⸻浪士組出立の時
その日は、春の訪れを感じさせる様さな陽気だった。寺に浪人たちが集まり、寺から溢れた。参拝客は、迷惑そうに彼らを横目で見るも、縄張りを争う姿は無く、ただじっと時が来るのを待っていた。
「いたく、静かだな。
まるで、飼い慣らされた犬だ。」
ぎろっと睨む浪人も居た。だが、口すら開かず、待てをしているソレだった。
煙管の火皿に、火種を押しつける。
芹沢鴨は一息、紫煙をくゆらせた。
春とはいえ、空気はまだ冷たく、煙はゆっくりと昇り、空へ溶けていく。
そのときだった。
ざっ、と脇を風が裂いた。
誰かが通る気配。
革の草履が砂を踏みしめる音。
無言のまま、真っすぐに境内を抜けていく長身の男——清河八郎。
ほんの一瞬、芹沢の目が細まった。
(……風は西を撫で、蛇は音もなく土に眠る……)
今もまだ耳に残っている。あの女の、無邪気とも不吉ともつかぬ声。その意味もわからぬ言葉が、不意に脳裏で繋がった。
清河の背が視界から消えたとき、芹沢は、煙草の煙を喉の奥で噛んだまま、じっとその場に立ち尽くした。
(……獣たちは、春の夜に牙を忘れた……
けれど夢は、名もなき朝に咲く……)
まるで、何かを暗示していたような。
いや、あれは——予言だったのか。
すっと目を細め、煙を吐く。
「……やはり、怖い女だ。だが──」
面白れぇ。
小さく呟き、芹沢は再び火皿を指先で叩いた。
その目は、先ほどまでとはまるで違う。
獲物を見据える、獣の目だった。
(事を起こすのは、あの男だな。)
「新見、風が強すぎるとよ、花も咲けねぇんだ。……あの男、ヒメには向かねぇ」
その言葉に、新見錦の眉がわずかに動いた。
視線を外すことなく、ただ芹沢の横顔を横目で見る。
「……風が吹く方向まで、花は選べませんよ」
言葉は柔らかだが、そこに漂うのは、慎重な警戒と僅かな皮肉。
芹沢が何を望んでいるかを、新見はとうに察していた。
「ですが、陽の当たらぬ場所に咲く花は、案外……根を深く張るものです」
そう言って、新見はほんの僅かに、口元だけで笑った。
それは同意とも、忠告ともとれる曖昧な笑みだった。
芹沢は返事をしない。
ただ、煙管をくるりと指で回しながら、視線だけを空に向けた。
(……根を張るか。いや──張らせる気か、お前は)
紫煙がゆるやかに流れた。
二人の間に言葉はなかったが、既に、目には見えぬ策が動き出していた。
土方は、二人の会話が耳に届くも理解できずに眉間にシワを寄せた。芹沢派が巫女に頭を垂れた。それは、覆る事のない事実である。
(ヒメっつうのは、椿の事。風……は、何を指す?)
ざわめく男達に、つられ、視線を上げた土方。
白木蓮の蕾を思わせる、淡い白の単衣。
その裾は、通常の巫女装より遥かに短く、膝上の丈にされていた。
潔白な白の布が膝上で止まり、細くしなやかな脚が、霜を踏む音も静かに、凍てついた石畳を蹴って進む。
陽の光は弱く、空気は冴え冴えと澄んでいた。
風は冷たく、木々の枝は裸に近く、ところどころ梅の蕾がほころび始めてはいるものの、春の気配はまだ仄かだ。
それでも、陽に透ける彼女の毛先は、淡く金を帯び、冷たい風の中でひときわ光を放っている様に見えた。
一部の者は、ため息をこぼした。
また一部の者は、彼女を「祟り神」と恐れ、冷たい地面に額をつけるようにして顔を伏せた。
だが多くの者は、その姿に釘付けになったまま、凍えることすら忘れて、ただ見入っていた。
二月の空。
江戸の町には鉛色の雲が垂れ込み、夕陽は細く、金の糸のように空の端に伸びていた。
「……ようやく、お出ましか」
最前列に立つ男が、ゆっくりと目を細めた。
夕陽が、彼女の横顔をわずかに照らす。
光は寒さの中でも確かに存在し、透ける髪をまるで金糸で編んだように見せていた。
椿は静かに歩いていた。
膝上までの裾丈の単衣が冷たい風に翻るたび、白い足がのぞく。だが、誰も艶めかしいとは言わなかった。その姿は、ただ、神々しかった。
「風が……避けて通ってるように見えるな」
沖田総司がぽつりと呟いた。
確かに、椿の周囲だけ風が柔らかく、まるで触れようとして触れきれぬように、そっと揺れている。
すべてが彼女を中心に、静かに、ひっそりと回っている。
「光も……」
永倉新八が言葉を飲み込む。
光が彼女の背後に差し、長い影を作る。
だがその影は、椿のものだけではなかった。
ふと——
彼女の影に寄り添うように、もうひとつの影が揺れた。それは人影のようで、輪郭は曖昧で、形も定まらぬ。
誰かが、彼女の背に立っているように。
土方が、沈黙のまま目を細めた。
空気が一段と冷え込む。だが、その冷たさすら、彼女のまわりだけ異質だった。
まるで、彼女だけが別の時の流れに存在しているかのように——。
それは美しさというにはあまりに異様で、
畏れというには、あまりに静かだった。
まるで、この地に「神」が降り立ったかのようだった。
————だが
「ちぃ、丈、膝まで伸ばしたんと違うん?」
ぽつりと、山崎烝が言った。
その声は、まるで祈りを切るように。
張りつめた空気を割って、たった一言、彼女の裾丈を指摘する。
椿は、振り返らないまま答えた。
「動きやすさ重視で。」
それが“姫”の答えか、と呆れたように山崎が息を吐く。
「……男共の、格好の餌食やで」
その言葉には、半ば本気の心配と、半ば諦めと、そして少しばかりの嫉妬が混ざっていた。
椿の返しは、あくまで涼やかだった。
「心配してくれるの? これから男しか周りにいないのに」
その言い草に、山崎の眉がわずかに動いた。
だが何も言い返さず、ただ目を伏せ、笑みとも溜息ともつかぬ呼気を漏らす。
(ほんま、お前は……)
——この時、誰もが椿を「神」と見ていた。
だが、山崎だけは「ちぃ」と呼び、
彼女の“地に足ついた人間の部分”を見ていた。山崎が呆れたように息を吐き出していく。