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第11話

————試衛館


心此処に在らずの土方が道場の片隅にあった。稽古をする男達は汗を流し思い木刀を振り続けるも、身動きすらしない男を視界の端に映し、一人の男が塾頭へと小声で話し掛ける。


「トシさんはどうしたんだい?」


いつもは道場に来れば一番いい汗を流す男が、今日に限っては上の空で、気になって塾頭に声を掛けたのは、井上源三郎いのうえげんざぶろう。試衛館の古参で免許皆伝まで10年ほどかかった努力家である。


声を掛けられた男は、塾頭の沖田総司おきたそうじ。21歳となったばかりの若き塾頭は、北辰一刀流と天然理心理の免許皆伝を持つ男だ。


沖田は稽古を止め、手ぬぐいで額を拭きながらぽつりと答えた。


「……昨日、僕たち、変なものを見たんです」


「変なもの?」


「——“先詠みの巫女”ですよ」


「絵草紙で話題になってる、あの巫女様かい?」


「そう。それが……どう見ても、人間でした。ちゃんとした息遣いもあったし……何より」


沖田はふと、土方を一瞥する。

黙りこくったままの土方の横顔は、まるで何かに取り憑かれているようだった。


「髪も目の色も違ったけど、どうしても——“千夜”に、似てたんです」


「…………千夜」


その名を聞いて動いたのは、藤堂平助だった。

「……ちぃに?だってアイツは……」


「そうさ。俺たちが葬った女の子。十年も前の話だ」

永倉新八が腕を組み、沈痛な面持ちで続ける。


「けど、土方さんがあれだけ黙りこくるなんてな。……本当に、似てたんだな」


土方の呟きに、塾生たちの振りが一瞬ぴたりと止まった。


「予言まで残していきやがった。あの声が耳から離れなくてな」

土方は呆然と地に突いた手のひらを見つめたまま、視線を上げない。


「築地。英国の屋敷。火を放たれる……叫びは、攘夷の名を借りた臆病……本当の刃を抜けぬ者の、逃げ道……」


沖田は、その時の耳から離れない言葉を口にした。



道場に再び静寂が落ちた。稽古の音すら止まり、若者たちは無言で土方と沖田を見つめている。


「築地の英館が狙われるってことか……?」

原田左之助が低い声で呟く。

「攘夷派の過激浪士どもが狙ってるって噂はあったが、まさか巫女がそれを……」


「いや、違う」

土方がぽつりと、手を握りしめながら言った。

「……あれは“予言”なんていうもんじゃなかった。ただ、未来を見てた。まるで、すでに知ってるみたいに」


「じゃあ、未来から来たってのか?」

永倉が笑い飛ばそうとするも、声に力がなかった。

「……んな馬鹿な話があるか」


「でも、俺たちは“ちぃ”を埋めたはずだぜ」

藤堂が、いつになく真剣な目つきで言った。

「名前も、顔も、俺らは忘れちゃいねぇ。けど、あれが同じ子なら……」


「もう人じゃねぇってことかもしれねぇな」

原田の言葉に、一瞬全員が押し黙る。


沖田は木刀を手にしたまま、ぽつりと口を開いた。


「……凄く綺麗な女の子でした。背は低くて、顔もまだ幼く見えた。でも目は……全部を見通すような目をしてた。あれは、人の目じゃなかった」


「服も変だった。丈の短い、まるで——」


「男物の直垂のような……いや、それとも戦装束か?」

井上が言葉を探す。


土方はやっと立ち上がり、重い腰をあげて言った。


「千夜は死んだ。それは事実だ。けど……あの目は、嘘を吐いてなかった」


「トシさん……」


「江戸が動く。——いや、日本が、変わる」


しんと静まり返った道場の中で、木刀を握る若者たちの掌が、ひとつまたひとつと汗ばみ、重くなる。


「俺たちはまだ、何者でもない。刀すら帯びちゃいねえ」


土方は静かに、道場の障子の向こうを見据える。


「けど——あれを見て、知らねぇふりなんてできねえ。……そうだろ、近藤さん」


名前を呼ばれた近藤勇は、ゆっくりと頷いた。

その大きな手で顎をさすり、苦く笑った。


「トシ、お前……また面倒なもんに首突っ込もうとしてるな」


「俺は……ただ、あの時、埋めたはずの命がまだ燃えてるなら、確かめたいだけだ。」


近藤は沖田、井上、永倉、原田、藤堂を順に見渡した。


「……行くぞ、お前ら。俺たちは、己の剣でこの国を見極めるつもりでいた。なら、巫女でも鬼でも神でも、道を遮るもんには向き合う覚悟でいろ」


その時、道場の外を風が吹き抜けた。

かすかに、赤い蝶が一羽、土間の向こうを横切ったのを沖田だけが見ていた。


——蝶は、風の先を知っている。


その夜、若き剣士たちの胸に、それぞれの“千夜”が息を吹き返した。



————

———


八坂神社から少し離れた小道。


夜が明ける前、荷を運ぶ商人たちの声がかすかに聞こえた。

その中に、椿の名が、嘲るように交じる。


「見たことあるで。あの、あれやろ?神の子の双子の――否子ってやつや」


「そやそや、姫や言うても、もとは忌み子やろ?あんなんに仕えてる連中も、ようやるわ」


「いっぺん見たけどな目が真っすぐ過ぎて、気味悪ぅてしゃあない。なんや、未来が見える言うてるけど、ようするに狐憑きやろ?」


「巫女は巫女でも、あれは呪詛や。あないなもんに政を任すなんて、幕府も終いやで」


商人たちは、笑って去っていく。

誰も、彼女の足元に咲いた痛みを知らない。

誰も、あの幼き夜に震えていた小さな体を見ていない。


縁側に腰掛けていた山崎は、その声を聞きながら静かに煙管に火を入れる。


「……黙っとけ、阿呆が」


吐き出した煙と共に、呟いた言葉は夜の中へと溶けていった。


そして――

そのとき、ふと振り返ると、襖の向こうに椿が静かに立っていた。

何も言わず、ただ椿は目を伏せていた。


 「……ちぃ」


ぽつりと名前を呼ぶ声が、白く空に溶けていく。クシャッと頭を撫でた。あんな言葉、気にしなくていい。そんな気持ちを込めて。


彼女のために剣を抜く。命を賭ける。そう誓ったはずだった。けれど今、その想いは、いつの間にか違う形になっていた。

守るべき姫ではなく、共に在りたい女――。


山崎は、胸の奥で渦巻く思いを、煙管の煙とともにゆっくりと吐き出した。


そのときだった。


背後から、ふわりとあたたかな気配が寄り添ってくる。肩越しに伸びてきた細い腕が、そっと彼を抱きしめた。白い指。しなやかで、少し冷たい掌。けれど、それは誰よりも確かな温もりだった。


 「……また、顔がこわい」


耳元で囁く声は、眠たげで、それでいて甘えるような響きを含んでいる。


 「昔みたいに、また悪い夢でも見たの?」


彼女は笑っていた。

何もかもを知った上で、それでも抱きしめてくれる椿の姿に、山崎は目を伏せる。


 「……夢やのうて、現(うつつ)や」


そう言いながらも、その声には、もう棘はなかった。彼の背中の温もりが過去の痛みさえ払拭していく。己でも払いきれない痛みが溶けていく。


「現???」


山崎は、ふと、ある違和感に気づいて、思わず目を見開く。


「……姫さん」


声が掠れる。

背後からの抱擁は、ただの気まぐれではなかった。細い腕の力加減、頬が触れる距離、静かに響く鼓動――すべてが「子供の甘え」から、ほんの僅かに、何かを越えたように思えた。


「……年頃の女子が、易々と……男を抱きしめるもんやないやろ」


掠れた声でそう言ってしまった自分に、自身でも驚いていた。胸の奥が、妙に熱い。心が脈を打つようにざわついて、椿の指先のひとつひとつがやけに意識される。


だが、椿は山崎の背に額をあずけたまま、いたずらっぽく笑う。くすくすと笑う声が、耳元をくすぐる。


「烝にしかしないよ。」


その一言が、鋭く胸の奥に突き刺さった。

鼓動がひときわ大きく跳ねる。煙管を持つ指先が、知らぬ間に震えていた。


「……姫さん」


「なぁに?」


彼女の声は弾んでいた。


「……離れぇ」


そう言う声は、どこか情けなかった。

強く言えない。拒絶したいのに、拒絶する理由を見失っていた。


椿は、しばらくそのままでいたが、やがて名残惜しげに腕をほどくと、ふわりと彼の横に腰を下ろし、山崎に視線を送り再び空を見上げていく。


「綺麗な空」


囁くような声に、山崎は煙管をくゆらせるしかなかった。視線を合わせれば、きっと何かが壊れてしまう。けれど――壊れてしまってもいいのではないか、と、そんな思いがよぎってしまう自分がいた。


「こんな穏やかなのに、今も世の中の何処かで誰が死んでいる。」


その言葉は風に乗って、ふと消え入りそうに流れていった。山崎は答えなかった。ただ、静かに視線を落とした。


椿の目は、遠くを見つめている。

京の空でも、明日の天気でもなく――

誰かの“最期”を、見ているような目だった。


この束の間の穏やかな時が、どれ程の重さを持っているか、死と隣り合わせの二人には分かっていた。


山崎はそっと目を閉じる。

そこにあったのは、いつか置き忘れた幼い誓いではなく、今このときを生きる者の、祈りに近い想いだった。


光と風が、寄り添うようにすれ違う。

死が傍にあるからこそ、生きる今が、こんなにも美しい。


まるで春の朝のように。

過去を照らし、未来を揺らしながら、椿と山崎は、その一瞬の静けさの中に身を置いていた。


 ――たとえこの後に血が流れようとも。

 ――たとえまた、痛みが降るとしても。


 この朝だけは、永遠だった。


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