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第4話

陽は傾き、京の空に茜が滲み始める頃。

静かな座敷に、椿はひとり膝を抱えていた。


ふいに、障子の隙間から差し込む光が、彼女の顔を淡く照らす。

山崎が廊下を通りかかり、ふと足を止めた。


「……丞」


呼ばれたのは彼の名だったが、その声はいつもの椿のものではなかった。


「……あのひとが、泣いている。」


「……ん?」


「天の御子の妹が、都を出る。中山道を越えて……江戸へ」


静かに、確かに椿は言った。

彼女の瞳は遠くを見ていた。今この世ではない、どこかを。


その声に、部屋の空気が止まる。


「和の宮。徳川へ嫁ぐ……これは、争いを止めるための婚姻。誰にも選ばせてもらえず、ただ命じられたままに」


その声音はあまりに澄んで、あまりに冷たい。

山崎は息をのんだ。鳥肌が、ひとすじ、背を這い上がる。


……静寂が、落ちた。

まるで時が止まったように、そこにいた者たちは誰一人、声を発せなかった。


椿はまだ、座敷の中央で膝を折ったまま、どこかを見ていた。焦点の合わない瞳。唇からは、もうなにも零れない。


けれど──その髪が、風もない空間でふわりと揺れる。月光を受けたように淡く輝いていた桜色が、静かに、静かに黒へと沈んでいく。


指先から、背へ、梳かれるように。

まるで何かを失うように。

彼女の中から神が去るたびに、黒髪がひと房ずつ戻っていく。


まぶたがゆるりと伏せられ、長い睫毛が影を落とした。やがて、完全に色を戻した髪が、闇に溶けるように静まり返る。


「……っ、ちぃ」


駆け寄った山崎が、肩を抱く。

その腕の中で、椿は小さく瞬きをして──まるで夢から醒めたように、彼を見上げた。


「……なに? わたし、寝てた?」


「……いや、何も、ない。ちょっと、眩しかっただけや」


ごまかすように笑いながら、山崎は彼女を抱き寄せる。胸の奥では、まだ余韻のような鼓動がざわめいていた。

 “桜色の巫女”。

その神秘が、たしかに目の前で息をしていた。──たとえ、彼女が何も覚えていなかったとしても。



囲炉裏を囲むようにして座る若い隊士たちの間で、低くくぐもった声が交わされる。火の揺れが彼らの顔に赤い影を落とす。


「この前や。奥の廊下歩いとったら、急に髪の色が……ほんの一瞬や、桜みたいな色に見えたんや。ほんまに、見間違いやなかった」


「おいおい、それはさすがに……」


「冗談ちゃう。ほんまにや。背筋が凍ったわ」


ひとりが茶碗を置き、腕を組む。


そう誰かが口にした、その瞬間だった。


──ぴたり、と廊下の空気が張りつめた。


畳を踏む音。音もなく滑るように、木の床を進む気配。

戸口の影に立っていたのは、いつの間にかそこにいた山崎烝だった。


ふだんは感情をほとんど見せぬその男の目が、今だけは明らかに怒りを宿していた。


「……よう喋るな、お前ら」


その低く抑えた声音に、囲炉裏を囲んでいた隊士たちが、一斉に息をのむ。


「見た目や噂で、人を神だの化けもんだの言うんは……武士のすることか?」


山崎の声は冷たくはない。だが、怖かった。

まっすぐに見据えたその瞳に、数人が思わず目を逸らす。


「知らんことが怖いんやったら、まず訊け。話せ。……それができんやつに、人を斬る資格なんて、ないやろ」


睨むというよりは、見据えるように。

まるで言葉の奥に、もっと深い悲しみがあるようだった。


「椿は……ただの娘や。飯食うて、笑うて、たまに泣いて、猫に好かれて。ああ見えて、怖がりで、人に嫌われるのが怖くてしゃあない子や」


誰も返す言葉がなかった。


「ほな、失礼するわ」


音もなく踵を返すと、山崎はそのまま廊下を去っていった。

残された者たちはただ、囲炉裏の火が弾ける音だけを聞いていた。



————


深夜。漆に塗られた机の上に、散らばるようにして広げられた書状と報告書。

その中央で、徳川慶喜はひとり、眉間に皺を寄せて座していた。


障子の向こうでは、遠くで猫の鳴く声がする。灯の明かりに照らされた横顔は、幼き頃の面影を残しながらも、もはや「将軍の器」を量られる男のそれであった。


彼の前にあるのは、上野の辻を駆けた「噂」の数々。白い巫女。雷の音。桜の髪。そして若い従者に抱かれていたという目撃談。


 「……くだらぬ。」


 ぴし、と報告書が指の間で折れた。


「神がかりだの、死神だの……そんなものに怯える幕臣がいるとはな」


吐き捨てるような声。だが、それでも目を離すことができない。椿が口にした予言──「和宮、徳川へ嫁ぐ」。それが事実となれば、公武合体に動く朝廷と幕府の駆け引きは、確かに急速に進む。


まだ公にはされていない計画を、なぜ妹が知る?


「……山崎が言っていたな。予言のあと、髪が黒に戻ったと」


その意味がわからない。ただの奇病なのか、巫女の血の現象なのか。

 ──いや、それ以前に、椿が己の過去も忘れているのだ。どうして未来のことなど口にできようか。


 「やはり……お前は、神に近すぎる」


呟くように椿を思う。

妹でありながら、巫女としての血を持つ存在。天海でさえ「あの子は特別だ」と言った。


だからこそ、ただの妹として側に置けない。政に巻き込まねば、守れぬ。だが政に関わらせれば……いずれは人の恨みを買う。


「椿……お前は、願わずして“鍵”になってしまうのだな」


 その言葉に答える者はいない。


ふと風が吹いた。障子の隙間から入り込んだ風が、机の上の一枚の報告書をめくる。そこにあったのは、江戸の絵草紙屋から送られてきたもの──


《桜の中に立つ白き巫女と、従者の絵》


「……見世物か」


ぐしゃりと握りつぶしたその紙を、燭台の火に放り込む。紙は一瞬、赤く燃え上がり、やがて跡形もなく灰となった。


慶喜の視線がその火の奥に落ちる。


その眼には、確かな焦燥と──

それを誰にも悟られまいとする、孤独な兄の色があった。



————

———


予言の後、椿の記憶は途切れたままだった。彼女が見たもの、口にした言葉、それらはすべて深い霧に包まれていた。


そして、あの朝——

誰かがうっかり置き忘れた小さな手鏡が、障子越しの光を弾いていた。


椿がそれを拾い、じっと覗き込んだとき、

山崎は廊下の影から、それを見てしまった。


黒い髪。

夜を溶かしたような、深い黒。毛先は何処か桜色を残していた。


椿は驚きも恐れも見せず、ただ鏡の中の自分に首を傾げた。それだけだった。


「……黒い」


何気ない声。


だが、その瞬間——

山崎の胸に、刃物のような痛みが走った。

一体、どこから来た痛みなのか分からなかった。懐かしさに似ていた。喪失にも似ていた。


けれど、確かにそれは、心の奥をぐっと締めつけるものだった。


あの、花の色をした少女。

陽に透けたような髪で、笑っていた椿。

その姿は、もう——


椿が、ふとこちらを振り向いた。


「……烝の髪の色と一緒だね」


柔らかな声。

それはただの感想で、何の含みもない。

けれど山崎には、まるで魂の奥底を覗かれたような気がした。


同じ色になった。それだけのこと。

ただそれだけで、どうしてこんなに、胸が苦しくなるのか。


「せやな……」


それ以上、言葉は続かなかった。


何かが変わった。

彼女の中で、静かに。確かに。

そして山崎は、それをどうすることもできなかった。


ただ、心の中でひとつ、決意が強くなるのを感じていた。


——何があっても、見届けなあかん。

この黒が、どんな夜を引き連れてきても。


自分の髪と、彼女の髪が、同じ色になったのなら。それは、運命の呪いやなくて、きっと——


「覚悟」なんやろ。



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