




煙の中から姿を現すジェン。


無傷。


その瞳は依然として静か……だが、不気味なほどだった。




「やっぱりな……」




その内側から、声が響く。




『困ってるみたいだな』


ヴォラトラックスの声。




「……まあ、そんなとこ」




エデンが皮肉っぽく笑う。




ジェンの剣に宿る光の精霊が、微かに輝いた。




『もっと本気でいかないといけないな』




エデンが指を組む。




「ダークフレア」




ジェンの足元から黒炎が噴き出す。


だが──その動きは、人間離れしていた。


軽やかに躱す。




……それだけではない。




「──セカンド」




魔法陣が幾重にも展開され、ジェンを囲む。




──同時爆破。




洞窟を覆うような爆音。


轟く咆哮。




「これで……」




しかし、炎が割れる。


その中から、傷一つないジェンが現れる。


服はボロボロだが、身体は無傷。




「……ふざけんなよ」




エデンが呟く。


怒りを隠せない。




ジェンが目を上げる。




「──殺す」




その声に、憎しみはない。


それは──呪いだった。


身体に刻まれた、生きるための命令。




エデンの背に、ぞわりと恐怖が這い上がる。


足が動かない。




大地が鳴動し、


空気が凍りつく。




ジェンの姿が変わっていく──


筋肉が膨張し、


牙が伸び、


その瞳はもはや、人ではなかった。




──赦しを知らぬ、獣。




ジェンの肉体が変貌を始めた。


背骨から濃い橙色の体毛が生え始め、背中、腕、胸、顔へと広がっていく。


まるで──人間の体から獣が誕生するかのように。




瞳は鋭く細くなり、筋肉は倍増し、その存在感はただ一言で表せた。




──圧倒的。




エデンは唾を飲み込む。


この洞窟の中で、何か……“怪物”が育っている。




「な……に?」




その疑問が言葉になる前に──ジェンはもう目前にいた。




巨大な手が、顔を鷲掴みにする。


容赦ない凶暴さで、地面を這わせるように引きずる。




地に刻まれる血の跡、砕ける骨、えぐられた土。




壁に叩きつけられる。だがそれは──安息ではない。




それは、地獄の序章。




次の瞬間、蹴りが襲う。


まるで戦車の突撃。


まるで神の咆哮。




エデンの胸骨が砕ける。


大地が揺れる。


岩が割れる。


洞窟が軋む。




──そして、処刑が始まる。




拳が振るわれる。


拳が、拳が、拳が……




砕ける肉。


裂ける骨。


血飛沫が、暴力という嵐の中で雨のように降る。




一撃ごとに、彼の身体が沈む。


疑念の底へ。


絶望の底へ。


己の底へ。




『……本当に、それでも生きる価値はあるのか?』




穏やかで深い声が、意識の奥底から響いた。




『……何の話だ?』とヴォラトラックスが問い返す。




『なんでこんな苦しみに耐えなきゃいけないんだ?』


『どうして……ただ幸せに生きることが、こんなにも難しい?』




エデンが血を吐きながら、思考の中で叫ぶ。




ヴォラトラックスは数秒、黙ったまま。


やがて、その声が人間らしい柔らかさを帯び始める。




『ある人間が言っていたよ』


『悲しみや痛みは、生きている証だと』


『もし世界が幸せだけだったなら……それは、嘘にしか感じられないだろうって』




『失敗して、また失敗して、それでも……』


『成功したとき、初めてそれを“意味”として受け取れるんだ』


『栄光のためじゃない。耐え抜いたからこそ、だよ』




骨が砕ける音に混じって、その言葉が浮かぶ。


裂けた皮膚と、かすれる息の中で、エデンは思う。




『……人生って、複雑だな』




『ああ』


ヴォラトラックスが、初めて皮肉も嘲笑もなく答えた。




『お前、意外と……悪い奴じゃないんだな』




答えはない。


ただ、沈黙。




──震えていたのは、彼だった。




エデンの中に潜む、光の亡霊。


その輪郭が揺れ、人の形に近づき、


瞳を開いたとき……


そこにあったのは、恐怖だった。




『……もし、生き残れたらさ』




血に染まった微笑みの中で、エデンが呟く。




『お前と、ちゃんと話してみたい。ヴォラトラックス』




死の目前にて。


絶望の只中で。


それでも、エデンは……少年のように笑った。




『寒い……感じるのは、それだけだ……』




『……俺、死ぬのかな?』




魂の奥底から、暗い圧力が溢れ出す。


名もなき嵐。


濁った海のような怒り。




ヴォラトラックスが、低く呟いた。




『……悪いけど、死なせないよ』




『……え?』




『俺は善人じゃないし、別にお前のためじゃない』


『ただ──お前が死ねば、俺も死ぬ』




その言葉とともに、エデンの精神に映る。




縛られたヴォラトラックス。


三体の悪魔に嘲笑され、


子供のように震えている彼の姿。




『今は……倒れるわけにはいかない』




ジェンが剣を構え、


とどめの一撃を振り下ろそうとしたその瞬間──




──爆発。




エデンの身体が、爆風となって炸裂した。




荒れ狂う波動がすべてを飲み込み、


ジェンの巨体を壁へと叩きつける。




その遥か彼方──




血塗れのシュンが、勝利の余韻に浸っていた。


呼吸は穏やか。心拍は落ち着いていた。




……そのときだった。




微かに響く、ねばつくような笑い声。




「……なに?」




虫の息のパペットが笑っていた。




「……どうやら負けたらしい」




「……まだ生きてるのか?」




「さあな……」


口から血を吐きながら、苦笑を浮かべる。




「もう……戦えない。でも、まだ……やるべきことがある」




シュンは警戒を解かずに睨む。




「何を企んでる?」




「さあ、シュン……」


パペットは赤黒い塊を吐き、笑った。




「最後のゲームをしようぜ……」




「ふざけるな。何を──」




「お前は、弟子を救うために間に合うか……」


「それとも、また……間に合わないのか?」




「空間術!!」




ポータルが開く──だが、次の瞬間に粉砕される。




「なっ……!?」




「ようこそ、俺のショーへ……」


「その名も、“爆愛ばくあいショータイム”だ」




──風に溶けるように、パペットの身体が崩れ落ちていく。


だが、その笑みだけは最後まで消えなかった。




「チク……タク……シュン君」




彼は走った。


時を超え、空間を超え、自分の恐怖さえも超えて──




そして──




世界が、沈黙した。




現実を引き裂くような、異形の咆哮。


光が吸い込まれ、


闇の中心点が現れる。




その中から──




彼が現れた。




エデン。




変貌した姿。




紫のオーラが煙のように渦巻き、


頭からは角が二本、


顎からは四本の牙。




皮膚は裂け、燃えるように生きている。


目は真紅に染まり、瞬きすらしない。




そして、その口元は──




──痛みに生まれた悪魔の笑みだった。




ナレーター:この瞬間……エデンはもはや“人間”ではない。




ナレーター:古代の、理不尽で破壊的な力に飲まれ、


      誰にも測れない存在となった。




ナレーター:この姿を──


痛みの悪魔いたみのあくま


と呼ぶ。




地底の空に響き渡る咆哮。




その頃……




地中に隠された数百の爆弾が、


静かに──カウントダウンを始めていた。




一つずつ。


一秒ごとに。




ヴォラトラックスが、かすれた声で呟く。




『……まさか……』




エデンの魂は漂っていた。


黒く、濃い霧の中に沈み込むように。


まるで終わりのない悪夢に囚われたようだった。




ヴォラトラックスは、その内側から見つめていた。


だが──今回は違う。


明らかに、何かが違っていた。




『……いつもと違う……』


『今回のこれは、俺じゃない』


『今回は──彼のほうが、俺の力に飲まれたんだ』


『そんなはずはない……彼が俺を……同化できるわけが……!』




エデンの声が響いた。


歪んだ、誰のものとも思えない声で。




「殺す……全員……殺してやる……」




『エデン!』


ヴォラトラックスの叫びは、虚しく霧に吸い込まれた。




闇の中から、黒い鎖が現れる。


狂った蛇のように這い寄り、


ヴォラトラックスの霊体を絡め取った。




『なっ……!?』




そのとき、もう一つの声が響いた。


古く、重く、冷たい。


肉体を持たずとも、聞くだけで血が凍るような声だった。




「何をしているつもりだ?」




ヴォラトラックスの顔色が変わった。


恐怖に歪む──それは、真の恐れだった。




『……まさか……』




「驚いたか?」


感情のない声が、薄らと続く。


「忘れたとは言わせない」




「お前たちは……皆、私の子なのだから」




──64番目の“未知デスコノシード”。


その存在が支配する声。




『……エデンに、何をした?』




「お前が決してできなかったことをしてやっただけだ」


「彼に、望んでいたものを与えた──“力”をな」




『耐えられるはずがない!』




「失望だよ、ヴォラトラックス。


 追放されて、ただ弱くなっただけか」




「人間一人に、なぜそこまで執着する?」




鎖がきしみ、締めつける。


ヴォラトラックスの形が歪む。




「よく見てみろ……」




霧が晴れる。


そこに現れた光景は、まさに地獄だった。




エデンは、笑っていた。


だが、それは人間の笑いではない。




空っぽで、狂気に満ち、機械のように不気味な笑み。




その目、その口、裂けた肌の隙間から、


狂気がにじみ出ていた。




その前では、ジェンが必死に抗っていた。




破壊の波動。


凶悪な一撃。




ジェンはなんとか受け止めるが、


そのまま投げ飛ばされ、岩も柱も粉砕されていく。




『やめろ、エデン!』




叫びも虚しく──彼には届かない。


エデンは、もはや彼ではなかった。




──そこにあるのは、ただの狂気の微笑み。




「彼には聞こえない」


64番目の“未知”が囁く。


「今の彼は──“痛み”そのものだ」




カウントダウンが進む。


00:43……00:42……




『このままでは……彼は死ぬ!祖父まで手にかけてしまう!』




「……それがどうした?」




「私は彼に力を与えているのだ。


 欲しかったすべてを──叶える力を」




ヴォラトラックスは、目を閉じた。


その瞼の裏に映るのは、終わりの景色。




『もう……こんなことを繰り返させるわけには……』




戦いは続いていた。


エデンは、ただの戦士ではなくなっていた。




その拳には、怒りが込められていた。


復讐が。


破壊が。




「何が一番面白いかって?」


“未知”が冷たく笑う。


「まだ抗おうとしているんだよ。逃げられると思ってる」


「だが、時間の問題さ」




新たな影が現れる。


エデンと同じ姿。


同じ声。


だが、より大きく、より黒く、より壊れていた。




「やめろ!!もう無理だ!!俺はこんな奴じゃない!!」




『こんな奴じゃない?』


その影は嘲笑う。




「俺はお前。お前は俺。


 最初から、そうだったんだ」




「お前は殺しただろう?消えたいと思ったこともあるだろう?」


「お前のせいで、どれだけの命が……」




──その顔は?


──その叫びは?




「お前は善なんかじゃない。お前は……“死”そのものだ」




闇が押し寄せる。


脚が震える。


魂が砕けそうになる。




『……認めろ。これが、お前の“本当”なんだ』




『俺と一つになれば、もう泣かなくていい』


『すべてを取り戻せる。愛したものも──すべて』




『ブラックライツも、悪魔も、カイも、リュウも──皆、破壊できる』




その誘惑は、完璧だった。


その約束は、あまりにも甘かった。




00:10……00:09……00:08……




『俺たちなら、誰にも止められない……』




エデンは、膝をつき、泣いていた。




「ぼ、僕は……」




その時だった。




声がした。




──澄んだ、温かい、懐かしい声。




『強くなったな、エデン』




その瞬間──




ヴォラトラックスを縛っていた鎖が砕け散る。




そして──




“怪物”の顔が……




……初めて、“人間”の顔を持った。




「あ……ああ……おじいちゃん……」




仮面が崩れた。


そこにいたのは、紛れもなく“本物”のエデンだった。




涙で濡れた瞳。


震える声。




『……そんな……』


64番目の“未知”が呟く。


その支配が、崩れ始める。




「エデン……」


ヴォラトラックスが優しく呼ぶ。




そして──




「愛してるぞ」


ジェンが微笑みながら言った。




──その言葉だけで、すべてが変わった。




エデンの心が、壊れた。


だが、それは救いだった。




シュンは、まだ遠くにいた。


必死に走りながら、叫ぶ。




『あの野郎……!急がなきゃ……!』




00:00




──すべてが止まる。




一瞬の沈黙。


一瞬の風。




そして──




BOOM




洞窟を飲み込む巨大な爆発。




吹き飛ぶ岩。


揺れる大地。


炎が全てを包む。




パペットの姿が、風に消える。




エデンがジェンへと駆け寄る。


シュンは動けず、ただ見つめる。




──すべてが、崩壊する。




そして、最後に残ったのは──




シュンの、かすれた絶叫。




『──エデン!!』

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