文久元年、晩秋 —— 水戸の町
町は、いつもより少しだけ浮き足立っていた。
提灯の灯が揺れ、冷たい風が通りを吹き抜ける。
その中を、黒羽織の男と、薄紅の羽織を纏った娘が連れ立って歩いていた。
椿と、山崎だった。
「……ほんま、目立ちたない言うたやろ。こないな灯りの下、ちぃを歩かせるんはちと怖いわ」
山崎が苦笑混じりに言うと、椿はふわりと笑った。
「でも、甘味が食べたかったの。……ちょっとだけ」
彼女の笑顔は、秋風に舞う花のようだった。その美しさに、すれ違う町人たちが無意識に振り返る。
提灯の灯が、椿の横顔をやわらかく照らしている。
町人たちは、夜店に立ち寄ったり、子どもが走り回ったり、どこか浮き立った空気を纏っていた。冬が来る前の、最後の祭りのような賑わい。椿もその中で、ほんのひととき、ただの娘として過ごしていた。
とある香具師の屋台に目を止めた椿が、山崎の袖を引く。
「見て。金魚……夜でも売ってるんだ」
「金魚はええけど、ちぃが金魚鉢抱えて逃げんの想像してみ。すぐ割れるわ」
「ふふっ……想像しちゃった。逃げ足には自信あるのにね」
「……そないに笑われたら、何も言えんわ」
そんな、たわいのない会話が続いていた。
椿がいると、山崎の声にもどこか柔らかさがにじむ。
けれど——
ふと、通りの向こうから声が聞こえた。
「なぁ、知ってるか? “先詠みの巫女”って……」
「京から来た白無垢の姫がそうやって! 髪が桜色になるらしいで!」
椿の足がぴたりと止まった。
風が吹いた。
彼女の羽織が揺れ、黒髪が頬を掠める。
「……」
山崎は、その横顔を見る。彼女の瞳が、静かに揺れていた。
「……あれ、ちぃのことやな」
「うん。……やっぱり当たっちゃったんだ」
「当たって、嬉しいんか?」
椿は何も言わず、ただ山崎の袖をつかんだ。
——だが、次の瞬間、ぽつりと呟くように言う。
「……でも、変よ」
「変?」
「こんなに早く噂が広まるの、おかしい。わたし、何もしてないのに。誰も“視た”事はずないのに」
その声音は、少女のものではなかった。
冷静で、鋭く、まるで陰に潜む者の気配を嗅ぎ取る獣のようだった。
山崎の目が細くなる。
その横顔は、夜の灯りに浮かんで、鋭く、険しかった。
「チッ……誰や。ちぃのこと、勝手に口にして回っとる奴は」
低く舌打ちしたその声音には、怒りと、微かな焦りが滲んでいた。
まるで、椿の存在を“手垢のついた噂”にされること自体が、我慢ならないかのように。
彼女の視線に戻し、静かに答えた。
「——誰かが、わざと流したんやろな」
「うん。注意しておいた方がいいかもしれない」
そう言った椿の瞳は、もうさっきまでの甘味を欲しがる少女ではなかった。
未来を知り、未来に怯える者の目だった。
彼女はもう一度、深く笠を被る。
その隣で、山崎が一歩、彼女の前に立つ。
「ほな、帰ろか」
「……ありがとう」
二人の影が、提灯の灯の中から、そっと闇へと溶けていく。
後ろではまだ、町人たちが噂を続けていた。
「天女みたいなんやろ? 髪が桜色に光って……」
「怖っ……でも一度見てみたいわぁ……」
椿の背中に、その言葉が刺さる。
山崎の声が、風に紛れて彼女の耳に届いた。
「安心せぇ。……お前のこと、誰にも触れさせへん」
——その言葉だけが、冷えた胸の奥を、温かくした。
屋根の上。
提灯の灯りがぼんやりと揺れ、町のざわめきが遠くに過ぎていく。
その中で、久坂玄瑞は身を潜め、下を歩くふたりの影をじっと見つめていた。
——“巫女”。
神の言葉を口にする、時の外から来た娘。
久坂にとって、それは畏れであり、焦がれであり、執着でもあった。
椿が顔を上げたその瞬間、久坂は息を呑んだ。
「……黒い、髪……?」
そう呟いた声は、かすれ、震えていた。
自分の知る彼女の髪は、桜色だった。けれど今、目の前にいる少女の髪は、夜の闇に溶けるような黒。
その黒が、思いがけず彼の胸を抉った。
神ではなく、ただの女——
それでもなお、久坂の目は彼女に釘付けだった。あまりに普通で、あまりに人間で、
それでも——どこか浮世離れしていて、美しい。
久坂は、自分の胸が高鳴るのを感じた。
「……黒髪の巫女、か」
それは、神が人として地に降りた証なのかもしれない。
いや、違う。彼女は“人”の姿をしているだけで、やはり“神”なのだ。
久坂は口角を上げた。
「ますます目が離せなくなったな……椿」
執着にも似た情が、その声に滲む。
ふわりと風が吹く。黒い羽織が揺れて、久坂の姿が屋根の上から闇に消えた。
提灯の灯が連なる水戸の町。
噂を耳にしてからというもの、椿はほとんど口を開かなかった。
冷たい風が通りを抜け、落葉がかさりと音を立てる。
その中を、椿と山崎は並んで歩いていた。
「……ちぃ、寒ないか?」
山崎が声をかけると、椿はかすかに笑って首を振った。
「ううん、平気。……でも」
「でも?」
「さっきの噂、やっぱり気になるの。……誰かが、わたしを見てる気がする」
その瞳は、すでに戦の匂いを察知する者のものだった。
山崎もまた、歩く速度をわずかに落とす。
肩越しに後ろを一瞥したが、それらしい気配はない。
だが、違和感は消えなかった。
風が吹いた。
椿の黒髪がふわりと舞い、月明かりと提灯の灯に照らされて、どこか現実離れした輝きを帯びる。
その横顔は、まるで神楽の舞台に立つ巫女のように静かで、気高く、——そして、どこか儚い。
ふと、背後から柔らかな声が届いた。
「……あれ、山崎くん?」
提灯の灯が、風に揺れた。
灯りがきらめき、ふたりの影が一瞬だけ長く伸びる。
椿と山崎が振り返る。
灯の下に立っていたのは——沖田総司。
「ああ、やっぱり。君、最近試衛館に顔を出さなかったから、ちょっと心配してたんだよ」
白い道着姿の青年が、やんわりと笑う。
山崎は眉をひそめながら一歩前へ出た。
「……沖田はんか。まさか、こんなとこで会うとはな」
その声の色には、わずかに警戒が滲んでいた。
沖田の視線が、ふと椿に向けられる。
——その瞬間、時が一瞬止まったように感じられた。
椿の髪が、秋の風にふわりと揺れる。
黒髪が頬を撫で、薄紅の羽織が灯に照らされて淡く光を返す。
顔を上げた椿の目が、まっすぐに沖田を見た。
その目には、どこか遠い光が宿っていた。
夜の中で、少女の姿がほのかに浮かび上がる。
まるで——夢の中の幻のように。
沖田は、その場に立ち尽くした。
息が、ひとつ止まる。
(……ちぃちゃん……?)
記憶の奥に封じた名前が、呼び起こされた。
風の音、灯の明滅、椿のまなざし——
すべてが、その亡霊を引きずり出す。
「……その子、君の連れ?」
沖田の声は、どこか掠れていた。
「関係あらへん」
山崎の返答は冷たかった。
その目が、何かを悟らせまいとするように鋭く光る。
椿は、何も言わずに沖田を見つめていた。
そのまなざしは、どこか夢を見ているようで、それでいて冷めていた。
灯の明かりがまた揺れる。
その中で椿の唇が、かすかに動いた。
(……名乗るべき?)
胸の奥に、そんな声がかすかに生まれた。
自己を明かすこと、それは一線を越えること。
「……わたしは──」
声にならぬその言葉を、風が攫っていった。
名乗るには、まだ時が早すぎる。
それに、山崎の手が、強く彼女の指を包んでいた。
それが「やめとけ」と言っているようで、椿は黙ってしまった。
沖田の表情が少しだけ変わった気がした。
その声に、沖田はふと我に返った。
記憶と現実の境目を取り違えた自分に、微かな苦笑を浮かべる。
「ごめん。知り合いに、ちょっと似てると思って」
「……そう」
椿は、それ以上聞かず、風に揺れる髪を手で押さえた。
灯の明かりが、彼女の睫毛に淡く光る。
まるでそれが、涙のように見えるほどに美しかった。
その美しさに、沖田はまた胸を打たれる。
けれど——
山崎が、一歩前に出る。
「……ほな、行かしてもらうわ」
そう言って椿の手を取り、静かに歩き出す。
その歩調は、決して急いではいないが、明らかに“距離を取る”ものだった。
沖田の横を通り過ぎるとき、山崎の声が低く響いた。
「——昔のもんは、とうに捨てた」
沖田の目がわずかに見開かれる。
けれど、追うことはしなかった。
ただ、秋風の中に消えてゆくふたりの後ろ姿を、黙って見送った。
提灯の灯がまた揺れ、椿の羽織の裾が翻る。
その背に、ひとひら、花びらのような影がひるがえるように見えた。