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第16話

その場にいた者のうち、このやり取りの意味を正しく理解したのは二人だけだった。

芹沢の傍にいた新見錦と、少し離れた場所にいた山南敬助。


芹沢と椿の会話は、単なるやり取りではなく、牽制であり、試し合いであり、そして一歩踏み込んだ“同類”同士の挨拶のようにも思えた。


女が男を手玉に取るなどとは、ただの冗談で済まされない。この娘は、本気でそれをやってのけるのだ——静かに、そして容赦なく。


山南は、ただ二人を静かに見ていた。


芹沢の笑みの裏に潜む何かと、それを正面から受けてなお、涼しい顔で受け流す椿の姿を。

誰もが気づかぬうちに、場の空気はあの娘の手のひらで転がされている。そんな予感が、胸の奥をかすめた。


その時だった。

不意に視線が合った——気がした。


否、きっと気のせいだったのだろう。

彼女はこちらを見ていたようにも思えたし、そうでなかったような気もする。

けれど確かに、その瞬間、椿は口元をわずかに吊り上げた。まるで、心の中をすっかり見透かされたような気分だった。


(……見られている。)


思わず、そう思ってしまった自分に、山南はひとつ小さく笑う。


(いや……こちらこそ、試されているのかもしれないな。)


眼差しは柔らかくとも、その奥には鋼のような強さがある。


優しい風が肌を撫でていく。


「風は西を撫で、

 蛇は音もなく土に眠る。

 獣たちは、春の夜に牙を忘れた。」


誰も反応しなかった。

彼女がふざけているのか、それともただの風流か。ただ一瞬、山南敬助の目が椿をかすめた。

意味などない。けれど、胸のどこかで何かが引っかかった。


そして椿は、続けるように小さく囁いた。


「けれど夢は、名もなき朝に咲く。

 誰も知らぬ場所で、まだ誰にも見えぬまま。」


それきり、彼女は何も言わなかった。

それはまるで風の中に投げられた水紋のようで、すぐに静寂に溶けて消えた。


その瞬間、空気が変わった。

数人の浪士が言葉を飲み込み、ざわつき、黙り込んだ。



 「……いま、なんて?」

 「誰に向けての……」

 「いや、あれは……“予言”か?」


浪士たちは未だ何者でもない。

だが、彼女の言葉の奥にある何かに、無意識に怯えていた。



新見錦は目を細めた。

山南敬助は、その言葉をまるで咀嚼するように、静かに胸へ刻んでいた。


しかし――清河八郎だけが、それを聞いていなかった。


「ははッ、見たかこの数! 幕府など、すぐにでも動かせる!」

鼻息を荒くして、隊士の数を見渡し、椿の言葉など耳にも届いていなかった。


彼は“今”しか見ていない。

椿は“未来”しか見ていなかった。


そうして、運命はまたひとつ、静かに動き出していた。誰も知らぬ春の夜に、まだ誰にも見えぬ夢が芽吹きつつあった。



その場の空気がふっと変わった。


誰かが廊の向こうから歩いてくる足音。軽やかで、けれど迷いのない足取り。現れたのは一人の青年だった。年は椿とそう変わらないだろう。白い肌に、どこか中性的な整った顔立ち。だがその眼差しには、薄く冷たい光が宿っている。


 ――沖田総司。


彼は誰にも声をかけず、ただ椿の前に立つと、何のためらいもなく膝をつき、静かに頭を垂れた。


 「……無礼を承知で、御前に。」


一瞬、場が静まり返った。


唖然とする浪士たち。遠巻きに見ていた者たちがどよめく中、椿は眉をひとつだけ動かした。沖田の姿をじっと見下ろしながら、視線をそっと細める。


 ――何者? けれど、この眼差しは……剣士の眼だ。


近くで初めて見た顔に、椿はふと、そう思った。


 (……綺麗な人。)


背後で聞こえた声が、沈黙を破る。


 「……あのバカ……!」


苛立ちを噛み殺したような声で呟いたのは、土方歳三だった。手にしていた煙管を下ろし、まるで自分が頭を下げられたような気まずさに顔をしかめている。


 「沖田さんやん。あんたらも、参加したんか……?」


 思わず口にしたのは山崎烝だった。珍しく目を丸くして、呆れたように息をつく。


 沖田は何も答えない。ただ、その姿勢のまま、椿の返答を静かに待っていた。


 椿はゆっくりと彼の顔に視線を合わせていく。その目に、揺れるものはなかった。警戒も、好奇心も、そして――少しの興味も。


 「烝の知り合い?」


その言葉に、沖田はほんの少しだけ顔を上げた。唇の端に、僅かな笑みが浮かぶ。山崎が


「あぁ。」短く返事をして椿の視線が沖田に向けられた。


椿の視線が、もう一度沖田へと注がれる。

そのまなざしは、見透かすように深く、けれどどこか穏やかだった。


椿の手が、沖田の方へと伸びていく。

拒絶も、躊躇もなかった。ただ、そこに在る人間として、彼の存在を確かめるように。


山崎は一瞬息を呑んだが、何も言わなかった。


静寂の中、春の光が差し込んだ。

それはまるで、何か新しいものが始まる合図のようだった。


椿の指が、沖田の頬に触れた。

その瞬間、彼の身体を流れるもの——目には見えぬ気配のようなものが、指先を通じて伝わってくる。


「……いい目をしてます。」


椿の声は、驚くほど静かで柔らかい。

けれど、その目には隠せぬ強さがあった。

沖田が息を呑んだのは、声のせいではない。その眼差しの奥に、自分の奥底を見透かされている気がしたからだ。


そして椿は、わずかに首を傾けた。


「名を、聞いても?」


それはまるで、昔馴染みの者に声をかけるように穏やかで、どこか懐かしささえ滲む響きだった。沖田は、その問いに一瞬だけ沈黙した。だが、やがて小さく微笑みを返すと、きちんと正座を整え直し、頭を下げた。


「沖田総司と申します。……無礼、お詫びします。」


その答えを聞いた椿は、目を伏せて静かに笑った。


 「総司……いい名。」


言葉は穏やかだった。だが、視線は深く沈んでいた。沖田の奥底にある何かを覗き込むように。


彼の目は、真っ直ぐだった。曇りなく、そして優しさに満ちていた。だがその奥に、椿は一つの“音”を聞いた気がした。小さな、壊れかけた鼓動のような、澱のようなものを。


椿は指をそっと離し、ふっと息を吐く。


 「……燃え尽きる灯ほど、よく燃えるのね。」


その言葉が意味するところに、彼が気付いたかどうかはわからない。だが沖田のまなざしが、わずかに揺れた。


 「まだ、間に合うわ。きっと。」


椿の声は優しかった。けれど、その言葉には、確かに“何かを見た者”の響きがあった。未来の、ほんの欠片。誰にも告げぬまま、ただ、そこに立ち現れた影に。


沖田は、答えなかった。ただ、ゆっくりと頭を垂れる。


土方は少し離れた場所から、その場の静かなやり取りを見つめていた。

だが、椿と沖田の間で交わされる言葉は、土方がいる場所では聞こえない。


「……何やってんだ、あいつら」


無意識に吐き出したその声は、苛立ちを隠せなかった。沖田が自ら進んで誰かに頭を垂れるなど、土方にとっては想像できないことだった。


「総司は、そんな男じゃねぇ」


そう心の中で繰り返す。

若い沖田を知る者として、彼の誇りを誰よりも理解している。だからこそ余計に胸がざわついた。


「なんであんなことを……」


そうつぶやく土方の目は、兄のような強い思いやりと不安で揺れていた。彼は、沖田の真意が読み取れない。


ただ、遠くから見守るしかない自分の無力さに苛立ちを募らせていた。


ふと、見られている沢山の視線の中、椿は、一人の男を捕らえていた。


山崎がその視線の先を見て、

「土方さん……。」


「やっぱり。烝の仲間なの。君と同じ、曇りない目だと思って……」

そう言う椿の声には、揺るぎのない確信があった。


山崎の目が、一瞬だけ周囲をかすめた。

その視線には、どこか鋭さと警戒が混じっていた。言葉を交わさずとも、彼にはわかっていた。

この場に集う者たちの中で――椿だけが異質であり、同時に最も危うい存在であることを。


「……あいつら、ちぃを“巫女”としてしか見てへん」

ぽつりと呟いた声は、風に消えそうなほど静かだった。


それでも椿には、痛いほど伝わった。

その言葉の奥にある怒りと、哀しみと――どうしようもない焦りが。


「巫女の名に集った者も中にはいるのだから、当たり前でしょう。」


沖田に目をやると、椿は手を差し出した。

沖田はその手を、静かに取った。

それは剣を抜く時のような、鋭さではなく、何かを託される者の静かな覚悟だった。



椿が一歩、彼のほうへと歩み寄る。沖田の肩がわずかに揺れた。気安さではない。まるで、核心へと踏み込むように。


「……何度か、つけてましたよね? 総司殿」

ふいに投げられたその声は、やわらかく、しかし明確な意志を帯びていた。


沖田は笑っている。けれど、視線はどこか探るような色を帯びている。


椿は、にこりともせず続けた。


「――あそこの彼と共に」


椿の顎が、わずかに左を向く。

視線の先、鬱蒼とした杉の根元。

そこに立っていたのは、武骨な黒衣の男。


土方歳三。


日差しに照らされたその顔は無表情。だが、眼差しだけが研ぎ澄まされている。


ふっと、沖田の顔色が変わった。

隠していたつもりだった。気づかれていないと、そう思っていた。

だが、彼女は最初から見抜いていたのだ。


そして何より——


(……近い。)


息をのむ。

その距離、指先ひとつで届くほど。

椿の肌から漂う、淡い香の気配が鼻先をかすめ、思考を一瞬だけかき乱す。


そんな刹那——


「椿。」


から伸びた腕が、椿の肩を掴み、彼女を静かに引き離した。

山崎烝だった。声の調子は落ち着いていたが、その目は少し鋭い。


「……距離感、考えや。」


短く、低く。

それは誰にも聞こえぬように、けれど椿の耳元にははっきりと届いた。


椿は振り返らない。ただ、目だけをそっと山崎に向けて笑む。

その笑みは、どこか小悪魔的で、けれど子どものような無邪気さも帯びている。


「だって、“見てた”んでしょ?」


言葉の矛先が誰に向けられたものか——沖田か、山崎か、それとも、すべての男たちか。


風がまた、ひとつ吹き抜けた。

その香りを残して、椿はするりと山崎の手をすり抜ける。


ふわりと微笑む椿に、周囲の男たちは自然と視線を奪われた。

その柔らかな笑顔には、不思議な魅力が宿っていた。

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