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第2章:掟と囁き

「笑った者を、戻すな」

 その血文字の紙片を見つけてからというもの、誰もが少しずつ、無意識に“笑う”ことを避けるようになっていた。

 冗談を言っても口元で留める。小さな笑い声すら、空気を引き裂くような違和感を伴って響いた。

「……本当に、笑っただけで“何か”が起こるのかな」

 陽大がぽつりと呟く。

「こんな場所に来ておいて言うのもなんだけど、笑うって、日常の一部だろ? 自然に出る感情なのに、それすら抑えろって……」

「でも、何かあるよ。この村は、何かを“音で閉じ込めてる”」

 大智がレコーダーの録音ログを見ながら言う。

「昨夜、誰かが寝言で“赤子が来る”って言ったの、誰か覚えてる?」

「……それ、私かも」

 彩加が手を上げた。顔色は良くない。

「夢の中で、子どもがこっちを見てた。顔は真っ赤で、でも、笑ってたの。すごく……無理に引きつったような笑いで」

「私も似たような夢を見た」

 育美が呟くように言った。

「ただの夢じゃない。繋がってる。何かが……呼んでる。あの“鳴き面”が」


 その夜、風が出た。

 音を持たない村にとって、風は“兆し”だという。

 老婆が言っていた。

「風が鳴るとき、誰かが笑う。

 笑えば、泣く者が要る。

 泣く者が出たら、ひとり帰れぬ。

 だから、笑うな。鳴くな。語るな」


 ***


 翌朝、陽向がいなかった。

 布団は敷かれたまま、荷物もそのまま。

「散歩にでも出たんじゃ……」

 誰かがそう言いかけたが、それはすぐに否定された。

 彼は毎朝、同じルーティンを守る几帳面な人間だった。早朝に一人で出歩くような性格ではない。

 宿舎の外に出たとき、風が止んだ。

 音が、一切消えた。

 その静寂のなかで、何かが笑った。

 たしかに、誰も笑っていないのに。

 その“無音の笑い”が、頭の内側から響いてきた。

「……陽向、村の外に出ようとしたのかもしれない」

 颯一がぽつりと言った。

「昨日、村の境界の石碑を見ていた。“笑った者を戻すな”って……。あれ、入口のことじゃなくて、“出口”を指してたんじゃないか?」


 その日の昼、村の北端にある「哭き地蔵」と呼ばれる石像群を訪ねることにした。老婆が唯一、口にした“村の供養場”。

 そこには、苔に覆われた小さな地蔵が五体並んでいた。いずれも、口元が削られていた。

 笑わぬように——。

「これ、昔は子ども地蔵だったのかも」

 美緒が膝をついて、ひとつの地蔵を撫でる。

「赤子が亡くなるたびに、供養のために立ててた……でも、その口元を“わざわざ削る”って、異常だよ」

「笑わなければ、泣く者も出ない」

 育美が呟いた。

「この村では、音そのものが“感染”する。笑い声も、泣き声も、人を引きずり込む“きっかけ”なんだ」


 そのとき、背後から乾いた笑い声がした。

 全員が一斉に振り返る。

 誰も、いなかった。

 だが、地面に落ちていたのは——陽向の履いていたサンダルだった。






「……足跡がない」

 大智が低く呟いた。

 サンダルが落ちていた場所の周囲には、陽向の足跡も、それを拾い上げた者たちの足跡も、なぜか残っていなかった。地面は湿っていて、足跡がつくはずなのに。

「ねえ、変じゃない?」

 彩加が声を震わせる。

「陽向がここにいたなら、靴だけっておかしいよ。誰かに脱がされた? それとも、自分で……?」

「自分で脱ぐなら、もう片方もあるはずだ」

 颯一が冷静に答えた。

「……じゃあ、“連れて行かれた”?」

 その言葉に、皆が息を飲む。

「でも、誰に? 何に?」

「“音”だよ」

 育美がぼそりと口にした。

「この村では、“音”が現象そのものになってる。昨日から、私たちは音のない空間に慣れすぎた。逆に、たったひとつの音があまりに強調されて響いてくる。つまり、“音が出た時点で”何かが動く。誰かが、目をつけられる」


 その晩。誰もが無言のまま夕食をとった。

 誰かが笑えば、誰かが泣く。

 誰かが鳴けば、誰かが消える。

 だから、音を立ててはいけない。

 その緊張感が、皮膚に突き刺さるようだった。

 しかし、異変は続いた。

 夜半過ぎ。廊下を歩く足音が聞こえた。

 タタタタタ……ッ、タタ……

 軽い、子どものような足音。

 颯一が起き、そっと部屋の襖を開けた。

 暗闇の中、廊下の端に誰かが立っていた。

 ——白い着物を着た、小さな“子ども”。

 その顔ははっきり見えなかった。だが、唇が歪み、笑っているように見えた。

「誰……?」

 そう問いかけようとした瞬間、足音が“止まった”。

 それと同時に、部屋のどこかで“笑い声”が上がった。

 乾いた、赤子のような——だがどこか老いた声。

 振り返った颯一の後ろにいたのは、美緒だった。

 彼女は夢遊病者のようにふらふらと立ち上がり、そして、笑った。

「……ひとり、いなくなったのに。なんで誰も、泣かないの……?」

 その瞳は空っぽだった。

「もう、“笑ってもいい”よね……?」

 その瞬間、誰かが部屋の外で叫んだ。

「——美緒、やめろッ!」

 叫び声とともに、木戸が開く音。

 駆け寄ったのは彩加だった。

 彼女は美緒の腕を掴み、強く抱きしめた。

「ダメ! 笑っちゃダメだよ! 戻れなくなる!」

 その声は、まるで何かを振り払うかのように、部屋全体に響いた。

 音が、走った。

 そのとき、風が吹いた。

 ——誰かが、どこかで泣いていた。


 ***


 翌朝、美緒は覚えていなかった。

 自分が笑ったことも、赤子の幻を見たことも。

 陽向の記憶も、あやふやだった。

「誰それ? え? そんな人いたっけ……?」

 一同に、言葉が出なかった。

「……誰かが、消されていく」

 育美が呟いた。

「記憶も、存在も。音を出すと、“記録”が残らなくなる。記録が消えると、“思い出”も消える。そして——存在そのものが、なくなる」

「音って、何?」

 彩加が絞り出すように言った。

「本当は、なにを呼んでるの……?」


 その日の夕方。颯一は再び、老婆のもとを訪れた。

 彼女は縁側に座り、静かに空を見ていた。

「音とは、魂じゃ。響きは“生”を繋ぎ、失えば“忘れ”となる」

 老婆はそう言って、手元の古びた紙を差し出した。

 そこには、こう書かれていた。

「音を殺した村。

 音を憎んだ者たち。

 そして、“音に愛された者”が現れるとき、

 村はすべてを呑む。」






 夜、美緒は一人、縁側に座っていた。

 月明かりは薄く、村全体が墨を流したような暗さに沈んでいる。周囲の音はなかった。虫も鳥も風も止まり、まるで世界が“凍っている”ようだった。

 その沈黙のなか、美緒はぽつりと呟いた。

「……私、何か、忘れてる気がする」

 思い出そうとしても、霧がかかったように出てこない。昨日、笑ってはいけないと誰かに言われたことだけが、ひどく鮮明に残っている。

 そのとき、背後でカタリと何かが落ちた。

 ゆっくりと振り返る。

 そこにあったのは——あの“鳴き面”。

 裂けた口、歪んだ笑み、赤子と老人の中間のような異形の面が、畳の上に転がっていた。

「……なんで、こんなとこに」

 手を伸ばしかけた瞬間、空気が変わった。

 ざらりとした感触が、肌をなぞる。

 まるで見えない何かが、彼女の耳元で“囁いて”いるようだった。

「——わらって」

 それは音ではなく、“内側”から響く声だった。

「——わらって わらえば かえれる」

「かえれる……?」

 誰が? どこに?

 そのとき、美緒の手が、面に触れた。


 ***


 翌朝。颯一たちは、宿舎の裏に倒れていた美緒を見つけた。

 彼女は目を見開いたまま、ぐったりと地面に伏していた。

 口元には、赤黒い笑みのような痕跡が残っていた。

「——美緒! おい、しっかりしろ!」

 陽大が駆け寄って揺さぶる。

「息してる! でも、反応がない……!」

 すぐに彩加が声をかけるが、美緒の瞳はどこか遠くを見ていた。

「……“鳴き面”が、囁いたんだ」

 育美がゆっくりと言う。

「“笑えば、帰れる”って。でも、きっとあれは嘘。“笑えば、還れない”の間違いだった」

「……でも、なんでそんなことがわかるんだ?」

 大智が問いかける。

「夢で見たの。陽向が笑ってた。口だけ笑ってて、目は、泣いてた」


 その言葉のあと、空気が一変した。

 風が吹いた。

“音のない村”に、風が——音を連れてやってきた。

 その風に混じって、また“あの声”が聞こえた。

 ——ひとり、わらった。

 ——ふたり、なく。

 ——みっつめは、かえれない。

「数えてる……?」

 颯一が呟いた。

「これ、“何か”が、順番に追ってきてる……!」

「次は、誰……?」

 彩加の声が震える。

「やめろ……そんなこと言うな……!」

 陽大が叫んだ。音が、破裂するように広がる。

 すると、地面の下から“コツン”と何かがぶつかる音がした。

 まるで、床下で誰かが這っているかのように——


 ***


 その晩、日記をつけていた大智のノートが、ページごと消えていた。

 ——陽向の名前が一度も書かれていない。

 ——美緒という名前も、冒頭にしか存在していない。

「……俺、書いたはずなんだ。でも、消えてる」

「記録されない。思い出せなくなる。つまり——“存在そのもの”が削られていく」

 育美が静かに言った。

「これが、“音を出す”ことの代償。音は“記録”の証。それを放った者から、“代わり”に何かが奪われる」


 颯一は、ふと気づいた。

「……じゃあ、ここに記録しないと、俺たちも消える?」

「逆だよ」

 大智がノートを見つめたまま言う。

「“記録する”から、消えるんだ。ここでは、“語ってはいけない”。“書いてもいけない”。“思ってもいけない”。」

「じゃあ……どうすれば……?」

「……黙って、じっとする。それだけが、生き残る手段かもしれない」


 そのとき、宿舎の床下で、また“笑い声”が響いた。

 それは、陽向にも似ていたし、美緒にも聞こえた。

 だがもう、誰の声かもわからなかった。


(第2章・終わり/


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