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第10話

———文久二年十一月下旬・八坂神社周辺


江戸の夜。月が薄雲に隠れ、街は静けさに包まれていた。


土方歳三は、いつもより遅くなった帰り道を歩いていた。ふと、何かに呼ばれるように、足が止まる。不自然な静寂。空気が張りつめている。


「……なんだ、この感じは」


その時だった。


屋根の上に、白い影が揺れた。


「土方さん……?」

後ろから沖田総司が追いついてくる。


「しっ」


土方は片手を挙げて制し、屋根を指差す。


屋根の上、夜の闇を背にして座るのは──少女。月明かりが差し込んで、彼女の姿を浮かび上がらせていた。


着物は異様に短く、膝上まで肌が露わになっている。袖も裾も風に揺れ、布の隙間から覗く白い肌がやけに生々しい。

そして、足元には草履もなく、素足のまま瓦の上に腰を下ろしていた。風にあおられた長い髪が、ゆらりと揺れていた。


「あの子だ。ほら、山崎くんと一緒にいたって言った子。」


千夜に似た子。

————椿。


その名を思い出した時、

その黒髪が──淡く、桜のような色に変わっていく。


「……あの髪が……」

沖田が息を呑む。


「なんだ、ありゃ……」


その少女が、ぽつりと声を発した。


「……火が、見える……夜の底で、立ち昇る……」


その声は小さかったが、はっきりと届いた。


「築地。英国の屋敷。火を放たれる……叫びは、攘夷の名を借りた臆病……本当の刃を抜けぬ者の、逃げ道……」


静寂のなか、ただその声だけが響く。


沖田がぽつりと呟いた。


「……やっぱり千夜に、似てる……」


土方がちらりと視線を向ける。

沖田は、真剣な表情で少女を見つめていた。


「この火は、まだ始まり。やがて……もっと大きなものが……国を、呑む……」


その声とともに、蝶が一匹、ふわりと舞い上がった。赤い羽をした蝶。

風に乗って、二人の間を抜けていく。


「……あれ、蝶?」


「生きてる、のか……?」


少女はそのまま、ぐらりと身体を傾ける。

土方が駆け出そうとしたその瞬間、すでにその姿は──消えていた。


「……どこへ……」


「まるで幻……でも、確かにいた」


土方は屋根の上を睨むように見上げながら、息を吐いた。


土方は唇を噛みしめる。


「……あれが本物の“巫女”かもしれねぇな」


沖田は無言で頷いた。

そして、ぽつりと。


「……俺たち、妙な時代に生きてるのかもね。しかも此処、八坂神社の近くだ。」


「八坂の巫女の仕業か……」


そう言いながらも、土方の心にははっきりと、あの紅い蝶と淡桜の髪が焼き付いていた。


──あれは、きっと忘れられない。



————

———

八坂神社の部屋には、彼女の姿は無かった。外は冷たい風が吹く。


誰に尋ねても、「朝は見た」「昼に見た」と曖昧な返事。

その後ろ姿は、昔の椿ではもうない。


けれど。


「おい……こんな夜更けに、ひとりで出歩いてええ歳ちゃうで」


誰にともなく、呟いた。


本当は、誰より強くなっていると知っている。

誰より冷静で、誰より人の痛みに近づけると知っている。けれど、山崎の心には、赤子のように縋って泣き、手を掴んで離さなかった、あの少女の幻が、ずっと残っていた。


「ちぃ……おまえ、どこにおんねん……」


ふと山崎は、屋根を見上げていく。夜の静けさを切るように吹く風が、瓦の隙間を撫でていく。八坂神社の広い屋根の上、その黒い輪郭に、人の影がひとつ――。


「……あんなとこ、よう登るわ」


呆れ半分、安堵半分。

その姿はまるで、かつて木の上に逃げて彼を困らせた少女のままだ。


裾を短くした巫女は、足を投げ出し夜空を見上げていく。ふと、星が瞬いた。


京の空には雲ひとつなく、細く欠けた月が静かに浮かんでいた。

吐く息は白く、頬を撫でる風は冷たいけれど、空気の奥にはほんのりと、香が混じっていた。


境内の片隅、椿はひとり空を見上げていた。


凍てついた空気のなか、星々は音もなく瞬いている。それは命のようだった。

生まれ、燃え、流れ、そして消えていく――。


「見たくもないものばかりが、見えてしまうのに……」


未来が見えるという力。

人々が崇める“先詠みの巫女”という名は、彼女にとっては重い呪いのようだった。

暗殺、争乱、裏切り。

美しくも残酷な光景が、否応なく胸に押し寄せてくる。


政を行うたびに、身体は削られ、心は凍えていく。空だけは、自分を優しく照らしてくれる。



「なんや。此処にいたん?ちぃ。」


耳元に届いたのは、聞き慣れた関西訛りの声。

山崎烝――彼女の唯一の従者。ちぃ。それは、彼だけがそう呼ぶ、小さな椿への愛称だった。


「下村って人の夢を見た。」


下村嗣治。

水戸藩に出入りしていた男は、罪人だと罵られた。だが彼女は、彼の事を父や兄の様に慕っていた人物である。後の壬生浪士組・筆頭局長、芹沢鴨である。


屋根の上で背をつけてしまう女は、まさしくあの男に似てしまったのだと山崎は思うのだ。短くなった丈の着物は、彼女のスラリと伸びた綺麗な足を隠す事など出来ず、


「いつか襲われるに?ソレ。」


注意を促すも、彼女は聞き入れる事など無い。


「膝丈まで伸ばしたんだけどな。これでも。」


着物の裾は、邪魔になる。走るにも刀を振るにも同じくである。結果、着物の裾を切って着用するのが彼女である。


屋根に登っている時点で、普通の姫でない事は明白で、山崎は、深く息を吐きだすばかり。



そんな椿の背後に、ひとつの気配が寄り添った。冷えた身体に、ぬくもりがそっと触れる。


「……どないした?なんかあったんか?」


「記憶がない私より、記憶を失われた方が

————辛いんだろうなって」


ただ漠然と、彼の顔を見たらそう思った。


「………お前は強いな。自分なら、そんな人の事なん、考えられへんわ。」


起き上がった椿は、首を傾げていく。それ以上、記憶の事も、今言った言葉にさえ深く踏み込めず、話を変えるように次の言葉を口にする。


「けど……物騒な連中ばっかやで。」


もし、巫女が此処に居ると知られたら…。山崎は背後から椿を抱き寄せた。その手が、そっと彼女の腹へ、そして――


「……私の後ろにも、肉食獣がいるみたいだけど?」


すぐ傍にいる男の方が、よほど危険だ。

そう思いながらも、彼女は笑ってしまう。


「誰が獣やねん。」


身体の冷え具合を確かめていただけである。彼女の香の匂いが袖にふんわりと染み込んでいる。


「――烝しかいないでしょう?」


素直にそう告げた椿に、山崎は小さく笑った。


「……ちぃ。部屋戻ろ。身体、冷やすわ。」


冬の名残を残す夜風の中、彼の声だけがやけに温かく感じられる。

椿は、小さく頷いた。


「ええ子やなぁ。」


幼い頃から共にいた山崎は、変わらず彼女を子ども扱いする。


不満げに睨みつけると、彼は急に優しい声で名を呼んだ。


「――椿。ほら、手。」


名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が不思議とくすぐったくなる。

視線を逸らしながら、彼女は静かに、その手を取った。


夜空は深く、冷たく、静かだった。



知識が必要だと感じたのは、自分が何も知らなかったからだ。政とは何か、国とは何か、命令を下すとはどういうことか。ただ未来を見て語るだけでは、何も変わらなかった。誰かの手で、誰かの都合で、未来は捻じ曲げられる。

だから椿は学んだ。必死に文字と数字にしがみついた。


書物の匂いは、やがて墨の香から血の臭いに変わっていった。未来の記録は時に、生々しく命の終わりを告げるものだった。ならば筆だけでは足りぬと、少女は思った。

剣術に興味を持ったあの日から、稽古を休んだことはない。最初は思うように動けず、手のひらが赤く腫れて泣いた。けれど涙を拭ったあの日、胸の奥には確かな願いがあった。


――誰かを護れる力が欲しい。


忍びに憧れたのは、影に徹し、すべてを見透かしながらも決して前に出ぬ存在だったからだ。

未来が見える自分ではなく、今を変えられる誰かになりたかった。

そう思った日から、椿の足取りは静かに、しかし確かに変わっていった。


そして、時代は動いた。

椿が言い当てた未来は、次々と現実になり、人々は次第に彼女を「国を揺るがす存在」と恐れるようになった。


名を隠され、姿を知られずとも、彼女の予言は風に乗って届く。

神託の如く語られ、政治の駒として求められるようになった。

商人は彼女の姿を想像で描いた絵草紙を売り、

庶民は「巫女様」と呼んで頭を下げる。


けれど――椿は、それらすべてを望んでいなかった。


地位も、名誉も、敬意さえも。彼女にとっては、重たすぎる鎧でしかなかった。未来を見ても、忘れた過去を背負っていても、彼女の心の中には、ただ一つの願いしかなかった。


――誰かと、ふつうに笑い合いたかった。


火鉢の香に混じる白檀の香り。

灯籠の淡い光。外に聞こえる子どもの笑い声。そのどれもが、椿には遠かった。


それでも、彼女は進む。未来を見て、今を知り、過去を赦して、まだ見ぬ明日を護るために。


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