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第5話

彼が話してくれた試衛館の話は、まるでその場に居合わせたかのような感覚を覚えさせた。

ただ、桜色の髪を持つ少女が亡くなった“その後”の話だけは、彼の口から語られることはなかった。


亡くなったのは、五年前——。


季節は、冬を越えようとする早春。

まだ朝晩の冷えは厳しいが、日中の陽射しにはかすかに春の香が混じりはじめている。

梅がほころび始めた水戸城下の空気はどこか柔らかく、それでいて寂しさを含んでいた。


彼は、五年という月日をどこで、誰と、どう過ごして来たのだろう。

分かっているのはただ一つ。

山崎烝がこの水戸に戻って来たのは、つい最近であり、自分と共に——それだけだった。


どれほどの悲しみを抱え、どれほどの孤独の中を生きてきたのか。

それを知る術もなく、身の回りの世話を焼いてくれる彼の背中を、椿は黙って見つめる。


胸が、締め付けられるように苦しかった。


「……烝」


名を呼べば、彼は振り返る。

中性的な顔立ちに、節のない白い指。

長く伸ばした髪を後ろで一つに結いながらも、横髪だけはふわりと肩にかかっていた。

微かに吹いた風がそれを揺らし、彼の頬を撫でていく。


「なんや?」

大阪の言葉が、どこか心をほぐしていく。

——彼はなぜ、水戸に居るのか。なぜ、私の傍に居るのか。

知らないことばかりだからこそ、せめて何かひとつでも知りたかったのかもしれない。


「私を見つけるまでの五年……烝は、

——試衛館に居たの?」


その名を出せば、彼の目が大きく見開かれた。

それは、彼女の推理が的を射ていた証だった。


「なんで、それを——」


彼が語った試衛館の話が、あまりにも鮮やかだったから。

仲間たちの名、道場での出来事、くだらない笑い話の数々までもが、まるで昨日のことのように生き生きとしていた。


困ったように頭を掻きながら、椿は一言。


「戻りたい?」


その問いには、彼は静かに首を振った。


「……烝は、嘘つきだね」


ただの責めではなかった。

彼が話す時、その表情は確かに楽しそうだったから。


「嘘なんか言ってへん」


眉を下げて、こちらを見下ろす彼。

その顔が、どうしようもなく悲しげで——椿は思わず、両腕を彼の首に回した。


「——先詠みの巫女は、天皇と並ぶ権限を持つ。

それが使われた事は過去には無い」


つい先日まで、自分が何者かさえも思い出せなかった椿の口から、幕府の極秘が語られる。


「……なんで、それを……」


「耳だけはいいから。私」


周囲は彼を“ただの従者”と呼ぶ。

だが、椿にとっては違った。それだけは確かなことだった。


「何をする気や?」


腕の中でそう問う彼の声に、吹いた風が障子を揺らす。

外では、枝の先に膨らんだ蕾が、時折風に揺られ、カラカラと小さな音を立てている。


「時期に、清河八郎が江戸で人を集める。

その隊の引率を、私がする」


清河八郎の目論見は、やがて幕府の失態となり、彼は幕府の手で粛清される。

その未来を、椿は止めると言った。


「お前……力、使えるんか?」


「分からない。……夢を見ただけなのだけど。」


そう答えながらも、椿の言葉には確信が滲んでいた。

まるで、その未来がすでに現実となっていたかのように。


「烝、私は多分——

貴方が守って来た“千夜”で、間違いない」


その言葉の意味を、山崎は問い返さなかった。ただ、じっと彼女を見つめていた。

ぼんやりとした記憶。守り続けた名も無い少女。

ふたりの間に、言葉にできぬものが漂っていた。


そのときだった。

不意に、部屋の空気が変わった。


どこからともなく、風が吹いたように障子がわずかに揺れ、畳の上を淡い光が走った。

何も無いはずの空間に、小さな花弁がふわりと現れ、宙を舞う。

桜のようで、でも、時季は外れていた。

光の中で、花弁はすぐに霧のように溶けて、消えていった。


椿は気づいていない。

ただ山崎だけが、それを見た。


「……ちぃ、お前……今の……」


「ん?」


振り向いた椿の目は、何も知らないまま澄んでいた。

それがなおさら、胸を締めつける。


「なんでもあらへん。……ただ、夢の話にしといた方がええかもな」


それでも彼の視線は、まだ虚空に浮かんでいた花の痕を追っていた。


己も気づかぬまま、椿は巫女としての力を確かにしていく。

その片鱗は、すでに始まっていた。



目の前の従者が、ぎゅっと着物を握りしめる。


「君の夢を、叶えてあげる」


椿にとって最も忌むべき“身分”という鎧を、あえて使うことで、彼の夢を叶える。

それは、亡き千夜が最後に望んだことだと、彼女は信じた。


「……どうして、そこまでするん」


過去も未来も曖昧なまま、彼女はただ“今”を歩くしかなかった。

たかが少女一人の願い。

でも、それが自分にとっては——他人事には思えなかった。


理由なんて、それで十分だった。


「教えてあげない」


ふいに身体を離した彼女は、けれど再び真っ直ぐ彼を見つめて言う。


「でも——

私は、烝が側に居てくれたらそれで良い」


その碧の瞳に射抜かれて、山崎の顔はかすかに赤らんだ。


それは、告白に似ていて、けれど“欲”を含まない言葉だった。

だからこそ、息がこぼれた。


——風がまた、ふたりの間をすり抜けてゆく。

春はすぐそこにあった。



彼女が「千夜」という名を口にしたとき、

胸の奥に、重く沈めていたはずの記憶が、

ざぶりと音を立てて蘇る。


——五年前。

少女を失ったあの日、山崎烝は、命を断とうとした。


春を迎える直前の、冷たい川だった。

ひとりで生き残ることなど、意味がないと思った。主も、家も、居場所も、すべて喪った少年は、ただ、すべてを終わらせたくて、川に身を投げた。


だが、目が覚めたとき、そこには、冷たい床と……怒鳴り声。


「馬鹿野郎が、死にたきゃ勝手に野垂れ死ね。けど他人様の手間をかけてから死ぬんじゃねえ」


その声の主は、土方歳三だった。


「生きてるってことは、何か、まだやれるってことだ」


あの男の真っ直ぐな瞳に、救われた気がした。そのまま、試衛館に身を寄せた。


名前は言わなかった。

過去も語らなかった。

語ることなど、何もないと思っていた。

語ればきっと——壊れてしまうと思っていたから。


刀を握り、黙って剣を振った。

その日を、その次の日を、生き延びることだけを考えて。


けれど、どんなに笑っても、どんなに騒いでも、夢の中には、いつだって“ちぃ”がいた。


白い肌、桜色の髪、透き通る声。

どれも、時間と共に薄れていくと思っていたのに、記憶は、かえって濃く、深くなっていった。


——そして、五年が過ぎた。


まさか、また出会えるなんて。

それも、“椿”という新たな名を持って、目の前にいるなんて。


今、彼女は言う。


「私は、烝が側に居てくれたらそれで良い」


その言葉が、あの五年の痛みを優しく抱きしめたような気がして——

目の奥が、じんと熱を帯びた。


「……ちぃ、おまえ、なんやねん、ほんま……」


己の心が、かつて川の底に沈めたままだと思っていたのに。またこうして、息をしている。


ふたりの間を風が通り過ぎる。

あの春と同じ風。けれど、今は——少しだけ、温かい。

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