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第15話

————文久三年


浪士組――その結成時の説明会ですら問題が山積みだった。

江戸や地方から集まった男たちは、まるで縄張りを主張する野良犬のように、些細な言葉尻に喰ってかかる。

誰が上か、誰が強いか、それを確かめるように、睨み合い、唾を飛ばし、拳を構える。

「士道」を名乗るにはあまりに粗暴で、だがその混沌こそが、やがて血塗られた時代にふさわしい“はじまり”だった。


浪士達が集められた寺

男たちのざわめきが、刃のように空気を裂いた。

「女が前に立つなど」「遊女と変わらぬ」「御託は神職の皮を被っただけの詐欺だ」

誰からともなく吐かれる嘲りに、空気がじりじりと軋む。


その中心に立つ巫女――椿は、何も言わず、ただ彼らを見据えていた。だが、たった一人。人波の端で、その様子を見つめていた山崎だけが、口の端をわずかに引き、目を伏せる。

その瞳の奥に宿ったのは、冷たい怒り。


怒声に紛れ、誰も気づかぬ。

だが彼の中では、確かに何かが軋んだ。

椿を侮る声、否定する声――それらが、静かに彼の理性を削っていく。


「……吠えるな、犬共が」


誰にも聞こえぬよう、小さく吐いたその声に、椿だけがかすかに笑った。


「……そんな事言ったら、可哀想よ」


ぽつりと、椿が呟いた。

場の空気が一瞬凍る。誰かが聞き返そうとしたそのとき。


「負け犬の遠吠えみたい。誰に向かって吠えてるの?」


にこりともせず、椿は言った。

その声音に、怯えたのは男たちの方だった。


山崎は黙って彼女を見ていた。

何も言わなくても、彼女はちゃんと返す――

それが、彼の誇りだった。


山崎の口角が少し上がった。


「てめぇ……女のくせに――!」


ついに一人の浪士が前へ出た。

その目には怒りと羞恥、そして椿に圧されて傷ついた自尊心が渦巻いている。


だが、椿は動かない。


視線すら向けず、その場に立ち続ける。

まるで、斬られることなどないと知っているかのように。


そして――動いたのは、彼女の傍にいた山崎だった。


刹那、風が切れる音。

浪士の腕を払ったかと思えば、足が跳ね、膝を抉る。


「ぐっ……!」


呻く間もなく、叩き伏せられた男の体が地に沈む。見えなかった。誰の目にも、彼の動きが。


山崎は構えすら見せず、ただ椿の前から風のように動き、戻っただけだった。


周囲の男たちは、その一瞬に凍りついた。

手を出せば同じ目に遭うと、誰もが本能的に悟ったのだ。


沈黙。

空気が、固まる。


「……山崎くんって、あんな強かった?」


静かに呟いたのは、沖田だった。

口元には薄く笑みを浮かべているが、その目はわずかに驚きと興味を帯びている。


沖田の言葉に、隣の土方が小さく鼻を鳴らした。


「……昔っから影みたいなやつだ。強いのは知ってるが、あいつは自分からは動かねぇ」


それでも今、動いた。

その意味を土方は読み取る。それは、隣に居る女の為。


ざわめきの消えた空間に、椿の足音だけが響いた。踏みしめるたび、白い霜がかすかに砕けてゆく。


まだ残る、鋭い視線。


刃を隠して笑う者もいれば、唇を噛み、視線を逸らす者もいる。


そして——ひとりの浪士がまた、前へと足を踏み出した。


「……巫女様ってのは、大したもんだな」


声は低く、笑っていた。だがその笑みに、敬意はなかった。


「女のくせに、従者に守られて、偉そうに口だけは達者だ。その従者、身体を使って従わせたか?」


ざわ、と場が波打つ。

椿はその言葉を聞き流さなかった。


己のことならともかく、山崎への侮辱は許せなかった。ゆっくりと顔を上げ、冷ややかに言い放つ。


「————弱い男ほど、よく吠える。」


その言葉が響く。

——何処かから、不意に口笛が鳴った。


ヒュウゥ……と、皮肉げに間延びした音。

まるで「よく言った」とでも、「面白れぇ」とでも言いたげな、嘲笑混じりのヤジのような口笛だった。


緊張に張り詰めていた場の空気が、ざわりと波を立てる。浪士たちの中から、数人が肩を揺らしながらニヤついた。


「へぇ、言い返すことだけは一人前かよ……!」


「見た目は華でも、中身は刺々しいこった!」


下品な笑いが数人から漏れる。


波紋のように広がる嘲笑に、山崎の瞳は一瞬で冷たく氷る。


「黙れ。」


その一言は鋭く、重く、場の空気を瞬時に凍らせた。


浪士たちは一瞬戸惑い、笑みが消えかける。

————だが

椿は一歩、前へ出た。

足音ひとつすら冷たく響く、その静かな動きに、ざわついていた浪士たちが、思わず黙る。


「——吠える犬に、言葉はいらない」


視線も笑みもないまま、淡々と告げられた一言が、空気を凍らせた。


次の瞬間、椿の足元から一陣の風。

その気配に、一部の浪士たちが本能的に腰へ手を伸ばしかけた——が。


動いたのは、山崎ではない。

いや、山崎はすでに——椿の背後で、静かに鯉口に指をかけていた。


笑っていた者たちの喉元に、ぞくりと冷たいものが走る。


椿の背から溢れ出した気配は、もはや言葉でなぞるものではなかった。


それは「怒り」などという生易しいものではない。まるで冬の闇に差し込む雷鳴のような、圧倒的な“殺気”。


その場にいたすべての者が、刹那、身をすくませた。


「——っ……!」


山崎でさえ、思わず膝をついた。

慣れたはずの彼の背筋にも、ぞっとするほどの悪寒が走る。胸の奥で何かがぐぐ、と鳴った。


(ちぃ……お前、本気で怒ったんか)


そう思った瞬間、額にじっとりと汗が滲んだ。


そして——

初めてその“気”に触れた浪士の一人が、喉を詰まらせるようにして泡を吹き、バタリと倒れた。白目を剥いて痙攣するその姿に、周囲は息を呑む。


「な……に、今の……!」


「殺してねぇのに……あれだけで倒れたのか……?」


ざわつく声の中——


寺の柱の陰に身を潜めていた、試衛館の面々も気配の変化を敏感に察していた。


沖田は、目を細めて椿の方を見る。


「………凄いや。近藤さんや千夜以外で、初めて人に興味を持ったかも。面白すぎるよ。彼女。」



さらに続く椿への暴言に山崎は、


「黙れ」


音もなく一人の影が前に出て、ただ静かに椿の前に立った。


「……その口、閉じとけ。見苦しい」


軽く腰を落とし、踏み込み。

一人目の浪士が反応する前に、その顔面が地に沈んでいた。


ごとり、と乾いた音が響いた瞬間、椿は鋭く反応した。

まるで舞うかのように、その綺麗な御御足が華麗に踏み込み、脇腹に鋭い一撃を叩き込む。


二人目の浪士は思わず息を漏らし、体を捩じらせながらその場に崩れ落ちた。


赤い蝶がひらりと舞い、椿の冷ややかな視線が浪士たちを貫く。誰も、次に手を出せなかった。沈黙の中で、山崎は、ちらりと椿を見やった。


「……ちぃ、足はやめぇ。着物が乱れるやろ。」


椿はふっと口元を緩め、わずかに微笑んだ。


まだ雪の残る庭に、二人の男が倒れている。刀を抜く暇もなく、瞬きの間に叩き伏せられた。鼻血をすすりながら呻く彼らを前に、椿は静かに膝をついた。


「吠えたいなら、腕を磨きなさい。」


その声は静かで、冷たい。まるで雪解けを拒む霜柱のように、男たちの胸に突き刺さった。


彼らは目を逸らした。屈辱に歯を食いしばりながらも、椿に睨まれるだけで再び立ち上がる気力が失せていく。


椿はゆっくりと立ち上がると、泥にまみれた着物の裾を払う。


「私、弱い男は嫌いなの。」


沈黙の中、倒れた浪士たちの呻きが、かすかな余韻のように残る。山崎は構えを解いていた。だが、その瞳の奥にはまだ、怒りが燻っている。


――そのときだった。


「吠えるようになったな、山崎」

寺の影の奥から、ぬらりと現れたのは、血の匂いを纏うような男だった。


芹沢鴨。


その名は、まだ浪士組の中でも知る者と知らぬ者が分かれる時期だったが、

一度でも目を合わせればわかる――この男は、ただ者ではない。


「昔はもっと大人しかったくせによ」


芹沢は笑った。

笑ったが、その目は少しも笑っていない。

底の見えぬ獣のようなまなざしが、椿と山崎を一瞥する。


「巫女に牙を剥く犬共を叩き伏せるとは……へぇ。感心だな。」


夢で見た下村継治に、椿は、僅かに目を見開いた。


血の匂いを纏い、獣のような目つきをした男――芹沢鴨。

その男の存在は、まるで場の空気を鋭く切り裂くようだった。


一方で、赤い蝶がひらりと舞い、静かに佇む巫女・椿。

まるで対極にある二つの存在が、同じ場に立っていることが信じられないほどだ。


浪士たちは息を飲み、誰もがその異様な対比に言葉を失う。

「血生臭い男」と「神秘の巫女」――その名もない緊張が、空気を重く沈ませていた。


互いの視線が交錯した瞬間、周囲は静まり返り、まるで時間が止まったかのように感じられた。


「久しいですね。……下村。いえ———芹沢殿。」


椿の声は静かでありながらも、その場に確かな重みを落とした。

その一言に、浪士たちの間にさざ波のような動揺が広がる。


「下村」と呼ばれた名は、かつての芹沢鴨の別名。

その呼称を知る者は限られていたため、彼の過去を知る者がここにいることが一瞬にして伝わったのだ。


浪士たちの視線は芹沢へと注がれ、彼の表情を探ろうとする。

しかし、芹沢は軽く笑みを浮かべただけで、何も語ろうとはしなかった。


沈黙の中で、誰かが小さく息を呑み、誰かが背筋を伸ばす。

これまでの単なる血生臭い男ではなく、ただ者ではない何かが、確かにそこに存在した。


場の空気は一変し、緊張がより一層鋭く研ぎ澄まされていった。


「……殿、か」

吐き捨てるように呟いた芹沢の声には、どこか嫌悪と苛立ちが混じっていた。


「俺にそんな格式張った呼び方は似合わん。

好きに呼べ、どうせ俺はお前らと違う血の匂いのする奴だからな。」


その目は、あえて鋭く周囲を見据え、そして椿へも冷たい挑発を向けていた。


「ならば、芹沢。」


その短い言葉に、空気がぴんと張り詰めた。


芹沢は一瞬、言葉に詰まったように目を細める。

その後、重い吐息をつき、ぎこちなく肩をすくめた。


「……ならば、芹沢、か。悪くねぇな。」


彼女の声には、不器用ながらもどこか懐かしさと覚悟が滲んでいた。


「家紋に嫌われた華か。まさか、生きていたとはな。」


芹沢はゆっくりと目を細め、言葉の意味を噛みしめるように呟いた。


「一つの花は散り、一つは咲く。か。」


その言葉に、周囲の浪士たちは静かな驚きとともに、ただ息を呑むばかりだった。


「貴方が浪士組に参加するとは思わなかった。」


椿の言葉に続いて、芹沢派の男たちが次々と膝をつき、頭を深く垂れた。彼らは皆、かつての水戸藩士であり、静かにその場の空気を変えていた。


その光景に、浪士組の他の面々は言葉を失い、ざわめきが一瞬で沈んだ。芹沢鴨の名が持つ重みと彼の背負う過去が、場の緊張をいっそう引き締めていた。


ぽつりと呟いた。


「……あの巫女、一体どこから来たんだ?」


「家紋に嫌われた華……って、いったい何のことだ?」


しかし、椿の過去や家柄については誰も詳しく知らず、確かな答えはどこにもなかった。


周りの声に椿は、ふっと笑ってしまう。


「……まったく、恐ろしい娘だ。」


低く、酒に燻された声だった。芹沢鴨。数歩離れた縁側に腰をかけ、煙草をくゆらせながら、目を細めて椿を見ていた。


椿はその声にだけ反応し、ゆっくりと顔を向けた。


「“怖い”と“扱いづらい”は、別の話でしょ?」


「いや、どちらも同じだ。少なくとも、俺にとってはな。」


芹沢の笑みは、どこまでも冗談のようでいて、その奥に何かを潜めていた。椿は小さく息を吐き、視線を戻す。


「なら、いずれは……慣れてもらうしかないわね。」


意味深なやりとりに、周囲の男たちは一様に顔をしかめた。まるで異国の言葉のように、何を話しているのか分からない。ただ、言葉の端々に滲む、互いの理解と探り合い。二人の間に流れるのは、剣よりも鋭く、火よりも熱い、得体の知れぬ気配だった。


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