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第8話

夕暮れの薄暗い路地裏。

山崎はふと、背後に気配を感じた。

気配は静かで執拗だ──土方だとすぐにわかった。


「くそ……またか」


彼は足音を殺しながら、路地の曲がり角を利用して息を潜める。

土方の歩く音が遠ざかるのを確認して、そっと姿を消した。


そして、誰にも知られることなく、山崎は静かに椿の待つあの場所へと向かう。


かすかな風の気配もないはずの閉ざされた室内で、ふと、宙に現れた紅の蝶。


最初は一匹。それが、ふわり、ふわりと椿のまわりを舞いはじめる。


——赤。


血のように鮮やかな、まるでかつての記憶をなぞるような紅。


見開いた瞳に映る蝶。その動きが、胸の奥底の、記憶の淵に触れる。


彼女が立つ畳の上に、蝶が一羽、音もなく降り立つと——


その瞬間、部屋の空気ががらりと変わる。


障子の隙間からは月が差し込み、畳の上に浮かぶ赤い影。重なるように、彼女の影が二重になる。


「……私は、何故生きてるの?」


呟いた声に応えるように、蝶が再び舞い上がる。翅がひらりと触れた瞬間、掌がじんわりと熱を持つ。


まるで、「存在」を認められたかのように。


荒れた畳に、椿と山崎。

夕暮れ、障子の隙間から柔らかな橙が差し込む静かな部屋に、不意に——


ふわり、と。


空気が震えたような気配とともに、赤い蝶が一羽、何もない天井から降りてくる。


その蝶は、まるで椿を中心に舞い降りるように、ゆっくりと円を描いて降下してきた。


椿は息を飲み、言葉を失う。


だが、隣にいた山崎は、すぐに顔を曇らせる。


「……またか」


ぽつりと呟く彼の声は低く、重い。


椿がゆっくりと彼の方を向くと、山崎は蝶から目を逸らさずに言った。


「昔も、同じもんが……千夜の周りに、よう出てきとった。」


「え?」


「……夜、病でうなされとるとき。赤い蝶が現れて、ふわって消えていくんや。誰に言うても信じてもらえへんかったけどな……オレには、あれが死神みたいに見えて、怖うてしゃあなかった。」


蝶は、今も部屋の中を静かに舞っている。けれど、ただの蝶には見えなかった。翅は透けて、光をまとい、どこか現世のものではない。


椿は呟く。


「でも……私は、怖くない。なんだか、懐かしい気がする。」


山崎はじっと彼女を見つめた。


蝶は、椿の指先にとまる。


そして次の瞬間、蝶は光となって、空気に溶けるように消えた。


二人の間に、しん……と静寂が落ちる。


山崎の胸中に、「千夜」と「椿」の影が、また重なっていく。


そして——


外から、町人の囁く声が風に乗って届いた。


「最近、赤い蝶を見た奴がいるんだと……巫女の前触れらしいぜ」

「ほんとかよ。あれは死を呼ぶ印じゃなかったか?」

「いいや、逆だ。病を止めた巫女の周りに、蝶が飛んだって……」


「巫女の噂がまた出始めたな」

山崎が椿を見ずに呟いた。


椿は何も言えず、ただ蝶の行方を目で追った。

——自分の中の何かが、動き出している。

それを、彼女はまだ知らない。


————

———


夕刻、外に出れず昼寝してしまった椿。

布団の中から微かに聞こえる寝息に、山崎は肩の力を抜いた。


「……ほんま、綺麗な奴やな。」


小さく呟いた言葉に、己の胸の奥がざらつく。守ってきたのは、“千夜”だったはずだ。だが、目の前の彼女はもう、あの頃の少女ではない。


伸ばしかけた手を、山崎はそっと拳にして膝の上に置いた。触れてしまえば、戻れない気がした。


「ただの、身代わりだった筈なのに……。」



「んっ?烝、どうしたの?」


寝ぼけた目を擦りながら、舌足らずな声がして、不味いとばかりに身を離していくも、肩にかかった白い腕に捕らえられ、身動きすら取れなくなっていく。


「ちぃっ!」

抗議の声を上げていけば、背に感じた温もりと、着崩れた襦袢のままの彼女が己を見下ろしていく。


「ガキに発情してちゃ、まだまだだね。烝もさ。」


「————っ!」


さっきまで寝てた筈の女は、自分を褥に押しやり、馬乗りのまま耳元で囁いていく。


「大人を揶揄うもんやない。」


ジッと見つめてくる女は、小さく息を吐き出していく。


「でも、餓鬼って言ったじゃない」


夕焼けに染まる薄暗い部屋の中、障子越しに射し込む橙の光が、舞い落ちる塵を金色に浮かび上がらせていた。


褥に倒れ込んだ山崎の上に馬乗りになる椿の頬は、火照って紅潮していた。激しい動きに着物は乱れ、肩があらわになっている。けれど、彼女の顔には羞恥も遠慮もなく、ただ真剣なまなざしがある。


「——烝だけだよ」


低く、震える声で言った。


「私を、化け物って呼ばなかったのも。……こんなふうに、今でも、側に居てくれるのも」


山崎は答えなかった。けれどその胸の奥に沈んだ言葉は、表情に滲んでいた。


「……ちぃ。」


「烝……ありがとう」


ふいに、そんなことを言われて、山崎の顔は一瞬強張る。


「……お礼言われる筋合いちゃうやろ。俺かて……男なんよ。はよ、降りぃ」


声は低く、どこか掠れていた。だが椿は動かない。山崎は眉をひそめ、目を逸らす。


「ガキ言うて悪かったって。」


ようやく離れてくれた事に安堵するが、

その目はどこまでも真剣で、けれど彼の中には、まだ千夜と椿の面影が交錯していた。降りようとしない椿に、山崎は目を閉じて、ひとつだけ深く息をつく。


「……ほんま、反則やで、ちぃ」

その言葉に、椿は初めて少しだけ笑う。


「でしょ?」


「心臓に悪いわ。ほんま。」


「男っていいよね。遊郭に逃れるんだから。私も何処かで男捕まえてこようかな。」


とんでもない事を言う姫に頭を抱える羽目になる。


「どうやったら、その思考回路になるんよ。」


「知らない。に、してもよく寝たな。」


餓鬼と言った所為なのか、やけに冷たい対応をされ、頭をポリポリと掻きながら起き上がっていく。


「これからも、側にいて。烝」


膝を着き頭を垂れる山崎に彼女は目線を合わせる。そして、彼女は、千夜と同じ事を言った。


「私は、何も偉くも無いから、頭は下げなくていいのに。」


先詠の巫女。

彼女の言う事は、誠になる。

幕府にも他藩にも狙われる存在。その正体は、誰にも知られてはならない。


「お前以外、頭下げたいと思う奴なんておらんからな。」


従者として完璧である彼に慣れた手つきで襦袢を直され、笑みまで向けられ自分に全く気すら無いと白旗を上げざるをえなかった。


山崎は八坂神社の境内を歩きながらも、心が落ち着くことはなかった。

鳥居をくぐり外の世界に戻るたび、どこからともなく視線を感じる。

背後にひそむのは、土方の鋭い気配。そして時折、もう一つの冷たく揺らぐ影――沖田のそれだった。


「まだ、俺を見張っとるんか……」


その存在が、守るべきもののために自らの過去や秘密を隠す彼の決意をいっそう重くする。

それでも山崎は振り返らず、ただ前を向いて歩いた。


夕暮れの薄明かりに紛れて、紅い蝶の幻影がふと脳裏に揺れた気がしたが、すぐにそれを追い払った。


「こんなところで、立ち止まってられん」


彼の胸の奥に秘められた想いは、静かに燃え上がり続けていた。



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