「幻惑の森がある限り、ここは外界から隔絶されている。時々、運良くここへ到達する旅人も現れるが、結局は外に帰れず、ここに住むことになっていった。そういうものたちからの情報で、儂らは外の情勢を把握している。もっとも幻惑の森以外からここにやってきたのは、イーヴァが初めてだけどな」
はっはっは、と笑うお父さまの前に、香り立つ湯気が踊るティーカップが置かれた。
「ではこの村は、自給自足なのですね?」
そう訊くと、お父さまは深く頷いた。
「ああ。幸い、ここにはなんでもある。肥えた土、魚が住まう湖、良質な木。麻も採れるから縄も服も作れる。暮らしていくには充分すぎるほどの資源があったんだ。
ただ困っているのは、学校と医者がないことだな。今の子供たちには儂や妻が読み書きを教えておるが、なにせここにある本は父の頃の商品だったものだ。皆が読み耽るから、だいぶ痛んでしまった」
本と聞いて、私は頭の中で、とある文章を思い浮かべる。
……うん、大丈夫だ。
きっと、できる。
「お父さま、その本はどこに?」
「うん? ここにあるぞ。なにせ貴重なものだから、しっかり管理しておかないといけないからな」
「何冊ほど?」
「今あるのは二十六冊。読み書きの指南書から図鑑、建築や栽培に関するものまで、一通りはそろっているが――」
思わずテーブルに手をついて、勢いよく立ち上がる。
お茶を持ってきてくれたお母さまが、慌ててティーカップを抑えた。
「イーヴァ、どうしたんだい!?」
にっこりと笑みを湛えて、優しい父母を交互に見た。
「お父さま、お母さま、ここに白紙の本はありますか?」
「あ、ああ。それなら新しいのが百冊くらい在庫があるが、それが?」
お父さまへ、自信に満ちた声を贈る。
「ここに蔵書されている二十六冊の写本を、明日一日で作って差し上げます」
「はあ!?」「なんだって!?」
お父さまとお母さまが、揃って声をあげた。
「私は見ての通り、こんな小柄で力も弱く、この村の皆さんのお役に立ちたいと思っても、きっとままならないでしょう。ならば私は違った形でご恩返しをしたいのです。自慢するわけではありませんが、この頭には多くの知識が詰まっています。それをこの村の為に役立たせたいと思います」
「そんな、恩返しだなんて」
お父さまが、お母さまに視線を向ける。
「そうさね。あたしたちは、イーヴァがきてくれたことを、贈り物だと思っているんだよ」
「え?」
お母さまは、お茶を私の前にことり、と音を立てて置いた。
「なにも気にすることはない。イーヴァはここで、心安らかに暮らしてくれればいいんだよ。それが、子を思う親の心情ってもんさ」
「お母さま……」
そこの言葉に胸がいっぱいになって、お母さまに抱きつく。
お母さまは私より身長があるので、その胸にすっぽり埋もれてしまった。
「ああ、本当に可愛いねえ、可愛い娘だねえ。ねえあんた、この歳になってこんなに可愛い子ができるなんて、思いもしなかったねえ」
お母さまは肩を震わせて、私を抱き締めてくれた。
「ああ、その通りだ。しかし写本を一日で作るなどと、そんな無茶なことはしなくていい。少しずつ、時間をかけてでもやってもらえれば有り難い。頼まれてくれるか?」
私はお母さまから離れ、お父さまに大きく頷いた。
「お心遣いはご無用です。一日で写本を仕上げ、その後、幻惑の森を通ってラミナの街に行こうと思います」
その言葉にお父さまもお母さまも、揃って身体を硬直させて、険しい顔つきになった。
「だ、だ、ダメだ! それだけは許さん!」
お父さまは立ち上がって前のめりになり、お母さまはより強く抱き締めた。
「そうだよ、お前はまだ、あの森の恐ろしさがわかっていないんだ!」
まあ、大反対されるだろうなとは思っていたけれど、父母の怒りは私の予想を超えていた。私はお母さまの腕を下ろし、二人に、なるべく優しげに微笑んで安心させた。
「ぜんぶ大丈夫なんです。私なら、幻に惑わされず、森を抜けられます」
「どうしてそんなことを断言できる!?」
「わかるんです、お父さま。私はただの娘ではありません。今日、村を案内して頂いて、それを理解しました。きっと私はマールの村と外界を繋ぐ架け橋となるべく、ここにいるのだと思うんです」
お父さまは脱力して椅子に座り、パイプを出して葉を詰め、そこに火をつけた。
「ここはとて良い村です。私もすっかり気に入りました。ラミナの街まで行ければ、最新の本や新品の農具などが手に入るでしょう。まずは明日から写本を作らせて下さい。それができなければ、私は口だけの娘です。幻惑の森に行くのは諦めます」
私の強い決意に、お母さまは崩れ落ちて膝を床につく。
お父さまは煙を浮かばせながら、私に顔を向けた。
「いいだろう。儂もこいつも、まだイーヴァのことを知らん。好きなことをやってごらんなさい。もし本当に、ここにある蔵書の写本を作れたら、この村にとってどれだけ有益か。一日というのは、にわかに信じ難いが、やってもらえるか?」
私は嬉しくて、満面の笑みを見せた。
「はいっ!」
そんな私の喜びとは裏腹に、お父さまとお母さまの顔には不安の色が浮かんでいた。
「じゃああたしは、あんたの部屋を作ってやろう。なんせ今は旦那とあたしの二人暮らしで、部屋が余ってるからねえ」
お母さまの言葉に、私は破顔した。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「いいんだよう、いいんだよう。本当に嬉しいのは、こっちなんだから」
「お母さま……」
その言葉が本当に胸に染みて、私はお母さまの胸に飛び込んだ。