秋風が吹き始めた頃だった。
町の空を渡り鳥の影が横切り、風には確かに冷たさが混じっていた。
稲の匂いや、遠くの焚き火の煙――
いつもなら懐かしさを呼ぶそれらが、この季節ばかりは胸を締めつける。
(あのときも、こんな風が吹いてたな)
黒猫が三度鳴き、犬が夜通し吠え続けたあの夜。塀の向こうで、風が松を鳴らしていた。
何かを知らせるように。何かを、止めようとしていたかのように。
姫の姉、桜様が――殺された。
松明の影が揺れて、駆けつけた時には、もう血の匂いしかせんかった。
床に倒れた桜様。
そのそばで、真っ赤に染まった小さな体は、姉に寄り添うように倒れた椿。何かを言おうとしていたが、声にはならなかった。
そのあと、椿はすべてを忘れた。
姉である桜様のことも。己の力のことも。
……そして俺のことも。
**
姫は部屋から出てこんようになった。
目も口も動かさず、まるで生ける屍のように――
白檀の香が絶えず焚かれていた。
あれは、姫の母上が好んだ香だったか。
だが、今の姫にとっては、ただの過去の残り香や。
兄の慶喜様が見かねて、俺を呼んだのは、それから幾日も経ってからだった。
**
庭先から風が吹き込んでいた。
障子がわずかに揺れて、中で彼女がじっと座っているのが見えた。
俺は静かに声をかけた。
「おはようさん、姫さん。今日はよう眠れたか?」
久しぶりに聞いた、あの声。
……いや、椿の声やない。けど確かに、彼女の中に「ちぃ」がいた。
「あ……おはよう、ございます」
かすれた声やった。けれど、それでも返事をしてくれた。
「今日から、姫さんの従者になる。……嫌やったら言ってな?」
俺が言うと、姫は小さく首を傾けた。
「……じゅう、しゃ?」
言葉の意味も、きっと曖昧なんやろう。
でも、その問い方に、少しだけ生きた色が見えた気がした。
「嫌、じゃない」
――その瞬間、思わず心臓が跳ねた。
「ほな、改めて。山崎烝。あなた様にお目にかかれたこと、光栄の至りでございます、姫様」
そう名乗った俺に、姫は首を横に振って、静かに言った。
「―――様は、要らない」
俺は思わず聞き返していた。
「何でや?」
椿は、しばらく沈黙してから言った。
「私は、何も偉くないから」
香の煙の向こうで、彼女はほんの少し、こちらを見た。それだけで十分やった。生きていてくれて、声を出してくれて、目を合わせてくれて――たったそれだけで。
(あんたがあの時、全部忘れてしまっても構へん。もう一回、俺が全部思い出させる)
そう、心に決めた。
その日から、椿の時間はまた動き出した。
風が変わった。香の匂いが変わった。
そして何より、彼女の瞳に、また「光」が戻りつつあった。
それは、小さな、小さな始まりだった。
けれど、俺にとっては――もう一度命を賭けるに値する、始まりやった。
秋の午後、ほんのひとときでも気が緩んだのか、縁側で山崎は浅く眠っていた。襟元を撫でる風が心地よくて、指先に香りが微かに残っている。
椿が使っている香。
あの部屋の匂い。あの子の匂い。
――あかん、寝たら。
意識がそう警鐘を鳴らすのに、まぶたは重く、夢と現が交わる狭間に沈んでいく。
どれくらい経ったのか。
ふと、頬にかかる気配に目を開けた。
すぐそこ、吐息のかかる距離に――椿がいた。
「……ちぃ?」
「起きた」
当たり前のように答えて、じっと山崎を覗き込むその顔は、どこか猫のようだった。好奇心のまま、獲物に顔を近づけてくる、あの無垢な距離。
「……お前、近すぎる」
「そう?」
椿はまったく悪びれる様子もなく、さらに顎を引いて山崎の顔を真上から覗き込んだ。
彼の鼻先と、椿の額がかすかに触れそうなほど。
「……ちぃ。いくら俺でも、びっくりする」
「びっくり、した?」
「そらするわ。ていうか、普通こんな距離で顔見るか?」
「見るけど?」
即答だった。
「だって、眠ってる烝、珍しいし。なんか、まつ毛、長いなって思って」
そう言って、指先を伸ばしかけた椿に、山崎は思わず身を引いた。
「やめとき。あかん」
「なんで?」
首を傾げるその姿は無垢そのものなのに、その一歩が、山崎にとっては深い淵の縁だった。
思い出してないくせに。
全部忘れてるくせに。
それでもあんたは、昔と同じように、容赦なく近づいてくる。
「……寝顔なんて、どんな顔でも変わらんやろ」
「違うよ。……安心してた」
「は?」
「烝の顔。……安心してた。わたしがそばにいると、安心するの?」
その一言に、言葉が詰まる。
椿は、分かってない。
自分の言葉が、どれほどの重さで胸に落ちるか。
……けど、そういうとこが、お前らしいんやな。
「……せやな。ちぃがそばにおると、安心するわ」
「ほんと?」
「ほんまや」
すると、椿はふふっと笑って、今度は隣にちょこんと座った。
肩と肩が、軽く触れ合う。
「じゃあ、もう少し、寝てもいいよ」
「……お前もな」
「うん」
風がまた吹いた。
香の残り香と一緒に、椿の髪がそっと山崎の頬をくすぐる。
思い出せないまま、まっすぐに笑う彼女。その笑顔を守るためなら――そう思った。たとえこの距離が、いつか己を苦しめるとしても。
今だけは、もう少しだけ。
**
うとうととまどろむ二人の間に、ただ静かに風が吹き抜けていった。