彼女は、
————ただの身代わり。
自分の中にあるのは、そんな人情のカケラも無い言葉だけ。
守れなかった椿の最後を思い出す。
雨に打たれ、冷たくなった身体は、着物を着ることすら許されず、まるで人形の様で、その頬は、すでに赤みさえ消え失せ、殴られ腫れて居た。
彼女の太腿に流れる赤と、胸元に咲く、
付けられたくもなかったであろう赤い華。
力が抜けた身体は、どんなに呼びかけても、どんなに身体を揺すっても、もう二度と動いてはくれなかった。
「遺体を連れ帰れなかったのは、彼女には帰るべき場所が他にあったからだ。」
連れ帰れない無念さ。身体を清め、自分の手で葬いたかった。それすらままならず、山崎は、その場に『ちぃ』の屍を置いて立ち去る事しか出来なかった。
彼女と共に生きた仲間達の場所へ、彼女の遺体は、引き取られた————
自分の手に残ったモノなど、後悔の念だけで、陰ながら彼女を守って居た事実など、何の役にも立たず、共に生き、共に笑い、共に泣いた。あの穏やか過ぎる時は、二度と戻っては来ない————。
そう、二度と。
死者は、蘇る事など無い。絶対に。
女中の話しなど信じては居なかった。無論、彼女が椿だという事すら信じていなかった。他人の空似。遺体を目の当たりにした山崎は、あの悲しい光景を覆す事が困難であった。
なのに、己は、
彼女に消えて欲しくはない。矛盾した想いを持っていた。
慶喜と共に桜色の髪の女の元へと足を運ぶ。彼は、自分の妹だと確信している様子で、着物や書物を彼女に贈って部屋には、モノが溢れるも、彼女が着る着物はいつも同じ。
「————桜の着物が好きなのかい?」
ゆっくりと視線を向ければ、碧瞳がこちらを映す。
「さくら…。」
足を動かす慶喜は、彼女のすぐそばまで行き膝を突いた。着物の柄を指差してコレが桜だと告げていく。
「桜は好き。」
「そうか。他に好きなものがあるか?」
彼は、会えなかった年数を埋める様に彼女に接していくも、ゆるりと首を横に振った女に息を小さく吐いていく。
此処に彼女が連れてこられて十日目。
それでもよく話す様になった方で、怯えた視線を向けなくなっただけ、進歩はしたのだ。
彼女には記憶が無い。自分の事すら分からない。どう生き、誰と共にいたのかも。
いつもは、山崎は、その様子を見ているだけで、近づいたりはしなかった。
食べ残した御膳に、山崎は口を開いたのだ。いつもの癖で…
「————ちぃ。全然食うてへんやん。」
その呼び名には、聞き覚えがあった。椿なんて名前よりも日常的にそう呼ばれていた気がする。
「どうした?」
覗き込む様に訊ねた慶喜と視線が合い、
「私、貴方の事、しちにぃって呼んでた?」
もう十年も前に彼女が呼んでた呼び名を聞いてくる。
「あぁ。そう呼んでいた。」
慶喜の目は辺りがぼやけてしまうほど潤んでいた。
満天の星空の下、彼女は祈る。
何を祈るのか分からぬまま山崎は、それが終わるのを待つだけ。部屋に帰ればそれでいい。帰らねば連れ戻すだけ。
「君は、どうしていつも、そんなに悲しそうな目をするの?」
そう言った後、女の視線は、山崎に向けられていく。
話す事など無い。ただの身代わり。
「早よう部屋に戻りぃ。」
吐き捨てる様に言い放つ彼は、心が闇に侵食され元からあった優しさのカケラさえも見つけられない。
「君にとって私は、誰かの身代わりでも、私は違う。」
目の前の男が此処に連れてきてくれなければ、記憶すら無い自分は、生きていく事すら困難を極めた。温かいご飯が食べられて、温かな布団で眠られる。
目的が何であっても命の恩人である事に変わりはない。
深く息を吐き出し、女の腕を引いていく。
向かうは彼女の部屋だ。
乱暴に部屋に押し入れ、襖を閉める。
布団へと倒れた女が、自分が知る子だと信じてはいけない。そう言い聞かせるのに、何もかもが思い出の中の彼女と同じで、動揺を隠せない。
倒れたまま天井を見上げる女は、起き上がる素振りも見せない。
「君も、腹の傷が見たいの?」
少女の視線は天井を見つめたまま。
まるで、傷を見せることすら他人事のようだった。
「簡単じゃない。
————私を…抱けばいい。」
そうすれば、傷は見られる。
己の目で確認した事しか信じない。
なのに、躊躇う自分がいる。
それは、目の前の女が彼女であったなら傷つけてしまう。信じてはいない筈なのに、
身動きしない女の腰紐を引いたのは、随分時間が経ってからで、邪魔な着物を開いていく。一糸纏わぬ姿が行灯の明かりに照らし出され、男の喉が上下する。
男の目的は腹の傷である。腰巻きに手をかけた。そこには何も無い。そう信じていた。
(ある筈がない。ただの他人の空似や。)
だが、そこにはしっかりと傷があり、
「……ホンマに…」
侍女が言う様に本当に傷があった。
なかった事にしようと着物を直すも、自分がやった事が消える筈もない。
「ホンマにちぃ…?」
千夜と同じ傷などある筈がない。
天井を見上げる瞳は、碧く綺麗な瞳なのに、光すら宿らない。
彼女の記憶は、欠落している。
それなのに名を確認した山崎は、慌てた様に腰紐を巻き直した。
男に暴力を振るわれた事は、見つけた時に分かっていた。家臣らが近づくだけでも、彼女は、手を震わせた。その彼女に自分は、取り返しのつかない事をしてしまった。
「————気が済んだ?烝。」
自分の名を呼ばれた事は、目が覚めてから今まで一度も無かった。山崎の目から涙が溢れ落ちる。
「教えてほしいの。
貴方が失った少女がどう生きて、どう死んでしまったのか。
————私の失った記憶かも知れないから。」
彼にとって話す事は、苦しい事であろう。
しかし、何も思い出せない以上、誰かに聞くしかない。だが、此処には少女は居なかった事が確かで、聞く人は彼以外適任者を見つけられなかった。
彼は、話してくれた。
桜色の髪の少女の生きた軌跡を…。
彼の話しでは自分は、ある人物に助けられ違う場所で生き、試衛館という道場で剣術をしていた。14の時に男に襲われ河川敷で亡くなった。彼女は、道場の仲間の手によって埋葬された。
ならば、一部同じ記憶を持つ自分は、何であろうか。
感情だけが少女と同化した様に涙が流れるも、記憶を呼び起こすきっかけにもならず、息を吐き出していく。
「————ありがとう。話してくれて。」
それは、記憶を呼び起こしてはくれなかったが、一つハッキリした事は、亡くなった少女は、自分では無い。それだけで、鼻を啜る音に半身を起こしていく。
頬を濡らす男に腕を伸ばした。
「ごめん。烝。何も思い出せなかった。」
せっかく話してくれたのに。ごめんね。
己を抱きしめる女は、自分に謝罪を述べていく。謝るのは寧ろ自分の方であるのに。
彼は、口にした。
「もう、俺の前から居なくならんといて————。」
少女は、ただ黙って彼の背に腕を回した。
その腕の温もりに、ようやく彼の心が少しずつ溶けていく。
それが、椿であるかどうかはもう関係ない。
生きていて、ここにいてくれる——それだけで、今は十分だった。
彼女は、ゆっくりと身の回りの事を覚えていった。
初めは、着物の着方すら分からなかった。左右を逆に羽織ろうとして侍女に止められ、腰紐の締め方もゆるく、歩けばすぐにほどけてしまう。筆を持っても、墨をうまく含ませられず、紙に落ちるのはかすれた線ばかり。箸を握っても手元がおぼつかず、豆一つ持ち上げるのに、いちいちため息をついていた。
年齢からすれば当たり前にできる筈の所作が、まるで初めて生きているかのように拙く、見ている者の胸を締めつけた。
——記憶が無いというのは、これほどまでに人を脆くするのか。
それでも彼女は、決して弱音を吐かなかった。
つまらない失敗にも唇を噛み、着物がずれても表情を変えず、筆が踊っても黙々と紙を替えた。焦りや悔しさは滲ませながらも、泣き言一つ言わず、ただ黙って生きる手続きを覚えていった。
そんな彼女の姿を、山崎は遠くから見つめていた。
家臣の中には、陰口を叩く者もいた。
「お飾りの姫様やと?ただの出来損ないやろう」
「記憶が無いんか、最初からアホなんか知らんが……なんであないな女が屋敷に?」
言葉は次第に悪化し、耳を塞ぎたくなるような酷い噂さえも立ちはじめた。
だが、彼女はそれを知らないのか、あるいは聞こえても聞こえぬふりをしているのか、一切反応を見せなかった。
ある日、いつものように早朝から座敷で文字の練習をしていた彼女の元へ、山崎が姿を見せた。
「……何してんねん、こんな朝っぱらから」
手に持っていた巻物を後ろ手に隠し、彼女は少しだけ視線を逸らした。
「字……が、下手だから。烝に……笑われたく、ないから」
その声には幼さが残っていた。まるで、今やっと喋ることを許された少女のようで、山崎の胸にわずかな痛みが走った。
「誰が笑うかいな。……ちぃは、ちぃのままでええんや」
その言葉に、彼女はほんの少しだけ笑った。
その微笑みはまるで、過去の少女がふと顔を覗かせたようで、山崎は胸の奥を掴まれたような感覚に陥る。
彼女は確かに記憶を失っていた。けれど、心のどこかには残っている何かがある。
手の動かし方、言葉の選び方、表情の隅々に、かつての「ちぃ」が、確かに生きていた。
そして、山崎はその「今」を、ようやく受け入れようとしていた。
ただの身代わりではなく。
ただの誰かではなく。
彼女は——彼の手の中で、再び生きている。
そして彼もまた、彼女と共に「新しい今日」を生きていく準備を始めていた。
——あの日失われた時は、もう戻らないけれど。
それでも、彼女が目の前で生きている限り、救われる心が、確かにあった。