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第20話

支度金を差し出され、土方は椿の黒い瞳をじっと見据え、言葉を重く投げかけた。


「もしだ……俺たちが浪士組に参加しなかったら、どうするつもりだ?」


室内の空気が一瞬、張り詰める。

椿は静かに微笑み、しかしその瞳は揺るがなかった。


「貴方達は、来ますよ」

その声には確かな意志が宿っていた。


「———すでに視線は、京を向いていますから」


山崎が椿の隣で、静かに頷く。


土方はふと息を吐き、硬い表情を解いた。

一瞬、言葉に詰まり、そして照れくさそうに頭をかいた。

「……敵わねぇな、まったく」


その動作には、苛立ちや悔しさだけでなく、どこか惹かれるものを感じている自分への戸惑いも混じっていた。


「覚悟の深さが違う。こいつはただの巫女じゃねぇ」


彼の目が、椿の揺るがぬ意思を捉え、揺れ動く。傍らの浪士たちも、彼の様子を見つめながら、同じ思いを抱いていた。


椿が帰った後、試衛館の空気はどこか静まり返っていた。


土方がぽつりと呟く。

「……あの女、ただ者じゃねぇな」


近藤は腕を組み、厳しい目で空を見上げる。

「守るべきものがあるってのは、こういうことなんだろうな」


沖田は少し笑みを浮かべ、でもどこか寂しげに言った。

「僕もあんな目で誰かを守りたいもんだ」


皆の胸に、一つの覚悟が静かに宿った――これからの道がどんなに険しくとも、共に歩むべき相手がいることを知って。



誰かが茶を片付け、誰かが戸を閉めていく。

小さな雑音とともに、男たちは一人、また一人と座を立っていった。

最後に残ったのは、土方歳三だった。


部屋の隅に立てかけてあった火鉢に手を伸ばし、炭をつつく。ぱちりと火のはぜる音が耳に心地よい。


懐から煙草入れを取り出し、器用に煙管に詰める。

火を移し、ふう、と一口。煙がふわりと昇り、土方の表情を仄かに照らす。


「あの目は……見たことがある」


煙とともに、独り言がこぼれる。

声に感情はない。だが、それは確かに“記憶”をなぞる声だった。


 ──千夜。


かつて、手に抱きかかえていた小さな命。

触れれば壊れそうで、それでも誰よりも強く、鋭く生きようとしていた。


椿の中に宿るのは、たしかに“あの時”の匂いだった。

決して口にはできぬ名。

死んだはずの少女と、どこかが重なる、いびつな幻影。


ふ、と笑みが零れる。

苦い、そしてひどく優しい笑みだった。


 「……まさかな」


否定はする。だが、胸の奥にしこりのように残る違和感は、消えない。

あの目。あの気配。そしてあの――蝶。


土方はもう一度、深く煙を吸い込んだ。

夜風が少し入り、煙が流れていく。

揺れる影の向こうに、椿の姿が一瞬よぎった気がして、目を細める。


「……次に会う時、何を話すべきかねぇ」


煙とともに問いかけた言葉は、誰に向けたものでもなかった。けれど確かに、かつての少女に――そして今、強く美しく立つ椿という女に――土方の心は、揺れていた。


炭が静かに燃え尽きる音が、夜に溶けていった。




————八坂神社への帰り道


「……やっぱり、歩きにくい」


そう呟いた椿は、立ち止まって小袖の裾を持ち上げた。雪解けの道に、淡い紅が汚れてしまいそうで、彼女の眉がほんの少し曇る。


その横で山崎は黙っていたが、一歩、彼女の前に出て、そっと右手を差し出した。


「ほな、手ぇ貸そか」


言葉は静かで、強くも弱くもなかった。ただ、椿のためだけに向けられた声。


椿は一瞬、手元を見つめ、それから彼の顔を見た。


その顔は昔から変わらない。いつも無表情の奥に、どこか不器用な優しさを潜ませている。


「……ありがと」


小さくそう言いながら、椿は自分の手を、そっと山崎の手に重ねた。


山崎の手は、少しだけ冷たかった。でも、それが妙に安心をくれた。


「こんな時だけ、素直やな」


「失礼ね。私、いつも素直よ」


「そら知らんけど……せやな」


からかうような山崎の言葉に、椿はふっと笑った。


雪が解けかけた道を、椿は山崎と肩を並べて歩いていた。


風はまだ冷たく、空は薄曇り。先ほどまでいた試衛館のあたたかな空気が、余計に懐かしく思える。


裾を少し持ち上げながら、ぽつりと椿が言った。


「ねぇ、烝。……また、試衛館の話、聞かせて」


横顔を向けず、ただまっすぐ前を見たままの言葉だった。

でもその声音には、確かにやわらかな熱があった。


山崎は少しだけ目を丸くし、それから口の端をゆるめた。


「……ええけど。どこから話そか。歳さんの怒鳴り声か、近藤さんの酔い癖か、沖田さんのいたずらか……」


「ふふ。どれも聞いたことある気がするけど……でも、聞きたいの。何度でも」


椿はそう言って、今度は山崎を見上げた。


その瞳には、さっきまでの“巫女”の影がなかった。ただ、雪解けの季節を待つ少女のように、素直でやわらかな光が宿っていた。


山崎は、そんな彼女を一瞥して、少しだけ息を吐いた。


「……しゃあないな。また話したる。今日は――沖田さんの話でもするか」


「うん」


椿はうれしそうに頷いた。


二人の足音が、湿った地面を軽く鳴らす。

その音は、まだ遠い春の足音にも似ていた。




————八坂神社


試衛館の名が出た時だった。


椿の目がすこし揺れた。

懐かしいのか、怖いのか。

記憶のどこかに、灯りのようなものが揺らいだのかもしれない。


けれど彼女は何も言わず、ただ黙って聞いていた。


その横顔に、山崎の胸がざわついた。

あの名を聞いて、感情を見せたこと。

なのに、彼女が言葉を選ばなかったこと。


迷いのような沈黙。

そして、その静けさに、ふと呼びかけた。


「椿」


山崎の声が、すっと空気を裂くように響いた。


その声に、椿の肩が、ほんのわずか揺れた。


仮面など、どこにもない。

けれど確かに、彼女は仮面をかぶっていた。

巫女と呼ばれるたび、名は遠のいていく。

名前を持たぬ者のように、記憶をなくしたまま漂いながら…


「……その面、もう外して平気や。」


静かな声だった。

命令でもなく、慰めでもない。

ただ一人の男が、一人の娘にかけた、まっすぐな言葉。


椿は、振り返らなかった。


けれど、ぽたり、と音がした。


涙だった。


「椿」


もう一度、名が呼ばれる。

今度は、祈るように。

赦すように。

包むように。


「椿……」


幾度も。


その声が、彼女の胸を打った。

名を、名のままに呼ばれることが、どれほど温かいか。

どれほど苦しかったか。


そして、初めて。

山崎の前で、椿は泣いた。


巫女ではなく、一人の娘として。


風が、夜の仮面をさらっていくようだった。涙が零れ落ちる彼女を、山崎はただ見つめていた。


胸の奥で込み上げる感情が抑えきれず、静かな夜に声を震わせて言った。


「椿……」


その名が最後の壁を壊すように、彼はゆっくりと彼女に手を伸ばした。


躊躇なく、強く。

初めて、仮面の向こうの彼女を、その全てを抱きしめた。


「もう一人で背負わんでええんや」


彼の腕が彼女を包み込む。

その温もりが、彼女の震える心を、そっと溶かしていった。


風が、二人を優しく撫でた。


その夜、静かな闇の中で、二つの胸音が重なり合った。


障子の向こう、東の空がほのかに白んでいた。

山崎は、夜が明けきる前に目を覚ました。


隣の部屋、かすかな衣擦れの音。

椿も、眠れていなかったのかもしれない。


昨夜のことが、喉に棘のように引っかかっていた。

「椿」と名を呼び、彼女が初めて泣いた夜。


あれは――良かったのか、悪かったのか。


山崎が襖をすこしだけ開けて覗くと、ちょうど椿が髪を結っていた。

気まずい間。


「……目、まだ赤いな」


ぽつりと漏らした言葉に、椿の指が一瞬止まった。


心音が跳ねる。

それをごまかすように、椿は無理に笑った。


「鏡、見なきゃよかった」


「……せやけど」


山崎の目が、椿の横顔をそっと見た。


――昨夜、涙に濡れた、あの顔がふと重なる。


無防備で、強くて、弱くて。

初めて見た“素の椿”は、あまりに可愛くて、

気づけば口からこぼれていた。


「……可愛かったんやけどな」


椿が振り向いた。目が見開かれていた。


一拍の沈黙。

外では鳥の声が一つ、空に跳ねた。


「な、何言ってんの、朝から」


「知らん」


ふいと山崎は顔を背け、奥へ下がる。

椿もまた、目を逸らしたまま、髪を結び直す。


部屋を出た後、山崎は座り込む。

「……あかん。」

座り込んだまま、山崎は静かに息を吐いた。

心の奥底にこみ上げるのは、単なる“守りたい”という思いだけじゃない。

言葉にはできない、ずっと抑え込んできた、誰にも見せたくなかった感情。


部屋の隅で、ほんの少し震える指先が、無意識に煙草入れを握り締める。

その熱が、彼の内側の熱をほんの少しだけ和らげる気がした。


「……泣いとった椿が、可愛かったなんて」

自嘲を込めて小さく呟き、苦笑がこぼれる。

けれどその声には、恥ずかしさ以上の温もりが滲んでいた。


静かな部屋の中、外からはまだ朝の光が差し込んでいる。

山崎の瞳はぼんやりと揺れ、まるで初めて見た椿の素顔の残像を追いかけているようだった。


「……なんで、こんなに気になるんやろな」

それはもう、ただの“守りたい”だけじゃなくて。彼女の存在が、彼の心の奥に、そっと根を張り始めている証だった。


ゆっくりと手を握り締め、山崎は名前を繰り返した。

「椿……」

その一言に、今まで隠してきた感情が滲み出す。それは静かな、でも確かな、彼の“想い”の始まりだった。


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