寺の広間に設けられた会議の間。
外では続々と浪士たちが集まり、寺の敷地内はあっという間に異様な熱気に包まれていた。
「……想像を、遥かに上回っているな」
障子越しに聞こえる足音と声の多さに、年配の幕臣が声をひそめた。
「百名、いや……二百を超えている。これほどの浪士が、一人の巫女の名のもとに……」
「椿様」
別の者が、静かに名を呼ぶ。
その視線の先に、淡く香を纏いながら静座していた椿がいる。彼女は何も言わず、ただ遠くのざわめきを聞いていた。
「まさか、本当に……これだけの者を集めるとは」
「まるで、軍勢ですな……」
「名目は浪士組だが、このままでは――」
語尾を濁す役人たちの間に、重苦しい空気が満ちる。
椿はゆっくりと視線を向けた。
「怯えるほどのことではありません。彼らは、国のために剣を抜く覚悟を持った者たち。乱すために集めたのではありません」
その静かな声に、役人たちは思わず口をつぐんだ。
「ですが、あの人数は……制御が難しくなる恐れも……」
一人が懸念をにじませる。
「制御されるために集まったわけではありません」
椿は淡々と告げた。
「理を説き、筋を通せば、彼らはそれに従う。ただ、耳を傾ける者が必要なのです」
一瞬、沈黙が流れる。
その間にも、外では次々と浪士たちの声と足音が響く。
「……恐ろしい女だ」
誰ともなく呟かれたその言葉に、他の者たちも静かにうなずいた。
椿は何も言わず、ただ膝の上で手を組んでいる。その背筋は揺るがず、眼差しには一点の迷いもなかった。
まるで――
この国の行く末すら、既に見据えているかのようだった。
(ここにいる必要も、無さそうね。)
————寺の中庭にて
「……あの御御足で蹴られてぇ」
下卑た笑いと共に漏れたその声は、戯れ言の域を出なかった。けれど、山崎の耳には確かに届いた。いや、届いてしまった。
「……アホか」
呆れ混じりの低音が喉奥から漏れた。
けれど振り返らない。目を向けたら、何かが切れてしまいそうだったから。
(見てんのは脚やのうて、人そのもんやろ。気づかんふりして、どこ見とんねん……)
椿の着物の裾から覗く、白い足首。
風に揺れる黒髪。ふとした拍子にこぼれる微笑み。
確かに、人を惑わす要素は多い。
けれど、それは“入口”にすぎない。
あいつが背負わされた宿命の重さも、血のにおいも、踏み越えてきたものも――
何一つ知らん奴らが、口にしてええ言葉やあらへん。
(蹴られてぇ、やと……ふざけんなや)
山崎の手が、自然と腰の刀に添えられていた。
柄にかかる指先がわずかに震える。
(……またや)
怒りが湧くたびに、自分が“人”に戻れん気がして怖い。主である椿が平然としている限り、俺はただの従者や。勝手に手を出すわけにはいかん。
(ほんま、守るっちゅうのは……こんなに難儀なことなんか)
深く息を吸う。けれど、胸の奥の熱は鎮まらなかった。
「……死にてぇんか、お前ら」
低く呟いたその声は、聞いた者にしか届かぬほどに鋭く冷たい。
その刹那だった。
背後から近づく軽やかな足音。甘い香りが、風に乗って届く。
――椿だ。
「烝、口開けて」
「……は?」
咄嗟に返す間もなく、椿の細い指先が金平糖を摘まみ、山崎の口元へ差し出す。
「ほら、動いてばっかだと糖が切れる。ちゃんと摂って」
戸惑う山崎をよそに、椿はごく自然な手つきでその粒を押し込んだ。
唇に触れる、柔らかな指先。金平糖が、ぺたりと舌の上に落ちる。
(……あかん)
脳の奥まで、甘さが痺れるように広がる。
けれどそれは、菓子のせいだけやない。
「お、おい、今の見たか……?」
「え、マジで口に……入れた? 手で?」
「ってことは……あいつ、椿様の……?」
ざらりとしたざわめきが、周囲に湧く。
山崎のこめかみに、熱が昇る。暑さや怒りではない。たぶん――恥ずかしさだった。
「な、何してんねん……」
情けない声がかすれた。けれど椿は、どこ吹く風だった。
「え、口に入れられるの嫌だった?」
「そ、そういう問題やない……!」
「じゃあ、次は何味にする? 赤いの? 青いの?」
そう言って、ぽん、と小袋を山崎の胸元に置いた。顔は真面目そのもので、まるで子どもに飴でも配るかのようだった。
山崎は俯き、ふうと息を吐いた。
(……無自覚って、罪やな)
ほんま、それに殺されるとこやったわ。
それでも、胸元に残る小袋の重さは、少しだけ甘かった。それは金平糖だけじゃなく――
彼女が、自分に向けてくれた「気遣い」の証でもあった。
後ろでざわつく声が続いていた。
「絶対、ただの従者じゃねえよな……」
「ていうか、口に金平糖って……何それ……色っぽ……」
山崎は思わず背を向け、早足でその場を離れようとするが、椿に腕を捕まれ逃げる事は諦めた。
「……もうええ。アホばっかや」
こめかみまで染まった赤を隠すように、額の汗を拭うふりをして。けれど――その口元には、微かに笑みが残っていた。
「顔、赤いよ?」
「誰のせいやと思ってんねん!」
椿は、首を傾げ、己の口にも金平糖を放り込む。山崎がさらに顔を赤くしたのは、椿は気づいてもいなかった。
「……松平忠敏、浪士組引率の辞任を申し出た」
その言葉が告げられた瞬間、広間にざわめきが走った。
役人たちの顔色が一変し、動揺の波が広がる。
「なに……?」
「浪士組は幕府の切り札、だというのに……」
「これでは組織の崩壊も時間の問題だ」
ざわつく声の合間に、浪士たちの足音が外から絶え間なく響く。熱気を帯びた空気がさらに重く、どこか不安を孕んでいた。
椿は薄く目を細め、揺るがぬ姿勢で周囲を見渡し、見定めていた。
寺の広間。
静まり返った空気の中で、松平忠敏の辞任が告げられたその瞬間――抑えきれぬ動揺と怒号が、幕臣たちの間から一気に噴き上がった。
「松平殿、それは――あまりに、軽率ではござらぬか!」
「お待ちを! 今ここで辞を表せば、浪士組は――幕府の顔はどうなるのです!」
「冷静になられよ、松平殿!」
張り詰めた声、怒気、困惑――
その全てが、襖と障子の向こうを越え、寺の敷地全体に響き渡った。
広間の外、土間にずらりと集まった浪士たちが、その怒声に顔を見合わせる。
「……なんや、揉めてんのか?」
「松平ってやつが辞める言うたらしいぞ」
「俺ら、ほっとかれてんのか?」
ざわつきが起きる。
浪士組の男たちが、思わず腰の刀に手をかける。緊張が連鎖し、熱気のように広がっていった。
そんな中、椿は静かに立ち上がった。
広間の奥から、足音が響いた。
雪のように白い装束の裾を翻し、松平忠敏が中庭へと姿を現す。その背は毅然としているようで、どこか震えていた。
広間から駆け寄る者たちの声も振り返らず、ただ足を進める。
「松平殿! お待ちを!」
「今、御身が退かれては混乱を招きます!」
「ご自分の役目を、放棄なさるおつもりか――!」
幕臣たちが後を追う。
けれど松平は何も答えず、足早に門へ向かっていた。
その様子を、寺の土間から多くの浪士たちが目撃していた。
ざわめきが、再び広がっていく。
「……あれ、松平……?」
「帰るんか、あの人……?」
「てめえ、俺ら置いて逃げる気かよ……!」
怒りと困惑とが入り混じり、空気は重くなる。
そんな中――椿がゆっくりと、松平の前へと歩み出た。
「……お帰りになるのですか、松平殿」
その声は穏やかだった。
けれど、どこか鋭い刀のような冷たさを孕んでいた。
松平は足を止める。
その視線は、椿の顔を捉えず、地面の一点を見つめていた。
「あなたは、浪士組を引き連れるお立場だったはず。それが責任を放棄し、背を向けて去るお姿……」
椿は一歩、松平に近づいた。
「……まるで、負け犬のように尻尾を巻いて逃げるのですね」
その言葉に、周囲が息を呑んだ。
幕臣たちが口を開きかけるが、椿は止めるように片手を上げた。
「誰かが言うべきことでした。彼らは、“あなたを信じて”ここまで集まったのです。……たとえ私の名がきっかけだったとしても、今、あなたの背にあるものの重さを、どうか自覚してください」
松平の肩が、ぴくりと揺れた。
けれど彼はなお、椿の目を見ようとはしなかった。その場にいた全員が息を呑む。
「こんな場に、居られるものか」
その声は震えていた。怒りではない。侮蔑でもない。ただただ、己の立場を守るための、悲鳴のような強がりだった。
だが、男は最後に一言、場を切り裂くように吐き捨てた。
「これは、“巫女”などではない。ただの“否子”だ。世に要らぬ女が、生き延びただけの存在だ」
椿が、ぴくりとも眉を動かさぬまま睨む。だがその瞳の奥は、静かな怒りに燃えていた。
「挙げ句に――町医者の倅などという、身分もなき男を連れ従え、まるで対等のように振る舞うとは……笑止千万。下郎が巫女の傍にいるなど、国の恥だ」
山崎が息をのむ音がした。
その瞬間、空気が裂けた。
「――っ!」
刀が抜かれる音。鋭く、鋼のきしみが走る。
山崎の手が、腰の太刀を抜き放ち、音もなく踏み込んでいた。
その刹那。
カンッ、と金属音が響いた。
椿が握った黒いクナイが、山崎の太刀を正確に受け止めていく。
刀は床に落ちることなく、宙でバランスを失い、山崎の足元で停止した。
「……ッ、」
一瞬の間に起きた出来事に、誰もが息を呑んだ。ざわめきが、遅れて波のように広がる。
「————私の従者が、失礼をいたしました。」
彼女の口角が上がったのを山崎は見逃さなかった。
「己の姿を見てからものを言ったら如何か。これだけの人を集め、見捨てる貴方の姿が、本当の————国の恥です。」
彼女の言葉は、静かだった。
「あなたが背を向けることで、浪士たちは不安を覚えます。今ここに立ち、責を果たすことで、あなたは未来に“恥”を残さずに済む。――それが、武士の矜持ではありませんか?」
一瞬、松平の目が揺れた。
「……いらぬ」
低く、震えるような声。
「私は……最初から、あのような者たちをまとめる器ではなかったのだ……巫女の名で集まった兵を、どうして私が……!」
その言葉に、椿は目を細める。
「――ならば、いただきましょうか」
松平の目が動く。
「“いらぬ”というのであれば。私は要ります。彼ら一人ひとりの覚悟も、命も、その怒りも…。ならば、彼らの行き場がないというのなら――私が引き受けましょう」
静寂が、しん、とその場を包んだ。
風が吹き抜け、椿の黒髪を揺らす。
その姿を見上げるように、浪士たちの視線が集まる。
「全ての責任は、私が取ります。」
誰もが感じていた。
このとき、浪士組は――正式に、巫女・椿のもとに生まれ変わったのだと。