二月の風は、まだ冬の名残を引きずっていた。
冷たく乾いた空気が町を吹き抜け、人々は肩をすくめ、火鉢に身を寄せていた。
その午後、試衛館の門前に、ふたつの影が立つ。
ひとつは、痩せた男。年の頃は三十手前。
表情は薄く、目だけが研ぎ澄まされている。山崎蒸。
そしてもうひとつの影――それは、小さな女だった。
女は白い小笠をかぶり、深く顔を覆っていた。
足元は雪を弾く草履、裾には淡く紅を差したような小袖。
まるで、季節の中にぽつりと迷い込んだ椿の花のようだった。
山崎が、門を静かに叩く。
「どなた――」
門番の若者が顔を出し、言葉を止めた。
「……山崎、さん……? 女の……方?」
戸惑いの声はすぐに広がり、縁側にいた沖田が顔を出す。
「え? なに? 誰か来たの……っ」
女の姿に気づいた瞬間、彼の声が不自然に細くなる。
「おい、歳三。女が来た。しかも……山崎と一緒に」
「……女?」
土方が眉をひそめ、縁側から立ち上がる。
山崎と共にいる女は、一人しかいない。
「巫女直々に、お出ましかよ。」
土方の低い声に、空気がぴたりと止まる。
その言葉に反応したように、椿がゆるやかに笠に手をかけた。
雪のように白い指先が、静かに縁をとらえ、かすかに傾ける。
――その下から現れたのは、年若い女の面差し。
だがその瞳は、まるで何も映さぬようで、すべてを見透かすようだった。
一瞬、誰もが言葉を失った。
風も、鳴き止んだように思えた。
「……椿と申します。ご挨拶にあがりました。試衛館の皆様に、まずはお目通りをと」
椿の声音は、かすかに微笑みを含んでいたが、礼儀の奥には一切の隙がなかった。
「……綺麗な顔してんな。でも、あの目……冗談通じねぇ目だな、ありゃ」
沖田がすかさず小声で返す。
「永倉さん、失礼ですよ」
椿の睫毛が静かに揺れた。
そして、そっと顔を上げる。
まっすぐに――沖田を見つめた。
視線がぶつかる。
その瞬間、沖田の胸の奥で、何かが軋んだ。
椿は、その黒く澄んだ瞳で沖田を見つめ、ほんのわずかに目を細めた。
「総司殿、その節は…」
沖田は、喉が詰まるのを感じながら、ぎこちなく笑おうとした。だが、椿が沖田を見つめるその瞬間、土方の眉がわずかに動いた。
「わざわざ巫女様を連れてまで、何の風の吹き回しだ。こっちの覚悟も問われる話か?」
寒さに椿の身体がほんの僅か震えた。
それを見た山崎が、さりげなく羽織を脱ぎ、静かに彼女の肩にかけた。
彼の羽織を取ると、山崎が寒くなるのではないかと気にした椿は、ふと視線を上げて彼と目を合わせた。
「平気や。着とき。」
山崎が穏やかにそう言うと、椿は少しだけ安心したように礼を言いながら頷いた。
試衛館の面々は、その光景に一瞬戸惑った。
「主君が従者に礼を……?」
誰かが小声で呟き、普段の椿とは違う柔らかな表情に、皆の視線が一斉に集まる。
山崎もまた、軽く微笑み返し、互いの絆を感じさせる静かな空気がそこに流れた。
土方が軽く眉をひそめながらも、その様子を見守るように目を細める。
「山崎。……あらためて聞かせろ。何の目的でここへ来た」
その言葉に、空気が再び引き締まった。
悴んだ手を握りしめながら、椿はまっすぐに土方を見つめた。
「浪士組の支度金の件と、これからの在り方について――お話をしに参りました」
「……巫女が、直接出向いて来たとでも言うのか」
「まぁまぁ歳、ここは寒い。お話の続きは、中で聞かせてもらおうじゃないか」
火鉢の上で湯が沸くかすかな音が、静かな部屋に響いていた。
外では二月の冷たい風が木の葉を揺らし、遠くで鶯の鳴き声がちらりと聞こえる。
土方は椿から視線を逸らさず、低く問いかけた。
「……一つ、聞いていいか。巫女ってのはただの肩書きか? お前は何者だ。あんたが背負ってるものを、俺たちも知らずに従う気はねぇ」
室内の空気が一瞬、ぴんと張りつめる。
椿は眉一つ動かさず、静かに口を開いた。
「隠すつもりはありません。私は徳川斉昭の娘であり、正室の子。実の兄は徳川慶喜です」
その言葉が畳に落ちるたび、部屋の空気は重くなった。
近藤が静かに息を吐き、肩をすくめる。
沖田は咳払いをし、視線を伏せた。
「今はただの巫女、先詠みの器に過ぎません」
椿の声音は淡々としているが、その奥には揺るぎない覚悟があった。
土方は黙って火鉢の炭を小突く。パチリと小さく火がはじける。
「なら、何を望むんだ」
椿の黒い瞳が、再びわずかに光を帯びた。
土方は、その顔を見ていた。
紅を引かぬ唇、飾り気のない身なり、けれど眼だけが妙に澄んでいた。
何も知らぬくせに、すべてを知っているような目をしていた。
「私は、あなた方の夢を見たのです。まだ名もなき浪士たちが、誠を掲げ、まっすぐに刀を握る姿を」
椿の瞳が、静かに光を宿す。
その光が、火鉢の炎と交わるようだった。
「誰の下にもつかず、己の信じた道を貫く――その姿が、私にはとても、まばゆく見えました」
沈黙が訪れる。
火鉢の上、湯がふつふつと音を立て、冬の風が障子を微かに鳴らす。
「だから、私はここに来ました。徳川の娘としてではなく、一人の巫女として。あなた方の、その夢の傍にいたくて」
その言葉に、沖田がふっと目を細めた。
近藤が、大きく息を吐くように笑い、永倉が口の端だけで何かを呟いた。
山崎は、静かに椿を見つめていた。
誰よりもその言葉を、心で受け止めるように。
火鉢の火を箸で軽く突きながら、土方が呟いた。
「……なるほどな。確かにお前は、使いの女じゃねぇ」
言葉が口を突いて出たとき、自分でも妙な感覚だった。
もっと刺すように冷たく返すつもりだった。
だが、どうにも――できなかった。
(……なんなんだ、お前)
内心、舌打ちするような気分だった。
こんなもの、情に絆されてどうする。
この先、血を見ずに済む道などない。夢の傍で死にたいだなんて、甘ったれた戯言だ。
――そう、断じるべきだった。
だが、あの目に宿る光が、どうしても頭を離れない。
まっすぐに、自分たちを見ていた。
生まれも立場も関係なく、ひとりの人間として――。
「……そういう夢想家は、嫌いじゃねぇよ」
それが、今の自分に許せる精一杯の肯定だった。
椿は、その言葉にわずかに笑った。
火の明かりに照らされ、目元に影が落ちる。
その微笑みを見た瞬間、胸の奥が――かすかに軋んだ。
(……惹かれてるのか、俺は)
土方は、己にそう問いかける。
否定できなかった。
この先、彼女をどう扱うべきか。
仲間か、客人か、それとも――。
ただ一つ確かなのは、彼の心の中に椿という存在が、すでに何かを残しているということだった。
その言葉に、椿が初めて――ほんの少しだけ、微笑んだ。
湯が沸く火鉢の横で、椿の前に湯気の立つ茶が置かれた。
彼女は一礼すると、細い指先で茶碗をとる。
茶碗にふれた白い指が、どこか季節に似つかわしく思えた。
冬の終わり――まだ冷えの残る夕刻に咲いた、一輪の椿のように。
椿は何も言わず、そのままゆるやかに湯気の向こうへ視線を落とした。
茶を口に含む。
喉を通る音はせず、ただわずかに睫毛が震えた。
その瞬間、室の空気が微かに変わる。
男たちの視線が、自然と彼女に向かっていた。
沖田は、じっと見ていた。
その瞳には、どこか遠い過去を探すような光が宿っていた。
笑っていても、彼の目は冗談を言っていない。
永倉は、腕を組んだまま、小さく鼻を鳴らした。
だが、明らかに視線は釘付けだった。
山南は静かに椿の所作を見つめていた。
何かを理解しようとする学者のような目で――彼女の「本質」を見極めようとしていた。
そして、山崎烝は誰よりも静かに、誰よりも深く彼女を見守っていた。
彼の視線は、誰にも気づかれぬように伏せられていたが――その瞳だけは、椿に釘付けだった。
ただ一人、椿だけが気づいていないふりをしていた。
――誰もが、自分を見ていることを。
けれど、次の瞬間。
椿はふと、茶碗を伏せて、柔らかく微笑んだ。
「温かいお茶は、良いですね。どんな薬より、沁みます」
その言葉に、場の空気がわずかに緩んだ。
茶の香と、まだ冷たい風の音が、障子の外から微かに届いていた。
その中に、椿という異質な存在が、確かにそこに「馴染み始めて」いた。
湯気の立つ茶碗を膝元に置き、椿はそっと背を正した。真冬の陽が障子越しに淡く差し込み、その影が彼女の横顔に静かな輪郭を描く。
「……山崎が、過去に試衛館で世話になっていたと、聞きました」
そう言った椿の声音には、かすかに熱があった。
「その時、彼に手を差し伸べてくださったあなた――土方歳三様には、私からも深くお礼を申し上げます」
静かに、椿は畳に手をつき、上半身を深く折った。
頭を垂れるその姿は、決して芝居がかったものではなかった。主君が、従者のために深く礼をする――それはあまりに異例で、試衛館の空気が一瞬で凍る。
「――っ……おい、頭なんて下げること……!」
沖田が声を漏らしかけたが、言葉にならなかった。
近藤も思わず背を正し、山崎に視線を送る。
山崎は、微動だにせず、ただ椿の背中を見つめていた。
その瞳に浮かぶのは、驚きでも感動でもなく――胸の奥を締め付けるような、切なさ。
「……頭を上げろ。巫女が軽々しくそんなことをするな」
土方の声は低く、硬かった。だが、その奥に怒気はなく――ただ、戸惑いのような何かが滲んでいた。
だが椿は、静かに首を横に振った。
「あの時、彼を拾い上げてくださったからこそ……今の彼があります。改めて、お礼を申し上げます」
言葉を終えた椿の背筋は、どこまでもまっすぐだった。
その姿に、誰もが言葉を失ったまま――ただ、静かにその思いの深さを、受け止めていた。
静寂の中、炭の爆ぜる音がまたひとつ。
そしてようやく、椿はゆっくりと上体を戻した。その顔には、恥じる色も、驕る色もなかった。ただ、まっすぐな目だけがあった。
――それを見ていた誰もが、言葉を失った。
彼女が背負っているものの重さ。
彼女が守ろうとしているものの大きさ。
それらが、確かにこの場に染み渡った。
そして山崎だけが、心の奥でそっと呟いた。
(……変わらん。あの頃と、何ひとつ)
椿の背中は、小さく、だが揺るぎなく、まっすぐだった。