「笑った者を、戻すな」
その血文字の紙片を見つけてからというもの、誰もが少しずつ、無意識に“笑う”ことを避けるようになっていた。
冗談を言っても口元で留める。小さな笑い声すら、空気を引き裂くような違和感を伴って響いた。
「……本当に、笑っただけで“何か”が起こるのかな」
陽大がぽつりと呟く。
「こんな場所に来ておいて言うのもなんだけど、笑うって、日常の一部だろ? 自然に出る感情なのに、それすら抑えろって……」
「でも、何かあるよ。この村は、何かを“音で閉じ込めてる”」
大智がレコーダーの録音ログを見ながら言う。
「昨夜、誰かが寝言で“赤子が来る”って言ったの、誰か覚えてる?」
「……それ、私かも」
彩加が手を上げた。顔色は良くない。
「夢の中で、子どもがこっちを見てた。顔は真っ赤で、でも、笑ってたの。すごく……無理に引きつったような笑いで」
「私も似たような夢を見た」
育美が呟くように言った。
「ただの夢じゃない。繋がってる。何かが……呼んでる。あの“鳴き面”が」
その夜、風が出た。
音を持たない村にとって、風は“兆し”だという。
老婆が言っていた。
「風が鳴るとき、誰かが笑う。
笑えば、泣く者が要る。
泣く者が出たら、ひとり帰れぬ。
だから、笑うな。鳴くな。語るな」
***
翌朝、陽向がいなかった。
布団は敷かれたまま、荷物もそのまま。
「散歩にでも出たんじゃ……」
誰かがそう言いかけたが、それはすぐに否定された。
彼は毎朝、同じルーティンを守る几帳面な人間だった。早朝に一人で出歩くような性格ではない。
宿舎の外に出たとき、風が止んだ。
音が、一切消えた。
その静寂のなかで、何かが笑った。
たしかに、誰も笑っていないのに。
その“無音の笑い”が、頭の内側から響いてきた。
「……陽向、村の外に出ようとしたのかもしれない」
颯一がぽつりと言った。
「昨日、村の境界の石碑を見ていた。“笑った者を戻すな”って……。あれ、入口のことじゃなくて、“出口”を指してたんじゃないか?」
その日の昼、村の北端にある「哭き地蔵」と呼ばれる石像群を訪ねることにした。老婆が唯一、口にした“村の供養場”。
そこには、苔に覆われた小さな地蔵が五体並んでいた。いずれも、口元が削られていた。
笑わぬように——。
「これ、昔は子ども地蔵だったのかも」
美緒が膝をついて、ひとつの地蔵を撫でる。
「赤子が亡くなるたびに、供養のために立ててた……でも、その口元を“わざわざ削る”って、異常だよ」
「笑わなければ、泣く者も出ない」
育美が呟いた。
「この村では、音そのものが“感染”する。笑い声も、泣き声も、人を引きずり込む“きっかけ”なんだ」
そのとき、背後から乾いた笑い声がした。
全員が一斉に振り返る。
誰も、いなかった。
だが、地面に落ちていたのは——陽向の履いていたサンダルだった。
「……足跡がない」
大智が低く呟いた。
サンダルが落ちていた場所の周囲には、陽向の足跡も、それを拾い上げた者たちの足跡も、なぜか残っていなかった。地面は湿っていて、足跡がつくはずなのに。
「ねえ、変じゃない?」
彩加が声を震わせる。
「陽向がここにいたなら、靴だけっておかしいよ。誰かに脱がされた? それとも、自分で……?」
「自分で脱ぐなら、もう片方もあるはずだ」
颯一が冷静に答えた。
「……じゃあ、“連れて行かれた”?」
その言葉に、皆が息を飲む。
「でも、誰に? 何に?」
「“音”だよ」
育美がぼそりと口にした。
「この村では、“音”が現象そのものになってる。昨日から、私たちは音のない空間に慣れすぎた。逆に、たったひとつの音があまりに強調されて響いてくる。つまり、“音が出た時点で”何かが動く。誰かが、目をつけられる」
その晩。誰もが無言のまま夕食をとった。
誰かが笑えば、誰かが泣く。
誰かが鳴けば、誰かが消える。
だから、音を立ててはいけない。
その緊張感が、皮膚に突き刺さるようだった。
しかし、異変は続いた。
夜半過ぎ。廊下を歩く足音が聞こえた。
タタタタタ……ッ、タタ……
軽い、子どものような足音。
颯一が起き、そっと部屋の襖を開けた。
暗闇の中、廊下の端に誰かが立っていた。
——白い着物を着た、小さな“子ども”。
その顔ははっきり見えなかった。だが、唇が歪み、笑っているように見えた。
「誰……?」
そう問いかけようとした瞬間、足音が“止まった”。
それと同時に、部屋のどこかで“笑い声”が上がった。
乾いた、赤子のような——だがどこか老いた声。
振り返った颯一の後ろにいたのは、美緒だった。
彼女は夢遊病者のようにふらふらと立ち上がり、そして、笑った。
「……ひとり、いなくなったのに。なんで誰も、泣かないの……?」
その瞳は空っぽだった。
「もう、“笑ってもいい”よね……?」
その瞬間、誰かが部屋の外で叫んだ。
「——美緒、やめろッ!」
叫び声とともに、木戸が開く音。
駆け寄ったのは彩加だった。
彼女は美緒の腕を掴み、強く抱きしめた。
「ダメ! 笑っちゃダメだよ! 戻れなくなる!」
その声は、まるで何かを振り払うかのように、部屋全体に響いた。
音が、走った。
そのとき、風が吹いた。
——誰かが、どこかで泣いていた。
***
翌朝、美緒は覚えていなかった。
自分が笑ったことも、赤子の幻を見たことも。
陽向の記憶も、あやふやだった。
「誰それ? え? そんな人いたっけ……?」
一同に、言葉が出なかった。
「……誰かが、消されていく」
育美が呟いた。
「記憶も、存在も。音を出すと、“記録”が残らなくなる。記録が消えると、“思い出”も消える。そして——存在そのものが、なくなる」
「音って、何?」
彩加が絞り出すように言った。
「本当は、なにを呼んでるの……?」
その日の夕方。颯一は再び、老婆のもとを訪れた。
彼女は縁側に座り、静かに空を見ていた。
「音とは、魂じゃ。響きは“生”を繋ぎ、失えば“忘れ”となる」
老婆はそう言って、手元の古びた紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
「音を殺した村。
音を憎んだ者たち。
そして、“音に愛された者”が現れるとき、
村はすべてを呑む。」
夜、美緒は一人、縁側に座っていた。
月明かりは薄く、村全体が墨を流したような暗さに沈んでいる。周囲の音はなかった。虫も鳥も風も止まり、まるで世界が“凍っている”ようだった。
その沈黙のなか、美緒はぽつりと呟いた。
「……私、何か、忘れてる気がする」
思い出そうとしても、霧がかかったように出てこない。昨日、笑ってはいけないと誰かに言われたことだけが、ひどく鮮明に残っている。
そのとき、背後でカタリと何かが落ちた。
ゆっくりと振り返る。
そこにあったのは——あの“鳴き面”。
裂けた口、歪んだ笑み、赤子と老人の中間のような異形の面が、畳の上に転がっていた。
「……なんで、こんなとこに」
手を伸ばしかけた瞬間、空気が変わった。
ざらりとした感触が、肌をなぞる。
まるで見えない何かが、彼女の耳元で“囁いて”いるようだった。
「——わらって」
それは音ではなく、“内側”から響く声だった。
「——わらって わらえば かえれる」
「かえれる……?」
誰が? どこに?
そのとき、美緒の手が、面に触れた。
***
翌朝。颯一たちは、宿舎の裏に倒れていた美緒を見つけた。
彼女は目を見開いたまま、ぐったりと地面に伏していた。
口元には、赤黒い笑みのような痕跡が残っていた。
「——美緒! おい、しっかりしろ!」
陽大が駆け寄って揺さぶる。
「息してる! でも、反応がない……!」
すぐに彩加が声をかけるが、美緒の瞳はどこか遠くを見ていた。
「……“鳴き面”が、囁いたんだ」
育美がゆっくりと言う。
「“笑えば、帰れる”って。でも、きっとあれは嘘。“笑えば、還れない”の間違いだった」
「……でも、なんでそんなことがわかるんだ?」
大智が問いかける。
「夢で見たの。陽向が笑ってた。口だけ笑ってて、目は、泣いてた」
その言葉のあと、空気が一変した。
風が吹いた。
“音のない村”に、風が——音を連れてやってきた。
その風に混じって、また“あの声”が聞こえた。
——ひとり、わらった。
——ふたり、なく。
——みっつめは、かえれない。
「数えてる……?」
颯一が呟いた。
「これ、“何か”が、順番に追ってきてる……!」
「次は、誰……?」
彩加の声が震える。
「やめろ……そんなこと言うな……!」
陽大が叫んだ。音が、破裂するように広がる。
すると、地面の下から“コツン”と何かがぶつかる音がした。
まるで、床下で誰かが這っているかのように——
***
その晩、日記をつけていた大智のノートが、ページごと消えていた。
——陽向の名前が一度も書かれていない。
——美緒という名前も、冒頭にしか存在していない。
「……俺、書いたはずなんだ。でも、消えてる」
「記録されない。思い出せなくなる。つまり——“存在そのもの”が削られていく」
育美が静かに言った。
「これが、“音を出す”ことの代償。音は“記録”の証。それを放った者から、“代わり”に何かが奪われる」
颯一は、ふと気づいた。
「……じゃあ、ここに記録しないと、俺たちも消える?」
「逆だよ」
大智がノートを見つめたまま言う。
「“記録する”から、消えるんだ。ここでは、“語ってはいけない”。“書いてもいけない”。“思ってもいけない”。」
「じゃあ……どうすれば……?」
「……黙って、じっとする。それだけが、生き残る手段かもしれない」
そのとき、宿舎の床下で、また“笑い声”が響いた。
それは、陽向にも似ていたし、美緒にも聞こえた。
だがもう、誰の声かもわからなかった。
(第2章・終わり/