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第13話

あの首は、自分だ。


晒し者にされた罪人の姿に、山崎は知らず重ねていた。

その男の罪も、名も知らない。

情けも湧かず、憐れむ気持ちもない。

それなのに、どうしても――自分の首に見えてしまう。


あの時、覚悟はしていた。

斬られて、捨てられて、誰にも知られず終わる覚悟だった。


けれど。


あの日、幼い少女が、自分を庇って刃の前に立った。


傷だらけの身体で、震える膝を無理に伸ばしながら。

それでも、彼女は確かに声を上げたのだ。


「――山崎烝は、私の従者です」


幼子の小さな声が、鋼よりも強かった。


あの声がなければ、いま、自分は此処に生きてはいない。



そして――

「ただの身代わりだ」と言い放ったその女は、

あの罪人の魂を、まるで救い上げるように赦していく。


まるで、あの日。

泥にまみれた自分に、手を差し伸べてくれた時のように。


今の今まで、彼女を“代わり”として見ていた。

失ったものの影に重ね、目を背け続けてきた。


だが、この瞬間、山崎の中で何かが――確かに変わった。


「……椿」


その名を、口にした。

心のどこかで、認めたくなかった。

あれは“身代わり”だと。

誰の代わりでもない“椿”として、見ないようにしていた。


それは逃げで、

ただの言い訳だった。


彼女は、顔を上げ、差し出した手をとり、罪人の首を見て丁寧にお辞儀していく。そして、そんな異質な場所に、小さな花を一輪置いた。


「……安らかに眠れますように。あなたの罪が、誰かの許しで、少しでも軽くなりますように」


それは、自分に向けられた様に感じ、小さな野草の花を山崎は、その一輪に並べて置いた。


知らぬ首が何処か穏やかな表情になった様に見えた。


椿は、町人たちに頭を垂れた。


誰に教えられたわけでもなく、

誰に命じられたわけでもなかった。


ただ、自らの意思で。


彼女の背はまっすぐで、

その所作に、ひれ伏すような弱さはなかった。


そこにあったのは、祈りのような静けさと、

命ある者への、深い敬意だけだった。


山崎の中で、過去と現在が重なる。

目の前にいるのは、もう“身代わり”ではない。

名も知らぬ罪人の魂を弔う姿に、あの日、泥にまみれた自分を救った少女が重なる。


彼女は、静かに立ち上がると、群衆に背を向け――ふと立ち止まり、振り返ることなく右手を伸ばす。


そして、彼女は――袖を引いた。


誰に向けてでもなく、けれど、確かに“誰か”を呼ぶように。


山崎の胸が、ぐっと締めつけられる。


それは昔、闇の中で彼が背を向けようとした時、小さな手で、必死に袖を掴んでくれたあの夜の再現だった。


「……ちぃ」


思わず、彼は口の中で名を呼んでいた。

過去と現在が交錯する一瞬。

袖にこもったその想いが、確かに山崎を振り向かせていた。


残された町人たちの視線が静かに揺れる中、ひときわ年老いた老婆がゆっくりと前へ進み出た。

その手には、小さな花束が握られている。


老婆は首の前に置かれた花を見つめ、深く頭を垂れた。

しわだらけの顔に、かすかな涙がにじむ。


「どうか、安らかに……」

ぽつりと呟いたその声は、誰にも届かぬようでいて、町の空気に優しく溶け込んでいった。


花束は首のそばにそっと置かれ、町人たちの胸にも小さな波紋が広がっていく。


罪人の首に、花を手向ける。


――そんな光景は、誰も見たことがなかった。


ましてや、処刑場の晒し台に。

斬首された名もなき罪人に対し、誰かが手を合わせ、祈りの言葉を捧げるなど、異例にも程がある。


町人たちは静まり返り、ただその場に立ち尽くした。


風が吹く。

花がひとひら、首元に転がった。


誰もがそれを咎めることなく、

ただ、見つめていた。


土方も、沖田も、視線を逸らさなかった。


それは、哀れみでも同情でもない。


ただ、確かにそこに“人”がいたということを――彼らの誰もが、否応なく知ったのだった。



————江戸の城下町


巫女――その名も、椿。

あの日、町中に膝を折り、罪人の首に花を手向けた異質な娘。


その光景は、人々の目に焼き付いて離れなかった。


やがて、それは“物語”になった。


「……また出とるわ」

そう呟きながら、山崎は茶屋の前に貼り出された一枚の絵草紙に目を留めた。


艶やかな色合いで描かれたのは、処刑場の前に佇む少女と、花を添えられた首。


――“巫女・椿と、晒し首の祈り”――


その見出しに、山崎は眉をひそめる。

絵草紙には、悲運の罪人と、それを救わんとする神の使いの娘が描かれ、町の子供たちはその紙を読みながらこう囁いた。


「罪を赦す花の巫女」

「赤い蝶が舞うと、現れるんだってさ」

「死人と話せるって、ほんまかいな」


事実はどうあれ、人の想像は容赦なく膨らんでいく。

現実と伝説の境界は曖昧になり、椿の姿は、次第に“ただの娘”ではなくなっていった。


町の隅では、ささやかれる声もある。

「幕府が隠してきた、先詠みの巫女やろ」

「見たぞ、髪の色が変わるとこ」

「拝めば病も治るんちゃうか」


山崎は、溜息をつきながらその絵草紙をそっと引き裂いた。


「――好き勝手、描きよって」


だが、その背で、ふと笑う声がした。

「……いいんじゃない? 広まれば、私の仕事もやりやすくなる」


いつの間にか、椿が隣に立っていた。

陽の下、微笑んだその顔は、もう“身代わり”ではなかった。


山崎が乱暴に引き裂いた絵草紙を、椿は静かに拾い上げた。


「そんなに乱暴に扱わなくてもいいのに……」


彼女は破れた部分を指先で丁寧に合わせ、まるで大切な書物を扱うかのようにそっと貼り直す。


「勿体ないよ。これにも、誰かの思いが詰まってるんだから。」


山崎の少し怒った表情を見て、椿はふふっと微笑む。


山崎は、椿の手際よく絵草紙を直す姿を見つめながら、内心で苦笑した。


「やっぱり……主には敵わんわ。」


彼はそう呟き、どこか誇らしげでもあり、少し悔しそうでもある表情を浮かべた。


椿の前では、強がっても意味がない。彼女の強さと優しさに、いつも圧倒されてしまう。


山崎は小さく息を吐き、椿の手元をじっと見つめながら言った。


「お前だけや。罪人を救い上げる主は。」


椿は微笑みを崩さず、まっすぐに山崎の目を見返す。


「誰かがやらねばならないこと。私がやるだけ。」


その強さに山崎は胸が熱くなる。


だが、その誇らしげな様子の裏には、まだ誰にも見せぬ脆さも隠れていた。


「お前が主で誇らしい。これからもずっと、そばにおる。」


山崎の言葉に、椿は少しだけ目を伏せて、そっと頷いた。


二人の間に確かな絆が生まれ、風に舞う赤い蝶がふわりと椿の周りを飛び交った。


それは、巫女の力の象徴であり、これから始まる新たな物語の幕開けを告げていた。



————同日

江戸・裏通り


町医者の子として育った山崎が、女と共に歩いている。


「……やっぱり、あれは千夜に似てるんだよな」

屋根の上、薄暮に溶け込むように座る男がつぶやく。土方歳三。

その隣、しゃがんだまま菓子を口にする沖田総司が笑った。


「似てるどころじゃないでしょ。顔も、目も、仕草まで。土方さん、見てたんじゃなかったの? 山崎の隣にいた女の子」

「見たさ。見て……妙に納得した」


二人の視線の先には、いつものように山崎の少し後ろを歩く椿の姿。だが、その佇まいには、かつて「千夜」と呼ばれた少女の影が確かに重なっていた。


「……あの山崎が、命張るんだ。あの女には、それだけの価値があるってことだろう」

「へえ、歳さんがそんな言い方するなんて珍しいな」

「うるせぇ」


そう言いながらも、土方の目は真剣だった。千夜。あの、優しく笑って消えていった少女。あの時守れなかった命が、違う形で――今、再び目の前にあるのだとしたら。


「……だが、何者だ? 巫女? 忍び? それとも……」

「全部かもしれないよ」沖田がひょいと立ち上がる。「けど、彼女の横には山崎くんがいる。だったら、悪い子じゃないんじゃない?」


沈黙の中、遠ざかる二人の背中。

その小さな肩に託された何かを、土方はもう一度見届けようと決めた。



椿はふと、誰かに見られているような気配を感じて、視線をそちらへ向けた。

それからゆっくりと山崎に向き直り、声をかける。


「過去はね、無いとダメなの」

その言葉は、静かなけれど強い意志を帯びていた。


「過去を否定することは、今あるものを否定するのと同じだから」


山崎はじっと椿の言葉を聞き、重みを感じ取る。


「烝は“過去を切る”と言った」

椿は続ける。

「私の過去は無い。思い出せない。けど……」


その声は震え、切なさが滲んだ。

「君の過去は、消し去ったらダメなんだよ」


山崎は目を伏せ、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。

「……俺の過去か」


「そう。君の過去は、君の今を形作っている。だから、決して無かったことにしてはいけない」


椿の言葉は、優しくもあり、救いの光のようだった。


山崎はゆっくりと顔を上げ、椿の瞳を見つめ返した。

「……ありがとう、椿」


二人の間に静かな絆が、新たに結ばれた気がした。


だが、それと同時に己の記憶が戻らない事実に無意識に小さく息を吐き出していた。

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