美緒が一時的に意識を取り戻してから、二日が経った。
表面的には“日常”が戻ってきたように見えた。
美緒は静かに微笑むようになり、彩加も以前のように笑いかけた。
だが、その笑顔の裏にあったのは、静かに進行する“変質”だった。
大智は、あの夜を境に、毎晩決まった時間に鼻血を流すようになった。
「……笑ってる場合じゃねえな」
彼は鏡を見ながら、自嘲気味に笑った。
「これが“音の代償”か。血で“音”が出ていってるような感じだ」
手を洗いながら、指先が微かに震えていることに気づく。
それを無理に押さえ込んでいたが、次第にそれすらできなくなりつつあった。
同じ頃、颯一は村の外れにある“開かずの蔵”と呼ばれる場所に向かっていた。
資料の端に書かれていた一文が気になったのだ。
「最後の音は、蔵に封ぜられた。
出れば終わり、開けば始まる」
蔵は鎖で閉じられていた。だが、その鎖はもろく錆び、触れると崩れ落ちた。
中は空だった——はずだった。
何もない。だが、どこかに気配がある。
音もないのに、“何か”がいると確信できるほどの気配。
そして中央には、小さな木箱がひとつ、ぽつんと置かれていた。
蓋には赤く「声」と書かれている。
「……これは……」
箱を開けようとした瞬間、背後で風が吹いた。
誰もいないはずの蔵の奥で、何かが“呼吸”するような音がした。
「——さわるな」
振り返ると、そこに老婆が立っていた。
「それは“音の根”じゃ。開ければ、村が終わる」
「でも、終わらせなきゃ——誰かがずっと、“向こう”に捕らわれたままだ」
「それでも、開けるな。“咎人”が増える。今はまだ、“器”の数で封じられている」
「器?」
「面となった者の数じゃ」
老婆はそう言い、目を細めた。
「七つの器で封じた。
一つは沈んだ。
一つは砕けた。
一つは“笑った”。
一つは“黙った”。
残る三つが崩れれば、音は還る。
村ごと、沈む」
そのとき、風がまた吹いた。
蔵の奥から、微かに笑い声がした。
それは、陽向の声に似ていた。
***
同じ頃。美緒の異変はさらに進行していた。
「ねえ、これ……だれ?」
彼女は彩加に写真を見せながら、尋ねた。
そこには、かつて皆で撮った集合写真が写っている。だが、美緒の指は陽向の顔を指していた。
「……美緒、忘れてるの? 陽向だよ。私たちと一緒に来た……」
「うそ。こんな人、見たことない。……ほら、この写真、なんか変。陽向くんの顔、他の人とちょっと違うでしょ?」
写真を見ると、確かに陽向の部分だけがぼやけていた。まるで写真そのものが“記憶を拒んで”いるようだった。
「……やっぱり、“消えてる”んだ。存在が。音とともに……」
彩加が震える声で言った。
「じゃあ次に消えるのは、誰……?」
その問いに、美緒はただ微笑んで言った。
「……わたしじゃないと、いいね」
その声は、やけに明るかった。
「陽向? ……誰それ?」
陽大が不思議そうに言った。
大智もまた首をかしげ、美緒は最初からその名前を知らないかのように微笑んだ。
彩加だけが、声を上げた。
「やめてよ……! みんなで一緒に来たじゃん……! 七人でここに来て、笑ったり、怖がったり……私、ちゃんと覚えてる!」
「彩加」
颯一が静かに呼んだ。
「もう、無理に記憶を引き戻すな。“音に連れて行かれた者”は、名前すら現世に残せない」
「でも、陽向はまだ生きてる……どこかで、助けを待ってるんだよ!」
「その“声”が、誰かを次に連れていくんだ」
その言葉に、彩加は口をつぐんだ。
「……そんなの、間違ってる」
「そうだな。でも、これは“そういう仕組み”なんだ。この村は、そうやって“音を封じて”きた」
颯一は、村の地図を改めて広げた。
「音を封じる“器”が七つ。今、四つ目が壊れかけてる。陽向、美緒、大智……あと一人、どこかにいる可能性がある」
「……四人目?」
育美が顔を上げた。
「面にされて、“村に取り込まれた”誰かが、まだ生きているってこと?」
「かもな。あるいは……俺たちの誰かが、その片割れなのかもしれない」
その瞬間、沈黙が落ちた。
「“誰かが何かを覚えている”というだけで、もう村は警戒する」
大智が呟くように言った。
「忘れることでしか、生き延びられない」
「……でも俺は忘れないよ」
颯一が言った。
「名前も、顔も、声も、記憶してる。だから、俺が“代わり”になる。俺が全部持って、連れて帰る」
「連れて帰る……って、どうやって?」
彩加が聞いた。
「“音を出す”しかない。強い音を、村中に響かせる。そうすれば、封印は破れる。でも同時に、“誰か”が全部引き受けることになる」
「犠牲になるってこと……?」
「そうかも。でも、それでもいい」
「それじゃ、あんたが“最後の器”になるんだよ!」
育美が叫んだ。
「そうだな。でも、“鳴かぬ村”を終わらせるなら、それしかない」
***
その夜、誰かが笛を吹いた。
誰が吹いたかはわからなかった。だがその音は、はっきりと“村の外”にまで届いた。
そして、その笛の音に応えるように、蔵の奥の箱がわずかに開いた。
“最後の音”が、目覚めようとしていた。
(第4章・終わり/