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第7話

———— 江戸・試衛館 夜


外では雨がぽつぽつと降っている。

縁側に腰かけて煙管をくゆらせていた土方の隣に、沖田がすっと腰を下ろした。


その気配に、土方は言葉を発さずとも「話せ」と告げる。


沖田は少しの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。


「……今日、山崎くんに会いました。」


土方はわずかに眉を動かしたが、口を開かない。


「久しぶりでした。急に姿を消してから、どこで何してたのか、まったくわからなかったけど……相変わらずの顔してましたよ」


「……そうか」


「でも……今日は妙でした」


沖田の声音が、少し低くなる。


「山崎のそばに、女がいたんです。歳は、俺たちより少し下くらい。……で、顔を見た瞬間、頭が真っ白になりました」


「……何があった」


「似てたんです、千夜に。……いや、“似てる”じゃ足りない。あの顔、あの眼差し、あの空気……」


沖田は煙草を断っていた。だが今は、指先が煙管を求めるように、じわりと震えていた。


「髪の色が違ってた。桜に近い、淡い黒。瞳も、少し明るい……琥珀が混ざったような。でも、それ以外は、全部、同じだった」


「名前は?」


「……聞いてません。少し怯えだ表情だった。山崎くんにぴったり寄り添っていて……」


沖田は、一拍置いて、ため息混じりに呟いた。


「まるで、守られてるんじゃなくて、“守ってる”ように見えたんです。……山崎じゃなく、彼女のほうが」


土方はしばらく煙をくゆらせたあと、低い声で言った。


「千夜は……死んだ。」


「ええ。……でも、“そうだった”ということと、“今目の前にいた”という現実が、頭の中で喧嘩してます」


「……」


「たとえ違うとわかっていても、あんなに似た顔を見せられたら……忘れようとしてたはずの感情が、ぶり返してくる」


「忘れてたんじゃねぇ。蓋をしてただけだ」


土方の声は、静かだった。


「俺も……夢で何度も見る。あの日の光景も千夜の遺体も、……お前の泣き顔もな」


沖田は目を伏せ、言葉を飲み込む。


「それでも、生きてるわけがねぇんだ。……幽霊か、似た顔の他人だ。それだけだ」


「……そう、ですよね。でも」


沖田はゆっくりと顔を上げた。


「もう一度、会いに行きたくなったんです。――名前を呼んでみたくなった。“ちぃちゃん”って」


土方は黙ったまま、煙を吐き出した。

雨はまだ、ぽつりぽつりと降り続いている。


「……もし、彼女が“違う”と答えたら、それで全部終わる。そう思って、諦めがつくなら……」


「だが、もし“そうだ”と答えたら?」


土方の問いに、沖田は微笑した。


「……それでも、いいじゃないですか。少しだけ、夢を見ても」


沖田の足音が遠ざかり、縁側には土方だけが残った。


「……俺は」


ぽつりと、誰に向けるでもなく呟く。


「また、同じ顔を見たとして……今度こそ守れるか?」


冷たくなった少女の感触。

小さな、やわらかな手。

笑った顔。

膝にすり寄ってきたあの夜のぬくもり。


それらがすべて、現実ではなく夢だったならと、何度願ったことか。


そして今――

「似た女がいた」と、沖田が言う。


「……ちぃ。」


その名前だけを、土方は静かに口にした。煙草の火が、雨に消えた。





————八坂神社


椿の膝に頭を乗せて寝転がる男は、口を尖らせたまま目すら合わせてくれないのに、彼女の膝枕からは退く気配すら無い。


「————まだ、怒ってるの?烝。」


「当たり前や。」


困った様に眉を下げる女は、彼の頭を撫でていく。


姫の生活など退屈な物で、生け花、茶道、和歌、読書ばかり。こっそりと抜け出し烝と剣術の稽古をする。それが彼女の楽しみ。


穏やか過ぎる日常は、そう長くは続かなかった。


文久二年、一橋慶喜が将軍後見職に就任。水戸を離れる事が多くなれば、椿の立場は一層悪くなっていく。


家臣らの陰口は、常に聞こえて来る。

否子。汚れた姫。そんな心無い言葉たち。

先詠みの巫女と呼ばれる彼女の身分など無に等しい事をまざまざと突きつけられた。


————前例は無い。


身分は、確かに天皇の隣。そこに位置付けされているも、前例がないそれは役にも立たない。あっても仕方の無いもので、書物でまつりごとを習おうとも世の中の事は分からないまま、ただ書物を読み漁り、城の中の書物は、全て読み終えた。


当たり前であるが、水戸藩の情報のが圧倒的に多く、日の本の情報などごく僅か。


城に留まる事も考えたが、この年、奥詰医師になった松本良順が椿の容態の悪さに城から八坂神社へと移した為、二人は今此処に居る。


「————何で体調悪いの黙っとるん。」


膝枕する男は、文句を言うも、体調が悪くなったのは、精神的な物が圧倒的に大きかった椿にとって、いつからどう悪くなったのか自分でも説明するのは困難だ。


「しちにぃが居ない城は、生きづらくて…。」


彼が居る間、目に見えぬ場所で守ってもらっている事を痛感した。自分の陰口だけならまだ耐えられた。だが、それは別の場所にも刃を向ける。


手が男の頭を行き来すれば、不服そうなまま目を細めていく山崎。彼の陰口を聞いた時、悲しみと怒りと共に感じた感情が一つあった。


「————殺しちゃいそうだったから。」


あのまま、城に留まれば、彼の陰口を叩く輩を己の手で殺めかねなかった。ドロドロとした感情が自分の中にある事に驚いたのは事実。自分の陰口は気にもならなかったのに。


「俺がヤったるのに。」


頬に触れる手に無意識に擦り寄っていけば、焦った様な声がして、膝枕を堪能した山崎は、ようやく起き上がった。


彼が臍を曲げている理由は、二つ。

体調の事を黙って居た事と、八坂神社への移動を黙って居た事。


「囚われ人っちゅうアイツは、信用に足る人物なんかな。」


松本良順の助手として浅野薫という人物が現れたのは、八坂神社に到着した後だった。囚われ人という聞きなれない言葉にすら困惑する。


「囚われ人は、先詠みの巫女の血を飲んで生まれてくる。不老不死になり、狂人的な回復力があり、戦闘能力は、個人差がある。」


先詠みの巫女。それは自分の事で、


「書物で読んだだけ。

囚われ人は、巫女に逆らえないみたいだから大丈夫だよ。」


————浅野薫。

彼を自分は、知ってる気がする…。


記憶を呼び起こそうとするも、いつも霧がかった様に何も見えず、無理に記憶を探れば、激しい頭痛が襲いくる。


「————っ!!」


半身すら支える事が困難で崩れゆく身体を山崎は支えていく。


「悪い。巫女に関する事を口にするんや無かった。」


無神経だった。そう彼は謝罪の言葉を続けるが、大丈夫。そう言うのが精一杯で、支えられた身体は、褥へと横たえられていくも、


「綺麗な着物着た姫さんのままで居てくれたらえぇんやけどな。」


「……。姫…か。」


そう言いながら支えた男の着物を掴み、上を向けば、至近距離に山崎の顔が映り込む。


「色仕掛けの真似か?」


そう言う男は、この距離では余裕な様で、

更に近づこうとすれば、空いた手で阻止された。


「そういうんは、惚れた男にしぃ。」


「男を寄せ付けない様にしてるのに、誰に惚れるの。」


目の前の男は、浅野ですら警戒を見せる。八坂神社の僧侶ですら、数日暮らして居ても視界にすら入らない。不自然極まりない程に。


「————ほら、餓鬼は寝る時間や。」


「……今度は餓鬼ですか。」


「私、幾つだっけ?」


自分の歳すら分からないが、彼が餓鬼だと言うから気になった。


「18やな。」


「18は餓鬼なんだ。」


この時代、嫁いでもおかしくない歳である。20を過ぎれば行き遅れ。餓鬼と言われた意味すら分からないまま、褥に横になっていく。


彼が居れば何もいらない。

そう思った自分の気持ちも分からないが、口付けしようとして拒絶され、餓鬼だと言われた事は、胸がズキズキと痛んだ。




———— 文久二年 初夏 ― 江戸


蒸し暑い空気が肌にまとわりつく夕刻、八坂神社の社務所裏手。

椿はひとり、竹筆を握っていた。白装束に紅を差した細身の肩が、小刻みに震えている。


「……水……が濁る。口から水が溢れる。死ぬ。……間に合わない……」


筆先は、半紙を引き裂くように走る。

神経を削るような“視え”が、彼女の脳裏に流れ込んでいた。


(また来る……あれが)


それは、彼女がまだ“千夜”だったころ、幼くして死の縁に立たされた記憶にも似ていた。

胃の中がひっくり返るような嘔吐、身を焼かれるような脱水と痙攣、そして死臭。


「コレラが、また来る」


ぽつりと漏らした声は、あまりにも静かだったが、隣にいた山崎烝の背筋を震わせた。


「……ちぃ、それ、本気か?」


「濁った水を避けて。井戸を封じて、薬草を煎じて。あと、……西の屋敷町から離れて」


椿の目は虚空を見ていた。

確信ではない。“視えた”ものを、ただ告げる。けれどその声には迷いがない。


翌日――


彼女が書き残した“場所”に従い、一部の町屋が井戸を閉じた。不思議とそこでは、病人が出なかった。


だが、政府は動かない。町役人は、巫女の言など戯言として一蹴した。


そして、十日後。


江戸城下の西屋敷地――麻布から広尾にかけて――コレラが爆発的に広がった。


「……視ていたのか、あの娘は」

「“虎狼痢”の来る日を、数まで……」

「まるで……死神の使いだ」


八坂神社の訪問者が爆発的に増え、未来が見える事に身体を震わせる。




————江戸・試衛館


「あの子、やっぱり気にならない?土方さん。」


「……何の話だ」


夕餉の静かな試衛館の広間。畳の上で胡座をかく沖田総司は、何気ない風を装いながらも、声の奥に妙な色を滲ませていた。


「山崎くんと一緒にいたあの子の話ですよ。名前は聞いてませんけど……あれ、ちょっと、いや、ずいぶん“千夜”に似てるって話したアレです」


土方の箸がぴたりと止まった。


沖田はそれを横目で確認しながら、言葉を続ける。


「会ったのは一度きり。確か、去年の春頃。山崎くんその子と肩を並べて歩いてました。なんとも言えない距離で、だけど親しげで」


「……その程度で似てるとは限らねぇだろ」


「やだなぁ。声を掛けたって話したでしょう?それっきり忘れようとしたんです。でもね、最近また見かけるんです。時折、山崎くんと一緒に出歩いてる」


土方は黙していた。だが、沖田はそれを待っていたように、さらに低い声で続ける。


「立ち振る舞いも、声の調子も、千夜にそっくりなんです。背格好も近いし、あの……ふっと人を置いていくような、あの感じも」


沈黙が落ちる。


縁側の外では夕暮れの風が梢を揺らし、遠くで犬の鳴く声が聞こえた。


「──尾けていたのか」


土方の声は低かった。


沖田は一瞬、笑みを浮かべかけたが、それをすぐに引っ込めた。


「……はい。何度か、こっそり。山崎くん、気づいてないと思います。あの子に夢中になってるから」


「総司」


「怒らないでくださいよ。ただ──知りたかっただけです。あれが、あの子が本当に“千夜”なのかどうか」


土方は深く息を吐き、静かに目を閉じた。


「千夜は……もういねぇよ。あの時、おれたちが送ったはずだ」


「ええ。でも、“椿”って名前で呼ばれてるって、耳に挟みました」


沖田のその言葉に、土方の瞼がわずかに揺れた。


「椿……」


「花の名前ですね。冬を越えて、春に咲く。でも──花の下には毒があるとも言います」


沖田は静かに立ち上がり、言葉を足した。


「そういえば、先日その子のことを見ていたら、不意に『コレラの流行が来る』なんて言葉を漏らしていました。ありえない話かもしれませんが……あの子、何か普通じゃない、普通なら知り得ないことを口にしている」


土方の瞳が鋭く光った。


「コレラ……か」


言葉の重みが試衛館の空気をさらに締めつける。


沖田は土方の背を見つめながら、そっと告げる。


「気をつけたほうがいいかもしれません、土方さん。あの子、“普通”じゃない」


言い残して去る沖田の背を見つめながら、土方は重く沈黙する。


椿。

もしそれが、かつての「千夜」だとしたら。

彼女が戻ってきた理由とは──。


——数日後・江戸 試衛館


夕餉の後、土方歳三は一人、縁側に腰を下ろしていた。静かな夜風に揺れる竹垣の影が、畳の上に模様のように映っている。


ふと、裏口の戸が開く音がした。


「土方さん。ちょっと、聞きました?」


沖田総司が草履を脱ぎながら、顔だけをのぞかせた。


「……何だ」


「深川で、コレラが出たって話です。さっき、薬屋の使いが飛び回ってた。あちこちで水を煮沸しろとか、大騒ぎになってる」


土方の眉が微かに動いた。


「またか……。毎年のことだろ」


「それが、今年のは早すぎるそうです。初夏には珍しいって、町医者も首を傾げてる。しかも──」


沖田は縁側に腰を下ろすと、声を潜めた。


「この数日で三人、急死したって。みんな腹痛と吐き気。もう“あれ”だって、町では確定みたいです」


「……」


「で、面白いのが……いや、妙な話なんですけど」


「言え」


「“巫女が予言した”って、噂になってるんですよ。誰かが聞いてたらしいんです、あの子が“水……が濁る。口から水が溢れる。死ぬ。……間に合わない”って呟いたのを」


沈黙。


土方は、口を開かなかった。ただ、目だけが細くなった。


「それが、流行る数日前の話で。ちょうど山崎くんと一緒にいたときだって。誰かが聞き耳を立ててたのか、今じゃ町の若い連中が“白装束の巫女様が死の風を読んだ”って騒いでます」


沖田は自嘲気味に笑った。


「滑稽ですよね。巫女だなんて」


「……」


「でもあの子、“千夜”だとしても、“椿”だとしても、やっぱり普通じゃない。人の死に目を見透かすような目をしてる。そんな気がしてならないんです」


土方はしばらく黙っていた。


やがて、風が一陣吹き抜け、簾がふわりと浮いた。


「……探らせてみる」


低く絞った声だった。


沖田がちらと目を向ける。


「誰を?」


「町医者でも、薬種問屋でもいい。噂の出処を割り出せ。──それと、山崎の行動もな」


沖田は微かに笑った。


「やっぱり、気になってたんですね」


「……ああ」


土方は静かに立ち上がった。


縁側の先、夜の闇。その向こうに、過去に葬ったはずの“名前”が、息を吹き返そうとしているようだった。


椿──

千夜──


彼女は、なぜ“戻ってきた”のか。


そして、なぜ再び“死”を知っているのか。


答えのない問いだけが、夜風に溶けていく。

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