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第3話

「思い出した事は、兄の名と従者の名だけ。」


他の事は、闇の中。自分の名は、皆がそう呼ぶから椿である事は確かだが、手がかりも何もないままにぼんやりと剣術をする家臣らを見つめていく。


一気盛んな男達が汗を流し、稽古に励む姿。


過去を思い出そうと必死になって、過去を聞き出した事で山崎を傷つけた。悲しみの表情をさせたのは、自分。


「————過去は、過去。」


死者は、蘇らないし、

過去には戻れない。無いものねだりをしても、無いものに縋りついても意味を見出せない。


思い出せない事に囚われて、人を傷つけるなら、自分に過去は必要ない。そう思った。ほんの数日、過去の事しか考え無かった。陰鬱な気持ちであった。


「————誰が死んでも日は昇る。」


空を見上げれば、心の中にあるモヤモヤとした物は晴れる事は無いが、気分は良かった。下を向いて居たら勿体無い。


一つずつ、これからの自分を拾い集めていけばいい。


自分の身分は、どうやら姫らしいが、そんな事はどうでもいい。男達が汗を流し稽古する姿に自分もやりたい気持ちが芽生えた。


ただ、それだけの事。


置き去りにされた数本の木刀に吸い込まれる様に足が動き、木刀を持つと、それはとても軽く感じ、ただ片手で振ってみるも、なんだかしっくりこない。


「ちぃ?何しとん?木刀なん持って。」


朝餉を運んできたらしい山崎に見つかってしまった。


「見てたらやりたくなった。」


そう返事をすれば、呆れた表情の山崎が部屋の中にお膳を置いた。


「ちぃ。お淑やかな遊びならまだしも、剣術は…」


姫である彼女が木刀を持つのはいかがなものかと山崎は思った。だが、


「烝にお淑やかは似合わないでしょ?」


そう返されて押し黙る。


「……。俺やないやろ?」


今話しているのは山崎の事ではない。


「だって一緒にやりたい。」


差し出された木刀をジッと見つめた山崎は、深く息を吐き出していく。そんなお願いをされたら、嫌でも何でも聞きたくなる。木刀を受け取り中庭へと足を向けた。


「で、どないすんねん。」


木刀を受け取りながら山崎は、どうするのか聞いてくる。


「実戦方式で一本勝負。」


桜の花すら分からなかった女の言葉に息を呑む。身の危険を感じた。


「分かった。一礼したら開始や。いいな?」


「うん。分かった。」


向かい合って立つ二人は、一礼した。

そして直ぐに山崎が足を踏み込んだ。不思議な事に恐怖心なんてモノはなく、直ぐに木刀で受け止める。


ガガッ


その場に響く木刀の重なる音。

それが妙に懐かしく、そして相手の次の一打がハッキリと見える。


相手の動きも太刀筋も全てが見えるのだ。


(——なんだろう、楽しい。これ……)


相手の木刀を交わしながら、そんな事を思う自分が居る。木刀を振り下ろした瞬間、


「————辞めっ!!」


その声に身体が停止した。

それは山崎も同様であった。


息が上がりながら、声を上げた男は、鬼の形相で、ゆっくりと木刀が下ろされていく。


「しちにぃ。」


いつもと変わらない彼女であるも、山崎は手を震わせていた。たった少し手合わせをしただけ。息が上がり、一種の興奮状態に陥った。こんな事は初めてだった。


コレが刀であったなら、自分は間違いなく斬られていた。そんな身の危険すら感じながら木刀を片付けていく。


自分の知らぬ彼女の一面を垣間見、先日まで信じもしなった筈なのに、今は失いたくない衝動に駆られている。勝手だとは思う。ただの身代わりと思い、触れる事も近く事もしなかった。だが蓋を開けてしまえば、失った彼女に重ねる自分が居た。


朝餉の前に慶喜に叱られ、冷めてしまった飯を食べた。その日も椿は飯を残すも、昨日より減ったソレに少し安堵した。


沢山の着物の中から桜柄の着物を選ぶ彼女は、暇なのか慶喜のくれた書物を読む。時折、漢字の読み方を聞かれた山崎は、覗き込みながら読み方を教えるが、いつしか山崎を椅子にし、一冊、二冊と読み終えてく書物。部屋にあった書物を全て読み終え、


「————ねぇ。烝。」


「なんや?」


「今って、何年何月?」


「文久元年の四月や。」


ぼんやりとそれを聞き、ゆっくりと書物が畳みへと落ちていく。腕もだらりと下がり、


「ちぃ?」

返事すらない彼女から力が抜け、寝息が聞こえ山崎は息を吐き出していく。


「なんや。寝ただけか。」


支える身体は、華奢であるも成長した彼女を抱き上げ、並べた座布団へと下ろしていった。




文久元年四月。江戸の空を、異国船が通り過ぎ、天に鳴らぬ雷が走った。

その雷が地を震わせた三日後、白い巫女が若い従者に抱かれていた。という目撃談が、上野の辻を駆け抜けた。


それは、空耳か幻か。

だが、その話を口にした者の家が次々に怪我人を出すようになり、やがて噂は変質する。


「その女は“死神”の使いだ」

「否、“先詠みの神子”が再び顕れたのだ」


そして、その噂は川を渡り、道を越えて──

水戸藩へと沈んだ。


水戸に巫女の血があることを知る者だけが、その名前に顔を青くする。



春の陽気が肌を撫でる昼下がり。

山崎は袖を軽くまくり上げ、町の辻に立つ茶屋の縁台で煙管をふかしていた。


「……また少し増えとるやないか。」


目の前を通り過ぎる子どもたちが、薄い絵草紙をひらひらと振り回して笑っている。

その絵には、桜の中に佇む少女が描かれ、傍らには刀を携えた若侍。

「先詠みの巫女と、その従者」と書き添えられた文字が、山崎の目に嫌でも入ってくる。


一服、煙をくゆらせる。


「よぅ出来とるわ……くだらんな。」


灰を落としながらそう呟くも、目は絵草紙の輪郭から離れない。

妙に写実的なその絵──どこで見たのか、どうして知ってるのか。

あれほど隠れていたはずの椿の姿が、今や江戸中の口の端に上る伝説となっていた。


「お客さん、あれ見ました? 巫女様の話、ほんとにあるんですって。上野山のあたりに神隠しにあった娘がいたらしいですよ」


隣の席で茶を飲んでいた町娘が、連れの女に興奮気味に囁く。

山崎は何も言わず、煙をふかす。

少し強めに吸い込んだ煙が喉の奥を灼き、目頭が熱くなる。


「巫女様ねぇ……。あんたらにとっちゃ、いい見世物やろな。」


誰に言うでもなく呟いた声が、煙と一緒に風にさらわれていく。


彼女は、そんな軽々しいもんやない。

人を救って、人に憎まれて、それでもなお……誰よりも、前を見ようとしとる。

それを──

絵にして売り物にして、笑い話にするだなんて。


「くだらん話を、くだらん奴らが……。」


煙管の灰を軽く払い、立ち上がる。

次の瞬間、傍にいた子どもが絵草紙を落とした。

拾い上げて一瞥する。やはり、椿にそっくりだった。


山崎は、その絵を手の中でゆっくり折りたたみ、茶屋の炭壺に落とすと、何事もなかったように踵を返した。


「……神様やあらへん。あれは、"ちぃ"や。」


口の中に残る苦い煙の味が、やけに現実味を帯びていた。



町の噂とは、実にいい加減なものだ。


誰かが言った何気ない一言が、翌日には尾ひれがつき、そのまた翌日にはまるで別物となって路地裏を駆け抜けていく。


「巫女様が天に語りかけた」

「その姿はまばゆい白に包まれ、後ろに蝶が舞っていた」

「いや、あれは死んだ女の亡霊だ。傍にいた若侍は呪われているらしい」


巷で囁かれる話は、時に艶めかしく、時に恐ろしく、そしていつしか信仰に似た何かへと変質していく。


辻に集う女たちは、春の着物をひらりとはためかせながら、茶屋の席に腰を落ち着け、団子をつまみつつ、誰よりも早く“真実”に触れた者であるかのように語る。


「見たの、私。あの女の子、確かに空に祈ってたのよ」

「ふふ、見たの? でも本当に祈ってたのは、あんたの目ぇじゃない?」


笑い声が響く。軽薄で、無邪気な、それでいて残酷な音。


山崎は、路地の陰からその様子を静かに見つめていた。煙草はもう吸い尽くし、煙管は懐に仕舞った。


(“先詠みの神子”……)


誰が言い出したのか、その名が、また人々の記憶の奥をざわつかせ始めている。


最初に噂を耳にした時、山崎は吐き気を覚えた。


椿は神子などではない。

あれは――傷ついた、ただの女の子だ。

名も忘れ、家も過去も奪われ、それでも前を向こうと足掻くひとりの命だ。


だが、町の者たちにとって“巫女様”は、もう現実の存在ではなかった。それはまるで、怪談の登場人物。祈りと呪い、陰陽と天命を背負わされた、人ならざる何か。


そしてその隣に描かれた“若き従者”という存在もまた、滑稽なまでに理想化され、架空の英雄へと仕立て上げられていた。


──俺は、ただの山崎烝や。


彼女を守ると決めたのは、自分のためだ。

償いのようで、贖罪のようで、それでも誰よりも生きていてほしいと思った。

その想いが、気づけば名を与えられ、姿を歪められていく。


「神の使いでも、白き巫女でも……なんとでも言え」


ぼそりと吐き捨て、山崎は町の雑踏に紛れるように歩き出した。顔を上げれば、空には雲ひとつなく、陽はじりじりと首筋を照らしている。


ふと、遠くで笑い声が上がった。

子どもたちが追いかけっこをしながら、叫ぶ。


「神子様の蝶が来たぞ!」

「やーい、呪われるぞー!」


山崎の足が止まる。


その声に、思わず空を見上げた。

一匹、赤い蝶が舞っていた。春の風に流され、気まぐれに。


──ただの蝶や。どこにでもおる、ただの。


そう言い聞かせながらも、喉の奥に引っかかる言葉があった。


あの夜、椿が月の下で見上げていた空。

木刀を持ち、笑っていた顔。

書物を読みながら、名前を聞いてくれた声。


(……どれか一つでも、あの子の記憶に残っとるんやろか)


残っていなくてもいい。

忘れていてもいい。

ただ、もう二度と、あのときのように「名も知らん子」として消えてしまわないでくれ。


それだけが、今の山崎にとっての、唯一の願いだった。

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