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第12話

文久二年十二月、江戸の空を焦がすように、品川の英国公使館が焼け落ちた。


天に立ち上る黒煙は、まるで何かの時代が終わることを告げる狼煙のようで、その場に居合わせた者はもちろん、町の隅々まで、その衝撃は瞬く間に伝わった。


「……まさか、本当に……」

土方が呟いた声は、煙る空を見上げながらかすれていた。


沖田も、その隣で立ち尽くしていた。

「“築地。英国の屋敷。火を放たれる……叫びは、攘夷の名を借りた臆病……本当の刃を抜けぬ者の、逃げ道……”――」


巫女が言っていた言葉だ。


その時、二人は信じきれなかった。ただの戯言か、あるいは民の不安に便乗した予言か。だが、いま目の前で起きている現実が、その言葉と寸分違わぬ形で現れた。


「……まるで、見えてるようだったな」

「ええ。まるで――未来が、ほんとうに見えているみたいに」


土方は眉を顰めたまま口を閉じた。

予言など信じたくはなかった。だが、これはもはや偶然では済まされない。


————

———


その夜、江戸の町は妙な沈黙に包まれていた。火の手を見た者も、噂を耳にした者も、誰もが同じ名前を口にした。


「巫女が、言っていたんだとさ」

「また、何か起きるのかもしれねぇ……」


そんな声を聞きながら、沖田はふと思った。


(……山崎さんは、今も、あの人のそばにいるんでしょうね)


彼はまだ、椿と直接言葉を交わしたわけではなかった。だが、あの時見た彼女の瞳が、ずっと心に残っている。


――あの人は、ただの巫女じゃない。

何かを背負ってる。

未来を、誰よりも先に見て、ただ黙っている人だ。


そのことに、土方も沖田も、確かに気づき始めていた。

江戸の町に、一枚、また一枚と張り出されていく触れ書きがあった。


『浪士組結成。攘夷断行のため、志ある者、これに参集せよ。罪人とて赦される。身分を問わず。年齢もまた問わず。引率者は、神の声を聴く者――巫女なり。』


それは、清河八郎による異端とも言える提案だった。


「攘夷を断行するには、御用に応じる浪士が必要だ。だが、真に剣に命を懸ける者は、世に捨てられた者の中にこそいる。農の子でも、罪を背負った者でも、命を賭す覚悟ある者ならば、我が国を救う一手となろう」


清河の語る未来に、幕府は一瞬ためらったが、攘夷を旗印にした構想は、時勢に乗った。幕府は浪士組の結成を認めた。


やがてその知らせは、町を駆けた。


瓦版にも、口伝えにも、広まったのはただの浪士募集ではない。


「引率者が、巫女らしい」

その噂は、人の口に乗るたびに形を変え、熱を帯びていく。


「神の声を聴く巫女が、浪士を率いるだと?」


「馬鹿な……女が?」


「いや、女じゃない。巫女だ。神の代弁者だとさ」


町の辻には人だかりができ、貼り紙の前で騒ぐ者があとを絶たなかった。


「おい、あの札に書いてあるの、本当か? 罪人でも、行けば赦されるって……」


「本気で攘夷が始まるって話だぜ。しかも、先導するのが“神の巫女”ときたら……こりゃ祭りどころじゃねぇ」


浪士組――それは、刀に生きる者にとっての最後の希望であり、また、人ならぬ“巫女”に導かれるという、異様な気配を孕んだ組織でもあった。その張り紙は、江戸の町の至る所に貼られていた。白地に墨で書かれた文字の下、朱で押されたひとつの印。それは、神に仕える者だけが用いることを許された紋――


誰もが、その名にざわめいた。「巫女・椿」




————

———

江戸のはずれ、鴨川の土手を下った先。

そこには、人の気配が遠のくような空間があった。湿った土の匂いが漂い、川の音が遠くに響く。木製の柵で囲われた一角。人目を避けるように、それでいて、晒すように。


竹で組まれた簡素な囲いの中、晒された首が一つ。その傍らには、罪名を記した札が斜めに突き刺されている。


石畳もなければ、供え物もない。

あるのは、乾きかけた血の跡と、吹き溜まりに集まった塵ばかり。時折、風が吹くと砂埃が舞い、見物に訪れた町人たちは鼻を押さえて顔をしかめた。


だが、首は何も言わない。

ただ、空を見上げるように、目を見開いたまま――死んでいた。


その場に立つ者は、誰しも口を閉ざす。

声を出せば、その罪の重さに押し潰されそうになるから。目を合わせれば、自分の中の何かを問われるような気がするから。


だから、ここは沈黙が支配していた。

鳥も鳴かず、草も揺れぬ、奇妙な静寂。生者と死者の境界が曖昧になる場所。


誰かが晒し首に石を投げた。

そんな場に、ひとりの女が足を踏み入れた。


艶やかな黒髪が風にそよぎ、白い足袋が土に触れるたび、空気が揺らいだようだった。目立つはずの姿でありながら、まるで“違う世界”から来たかのように。それは、町人たちの視線を静かにかき集めていった。


――彼女の名は、椿。


だが、このとき、誰もその名を知らなかった。


ただ、美しくも凛としたその女が、罪人の首の前に歩み出る姿を、黙って見つめるしかなかった。


彼女の背を、ひとりの男が見つめていた。


柵の外、土手の上。人目に紛れるように、少し距離を置いて立つ山崎烝。無言のまま、指先だけが微かに震えていた。


風が吹き、椿の髪がさらりと揺れる。首の傍らに立ち尽くすその姿は、まるで“祈りの像”のように静謐だった。だが、山崎にはわかる。彼女が、ただそこに立っているだけではないことを。


「……おい、あれ」


「この前の子だ。千夜に似てる女の子……」


人だかりの中に混じっていた、土方歳三が足を止めた。その視線の先、晒し首の前に立つ女の輪郭が、周囲の喧騒から切り離されたように浮かんでいた。


艶やかな黒髪、凛とした佇まい。まるであの場所だけが、別の時の流れに沈んでいるようだった。


「……なんや、妙な空気が流れとるな」


と、原田が眉を寄せる。沖田は珍しく言葉を発さず、ただ目を細めた。その時、誰かが小さく息を呑んだ。


 「――山崎、か」


晒し場の斜面。土手の上で、人影がひとつ、じっとその女を見守っている。黒装束に身を包み、どこか影を帯びた眼差し。間違いなく、山崎烝だった。


「……随分と久しぶりやな」


原田の呟きに、永倉も顎を引いて応じる。

かつて、試衛館で共に暮らしていた事がある男――


「何年ぶりになるか……あいつもまだ、生きてたか」


土方の声は、低く、どこか遠い記憶を引きずるような響きを帯びていた。


山崎はまだ、彼らに気づいていない。いや――気づいていても、動かない。それほどまでに、晒し首の前に立つ“あの女”に心を奪われている。


「……あれが、椿という巫女か」


沖田がぽつりとつぶやいた。誰にも向けず、まるで風に訊くように。張り紙に記された名。それを信じる者、疑う者。だが今、そこに立つ女の姿を見て、誰もが言葉を呑んだ。


巫女だ。この国に、まだ“神の声”が残っているとしたら――それは、あの女の瞳に宿っている。


土方は歩を進めた。そして、山崎の背に立ち、低く、しかしどこか懐かしい声をかける。


「久しぶりだな、山崎。……何年ぶりだ」


その声に、山崎の肩がわずかに震えた。


「……三年と、少し」


短く答え、山崎は振り返らない。視線の先にある椿の背を、見つめたまま。


「俺は、あの人の傍にいると決めた。……それだけです」


その言葉に、土方はしばし沈黙し、静かに頷いた。


「――なら、あの人の正体も、お前は知ってるんだな」


「ええ。俺は、最初から……ずっと知ってました」


短く交わされる、かつての仲間同士の会話。

互いの立場は変わった。だが、その場に立つ覚悟だけは、変わっていなかった。


風が吹く。

椿の髪がふわりと舞い、晒し場の空気がまた、わずかに揺らいだ。


その時だった。


ざわ……と、空気が揺れた。


最初は、誰かの囁きだった。


「……あの女、見たことがある……」

「いや、まさか……まさか、巫女様じゃ……」


言葉が連鎖し、疑念が波紋のように広がっていく。通りすがりの男が立ち止まり、女が子を抱いたまま足を止める。町人たちの目が一斉に椿に集まり始めた。

「あの張り紙に書いてあった名……」

「浪士組の引率者……巫女とかいう……」


ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。

さらさらと風に揺れる黒髪。晒し首を前に、微動だにせず立つその姿は、まるで絵の中の存在のようだった。


「巫女、だ……あれが……」


言葉が確信へと変わった瞬間、群衆の中にざわめきが走る。

「本当に……人じゃないような、美しさだ」

「神様の使い……なのか?」


畏怖。好奇。羨望。そして、得体の知れぬものへの本能的な恐れ。人々の心に渦巻く感情が、一気に椿へと向けられていく。


「……あれが、巫女様だってのか」

「こんなとこで何を……罪人の前で……」


感情の均衡が崩れ始めた。ある者は拝み、ある者は逃げ、またある者は石を拾おうと地に手を伸ばす。


「……おい、やめろ」


その手を、山崎が無言で掴んだ。冷ややかな目で、町人をにらむ。


「それ以上、巫女に手を出すな」


誰もが息を呑む。山崎の声は冷たいが、どこか悲しげでもあった。そのとき――椿が、ゆっくりと晒し首の傍から振り返る。町人たちの目に、彼女の瞳が映った。


それは、決して人を裁く目ではない。

怒りも、誇りも、ただそこには深い哀しみと、受け入れる強さがあった。


静けさが、場を包む。


「……やっぱり……本物、や……」


誰かの震える声が、その沈黙を破った。


神の声は語らずとも、人の心を射抜く。

この日、江戸の町は確かに、“巫女”の存在を知った。


まっすぐに首を見つめたまま、小さく息を吸う。

「罪人だから……首を晒される。死してなお罰を受けるのが、この国の在り方なら」


そう口にした椿の声音は、風に溶けるように柔らかかった。しかし、そこに籠もった痛みは、聞く者の胸に微かに刺さる。


「あれは——今の日本そのもの。

 通りすがりの誰もが目にし、誰もが忘れる。

 石を投げつけ、罵って、そして……通り過ぎる」


実際に、首の前を通る町人の中には、顔を背けて逃げる者もいれば、子どもに目隠しをさせる親もいた。中には、小石を拾って投げる男まで現れた。


「……彼は、石を投げた人に何かしましたか?」


椿の問いかけに、誰も答えられなかった。

空気が静かに冷える。


「罪を見つめて、目を背けるのは――生きている私たち、です。でも、どうして——その罪を背負わねばならなかったのか、考えたことはありますか?」


一歩、椿が首に近づく。裾が風に揺れるたび、巫女衣のような衣が陽にきらめく。


「悪いのは、国です。彼を追い詰めたのは、この国の形。狂った世の中が、人を狂わせたのです」


椿の声は、断言ではなく、静かな嘆きだった。

彼女の言葉に、耳を傾ける者たちの中に、ざわめきが走る。


「彼がもし、住み良い国に生まれ、

人に愛され、仕事があり、希望があったなら……罪など、犯さなかったかもしれない」


その言葉に、浪士が、小さく視線を伏せた。

誰もが、誰かの顔を思い浮かべたかもしれない。そして、椿は静かに、けれど確かに皆に向けて言った。


「彼は、罪人です。ですが、

 彼もまた——この国の犠牲者です」


冷たい風が吹き抜ける。

椿は、柵の前で膝を折り、首に向かって、深々と頭を垂れた。


「もし、あの首が……貴方の大切な人であったなら、どうします?」


誰にでもなく、されどすべての者に向けて、彼女は問いかけた。その場にいた者は、皆、しばし言葉を失った。

巫女の名で知られ始めた女が、ただ一人の罪人に祈る姿に、誰もが目を奪われ、心を揺さぶられていた。



晒し首の前に、膝を折り頭を垂れる椿。

風が吹き、巫女の装束のような衣が揺れるたび、赤い蝶が幻のように宙を舞った。


その場に居合わせた浪士や町人たちが、ただその姿に見入っていた時——

後方で、男の低く静かな声が響いた。


「あれが、俺の主や。命を賭けるに、値する」


その言葉に、振り返ったのは、近藤、土方、沖田、原田、永倉、斎藤たち。

声の主は、数年ぶりに顔を合わせた男——山崎烝だった。


彼の瞳はまっすぐに椿へと向いている。迷いも、戸惑いもなかった。


「……あの子が、おまえの主だと?」

沖田が小さく呟くように言う。


「ただの女にしか見えねぇが」

原田が口を開いたが、口調にはからかいの色はなかった。彼もまた、膝を折った椿の背に、何かを感じ取っていた。


「……烝が、命を賭けると言うなら、只者ではねえんだろうな」

永倉が腕を組み、土方を一瞥する。


斎藤は無言だったが、じっと山崎の横顔を見つめていた。そして——土方歳三は、わずかに目を細めた。


「変わったな、山崎。いや……ようやく本気になったって顔だ」


土方の言葉に、山崎は一言も返さず、椿のもとへと歩みを進める。


かつては冗談めかして話すことも多かった彼が、今、これほど真剣な顔をするとは。その背には、かつて試衛館で共に剣を振るった仲間たちでさえ、言葉を失っていた。


椿の傍に近づいた山崎は、跪く彼女の隣に静かに立った。


土方は、遠くその背中を見つめたまま、小さく呟いた。


「……見極める時が来たな。あの女が、何者か」

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