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第14話

―― 文久三年


政変続きの都では、幕府と朝廷の対立が日に日に深まり、風の噂にさえ剣呑な気配が混じっていた。江戸では攘夷派の志士たちが蠢き、京では勤皇と佐幕の綱引きが続く。異国船の影と、内から崩れる体制。まさに、国の形が変わりゆく時代だった。


文久になってから現れた"先詠みの巫女"町の人々は畏れ、崇め、噂した。誰もがその力を欲した。巫女の絵草紙は、飛ぶ様に売れ町は小さな活気を見せていた。噂はまるで早春の風のように流れ、本人の知らぬところで、行ったこともない土地へと伝播してゆく。



年明けが落ち着いた頃

夜にも関わらず、騒がしい足音が聞こえ、中庭に居た椿は、門の方へと足を進めた。


男がひとり、肩を大きく上下させて門前に立っていた。なぜか、その姿が気になって声をかけていた。


「————もし。」


肩を揺らした男は、血走った視線を向け腰にさした刀へと手を向ける。


無数の足音は、こちらに向かっている。

「追われてるんでしょう?どうぞ中に。」


男の着物には、べったりと赤が不着していて、頬にも拭った赤が見えた。


「巫女?何故。」


「とにかく中に。追手が来ます。」


深く頷く男は、ようやく足を動かしてくれ、八坂神社の中へと姿を隠す。


後に到着した追手は、男を見つけられず、辺りは未だに静けさが戻らぬまま。男を自室に連れ込み、怪我の手当てをしていく。


「私は、椿と申します。」

彼は,己の名を教えてくれたものの

「何故、助ける?」

「貴方が差し出した手を取ったから。それ以外特に理由は無い。助けて欲しいから見も知らぬ私の手を取ったのでしょう?」


辺りは騒がしいまま、人は増え続けている気がする。まだ人も行き交う町。血濡れの男を捜査し、八坂神社より先には目撃者が居ない。と、なれば、必ず奉行所も八坂神社に来るのは時間の問題である。


「————斎藤さん。でしたね?」


目の前の男は、斎藤一


「……はい。」


「此処より西に向かい、桜という小料理屋を訪ねて下さい。そこに、水戸から脱藩した浪士がいます。彼に、家紋に嫌われた赤い華に言われて来た。そう言って。」


急にそう言われても何が何だかわからぬまま、


「江戸から脱し、京に行って欲しい。3月には私達も到着する予定。いま、ここで貴方に捕まってもらっては困る。」


彼がどんな罪を犯しても、誰かの命を奪おうとも、自分は、彼を現状から救いたい想いのが明らかに勝っていた。


「……。」


彼は今だに迷っている様子のまま、初対面の人に逃げて欲しいと言われたら誰でも迷うであろう事は理解できるが、今は、一刻も猶予がない。


————もし、奉行所の人が八坂神社に足を踏み入れたら、彼は捕まる以外選択肢を失う。


罪を償うべきかもしれない。だが、今見つかれば、八坂神社の内部にいる自分も他の者も罪に問われるのは必然である。


「————わかった。あんたの言うとおりにする。あんたが言う水戸脱藩浪士の名は?」


漸く心を決めた斎藤は、闇に紛れ八坂神社を出た。言われた通り西へと向かう。追手を何とか巻き、桜という小料理屋へと到着した。ガラの悪い連中が斎藤を射抜く様に視線を向ける。


「見かけねぇ顔だな?お前。」


「やめておけ平山。お前が敵う相手じゃない。此処に何用だ?」


このガラの悪い男達とあの美しい姫の接点が全く見出せず、口を開く事を躊躇う。


「家紋に嫌われた華より、此処に来るように言われた。此処に芹沢鴨なる人が居るはずだ。合わせて貰いたい。」


斎藤の言葉に、明らかに目の前の男は目を見開いた。


「いいだろう。着いてこい。」


店の奥に向かう男は、学がありそうである。足を動かせば店中の男達の視線を浴びる羽目になる。



「————芹沢先生。新見です。」


「入れ。」


部屋の襖が開けられ、髭を生やした男が煙管をふかす。ギロリと向けられた視線に斎藤は、背筋を凍らせた。


「誰だ?ソイツは。」


見知らぬ男に殺気すら放つ男に、再び先程の言葉を告げ、名を名乗っていけば、


「ほう。」


近づく男は酒臭い。

この男で本当に合っているのだろうか?と一抹の不安を胸に男の返事を待つ。


「で?江戸から出られたらいいのか?」


「いいや。京に行きたい。」


江戸から出られたら確かにそれでいい。だが、彼女は手助けした代わりに文を渡して欲しいと頼まれた。


「アンタにこれを渡す様に言われた。」


罪人を助ける代わりに文を渡すだけなら何の事もない。それだけで良いのか?そう思うぐらいだ。


芹沢が受け取ったのは、隊士募集の文である。


「……なるほど。だから京か。」


その文は、その事しか書かれていない。


「いいだろう。」


密輸船の甲板から夜の海を見つめる斎藤の耳に、あの夜の声が、まだ残っていた。

「助けてほしいから、手を取ったのでしょう?」

握ったその手の温もりが、京の先へと背を押している気がした。




夜。八坂神社の奥にある椿の部屋には、かすかな灯りが揺れている。月は雲に隠れ、虫の音すら遠い。


外から、ぴたり、と気配がした。

「浅野です。」


山崎が襖を開ければ、彼は膝を折って頭を垂れた。


そっと戸を開ければ、そこには不遜な目つきをした青年が一人、風呂敷を抱えて立っていた。口は悪そうだが、何故かその目はどこか人懐っこい。


「芹沢先生から。預かりました」


差し出されたのは、短く折られた文一通。


椿は口を開かぬまま受け取り、静かに広げる。墨のにおいがまだ新しく、乱雑ながら力強い筆致だった。


「————要件は果たした。」


山崎は、たった一言の文をを読み上げ、


「あの人らしいな。ホンマ、変わらん。」


懐かしむ山崎の声に僅かに頬を緩ませ、


「ありがとう、浅野。わざわざ来てくれたのね」


「命じられただけです。」


そう言いながらも、浅野は椿の顔をまっすぐ見ていた。その目が、彼女の何かを探るように揺れる。


「アンタみたいな姫さんが、なんであんな血まみれの男に肩入れするのか……正直、訳が分からない。」


「……血まみれだったから、放っておけなかった。ただ、それだけよ」


「ふぅん。あいつ、まだ生きてるといいですね」


軽口のように言って、浅野は踵を返した。


だが、戸を閉める直前、彼はふと振り返り、少し迷うような目をして——


「また何かあったら、俺に言ってください。あんたの頼みなら、聞いても良い」


そう残し、浅野は夜の闇へと姿を消した。


椿は閉じた戸を見つめたまま、ゆっくりと文を折り、胸元にしまい込む。

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