———文久二年十一月下旬・八坂神社周辺
江戸の夜。月が薄雲に隠れ、街は静けさに包まれていた。
土方歳三は、いつもより遅くなった帰り道を歩いていた。ふと、何かに呼ばれるように、足が止まる。不自然な静寂。空気が張りつめている。
「……なんだ、この感じは」
その時だった。
屋根の上に、白い影が揺れた。
「土方さん……?」
後ろから沖田総司が追いついてくる。
「しっ」
土方は片手を挙げて制し、屋根を指差す。
屋根の上、夜の闇を背にして座るのは──少女。月明かりが差し込んで、彼女の姿を浮かび上がらせていた。
着物は異様に短く、膝上まで肌が露わになっている。袖も裾も風に揺れ、布の隙間から覗く白い肌がやけに生々しい。
そして、足元には草履もなく、素足のまま瓦の上に腰を下ろしていた。風にあおられた長い髪が、ゆらりと揺れていた。
「あの子だ。ほら、山崎くんと一緒にいたって言った子。」
千夜に似た子。
————椿。
その名を思い出した時、
その黒髪が──淡く、桜のような色に変わっていく。
「……あの髪が……」
沖田が息を呑む。
「なんだ、ありゃ……」
その少女が、ぽつりと声を発した。
「……火が、見える……夜の底で、立ち昇る……」
その声は小さかったが、はっきりと届いた。
「築地。英国の屋敷。火を放たれる……叫びは、攘夷の名を借りた臆病……本当の刃を抜けぬ者の、逃げ道……」
静寂のなか、ただその声だけが響く。
沖田がぽつりと呟いた。
「……やっぱり千夜に、似てる……」
土方がちらりと視線を向ける。
沖田は、真剣な表情で少女を見つめていた。
「この火は、まだ始まり。やがて……もっと大きなものが……国を、呑む……」
その声とともに、蝶が一匹、ふわりと舞い上がった。赤い羽をした蝶。
風に乗って、二人の間を抜けていく。
「……あれ、蝶?」
「生きてる、のか……?」
少女はそのまま、ぐらりと身体を傾ける。
土方が駆け出そうとしたその瞬間、すでにその姿は──消えていた。
「……どこへ……」
「まるで幻……でも、確かにいた」
土方は屋根の上を睨むように見上げながら、息を吐いた。
土方は唇を噛みしめる。
「……あれが本物の“巫女”かもしれねぇな」
沖田は無言で頷いた。
そして、ぽつりと。
「……俺たち、妙な時代に生きてるのかもね。しかも此処、八坂神社の近くだ。」
「八坂の巫女の仕業か……」
そう言いながらも、土方の心にははっきりと、あの紅い蝶と淡桜の髪が焼き付いていた。
──あれは、きっと忘れられない。
————
———
八坂神社の部屋には、彼女の姿は無かった。外は冷たい風が吹く。
誰に尋ねても、「朝は見た」「昼に見た」と曖昧な返事。
その後ろ姿は、昔の椿ではもうない。
けれど。
「おい……こんな夜更けに、ひとりで出歩いてええ歳ちゃうで」
誰にともなく、呟いた。
本当は、誰より強くなっていると知っている。
誰より冷静で、誰より人の痛みに近づけると知っている。けれど、山崎の心には、赤子のように縋って泣き、手を掴んで離さなかった、あの少女の幻が、ずっと残っていた。
「ちぃ……おまえ、どこにおんねん……」
ふと山崎は、屋根を見上げていく。夜の静けさを切るように吹く風が、瓦の隙間を撫でていく。八坂神社の広い屋根の上、その黒い輪郭に、人の影がひとつ――。
「……あんなとこ、よう登るわ」
呆れ半分、安堵半分。
その姿はまるで、かつて木の上に逃げて彼を困らせた少女のままだ。
裾を短くした巫女は、足を投げ出し夜空を見上げていく。ふと、星が瞬いた。
京の空には雲ひとつなく、細く欠けた月が静かに浮かんでいた。
吐く息は白く、頬を撫でる風は冷たいけれど、空気の奥にはほんのりと、香が混じっていた。
境内の片隅、椿はひとり空を見上げていた。
凍てついた空気のなか、星々は音もなく瞬いている。それは命のようだった。
生まれ、燃え、流れ、そして消えていく――。
「見たくもないものばかりが、見えてしまうのに……」
未来が見えるという力。
人々が崇める“先詠みの巫女”という名は、彼女にとっては重い呪いのようだった。
暗殺、争乱、裏切り。
美しくも残酷な光景が、否応なく胸に押し寄せてくる。
政を行うたびに、身体は削られ、心は凍えていく。空だけは、自分を優しく照らしてくれる。
「なんや。此処にいたん?ちぃ。」
耳元に届いたのは、聞き慣れた関西訛りの声。
山崎烝――彼女の唯一の従者。ちぃ。それは、彼だけがそう呼ぶ、小さな椿への愛称だった。
「下村って人の夢を見た。」
下村嗣治。
水戸藩に出入りしていた男は、罪人だと罵られた。だが彼女は、彼の事を父や兄の様に慕っていた人物である。後の壬生浪士組・筆頭局長、芹沢鴨である。
屋根の上で背をつけてしまう女は、まさしくあの男に似てしまったのだと山崎は思うのだ。短くなった丈の着物は、彼女のスラリと伸びた綺麗な足を隠す事など出来ず、
「いつか襲われるに?ソレ。」
注意を促すも、彼女は聞き入れる事など無い。
「膝丈まで伸ばしたんだけどな。これでも。」
着物の裾は、邪魔になる。走るにも刀を振るにも同じくである。結果、着物の裾を切って着用するのが彼女である。
屋根に登っている時点で、普通の姫でない事は明白で、山崎は、深く息を吐きだすばかり。
そんな椿の背後に、ひとつの気配が寄り添った。冷えた身体に、ぬくもりがそっと触れる。
「……どないした?なんかあったんか?」
「記憶がない私より、記憶を失われた方が
————辛いんだろうなって」
ただ漠然と、彼の顔を見たらそう思った。
「………お前は強いな。自分なら、そんな人の事なん、考えられへんわ。」
起き上がった椿は、首を傾げていく。それ以上、記憶の事も、今言った言葉にさえ深く踏み込めず、話を変えるように次の言葉を口にする。
「けど……物騒な連中ばっかやで。」
もし、巫女が此処に居ると知られたら…。山崎は背後から椿を抱き寄せた。その手が、そっと彼女の腹へ、そして――
「……私の後ろにも、肉食獣がいるみたいだけど?」
すぐ傍にいる男の方が、よほど危険だ。
そう思いながらも、彼女は笑ってしまう。
「誰が獣やねん。」
身体の冷え具合を確かめていただけである。彼女の香の匂いが袖にふんわりと染み込んでいる。
「――烝しかいないでしょう?」
素直にそう告げた椿に、山崎は小さく笑った。
「……ちぃ。部屋戻ろ。身体、冷やすわ。」
冬の名残を残す夜風の中、彼の声だけがやけに温かく感じられる。
椿は、小さく頷いた。
「ええ子やなぁ。」
幼い頃から共にいた山崎は、変わらず彼女を子ども扱いする。
不満げに睨みつけると、彼は急に優しい声で名を呼んだ。
「――椿。ほら、手。」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が不思議とくすぐったくなる。
視線を逸らしながら、彼女は静かに、その手を取った。
夜空は深く、冷たく、静かだった。
知識が必要だと感じたのは、自分が何も知らなかったからだ。政とは何か、国とは何か、命令を下すとはどういうことか。ただ未来を見て語るだけでは、何も変わらなかった。誰かの手で、誰かの都合で、未来は捻じ曲げられる。
だから椿は学んだ。必死に文字と数字にしがみついた。
書物の匂いは、やがて墨の香から血の臭いに変わっていった。未来の記録は時に、生々しく命の終わりを告げるものだった。ならば筆だけでは足りぬと、少女は思った。
剣術に興味を持ったあの日から、稽古を休んだことはない。最初は思うように動けず、手のひらが赤く腫れて泣いた。けれど涙を拭ったあの日、胸の奥には確かな願いがあった。
――誰かを護れる力が欲しい。
忍びに憧れたのは、影に徹し、すべてを見透かしながらも決して前に出ぬ存在だったからだ。
未来が見える自分ではなく、今を変えられる誰かになりたかった。
そう思った日から、椿の足取りは静かに、しかし確かに変わっていった。
そして、時代は動いた。
椿が言い当てた未来は、次々と現実になり、人々は次第に彼女を「国を揺るがす存在」と恐れるようになった。
名を隠され、姿を知られずとも、彼女の予言は風に乗って届く。
神託の如く語られ、政治の駒として求められるようになった。
商人は彼女の姿を想像で描いた絵草紙を売り、
庶民は「巫女様」と呼んで頭を下げる。
けれど――椿は、それらすべてを望んでいなかった。
地位も、名誉も、敬意さえも。彼女にとっては、重たすぎる鎧でしかなかった。未来を見ても、忘れた過去を背負っていても、彼女の心の中には、ただ一つの願いしかなかった。
――誰かと、ふつうに笑い合いたかった。
火鉢の香に混じる白檀の香り。
灯籠の淡い光。外に聞こえる子どもの笑い声。そのどれもが、椿には遠かった。
それでも、彼女は進む。未来を見て、今を知り、過去を赦して、まだ見ぬ明日を護るために。