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第21話

⸻浪士組出立の時


その日は、春の訪れを感じさせる様さな陽気だった。寺に浪人たちが集まり、寺から溢れた。参拝客は、迷惑そうに彼らを横目で見るも、縄張りを争う姿は無く、ただじっと時が来るのを待っていた。


「いたく、静かだな。

まるで、飼い慣らされた犬だ。」


ぎろっと睨む浪人も居た。だが、口すら開かず、待てをしているソレだった。


煙管の火皿に、火種を押しつける。

芹沢鴨は一息、紫煙をくゆらせた。

春とはいえ、空気はまだ冷たく、煙はゆっくりと昇り、空へ溶けていく。


そのときだった。

ざっ、と脇を風が裂いた。


誰かが通る気配。

革の草履が砂を踏みしめる音。

無言のまま、真っすぐに境内を抜けていく長身の男——清河八郎。


ほんの一瞬、芹沢の目が細まった。


(……風は西を撫で、蛇は音もなく土に眠る……)


今もまだ耳に残っている。あの女の、無邪気とも不吉ともつかぬ声。その意味もわからぬ言葉が、不意に脳裏で繋がった。


清河の背が視界から消えたとき、芹沢は、煙草の煙を喉の奥で噛んだまま、じっとその場に立ち尽くした。


(……獣たちは、春の夜に牙を忘れた……

 けれど夢は、名もなき朝に咲く……)


まるで、何かを暗示していたような。

いや、あれは——予言だったのか。


すっと目を細め、煙を吐く。


「……やはり、怖い女だ。だが──」


面白れぇ。


小さく呟き、芹沢は再び火皿を指先で叩いた。

その目は、先ほどまでとはまるで違う。

獲物を見据える、獣の目だった。


(事を起こすのは、あの男だな。)


「新見、風が強すぎるとよ、花も咲けねぇんだ。……あの男、ヒメには向かねぇ」


その言葉に、新見錦の眉がわずかに動いた。

視線を外すことなく、ただ芹沢の横顔を横目で見る。


「……風が吹く方向まで、花は選べませんよ」


言葉は柔らかだが、そこに漂うのは、慎重な警戒と僅かな皮肉。

芹沢が何を望んでいるかを、新見はとうに察していた。


「ですが、陽の当たらぬ場所に咲く花は、案外……根を深く張るものです」


そう言って、新見はほんの僅かに、口元だけで笑った。

それは同意とも、忠告ともとれる曖昧な笑みだった。


芹沢は返事をしない。

ただ、煙管をくるりと指で回しながら、視線だけを空に向けた。


(……根を張るか。いや──張らせる気か、お前は)


紫煙がゆるやかに流れた。

二人の間に言葉はなかったが、既に、目には見えぬ策が動き出していた。


土方は、二人の会話が耳に届くも理解できずに眉間にシワを寄せた。芹沢派が巫女に頭を垂れた。それは、覆る事のない事実である。


(ヒメっつうのは、椿の事。風……は、何を指す?)


ざわめく男達に、つられ、視線を上げた土方。



白木蓮の蕾を思わせる、淡い白の単衣。

その裾は、通常の巫女装より遥かに短く、膝上の丈にされていた。

潔白な白の布が膝上で止まり、細くしなやかな脚が、霜を踏む音も静かに、凍てついた石畳を蹴って進む。


陽の光は弱く、空気は冴え冴えと澄んでいた。

風は冷たく、木々の枝は裸に近く、ところどころ梅の蕾がほころび始めてはいるものの、春の気配はまだ仄かだ。


それでも、陽に透ける彼女の毛先は、淡く金を帯び、冷たい風の中でひときわ光を放っている様に見えた。


一部の者は、ため息をこぼした。

また一部の者は、彼女を「祟り神」と恐れ、冷たい地面に額をつけるようにして顔を伏せた。

だが多くの者は、その姿に釘付けになったまま、凍えることすら忘れて、ただ見入っていた。


二月の空。

江戸の町には鉛色の雲が垂れ込み、夕陽は細く、金の糸のように空の端に伸びていた。


「……ようやく、お出ましか」


最前列に立つ男が、ゆっくりと目を細めた。

夕陽が、彼女の横顔をわずかに照らす。

光は寒さの中でも確かに存在し、透ける髪をまるで金糸で編んだように見せていた。


椿は静かに歩いていた。

膝上までの裾丈の単衣が冷たい風に翻るたび、白い足がのぞく。だが、誰も艶めかしいとは言わなかった。その姿は、ただ、神々しかった。


「風が……避けて通ってるように見えるな」


沖田総司がぽつりと呟いた。

確かに、椿の周囲だけ風が柔らかく、まるで触れようとして触れきれぬように、そっと揺れている。


すべてが彼女を中心に、静かに、ひっそりと回っている。


「光も……」

永倉新八が言葉を飲み込む。


光が彼女の背後に差し、長い影を作る。

だがその影は、椿のものだけではなかった。


ふと——

彼女の影に寄り添うように、もうひとつの影が揺れた。それは人影のようで、輪郭は曖昧で、形も定まらぬ。


誰かが、彼女の背に立っているように。


土方が、沈黙のまま目を細めた。

空気が一段と冷え込む。だが、その冷たさすら、彼女のまわりだけ異質だった。


まるで、彼女だけが別の時の流れに存在しているかのように——。


それは美しさというにはあまりに異様で、

畏れというには、あまりに静かだった。


まるで、この地に「神」が降り立ったかのようだった。

————だが

「ちぃ、丈、膝まで伸ばしたんと違うん?」


ぽつりと、山崎烝が言った。

その声は、まるで祈りを切るように。

張りつめた空気を割って、たった一言、彼女の裾丈を指摘する。


椿は、振り返らないまま答えた。


「動きやすさ重視で。」


それが“姫”の答えか、と呆れたように山崎が息を吐く。


「……男共の、格好の餌食やで」


その言葉には、半ば本気の心配と、半ば諦めと、そして少しばかりの嫉妬が混ざっていた。


椿の返しは、あくまで涼やかだった。


「心配してくれるの? これから男しか周りにいないのに」


その言い草に、山崎の眉がわずかに動いた。

だが何も言い返さず、ただ目を伏せ、笑みとも溜息ともつかぬ呼気を漏らす。


(ほんま、お前は……)


——この時、誰もが椿を「神」と見ていた。

だが、山崎だけは「ちぃ」と呼び、

彼女の“地に足ついた人間の部分”を見ていた。山崎が呆れたように息を吐き出していく。

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