目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第三話 マナ

 イーヴァという美しい名をもらった、その日の朝。


 お母さまから食事と、綺麗きれいな白いシャツに下着、そして黒いローブをあたえられた後、父が村を案内してくれた。


 マールの村は、本当に美しいところだった。


 周囲を森に囲まれ、空気がんでいてとても美味おいしい。遠くには高い山々が連なり、このマールの村をぐるっと囲んでいる。


 そして“マールのみずうみ”と名づけられたその広い湖は、透明度とうめいどがとても高く、魚釣さかなつりを楽しんでいる子供たちが可愛かわいい。

 笑顔えがおで小さく手をると、子供たちは一瞬いつしゆん、不思議そうな顔をしたけれど、すぐに大きな声と手振てぶりで応えてくれた。


 畑に行くと、私と同じくらいの男の子が数人と、その父親とおぼしき男性が土を耕していた。決して広いとは言いがたい農園だけれど、外界から隔絶かくぜつされているこの村では、村の人たちが助け合って生活しているのだろう。


 そんな畑で、一人の男の子が私に顔を向けて、目を見開いていた。


 同じ年頃としごろだろうか。亜麻色あまいろかみについた土がまるでかざりのようで、とても快活かいかつそうな男の子だった。


「ん? あれが気になるか。あれはドレンのところのエセルだな。としは十五歳だから、イーヴァと同じくらいじゃないか。この村にはイーヴァと同世代の若者が多い。これから少しずつ、仲良くしていけばいいだろう」


「はい、そうします」


 お父さまに言われて、私はエセルに目を細めて大きく手をる。

 するとエセルは身体をふるわせて尻餅しりもちをつき、そのまま仰向あおむけにたおれた。その姿がまるで硬直こうちよくしたかえるのようで、思わず笑ってしまった。


「とはいえ、イーヴァほど可愛かわいいおじようさんはここにはいないな。真紅しんくの髪と宝石のようなひとみに、とおるようなはだ。まるで彫像ちようぞう一緒いつしよに並んで歩いているようだ。わしまでほこらしくなってくるよ」


 はっはっは、と目を細めるお父さまに「そんなこと、ないです」と、顔を熱くして恐縮きようしゆくした。


「しかしイーヴァは、なにもかも忘れてしまっているんだろう?」


「……はい」


「では、今が双月暦そうげつれき、何年かもわからないのかな?」


「そうですね。何年なのでしょう?」


 ふむ、とお父さまは口髭くちひげを指でならして教えてくれた。


「今日は双月暦五一四年、五月十日だ」


「……ッ!!」


 その時。

 頭がずきんと痛み、その場にしゃがみんだ。


「どうした、大丈夫だいじょうぶか!?」


 お父さまが気遣きづかわしそうに、背中に手を置いてくれた。


「だ、大丈夫だいじょうぶです」


「そうか。具合ぐあいが悪くなったら、いつでも言うんだぞ」


「はい」


 安堵あんど溜息ためいきらす、お父さま。


 私は……うそをついた。

 双月暦、五一四年。その数字を耳にした時、ものすご違和感いわかんを覚えた。


 そして、お父さまも、ほかのだれにも見えていないようだけど、私にはっきりと見えていた。


 こんな昼でもまたたほたるのように輝いている、様々な色をした小さな光の玉が、あちこちに浮いているのだ。マールの湖では青色、そしてここでは土を象徴しようちようしている茶色だ。畑にいるから、かな?


「これは……マナ?」


「うん、なんだって?」


「あ、いえ、なんでもありません。ところでお父さま、市場はどこでしょうか? これから色んなお手伝いをしたいと思っておりますので、場所を知っておきたいのです」


「おお、それは殊勝しゆしような。市場はこっちだ」


 思わず口をついてしまって、あわてて誤魔化ごまかした。


(お父さまにはマナが見えてない? わからないのかな……あれ? そもそも私はなんで、あれがマナだと知っているんだろう?)


 困惑こんわくに困惑が重なり、市場の場所はなんとか覚えたけれど、それ以外のことは全く頭に入ってこなかった。


 日暮れの帰り道。

 お父さまの家は、村のおく、坂道がある場所の手前に建っていた。あの坂道の奥から降りてきて、お父さまとお母さまの家に保護されたんだっけ。


「お父さま。あの坂の先には、なにがあるんですか?」


 単純にそう思ったのでいただけだったけど、お父さまはむずかしそうな顔をして首をかしげた。


「さあなあ。なぜだか理由はわからんが、先代村長だった儂の父が、あの坂の上に行くことを固く禁じたのだ。だから、あの坂に行くものはだれもいない。無論、儂も知らないんだ」


「なるほど」


 では何故なぜ、私はそんなところにたおれていたんだろう。

 村を一回りさせてもらったけれど、本当に湖にでも落ちない限り、あそこまでずぶれになることはない。


 禁じられた坂道で、ずぶ濡れで倒れていた上に、記憶喪失きおくそうしつ

 自分のなぞは、深まるばかりだった。


 この日の夜。

 お父さまとお母さまから、マールの村の成り立ちを教えてもらった。


「先にも言ったが、この村は儂の父が引き連れていた商隊が、大都市カリーンから北東に進み、ラミナの街に到着とうちやくして、そこから誤って北上してしまい、運悪く“幻惑げんわくの森”に入ってしまったのがきっかけだったんだ」


「幻惑の森、ですか?」


「うむ」


 その時、お母さまがティーセットを持ってやってきた。


「この村に住んでいるのはみな、元はといえば義父の商隊にいた人たちなのよ。幻惑の森に入るとね、運が良ければけられるけれど、そうでなければずっと森の中を彷徨さまようか、入った場所にもどされるんだ。

 幻惑の森を抜けて、外界に抜けられなくなって、仕方がないからここで暮らそうってなった時に、道具も穀物の種も売るほどあったのが幸いしたのさ。なんたって、あたしらの義父は商品をたんまり積んだでたからね」


「これ、儂がイーヴァに話して聞かせようと思っていたところだったのに!」


「あらあら、それは失礼」


 お母さまはころころと笑い、お茶の準備をしてくれた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?