陽は傾き、京の空に茜が滲み始める頃。
静かな座敷に、椿はひとり膝を抱えていた。
ふいに、障子の隙間から差し込む光が、彼女の顔を淡く照らす。
山崎が廊下を通りかかり、ふと足を止めた。
「……丞」
呼ばれたのは彼の名だったが、その声はいつもの椿のものではなかった。
「……あのひとが、泣いている。」
「……ん?」
「天の御子の妹が、都を出る。中山道を越えて……江戸へ」
静かに、確かに椿は言った。
彼女の瞳は遠くを見ていた。今この世ではない、どこかを。
その声に、部屋の空気が止まる。
「和の宮。徳川へ嫁ぐ……これは、争いを止めるための婚姻。誰にも選ばせてもらえず、ただ命じられたままに」
その声音はあまりに澄んで、あまりに冷たい。
山崎は息をのんだ。鳥肌が、ひとすじ、背を這い上がる。
……静寂が、落ちた。
まるで時が止まったように、そこにいた者たちは誰一人、声を発せなかった。
椿はまだ、座敷の中央で膝を折ったまま、どこかを見ていた。焦点の合わない瞳。唇からは、もうなにも零れない。
けれど──その髪が、風もない空間でふわりと揺れる。月光を受けたように淡く輝いていた桜色が、静かに、静かに黒へと沈んでいく。
指先から、背へ、梳かれるように。
まるで何かを失うように。
彼女の中から神が去るたびに、黒髪がひと房ずつ戻っていく。
まぶたがゆるりと伏せられ、長い睫毛が影を落とした。やがて、完全に色を戻した髪が、闇に溶けるように静まり返る。
「……っ、ちぃ」
駆け寄った山崎が、肩を抱く。
その腕の中で、椿は小さく瞬きをして──まるで夢から醒めたように、彼を見上げた。
「……なに? わたし、寝てた?」
「……いや、何も、ない。ちょっと、眩しかっただけや」
ごまかすように笑いながら、山崎は彼女を抱き寄せる。胸の奥では、まだ余韻のような鼓動がざわめいていた。
“桜色の巫女”。
その神秘が、たしかに目の前で息をしていた。──たとえ、彼女が何も覚えていなかったとしても。
囲炉裏を囲むようにして座る若い隊士たちの間で、低くくぐもった声が交わされる。火の揺れが彼らの顔に赤い影を落とす。
「この前や。奥の廊下歩いとったら、急に髪の色が……ほんの一瞬や、桜みたいな色に見えたんや。ほんまに、見間違いやなかった」
「おいおい、それはさすがに……」
「冗談ちゃう。ほんまにや。背筋が凍ったわ」
ひとりが茶碗を置き、腕を組む。
そう誰かが口にした、その瞬間だった。
──ぴたり、と廊下の空気が張りつめた。
畳を踏む音。音もなく滑るように、木の床を進む気配。
戸口の影に立っていたのは、いつの間にかそこにいた山崎烝だった。
ふだんは感情をほとんど見せぬその男の目が、今だけは明らかに怒りを宿していた。
「……よう喋るな、お前ら」
その低く抑えた声音に、囲炉裏を囲んでいた隊士たちが、一斉に息をのむ。
「見た目や噂で、人を神だの化けもんだの言うんは……武士のすることか?」
山崎の声は冷たくはない。だが、怖かった。
まっすぐに見据えたその瞳に、数人が思わず目を逸らす。
「知らんことが怖いんやったら、まず訊け。話せ。……それができんやつに、人を斬る資格なんて、ないやろ」
睨むというよりは、見据えるように。
まるで言葉の奥に、もっと深い悲しみがあるようだった。
「椿は……ただの娘や。飯食うて、笑うて、たまに泣いて、猫に好かれて。ああ見えて、怖がりで、人に嫌われるのが怖くてしゃあない子や」
誰も返す言葉がなかった。
「ほな、失礼するわ」
音もなく踵を返すと、山崎はそのまま廊下を去っていった。
残された者たちはただ、囲炉裏の火が弾ける音だけを聞いていた。
————
深夜。漆に塗られた机の上に、散らばるようにして広げられた書状と報告書。
その中央で、徳川慶喜はひとり、眉間に皺を寄せて座していた。
障子の向こうでは、遠くで猫の鳴く声がする。灯の明かりに照らされた横顔は、幼き頃の面影を残しながらも、もはや「将軍の器」を量られる男のそれであった。
彼の前にあるのは、上野の辻を駆けた「噂」の数々。白い巫女。雷の音。桜の髪。そして若い従者に抱かれていたという目撃談。
「……くだらぬ。」
ぴし、と報告書が指の間で折れた。
「神がかりだの、死神だの……そんなものに怯える幕臣がいるとはな」
吐き捨てるような声。だが、それでも目を離すことができない。椿が口にした予言──「和宮、徳川へ嫁ぐ」。それが事実となれば、公武合体に動く朝廷と幕府の駆け引きは、確かに急速に進む。
まだ公にはされていない計画を、なぜ妹が知る?
「……山崎が言っていたな。予言のあと、髪が黒に戻ったと」
その意味がわからない。ただの奇病なのか、巫女の血の現象なのか。
──いや、それ以前に、椿が己の過去も忘れているのだ。どうして未来のことなど口にできようか。
「やはり……お前は、神に近すぎる」
呟くように椿を思う。
妹でありながら、巫女としての血を持つ存在。天海でさえ「あの子は特別だ」と言った。
だからこそ、ただの妹として側に置けない。政に巻き込まねば、守れぬ。だが政に関わらせれば……いずれは人の恨みを買う。
「椿……お前は、願わずして“鍵”になってしまうのだな」
その言葉に答える者はいない。
ふと風が吹いた。障子の隙間から入り込んだ風が、机の上の一枚の報告書をめくる。そこにあったのは、江戸の絵草紙屋から送られてきたもの──
《桜の中に立つ白き巫女と、従者の絵》
「……見世物か」
ぐしゃりと握りつぶしたその紙を、燭台の火に放り込む。紙は一瞬、赤く燃え上がり、やがて跡形もなく灰となった。
慶喜の視線がその火の奥に落ちる。
その眼には、確かな焦燥と──
それを誰にも悟られまいとする、孤独な兄の色があった。
————
———
予言の後、椿の記憶は途切れたままだった。彼女が見たもの、口にした言葉、それらはすべて深い霧に包まれていた。
そして、あの朝——
誰かがうっかり置き忘れた小さな手鏡が、障子越しの光を弾いていた。
椿がそれを拾い、じっと覗き込んだとき、
山崎は廊下の影から、それを見てしまった。
黒い髪。
夜を溶かしたような、深い黒。毛先は何処か桜色を残していた。
椿は驚きも恐れも見せず、ただ鏡の中の自分に首を傾げた。それだけだった。
「……黒い」
何気ない声。
だが、その瞬間——
山崎の胸に、刃物のような痛みが走った。
一体、どこから来た痛みなのか分からなかった。懐かしさに似ていた。喪失にも似ていた。
けれど、確かにそれは、心の奥をぐっと締めつけるものだった。
あの、花の色をした少女。
陽に透けたような髪で、笑っていた椿。
その姿は、もう——
椿が、ふとこちらを振り向いた。
「……烝の髪の色と一緒だね」
柔らかな声。
それはただの感想で、何の含みもない。
けれど山崎には、まるで魂の奥底を覗かれたような気がした。
同じ色になった。それだけのこと。
ただそれだけで、どうしてこんなに、胸が苦しくなるのか。
「せやな……」
それ以上、言葉は続かなかった。
何かが変わった。
彼女の中で、静かに。確かに。
そして山崎は、それをどうすることもできなかった。
ただ、心の中でひとつ、決意が強くなるのを感じていた。
——何があっても、見届けなあかん。
この黒が、どんな夜を引き連れてきても。
自分の髪と、彼女の髪が、同じ色になったのなら。それは、運命の呪いやなくて、きっと——
「覚悟」なんやろ。