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第9話

秋風が吹き始めた頃だった。

町の空を渡り鳥の影が横切り、風には確かに冷たさが混じっていた。

稲の匂いや、遠くの焚き火の煙――

いつもなら懐かしさを呼ぶそれらが、この季節ばかりは胸を締めつける。


(あのときも、こんな風が吹いてたな)


黒猫が三度鳴き、犬が夜通し吠え続けたあの夜。塀の向こうで、風が松を鳴らしていた。

何かを知らせるように。何かを、止めようとしていたかのように。


姫の姉、桜様が――殺された。


松明の影が揺れて、駆けつけた時には、もう血の匂いしかせんかった。


床に倒れた桜様。

そのそばで、真っ赤に染まった小さな体は、姉に寄り添うように倒れた椿。何かを言おうとしていたが、声にはならなかった。


そのあと、椿はすべてを忘れた。


姉である桜様のことも。己の力のことも。

……そして俺のことも。


**


姫は部屋から出てこんようになった。

目も口も動かさず、まるで生ける屍のように――


白檀の香が絶えず焚かれていた。

あれは、姫の母上が好んだ香だったか。

だが、今の姫にとっては、ただの過去の残り香や。


兄の慶喜様が見かねて、俺を呼んだのは、それから幾日も経ってからだった。


**


庭先から風が吹き込んでいた。

障子がわずかに揺れて、中で彼女がじっと座っているのが見えた。


俺は静かに声をかけた。


「おはようさん、姫さん。今日はよう眠れたか?」


久しぶりに聞いた、あの声。

……いや、椿の声やない。けど確かに、彼女の中に「ちぃ」がいた。


「あ……おはよう、ございます」


かすれた声やった。けれど、それでも返事をしてくれた。


「今日から、姫さんの従者になる。……嫌やったら言ってな?」


俺が言うと、姫は小さく首を傾けた。


「……じゅう、しゃ?」


言葉の意味も、きっと曖昧なんやろう。

でも、その問い方に、少しだけ生きた色が見えた気がした。


「嫌、じゃない」


――その瞬間、思わず心臓が跳ねた。


「ほな、改めて。山崎烝。あなた様にお目にかかれたこと、光栄の至りでございます、姫様」


そう名乗った俺に、姫は首を横に振って、静かに言った。


「―――様は、要らない」


俺は思わず聞き返していた。


「何でや?」


椿は、しばらく沈黙してから言った。


「私は、何も偉くないから」


香の煙の向こうで、彼女はほんの少し、こちらを見た。それだけで十分やった。生きていてくれて、声を出してくれて、目を合わせてくれて――たったそれだけで。


(あんたがあの時、全部忘れてしまっても構へん。もう一回、俺が全部思い出させる)


そう、心に決めた。


その日から、椿の時間はまた動き出した。

風が変わった。香の匂いが変わった。

そして何より、彼女の瞳に、また「光」が戻りつつあった。


それは、小さな、小さな始まりだった。

けれど、俺にとっては――もう一度命を賭けるに値する、始まりやった。



秋の午後、ほんのひとときでも気が緩んだのか、縁側で山崎は浅く眠っていた。襟元を撫でる風が心地よくて、指先に香りが微かに残っている。


椿が使っている香。

あの部屋の匂い。あの子の匂い。


――あかん、寝たら。


意識がそう警鐘を鳴らすのに、まぶたは重く、夢と現が交わる狭間に沈んでいく。


どれくらい経ったのか。


ふと、頬にかかる気配に目を開けた。

すぐそこ、吐息のかかる距離に――椿がいた。


「……ちぃ?」


「起きた」


当たり前のように答えて、じっと山崎を覗き込むその顔は、どこか猫のようだった。好奇心のまま、獲物に顔を近づけてくる、あの無垢な距離。


「……お前、近すぎる」


「そう?」


椿はまったく悪びれる様子もなく、さらに顎を引いて山崎の顔を真上から覗き込んだ。


彼の鼻先と、椿の額がかすかに触れそうなほど。


「……ちぃ。いくら俺でも、びっくりする」


「びっくり、した?」


「そらするわ。ていうか、普通こんな距離で顔見るか?」


「見るけど?」


即答だった。


「だって、眠ってる烝、珍しいし。なんか、まつ毛、長いなって思って」


そう言って、指先を伸ばしかけた椿に、山崎は思わず身を引いた。


「やめとき。あかん」


「なんで?」


首を傾げるその姿は無垢そのものなのに、その一歩が、山崎にとっては深い淵の縁だった。


思い出してないくせに。

全部忘れてるくせに。

それでもあんたは、昔と同じように、容赦なく近づいてくる。


「……寝顔なんて、どんな顔でも変わらんやろ」


「違うよ。……安心してた」


「は?」


「烝の顔。……安心してた。わたしがそばにいると、安心するの?」


その一言に、言葉が詰まる。


椿は、分かってない。

自分の言葉が、どれほどの重さで胸に落ちるか。


……けど、そういうとこが、お前らしいんやな。


「……せやな。ちぃがそばにおると、安心するわ」


「ほんと?」


「ほんまや」


すると、椿はふふっと笑って、今度は隣にちょこんと座った。

肩と肩が、軽く触れ合う。


「じゃあ、もう少し、寝てもいいよ」


「……お前もな」


「うん」


風がまた吹いた。

香の残り香と一緒に、椿の髪がそっと山崎の頬をくすぐる。


思い出せないまま、まっすぐに笑う彼女。その笑顔を守るためなら――そう思った。たとえこの距離が、いつか己を苦しめるとしても。


今だけは、もう少しだけ。


**


うとうととまどろむ二人の間に、ただ静かに風が吹き抜けていった。



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