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第19話

二月の風は、まだ冬の名残を引きずっていた。

冷たく乾いた空気が町を吹き抜け、人々は肩をすくめ、火鉢に身を寄せていた。


その午後、試衛館の門前に、ふたつの影が立つ。

ひとつは、痩せた男。年の頃は三十手前。

表情は薄く、目だけが研ぎ澄まされている。山崎蒸。

そしてもうひとつの影――それは、小さな女だった。


女は白い小笠をかぶり、深く顔を覆っていた。

足元は雪を弾く草履、裾には淡く紅を差したような小袖。

まるで、季節の中にぽつりと迷い込んだ椿の花のようだった。


山崎が、門を静かに叩く。


「どなた――」


門番の若者が顔を出し、言葉を止めた。


「……山崎、さん……? 女の……方?」


戸惑いの声はすぐに広がり、縁側にいた沖田が顔を出す。


「え? なに? 誰か来たの……っ」


女の姿に気づいた瞬間、彼の声が不自然に細くなる。


「おい、歳三。女が来た。しかも……山崎と一緒に」


「……女?」

土方が眉をひそめ、縁側から立ち上がる。

山崎と共にいる女は、一人しかいない。


「巫女直々に、お出ましかよ。」

土方の低い声に、空気がぴたりと止まる。

その言葉に反応したように、椿がゆるやかに笠に手をかけた。


雪のように白い指先が、静かに縁をとらえ、かすかに傾ける。


――その下から現れたのは、年若い女の面差し。


だがその瞳は、まるで何も映さぬようで、すべてを見透かすようだった。


一瞬、誰もが言葉を失った。

風も、鳴き止んだように思えた。


「……椿と申します。ご挨拶にあがりました。試衛館の皆様に、まずはお目通りをと」


椿の声音は、かすかに微笑みを含んでいたが、礼儀の奥には一切の隙がなかった。


「……綺麗な顔してんな。でも、あの目……冗談通じねぇ目だな、ありゃ」


沖田がすかさず小声で返す。


「永倉さん、失礼ですよ」


椿の睫毛が静かに揺れた。

そして、そっと顔を上げる。

まっすぐに――沖田を見つめた。


視線がぶつかる。

その瞬間、沖田の胸の奥で、何かが軋んだ。


椿は、その黒く澄んだ瞳で沖田を見つめ、ほんのわずかに目を細めた。


「総司殿、その節は…」


沖田は、喉が詰まるのを感じながら、ぎこちなく笑おうとした。だが、椿が沖田を見つめるその瞬間、土方の眉がわずかに動いた。


「わざわざ巫女様を連れてまで、何の風の吹き回しだ。こっちの覚悟も問われる話か?」


寒さに椿の身体がほんの僅か震えた。

それを見た山崎が、さりげなく羽織を脱ぎ、静かに彼女の肩にかけた。


彼の羽織を取ると、山崎が寒くなるのではないかと気にした椿は、ふと視線を上げて彼と目を合わせた。


「平気や。着とき。」


山崎が穏やかにそう言うと、椿は少しだけ安心したように礼を言いながら頷いた。

試衛館の面々は、その光景に一瞬戸惑った。


「主君が従者に礼を……?」

誰かが小声で呟き、普段の椿とは違う柔らかな表情に、皆の視線が一斉に集まる。


山崎もまた、軽く微笑み返し、互いの絆を感じさせる静かな空気がそこに流れた。


土方が軽く眉をひそめながらも、その様子を見守るように目を細める。

「山崎。……あらためて聞かせろ。何の目的でここへ来た」

その言葉に、空気が再び引き締まった。

悴んだ手を握りしめながら、椿はまっすぐに土方を見つめた。

「浪士組の支度金の件と、これからの在り方について――お話をしに参りました」  


「……巫女が、直接出向いて来たとでも言うのか」


「まぁまぁ歳、ここは寒い。お話の続きは、中で聞かせてもらおうじゃないか」



火鉢の上で湯が沸くかすかな音が、静かな部屋に響いていた。

外では二月の冷たい風が木の葉を揺らし、遠くで鶯の鳴き声がちらりと聞こえる。


土方は椿から視線を逸らさず、低く問いかけた。

「……一つ、聞いていいか。巫女ってのはただの肩書きか? お前は何者だ。あんたが背負ってるものを、俺たちも知らずに従う気はねぇ」


室内の空気が一瞬、ぴんと張りつめる。


椿は眉一つ動かさず、静かに口を開いた。

「隠すつもりはありません。私は徳川斉昭の娘であり、正室の子。実の兄は徳川慶喜です」


その言葉が畳に落ちるたび、部屋の空気は重くなった。


近藤が静かに息を吐き、肩をすくめる。

沖田は咳払いをし、視線を伏せた。


「今はただの巫女、先詠みの器に過ぎません」


椿の声音は淡々としているが、その奥には揺るぎない覚悟があった。


土方は黙って火鉢の炭を小突く。パチリと小さく火がはじける。


「なら、何を望むんだ」


椿の黒い瞳が、再びわずかに光を帯びた。


土方は、その顔を見ていた。

紅を引かぬ唇、飾り気のない身なり、けれど眼だけが妙に澄んでいた。

何も知らぬくせに、すべてを知っているような目をしていた。


「私は、あなた方の夢を見たのです。まだ名もなき浪士たちが、誠を掲げ、まっすぐに刀を握る姿を」


椿の瞳が、静かに光を宿す。

その光が、火鉢の炎と交わるようだった。


「誰の下にもつかず、己の信じた道を貫く――その姿が、私にはとても、まばゆく見えました」


沈黙が訪れる。

火鉢の上、湯がふつふつと音を立て、冬の風が障子を微かに鳴らす。


「だから、私はここに来ました。徳川の娘としてではなく、一人の巫女として。あなた方の、その夢の傍にいたくて」


その言葉に、沖田がふっと目を細めた。

近藤が、大きく息を吐くように笑い、永倉が口の端だけで何かを呟いた。


山崎は、静かに椿を見つめていた。

誰よりもその言葉を、心で受け止めるように。


火鉢の火を箸で軽く突きながら、土方が呟いた。


「……なるほどな。確かにお前は、使いの女じゃねぇ」


言葉が口を突いて出たとき、自分でも妙な感覚だった。

もっと刺すように冷たく返すつもりだった。

だが、どうにも――できなかった。


(……なんなんだ、お前)


内心、舌打ちするような気分だった。

こんなもの、情に絆されてどうする。

この先、血を見ずに済む道などない。夢の傍で死にたいだなんて、甘ったれた戯言だ。


――そう、断じるべきだった。


だが、あの目に宿る光が、どうしても頭を離れない。


まっすぐに、自分たちを見ていた。

生まれも立場も関係なく、ひとりの人間として――。


「……そういう夢想家は、嫌いじゃねぇよ」


それが、今の自分に許せる精一杯の肯定だった。


椿は、その言葉にわずかに笑った。

火の明かりに照らされ、目元に影が落ちる。

その微笑みを見た瞬間、胸の奥が――かすかに軋んだ。


(……惹かれてるのか、俺は)


土方は、己にそう問いかける。


否定できなかった。


この先、彼女をどう扱うべきか。

仲間か、客人か、それとも――。


ただ一つ確かなのは、彼の心の中に椿という存在が、すでに何かを残しているということだった。


その言葉に、椿が初めて――ほんの少しだけ、微笑んだ。


湯が沸く火鉢の横で、椿の前に湯気の立つ茶が置かれた。

彼女は一礼すると、細い指先で茶碗をとる。


茶碗にふれた白い指が、どこか季節に似つかわしく思えた。

冬の終わり――まだ冷えの残る夕刻に咲いた、一輪の椿のように。


椿は何も言わず、そのままゆるやかに湯気の向こうへ視線を落とした。

茶を口に含む。

喉を通る音はせず、ただわずかに睫毛が震えた。


その瞬間、室の空気が微かに変わる。


男たちの視線が、自然と彼女に向かっていた。


沖田は、じっと見ていた。

その瞳には、どこか遠い過去を探すような光が宿っていた。

笑っていても、彼の目は冗談を言っていない。


永倉は、腕を組んだまま、小さく鼻を鳴らした。

だが、明らかに視線は釘付けだった。


山南は静かに椿の所作を見つめていた。

何かを理解しようとする学者のような目で――彼女の「本質」を見極めようとしていた。


そして、山崎烝は誰よりも静かに、誰よりも深く彼女を見守っていた。

彼の視線は、誰にも気づかれぬように伏せられていたが――その瞳だけは、椿に釘付けだった。


ただ一人、椿だけが気づいていないふりをしていた。

――誰もが、自分を見ていることを。


けれど、次の瞬間。


椿はふと、茶碗を伏せて、柔らかく微笑んだ。


「温かいお茶は、良いですね。どんな薬より、沁みます」


その言葉に、場の空気がわずかに緩んだ。


茶の香と、まだ冷たい風の音が、障子の外から微かに届いていた。

その中に、椿という異質な存在が、確かにそこに「馴染み始めて」いた。



湯気の立つ茶碗を膝元に置き、椿はそっと背を正した。真冬の陽が障子越しに淡く差し込み、その影が彼女の横顔に静かな輪郭を描く。


「……山崎が、過去に試衛館で世話になっていたと、聞きました」


そう言った椿の声音には、かすかに熱があった。


「その時、彼に手を差し伸べてくださったあなた――土方歳三様には、私からも深くお礼を申し上げます」


静かに、椿は畳に手をつき、上半身を深く折った。


頭を垂れるその姿は、決して芝居がかったものではなかった。主君が、従者のために深く礼をする――それはあまりに異例で、試衛館の空気が一瞬で凍る。


「――っ……おい、頭なんて下げること……!」


沖田が声を漏らしかけたが、言葉にならなかった。


近藤も思わず背を正し、山崎に視線を送る。

山崎は、微動だにせず、ただ椿の背中を見つめていた。


その瞳に浮かぶのは、驚きでも感動でもなく――胸の奥を締め付けるような、切なさ。


「……頭を上げろ。巫女が軽々しくそんなことをするな」


土方の声は低く、硬かった。だが、その奥に怒気はなく――ただ、戸惑いのような何かが滲んでいた。


だが椿は、静かに首を横に振った。


「あの時、彼を拾い上げてくださったからこそ……今の彼があります。改めて、お礼を申し上げます」


言葉を終えた椿の背筋は、どこまでもまっすぐだった。

その姿に、誰もが言葉を失ったまま――ただ、静かにその思いの深さを、受け止めていた。


静寂の中、炭の爆ぜる音がまたひとつ。


そしてようやく、椿はゆっくりと上体を戻した。その顔には、恥じる色も、驕る色もなかった。ただ、まっすぐな目だけがあった。


――それを見ていた誰もが、言葉を失った。


彼女が背負っているものの重さ。

彼女が守ろうとしているものの大きさ。

それらが、確かにこの場に染み渡った。


そして山崎だけが、心の奥でそっと呟いた。


(……変わらん。あの頃と、何ひとつ)


椿の背中は、小さく、だが揺るぎなく、まっすぐだった。


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