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第4章:裂かれる日常

 美緒が一時的に意識を取り戻してから、二日が経った。

 表面的には“日常”が戻ってきたように見えた。

 美緒は静かに微笑むようになり、彩加も以前のように笑いかけた。

 だが、その笑顔の裏にあったのは、静かに進行する“変質”だった。

 大智は、あの夜を境に、毎晩決まった時間に鼻血を流すようになった。


「……笑ってる場合じゃねえな」

 彼は鏡を見ながら、自嘲気味に笑った。

「これが“音の代償”か。血で“音”が出ていってるような感じだ」

 手を洗いながら、指先が微かに震えていることに気づく。

 それを無理に押さえ込んでいたが、次第にそれすらできなくなりつつあった。


 同じ頃、颯一は村の外れにある“開かずの蔵”と呼ばれる場所に向かっていた。

 資料の端に書かれていた一文が気になったのだ。

「最後の音は、蔵に封ぜられた。

 出れば終わり、開けば始まる」

 蔵は鎖で閉じられていた。だが、その鎖はもろく錆び、触れると崩れ落ちた。


 中は空だった——はずだった。

 何もない。だが、どこかに気配がある。

 音もないのに、“何か”がいると確信できるほどの気配。

 そして中央には、小さな木箱がひとつ、ぽつんと置かれていた。

 蓋には赤く「声」と書かれている。

「……これは……」

 箱を開けようとした瞬間、背後で風が吹いた。

 誰もいないはずの蔵の奥で、何かが“呼吸”するような音がした。


「——さわるな」

 振り返ると、そこに老婆が立っていた。

「それは“音の根”じゃ。開ければ、村が終わる」

「でも、終わらせなきゃ——誰かがずっと、“向こう”に捕らわれたままだ」

「それでも、開けるな。“咎人”が増える。今はまだ、“器”の数で封じられている」

「器?」

「面となった者の数じゃ」

 老婆はそう言い、目を細めた。

「七つの器で封じた。

 一つは沈んだ。

 一つは砕けた。

 一つは“笑った”。

 一つは“黙った”。

 残る三つが崩れれば、音は還る。

 村ごと、沈む」


 そのとき、風がまた吹いた。

 蔵の奥から、微かに笑い声がした。

 それは、陽向の声に似ていた。


 ***


 同じ頃。美緒の異変はさらに進行していた。

「ねえ、これ……だれ?」

 彼女は彩加に写真を見せながら、尋ねた。

 そこには、かつて皆で撮った集合写真が写っている。だが、美緒の指は陽向の顔を指していた。

「……美緒、忘れてるの? 陽向だよ。私たちと一緒に来た……」

「うそ。こんな人、見たことない。……ほら、この写真、なんか変。陽向くんの顔、他の人とちょっと違うでしょ?」

 写真を見ると、確かに陽向の部分だけがぼやけていた。まるで写真そのものが“記憶を拒んで”いるようだった。

「……やっぱり、“消えてる”んだ。存在が。音とともに……」

 彩加が震える声で言った。

「じゃあ次に消えるのは、誰……?」

 その問いに、美緒はただ微笑んで言った。

「……わたしじゃないと、いいね」

 その声は、やけに明るかった。






「陽向? ……誰それ?」

 陽大が不思議そうに言った。

 大智もまた首をかしげ、美緒は最初からその名前を知らないかのように微笑んだ。

 彩加だけが、声を上げた。

「やめてよ……! みんなで一緒に来たじゃん……! 七人でここに来て、笑ったり、怖がったり……私、ちゃんと覚えてる!」

「彩加」

 颯一が静かに呼んだ。

「もう、無理に記憶を引き戻すな。“音に連れて行かれた者”は、名前すら現世に残せない」

「でも、陽向はまだ生きてる……どこかで、助けを待ってるんだよ!」

「その“声”が、誰かを次に連れていくんだ」

 その言葉に、彩加は口をつぐんだ。

「……そんなの、間違ってる」

「そうだな。でも、これは“そういう仕組み”なんだ。この村は、そうやって“音を封じて”きた」


 颯一は、村の地図を改めて広げた。

「音を封じる“器”が七つ。今、四つ目が壊れかけてる。陽向、美緒、大智……あと一人、どこかにいる可能性がある」

「……四人目?」

 育美が顔を上げた。

「面にされて、“村に取り込まれた”誰かが、まだ生きているってこと?」

「かもな。あるいは……俺たちの誰かが、その片割れなのかもしれない」

 その瞬間、沈黙が落ちた。

「“誰かが何かを覚えている”というだけで、もう村は警戒する」

 大智が呟くように言った。

「忘れることでしか、生き延びられない」

「……でも俺は忘れないよ」

 颯一が言った。

「名前も、顔も、声も、記憶してる。だから、俺が“代わり”になる。俺が全部持って、連れて帰る」

「連れて帰る……って、どうやって?」

 彩加が聞いた。

「“音を出す”しかない。強い音を、村中に響かせる。そうすれば、封印は破れる。でも同時に、“誰か”が全部引き受けることになる」

「犠牲になるってこと……?」

「そうかも。でも、それでもいい」

「それじゃ、あんたが“最後の器”になるんだよ!」

 育美が叫んだ。

「そうだな。でも、“鳴かぬ村”を終わらせるなら、それしかない」


 ***


 その夜、誰かが笛を吹いた。

 誰が吹いたかはわからなかった。だがその音は、はっきりと“村の外”にまで届いた。

 そして、その笛の音に応えるように、蔵の奥の箱がわずかに開いた。

“最後の音”が、目覚めようとしていた。


(第4章・終わり/


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