その場にいた者のうち、このやり取りの意味を正しく理解したのは二人だけだった。
芹沢の傍にいた新見錦と、少し離れた場所にいた山南敬助。
芹沢と椿の会話は、単なるやり取りではなく、牽制であり、試し合いであり、そして一歩踏み込んだ“同類”同士の挨拶のようにも思えた。
女が男を手玉に取るなどとは、ただの冗談で済まされない。この娘は、本気でそれをやってのけるのだ——静かに、そして容赦なく。
山南は、ただ二人を静かに見ていた。
芹沢の笑みの裏に潜む何かと、それを正面から受けてなお、涼しい顔で受け流す椿の姿を。
誰もが気づかぬうちに、場の空気はあの娘の手のひらで転がされている。そんな予感が、胸の奥をかすめた。
その時だった。
不意に視線が合った——気がした。
否、きっと気のせいだったのだろう。
彼女はこちらを見ていたようにも思えたし、そうでなかったような気もする。
けれど確かに、その瞬間、椿は口元をわずかに吊り上げた。まるで、心の中をすっかり見透かされたような気分だった。
(……見られている。)
思わず、そう思ってしまった自分に、山南はひとつ小さく笑う。
(いや……こちらこそ、試されているのかもしれないな。)
眼差しは柔らかくとも、その奥には鋼のような強さがある。
優しい風が肌を撫でていく。
「風は西を撫で、
蛇は音もなく土に眠る。
獣たちは、春の夜に牙を忘れた。」
誰も反応しなかった。
彼女がふざけているのか、それともただの風流か。ただ一瞬、山南敬助の目が椿をかすめた。
意味などない。けれど、胸のどこかで何かが引っかかった。
そして椿は、続けるように小さく囁いた。
「けれど夢は、名もなき朝に咲く。
誰も知らぬ場所で、まだ誰にも見えぬまま。」
それきり、彼女は何も言わなかった。
それはまるで風の中に投げられた水紋のようで、すぐに静寂に溶けて消えた。
その瞬間、空気が変わった。
数人の浪士が言葉を飲み込み、ざわつき、黙り込んだ。
「……いま、なんて?」
「誰に向けての……」
「いや、あれは……“予言”か?」
浪士たちは未だ何者でもない。
だが、彼女の言葉の奥にある何かに、無意識に怯えていた。
新見錦は目を細めた。
山南敬助は、その言葉をまるで咀嚼するように、静かに胸へ刻んでいた。
しかし――清河八郎だけが、それを聞いていなかった。
「ははッ、見たかこの数! 幕府など、すぐにでも動かせる!」
鼻息を荒くして、隊士の数を見渡し、椿の言葉など耳にも届いていなかった。
彼は“今”しか見ていない。
椿は“未来”しか見ていなかった。
そうして、運命はまたひとつ、静かに動き出していた。誰も知らぬ春の夜に、まだ誰にも見えぬ夢が芽吹きつつあった。
その場の空気がふっと変わった。
誰かが廊の向こうから歩いてくる足音。軽やかで、けれど迷いのない足取り。現れたのは一人の青年だった。年は椿とそう変わらないだろう。白い肌に、どこか中性的な整った顔立ち。だがその眼差しには、薄く冷たい光が宿っている。
――沖田総司。
彼は誰にも声をかけず、ただ椿の前に立つと、何のためらいもなく膝をつき、静かに頭を垂れた。
「……無礼を承知で、御前に。」
一瞬、場が静まり返った。
唖然とする浪士たち。遠巻きに見ていた者たちがどよめく中、椿は眉をひとつだけ動かした。沖田の姿をじっと見下ろしながら、視線をそっと細める。
――何者? けれど、この眼差しは……剣士の眼だ。
近くで初めて見た顔に、椿はふと、そう思った。
(……綺麗な人。)
背後で聞こえた声が、沈黙を破る。
「……あのバカ……!」
苛立ちを噛み殺したような声で呟いたのは、土方歳三だった。手にしていた煙管を下ろし、まるで自分が頭を下げられたような気まずさに顔をしかめている。
「沖田さんやん。あんたらも、参加したんか……?」
思わず口にしたのは山崎烝だった。珍しく目を丸くして、呆れたように息をつく。
沖田は何も答えない。ただ、その姿勢のまま、椿の返答を静かに待っていた。
椿はゆっくりと彼の顔に視線を合わせていく。その目に、揺れるものはなかった。警戒も、好奇心も、そして――少しの興味も。
「烝の知り合い?」
その言葉に、沖田はほんの少しだけ顔を上げた。唇の端に、僅かな笑みが浮かぶ。山崎が
「あぁ。」短く返事をして椿の視線が沖田に向けられた。
椿の視線が、もう一度沖田へと注がれる。
そのまなざしは、見透かすように深く、けれどどこか穏やかだった。
椿の手が、沖田の方へと伸びていく。
拒絶も、躊躇もなかった。ただ、そこに在る人間として、彼の存在を確かめるように。
山崎は一瞬息を呑んだが、何も言わなかった。
静寂の中、春の光が差し込んだ。
それはまるで、何か新しいものが始まる合図のようだった。
椿の指が、沖田の頬に触れた。
その瞬間、彼の身体を流れるもの——目には見えぬ気配のようなものが、指先を通じて伝わってくる。
「……いい目をしてます。」
椿の声は、驚くほど静かで柔らかい。
けれど、その目には隠せぬ強さがあった。
沖田が息を呑んだのは、声のせいではない。その眼差しの奥に、自分の奥底を見透かされている気がしたからだ。
そして椿は、わずかに首を傾けた。
「名を、聞いても?」
それはまるで、昔馴染みの者に声をかけるように穏やかで、どこか懐かしささえ滲む響きだった。沖田は、その問いに一瞬だけ沈黙した。だが、やがて小さく微笑みを返すと、きちんと正座を整え直し、頭を下げた。
「沖田総司と申します。……無礼、お詫びします。」
その答えを聞いた椿は、目を伏せて静かに笑った。
「総司……いい名。」
言葉は穏やかだった。だが、視線は深く沈んでいた。沖田の奥底にある何かを覗き込むように。
彼の目は、真っ直ぐだった。曇りなく、そして優しさに満ちていた。だがその奥に、椿は一つの“音”を聞いた気がした。小さな、壊れかけた鼓動のような、澱のようなものを。
椿は指をそっと離し、ふっと息を吐く。
「……燃え尽きる灯ほど、よく燃えるのね。」
その言葉が意味するところに、彼が気付いたかどうかはわからない。だが沖田のまなざしが、わずかに揺れた。
「まだ、間に合うわ。きっと。」
椿の声は優しかった。けれど、その言葉には、確かに“何かを見た者”の響きがあった。未来の、ほんの欠片。誰にも告げぬまま、ただ、そこに立ち現れた影に。
沖田は、答えなかった。ただ、ゆっくりと頭を垂れる。
土方は少し離れた場所から、その場の静かなやり取りを見つめていた。
だが、椿と沖田の間で交わされる言葉は、土方がいる場所では聞こえない。
「……何やってんだ、あいつら」
無意識に吐き出したその声は、苛立ちを隠せなかった。沖田が自ら進んで誰かに頭を垂れるなど、土方にとっては想像できないことだった。
「総司は、そんな男じゃねぇ」
そう心の中で繰り返す。
若い沖田を知る者として、彼の誇りを誰よりも理解している。だからこそ余計に胸がざわついた。
「なんであんなことを……」
そうつぶやく土方の目は、兄のような強い思いやりと不安で揺れていた。彼は、沖田の真意が読み取れない。
ただ、遠くから見守るしかない自分の無力さに苛立ちを募らせていた。
ふと、見られている沢山の視線の中、椿は、一人の男を捕らえていた。
山崎がその視線の先を見て、
「土方さん……。」
「やっぱり。烝の仲間なの。君と同じ、曇りない目だと思って……」
そう言う椿の声には、揺るぎのない確信があった。
山崎の目が、一瞬だけ周囲をかすめた。
その視線には、どこか鋭さと警戒が混じっていた。言葉を交わさずとも、彼にはわかっていた。
この場に集う者たちの中で――椿だけが異質であり、同時に最も危うい存在であることを。
「……あいつら、ちぃを“巫女”としてしか見てへん」
ぽつりと呟いた声は、風に消えそうなほど静かだった。
それでも椿には、痛いほど伝わった。
その言葉の奥にある怒りと、哀しみと――どうしようもない焦りが。
「巫女の名に集った者も中にはいるのだから、当たり前でしょう。」
沖田に目をやると、椿は手を差し出した。
沖田はその手を、静かに取った。
それは剣を抜く時のような、鋭さではなく、何かを託される者の静かな覚悟だった。
椿が一歩、彼のほうへと歩み寄る。沖田の肩がわずかに揺れた。気安さではない。まるで、核心へと踏み込むように。
「……何度か、つけてましたよね? 総司殿」
ふいに投げられたその声は、やわらかく、しかし明確な意志を帯びていた。
沖田は笑っている。けれど、視線はどこか探るような色を帯びている。
椿は、にこりともせず続けた。
「――あそこの彼と共に」
椿の顎が、わずかに左を向く。
視線の先、鬱蒼とした杉の根元。
そこに立っていたのは、武骨な黒衣の男。
土方歳三。
日差しに照らされたその顔は無表情。だが、眼差しだけが研ぎ澄まされている。
ふっと、沖田の顔色が変わった。
隠していたつもりだった。気づかれていないと、そう思っていた。
だが、彼女は最初から見抜いていたのだ。
そして何より——
(……近い。)
息をのむ。
その距離、指先ひとつで届くほど。
椿の肌から漂う、淡い香の気配が鼻先をかすめ、思考を一瞬だけかき乱す。
そんな刹那——
「椿。」
から伸びた腕が、椿の肩を掴み、彼女を静かに引き離した。
山崎烝だった。声の調子は落ち着いていたが、その目は少し鋭い。
「……距離感、考えや。」
短く、低く。
それは誰にも聞こえぬように、けれど椿の耳元にははっきりと届いた。
椿は振り返らない。ただ、目だけをそっと山崎に向けて笑む。
その笑みは、どこか小悪魔的で、けれど子どものような無邪気さも帯びている。
「だって、“見てた”んでしょ?」
言葉の矛先が誰に向けられたものか——沖田か、山崎か、それとも、すべての男たちか。
風がまた、ひとつ吹き抜けた。
その香りを残して、椿はするりと山崎の手をすり抜ける。
ふわりと微笑む椿に、周囲の男たちは自然と視線を奪われた。
その柔らかな笑顔には、不思議な魅力が宿っていた。