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第18話

御用屋敷の座敷。

松平忠俊が正式に浪士組の任を辞したその翌日、幕臣たちは静かに集められていた。


「浪士組を――だと?」


老中の一人が呟いた言葉に、室内が一瞬にして冷えた空気に包まれる。


椿。

あの、徳川斉昭の娘。

忌まわしき「巫女」の名を冠した女が、今や武士を率いると言った。


「女が武士を率いるなど前代未聞だ。たとえその素性が将軍家に連なるものであろうと――!」


「しかし、既に動いている。我らが手を引けば、あれは民衆の中で神格化されるぞ」


「むしろ、それを恐れているのだ。あの女は“人を惹きつける”。理屈ではなく、本能に訴えるような力がある」


「斉昭の娘などと言われてはいるが、そもそも“何者”なのだ。公家筋とも巫女とも囁かれ、あまつさえ武芸も備えている。…異物だ」


口々に語られるのは、警戒、困惑、そして恐れだった。


松平忠俊の辞任に対し、「惜しい」という声は誰一人としてあげなかった。

無能が去っただけ、という冷ややかな空気。

だが――問題はその後だ。


「浪士組を我が物としたいと、あの娘が口にした。」


「…それは本気か?」


「巫女が“浪士を従える”。まるで妖かしの芝居のようだが、民衆には受ける」


「――受けては困るのだ。幕府に仇なす火種となる」


「だが今、我らには彼女を抑える手立ても理由もない。忠俊の辞任で浪士組の綱は宙に浮いた。あの娘に握られるのは、時間の問題だ」


「一人、送り込もう。見張りと、もしもの時の“後始末”だ」


重々しい沈黙の末、決定は下された。


椿――

あの女は、幕府の味方ではない。

だが敵にも、味方にもなり得る“何か”だ。


「くれぐれも、手綱は握り損ねるな。あれが暴れれば――」


「“国が、傾く”。」


まるで呪いのように、その場に残ったのは重い言葉と、誰も口にしない恐怖だった。




————八坂神社

山崎は、まだ俯いたままだった。

土の上に落ちる彼の影が、ほんの少し揺れる。緊張と後悔と、それでも椿に叱られないことへの戸惑いが、入り混じっていた。


椿は静かに言った。


「怒ってないよ。」


その言葉に、山崎の肩がぴくりと動いた。


「むしろ、感謝してる。」


今度は、顔を上げた。

彼女は、微笑んでいた。けれどそれは、ただ優しいだけの笑みではなかった。


「あの時、烝が動かなければ、私は、きっと……黙ってた。」


自分を守るために、黙っていただろう――そう言った椿の声には、少しの悔しさがあった。


「でも思い出したんだ。

前例が無いにしろ、私の立ち位置は変わらない。」


椿の眼差しは、遠くを見ていた。

そしてふと、山崎の方に視線を戻し、柔らかく続けた。


「否子って言葉に……恐れをなした。情けないね。」


山崎は、言葉を失った。

椿のその姿が、あまりにも人間らしくて、あまりにも強くて――何も言えなかった。


ただ、「あんたを守れてよかった」と、心の底から思った。


「……でも、次は怒るからね。」


ふいに落とされた言葉に、山崎は思わず目を丸くした。


「……え?」


椿は微笑んだまま、ほんの少しだけ、眉を吊り上げて言った。


「身分のことで落ち込んだら、私、怒るよ?」


その声は優しかった。けれど、微塵の揺らぎもなかった。

凛としていて、揺るぎない意志のように響く。


「私は、伝えたよ。」


「……?」


山崎が困惑気味に首をかしげると、椿はふわりと笑った。


「——山崎烝以外、要らないって。」


静かだった。

まるで竹林の奥で風が止まったかのように、空気がふと止まる。


山崎は言葉を失ったまま、ただ彼女を見つめていた。

胸の奥に、何かが静かに満ちていく。


自分は、選ばれた。

誰かの“代わり”ではなく、“身分”でもなく。

「山崎烝」として、彼女に必要とされている——その重みに、心が熱くなる。


身分に囚われない彼女から、ほんの少し視線を逸らしたのは、松平の言葉ぐらいで己の心が揺らいでしまったからだ。


椿は、そんな彼の沈黙をそっと受け取りながら、ぽつりと続けた。


「……だから、ちゃんと信じて。自分のことも、私のことも。」


山崎は、俯いたまま一度目を閉じ、それからゆっくりと頷いた。


「……ああ。信じる。次は、もう……引かへん。」


小さく告げたその誓いに、椿はそっと目を細めた。


遠くで、風がまた笹の葉を鳴らした。

夕陽が傾き、二人の影が、静かに寄り添うように重なっていた。

凛とした声だった。けれど、そこにはどこか、傷を恐れる少女のような心細さも混じっている気がした。






————試衛館

煙草の香が、宵の空気に溶けていく。

薄明かりの中、煙管を片手に腰を下ろす土方は、黙して中庭を眺めていた。


煙の向こうに浮かぶのは、さっきまでそこに居た巫女――椿の姿。


紅の裾を翻し、無駄のない所作で歩き、座し、目で命じ、時に風のように動く。

あの一つひとつに、鍛錬と殺気が潜んでいた。


「……只者じゃねぇな。」


口の端に煙を含んだまま、呟いた。


「土方さん。夕餉の支度出来ましたよ。」


柱の影から、沖田がいつも通りの笑みで顔を覗かせてきた。

その手には飯の匂いが染みた手ぬぐい。


「…あぁ。」


「また、あの子のことです?」


問いながら沖田はちゃっかり隣に座り、煙の匂いを嫌がるそぶりも見せない。


「只者ではねぇと、思ってな。」


「なぁんだ。てっきり御御足に踏まれたいとか言うかと思いましたよ。」


「中庭で言ってた奴らが居たな。確かに。」


ふ、と土方の口元が緩んだ。

確かに、あの着物の隙間から覗いた肌の白さは、見る者の目を奪う。


だが――それ以上に、あの動き。

視線の誘導、重心の置き方、瞬時の気配の消し方。


生まれついての姫ではなく、生き抜いてきた何かがある。


「……ああいうの、僕、よく分からないから。」


沖田の言葉は、少しだけ遠かった。

けれど、それが嘘じゃないことも、土方には分かっていた。


目の前の男は、女を知らない。

惚れた女が多分初めてまともに見た裸体だっただろう。それが冷たくなった身体だったとしたら――


「……良い加減、女を知る時期をとうに越してるがな。」


沖田は笑わなかった。

 ただ、ふっと目を細めて、風の向こうを見た。


 「まだ、触れられた場所が……熱いんですよ。」


 低く絞った声に、土方は煙管を持つ手を止めた。


沖田の言葉に、土方は僅かに眉を上げる。


「惚れたか? あの女じゃ無理もないが。」


「まさか。」


即答した沖田は、どこか少しだけ照れて見せた。

だがそのまなざしは、夜の底に沈む水面のように静かで深い。


……それでも、あの眼差しを思い出すだけで、少しだけ息が詰まる。

惚れていないと言えば嘘になる。だが、叶うものでもない。


椿の視線には、何かを見透かすような光がある。

笑っていても、どこかで誰も寄せつけぬ鋭さがあった。


「よく言う。土方さんの方でしょ? それは。」


沖田の声は、ひどく穏やかで、けれどどこか探るようだった。


煙草を咥えたままの土方の顔に、ほんの一瞬だけ、薄い陰が差した。

すぐに視線を逸らし、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。


「……あいつは、そういう目で見る相手じゃねぇ。」


「それ、否定じゃないですよ。」


沖田は笑った。けれどその笑みは、どこか寂しげだった。



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