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第3章:鳴き面と咎人

 その日、彩加は夢を見た。

 古びた御堂の奥、赤子が寝ている。いや、寝ているように見えたそれは、笑っていた。

 目を閉じたまま、口だけが大きく開き、ひくひくと痙攣するように笑っていた。

「……笑ったら、かえれるよ」

 声がした。

 振り返ると、そこには陽向がいた。だが顔がぼやけている。声は聞こえるのに、顔だけが黒く、塗り潰されている。

「かえれるって……どこに?」

「どこでも。ここじゃなければ、どこでも」

 陽向の声は穏やかだった。優しい口調で語りかけてくる。だけど、冷たい。

 そのとき、赤子が口を閉じた。

 風が吹いた。

 御堂の障子がバタンと音を立てて閉じ、闇が降りてきた。

「——彩加?」

 誰かが呼ぶ声で、彼女は目を覚ました。


 ***


 目を覚ました彼女の隣には、美緒が座っていた。

 目を閉じて、ずっと黙っていたはずの彼女が、こちらを見ていた。

「……目、覚めた?」

「うん。なんとか」

「私ね……思い出した」

 美緒はそう言って、自分の胸を押さえた。

「“あの面”を被ったとき、夢を見たの。御堂の奥に、私がいた。子どもみたいな声で笑ってて……でも、私の身体じゃなかった」

「どういう意味……?」

「わからない。でも、笑った瞬間、何かが“入ってきた”」

 その言葉に、彩加は戦慄した。

「……何かって?」

「わからない。感情じゃない。思い出でもない。“音”だけだった。私の中に、“音”が入ったの」


 同じころ、颯一と育美は村の北端にある“音無橋”と呼ばれる古い吊橋にいた。

 地図には載っていなかった場所。老婆がぽつりと漏らした“咎人が渡る場所”という言葉を辿って来たのだ。

「音無橋って……名前からして、やばそうだな」

「うん。でも、逆にここが“音を封じる場所”なら、何かヒントがあるかも」

 吊橋の中央には、小さな石碑が立っていた。そこに刻まれていた文字は——

「咎人は、音に呑まれよ」

「“咎人”って……誰のことだ?」

「たぶん、“音を出した者”のことだよ」

 育美が低く言った。

「この村では、“音を立てる者”が咎人。“音に愛された者”は、なおさら。だから、連れて行かれる」

「でも、“音に愛された者”って、どうやって選ばれる?」

「きっと、“笑うこと”ができる者だと思う」

 育美の目が、颯一をじっと見た。

「あなた、まだ一度も笑ってないよね」

「……そうかもな」

「それ、危ないんだよ。たぶん、今は“笑ってる者”じゃなくて、“笑ってない者”が狙われてる」

「え?」

「残ってる人間を、“均す”ために」


 その夜。

 誰もいないはずの台所で、まな板を叩く音がした。

 ——トン、トン、トン……

 不規則に響く包丁の音。それがやんだかと思うと、何かがぬるりと流れる音。

 陽大がひとりで音のする方に向かった。

「誰か、いるのか……?」

 暗がりの中、誰かの背中が見えた。

 着物姿の後ろ姿。肩が上下に揺れている。何かを切っているようだった。

「……おばあさん?」

 そう問いかけた瞬間、その背中がゆっくりと振り返った。

 そこには、笑った“鳴き面”があった。

 そしてその口が、まっすぐ陽大の名前を呼んだ。

「——よおだい」

 その声は、子どもだった。けれど、ひどく老いた響きだった。

 陽大の喉が凍りついたように動かなくなった。

 叫ぼうとしても、音が出ない。

 面の裏の目が、真っ黒な穴のようにじっとこちらを見ていた。






 陽大は、声を失っていた。

 台所で“鳴き面”を見た瞬間から、喉に何か詰まったような感覚が抜けず、誰に何を訊かれても返事ができなくなっていた。

「声帯、問題なさそうなのに……」

 育美が応急処置をしながら言う。

「物理的な原因じゃない。たぶん、“音”を出した代償を払わされた」

「でも、陽大は“名前を呼ばれた”だけなんだよ?」

 彩加が言った。

「呼ばれただけで……」

「“名前”は“音の記憶”だよ。最も個人に結びついた“音のかたち”。それを使われたってことは——“音が彼を認識してきた”」

 育美はそう言い、そっと陽大の肩に手を置いた。

「まだ、大丈夫。まだ“声がある”うちに、意思を取り戻して」

 だが陽大は、無表情のまま虚空を見つめていた。


 その夜、陽大は夢を見た。

 白い空間のなかで、たくさんの“面”がこちらを見ていた。

 笑った面、泣いた面、怒った面、何も感情を持たない面。

 その中央に、ひとつだけ血に濡れた赤子の面があった。

 それが、喋った。

「——愛されたから、連れていくよ」

「——あなたは、誰かに“名前を呼ばれた”から、もう“向こう側”だよ」

「——声を捨てれば、記憶も捨てられる。楽になれるよ」

 陽大は喉を掻きむしった。声が出ない。自分の声が、出てこない。

 ただ、面たちがいっせいに笑い出した。


 ***


 一方、彩加と美緒は“老婆”の家を再び訪ねていた。

 彼女はまるでそれを予期していたように、縁側で待っていた。

「来たか。“咎人”が目を覚ましたのじゃな」

「陽大は……陽大は、まだ助かりますか?」

「“音に選ばれし者”は、いずれ“面をかぶる”。笑えば“向こう側”に引かれ、泣けば“代わり”を求める」

「代わり……?」

 老婆は黙った。だがその口元だけが、わずかに動いた。

“笑う者に代わりを。

 鳴く者に静寂を。

 語る者には、忘却を。”

「それは……この村の……掟?」

「いや、“村の存在理由”じゃ」

 老婆の声が低くなった。

「この村は、“音”そのものを封じる器。“音を持つ者”を引き寄せ、沈めるための、“封印の器”じゃ」


「じゃあ……美緒は?」

 彩加が不安げに問いかけた。

「彼女の中に、“音”がある。まだ、完全に取り込まれてはいないが……いずれ、喋ることをやめるじゃろう。笑わず、泣かず、黙り続ける。それが“音の器”の完成形じゃ」

「……それでも、彼女を見捨てない」

 彩加が強く言った。

「私は美緒を、連れ帰る。そのためなら……この村の掟だって壊してみせる」

 老婆は静かに目を細めた。

「それなら、最も“音を恐れぬ者”を見つけるがよい」

「音を……恐れない者?」

「“音に愛された者”——村が本当に求めているのは、“黙する者”ではなく、“音を響かせ続ける者”じゃ」

「……まさか、それって——」


 そのとき、美緒が突然、頭を抱えて倒れた。

「——ああ、ダメ。声が……聞こえる。声が、わたしの中で……」

 彼女の口が勝手に開き、歌のような、泣き声のような、不明瞭な“音”が漏れ出す。

「——わらって わらって わらって」

「——やめろ……!」

 彩加が抱きしめようと手を伸ばした瞬間、美緒の目が光を失ったように虚ろになり、彼女の口から“別の声”が響いた。

「——だれか、わたしを、かえて」






「——だれか、わたしを、かえて」

 その声は、美緒のものではなかった。

 空間そのものが震えるような“内側からの音”だった。

「やめて、美緒! 戻って!」

 彩加は美緒を抱きしめたが、その身体は異様に冷たかった。肌の下に“別の生き物”が入り込んでいるかのような硬直した感触。目は焦点が合っていなかった。

「——わたしは、ここに、いない。

 ここにいるのは、“わたしのかわり”。」

「美緒……!」


 そのとき、家の周囲で風が唸った。

 それは音ではなく“圧”だった。重力のように、場の空気を歪めてくる“沈黙の風”。

 畳の上に、あの“鳴き面”が転がっていた。

 誰も触っていないのに、面が美緒の方に“這って”近づいていく。

「……来るな!」

 彩加が咄嗟に蹴り飛ばすと、面は木柱にぶつかり、ぴたりと止まった。

 しかし、美緒の口から血のような音が漏れた。

「う……ぁ……やめ、て……それは、“わたしの音”……」


 ***


 一方その頃、颯一と大智は“旧資料館”と呼ばれる廃屋を調べていた。

 老婆の「最も音を恐れぬ者を見つけよ」という言葉の意味を探るためだ。

 天井の梁は崩れかけていたが、奥の棚にはかつての村の記録が朽ちかけたまま眠っていた。

「……これ、昭和二十年代の……?」

「“鳴澄村 音害抑止記録”……?」

 大智が手に取った古文書の束を開いた瞬間、ページが風でめくれた。

 内容は、彼らの想像を超えていた。


「村の胎内に、音あり。

 音の根は、泣く子に宿る。

 笑う子は“招き手”、泣く子は“贄(にえ)”となる。

 掟を破りし者あれば、その音を宿し、面となる。

 面は次なる“音の器”を探し彷徨う」


「つまり……“鳴き面”ってのは、もともと“人”だったってことか?」

「うん。“音を出しすぎた者”のなれの果て。声が災いを生み、村を沈める存在へと変じた……」

「じゃあ……今、あれが美緒に取り憑こうとしてるってこと?」

「いや、もう……入ってる」

 大智は低く言った。

「“声”を出したことで、入口ができた。“音”が入った。彼女は今、“音の器”に変わろうとしてる」

「止めるには?」

「——誰かが、代わりに“音を宿す”しかない」


 そのとき、大智はふと頬を押さえた。

「……あれ?」

「どうした?」

「……今、誰かに“名前”を呼ばれた気がした」

 颯一は息を止めた。

「それって……お前、“音に選ばれた”ってことじゃないか?」

「……かもな」

 大智は、薄く笑った。

「でも、俺は“愛される存在”らしいからな」


 ***


 戻った彼らを迎えたのは、布団の上で眠る美緒と、その隣で顔を覆う彩加だった。

「……声がね、止まったの」

 彩加は震えた声で言った。

「“誰か”が代わりに入ってくれたの。美緒の中から、声が出ていったの……」

 大智は何も言わず、美緒の手を握った。

「おかえり」

 美緒の瞳が、わずかに潤んだ。

「……ただいま」

 その言葉は、かすかに、けれど確かに“音”を持っていた。


(第3章・終わり/


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