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第6話

文久元年、晩秋 —— 水戸の町


町は、いつもより少しだけ浮き足立っていた。


提灯の灯が揺れ、冷たい風が通りを吹き抜ける。

その中を、黒羽織の男と、薄紅の羽織を纏った娘が連れ立って歩いていた。


椿と、山崎だった。


「……ほんま、目立ちたない言うたやろ。こないな灯りの下、ちぃを歩かせるんはちと怖いわ」


山崎が苦笑混じりに言うと、椿はふわりと笑った。


「でも、甘味が食べたかったの。……ちょっとだけ」


彼女の笑顔は、秋風に舞う花のようだった。その美しさに、すれ違う町人たちが無意識に振り返る。


提灯の灯が、椿の横顔をやわらかく照らしている。


町人たちは、夜店に立ち寄ったり、子どもが走り回ったり、どこか浮き立った空気を纏っていた。冬が来る前の、最後の祭りのような賑わい。椿もその中で、ほんのひととき、ただの娘として過ごしていた。


とある香具師の屋台に目を止めた椿が、山崎の袖を引く。


「見て。金魚……夜でも売ってるんだ」


「金魚はええけど、ちぃが金魚鉢抱えて逃げんの想像してみ。すぐ割れるわ」


「ふふっ……想像しちゃった。逃げ足には自信あるのにね」


「……そないに笑われたら、何も言えんわ」


そんな、たわいのない会話が続いていた。

椿がいると、山崎の声にもどこか柔らかさがにじむ。


けれど——

ふと、通りの向こうから声が聞こえた。


「なぁ、知ってるか? “先詠みの巫女”って……」


「京から来た白無垢の姫がそうやって! 髪が桜色になるらしいで!」


椿の足がぴたりと止まった。


風が吹いた。

彼女の羽織が揺れ、黒髪が頬を掠める。


「……」


山崎は、その横顔を見る。彼女の瞳が、静かに揺れていた。


「……あれ、ちぃのことやな」


「うん。……やっぱり当たっちゃったんだ」


「当たって、嬉しいんか?」


椿は何も言わず、ただ山崎の袖をつかんだ。

——だが、次の瞬間、ぽつりと呟くように言う。


「……でも、変よ」


「変?」


「こんなに早く噂が広まるの、おかしい。わたし、何もしてないのに。誰も“視た”事はずないのに」


その声音は、少女のものではなかった。

冷静で、鋭く、まるで陰に潜む者の気配を嗅ぎ取る獣のようだった。


山崎の目が細くなる。

その横顔は、夜の灯りに浮かんで、鋭く、険しかった。


「チッ……誰や。ちぃのこと、勝手に口にして回っとる奴は」


低く舌打ちしたその声音には、怒りと、微かな焦りが滲んでいた。

まるで、椿の存在を“手垢のついた噂”にされること自体が、我慢ならないかのように。


彼女の視線に戻し、静かに答えた。


「——誰かが、わざと流したんやろな」


「うん。注意しておいた方がいいかもしれない」


そう言った椿の瞳は、もうさっきまでの甘味を欲しがる少女ではなかった。

未来を知り、未来に怯える者の目だった。


彼女はもう一度、深く笠を被る。


その隣で、山崎が一歩、彼女の前に立つ。


「ほな、帰ろか」


「……ありがとう」


二人の影が、提灯の灯の中から、そっと闇へと溶けていく。


後ろではまだ、町人たちが噂を続けていた。


「天女みたいなんやろ? 髪が桜色に光って……」


「怖っ……でも一度見てみたいわぁ……」


椿の背中に、その言葉が刺さる。

山崎の声が、風に紛れて彼女の耳に届いた。


「安心せぇ。……お前のこと、誰にも触れさせへん」


——その言葉だけが、冷えた胸の奥を、温かくした。



屋根の上。

提灯の灯りがぼんやりと揺れ、町のざわめきが遠くに過ぎていく。


その中で、久坂玄瑞は身を潜め、下を歩くふたりの影をじっと見つめていた。


——“巫女”。

神の言葉を口にする、時の外から来た娘。

久坂にとって、それは畏れであり、焦がれであり、執着でもあった。


椿が顔を上げたその瞬間、久坂は息を呑んだ。


「……黒い、髪……?」


そう呟いた声は、かすれ、震えていた。


自分の知る彼女の髪は、桜色だった。けれど今、目の前にいる少女の髪は、夜の闇に溶けるような黒。


その黒が、思いがけず彼の胸を抉った。

神ではなく、ただの女——

それでもなお、久坂の目は彼女に釘付けだった。あまりに普通で、あまりに人間で、

それでも——どこか浮世離れしていて、美しい。


久坂は、自分の胸が高鳴るのを感じた。


「……黒髪の巫女、か」


それは、神が人として地に降りた証なのかもしれない。

いや、違う。彼女は“人”の姿をしているだけで、やはり“神”なのだ。


久坂は口角を上げた。


「ますます目が離せなくなったな……椿」


執着にも似た情が、その声に滲む。

ふわりと風が吹く。黒い羽織が揺れて、久坂の姿が屋根の上から闇に消えた。



提灯の灯が連なる水戸の町。

噂を耳にしてからというもの、椿はほとんど口を開かなかった。


冷たい風が通りを抜け、落葉がかさりと音を立てる。

その中を、椿と山崎は並んで歩いていた。


「……ちぃ、寒ないか?」


山崎が声をかけると、椿はかすかに笑って首を振った。


「ううん、平気。……でも」


「でも?」


「さっきの噂、やっぱり気になるの。……誰かが、わたしを見てる気がする」


その瞳は、すでに戦の匂いを察知する者のものだった。


山崎もまた、歩く速度をわずかに落とす。

肩越しに後ろを一瞥したが、それらしい気配はない。


だが、違和感は消えなかった。


風が吹いた。

椿の黒髪がふわりと舞い、月明かりと提灯の灯に照らされて、どこか現実離れした輝きを帯びる。


その横顔は、まるで神楽の舞台に立つ巫女のように静かで、気高く、——そして、どこか儚い。

ふと、背後から柔らかな声が届いた。


「……あれ、山崎くん?」


提灯の灯が、風に揺れた。

灯りがきらめき、ふたりの影が一瞬だけ長く伸びる。


椿と山崎が振り返る。

灯の下に立っていたのは——沖田総司。


「ああ、やっぱり。君、最近試衛館に顔を出さなかったから、ちょっと心配してたんだよ」


白い道着姿の青年が、やんわりと笑う。


山崎は眉をひそめながら一歩前へ出た。


「……沖田はんか。まさか、こんなとこで会うとはな」


その声の色には、わずかに警戒が滲んでいた。


沖田の視線が、ふと椿に向けられる。


——その瞬間、時が一瞬止まったように感じられた。


椿の髪が、秋の風にふわりと揺れる。

黒髪が頬を撫で、薄紅の羽織が灯に照らされて淡く光を返す。

顔を上げた椿の目が、まっすぐに沖田を見た。

その目には、どこか遠い光が宿っていた。


夜の中で、少女の姿がほのかに浮かび上がる。


まるで——夢の中の幻のように。


沖田は、その場に立ち尽くした。

息が、ひとつ止まる。


(……ちぃちゃん……?)


記憶の奥に封じた名前が、呼び起こされた。


風の音、灯の明滅、椿のまなざし——

すべてが、その亡霊を引きずり出す。


「……その子、君の連れ?」


沖田の声は、どこか掠れていた。


「関係あらへん」


山崎の返答は冷たかった。

その目が、何かを悟らせまいとするように鋭く光る。


椿は、何も言わずに沖田を見つめていた。

そのまなざしは、どこか夢を見ているようで、それでいて冷めていた。


灯の明かりがまた揺れる。

その中で椿の唇が、かすかに動いた。


(……名乗るべき?)


胸の奥に、そんな声がかすかに生まれた。


自己を明かすこと、それは一線を越えること。


「……わたしは──」


声にならぬその言葉を、風が攫っていった。


名乗るには、まだ時が早すぎる。

それに、山崎の手が、強く彼女の指を包んでいた。


それが「やめとけ」と言っているようで、椿は黙ってしまった。


沖田の表情が少しだけ変わった気がした。


その声に、沖田はふと我に返った。

記憶と現実の境目を取り違えた自分に、微かな苦笑を浮かべる。


「ごめん。知り合いに、ちょっと似てると思って」


「……そう」


椿は、それ以上聞かず、風に揺れる髪を手で押さえた。


灯の明かりが、彼女の睫毛に淡く光る。

まるでそれが、涙のように見えるほどに美しかった。


その美しさに、沖田はまた胸を打たれる。


けれど——


山崎が、一歩前に出る。


「……ほな、行かしてもらうわ」


そう言って椿の手を取り、静かに歩き出す。

その歩調は、決して急いではいないが、明らかに“距離を取る”ものだった。


沖田の横を通り過ぎるとき、山崎の声が低く響いた。


「——昔のもんは、とうに捨てた」


沖田の目がわずかに見開かれる。


けれど、追うことはしなかった。


ただ、秋風の中に消えてゆくふたりの後ろ姿を、黙って見送った。


提灯の灯がまた揺れ、椿の羽織の裾が翻る。

その背に、ひとひら、花びらのような影がひるがえるように見えた。


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