風が吹いた。
それは、いつものように無音の風ではなかった。
音が、あった。笛の音に似ていたが、それは誰もが知っているようでいて、誰の記憶にもなかった“懐かしい旋律”だった。
「誰が、吹いたの……?」
美緒がつぶやいた。
彩加は首を振る。
「わからない。でも……これ、“帰れる音”だって、思った」
「帰れる?」
「ううん、“戻れる”っていうより、“許される”って感覚に近い……」
その言葉に、大智が眉をひそめた。
「音に“許される”って、どういうことだ」
「……わからない。でも、この村ではきっと、“音を立てること”そのものが罰だった。でも、もしその罰が終わるなら——」
「代償は、誰かが払うってことだ」
颯一が静かに言った。
「俺が吹いた。あの笛を」
「……颯一」
「でも、まだ終わってない。“音の根”を開けなきゃいけない。蔵の中のあれを、完全に」
「それ、開けたら……?」
「“最後の器”が決まる」
「自分がなるつもりなの?」
「誰かを“泣かせて”終わらせるくらいなら、俺が“笑って”終わらせる」
***
その夜、陽大は夢の中で“音の世界”にいた。
空も地面もなく、ただ“音”が満ちていた。
ささやき、叫び、笑い声、すすり泣き、すべての感情が“音”になって浮遊していた。
そこに、美緒がいた。
「ここが、“音の器”の中?」
「そう。私、少しだけ残ってるの。きっと、あなたも」
「なら、ここから出られる?」
「……出るには、誰かが“音を抱えて”代わらなきゃいけない」
「じゃあ、俺が」
「だめ。あなたじゃ、ダメ。“愛された者”が代わらなきゃ、“音”は満足しない」
「愛された……?」
「そう。“陽大”って名前が、呼ばれたから、あなたは“音に選ばれた”。でも、“音に愛された”のは、別の人」
そのとき、空間がひび割れた。
白い光の中に、颯一が立っていた。
「……連れに来た」
陽大は笑った。
「おまえ、やっぱりそういう役回りなんだな」
「違う。俺が“終わらせに来た”んだ」
「そっか」
陽大の姿が、音の海に溶けていく。
「じゃあ、あとは頼むよ。“音を愛した”咎人さん」
***
現実の蔵の中、颯一はひとり、木箱の前に立っていた。
「開けるよ」
誰にも聞かれないような声で、静かに言った。
「俺は、忘れない。“声”も、“名前”も。笑い声も、泣き声も。
全部、俺が覚えてる。だから、もう——誰も、消させない」
箱の蓋を開けた瞬間、爆発のような“音”が村中に響き渡った。
それは、風の音ではなかった。
叫び声でもなかった。
ただ一つ、赤子のような“笑い声”だった。
木箱の蓋が開いた瞬間、村全体に“音”が走った。
それは、ただの音ではなかった。
笑い声、泣き声、怒鳴り声、囁き声、すべての“感情”が音として形を持ち、空を裂き、土を震わせた。
蔵の屋根がはぜ、瓦が砕け落ちる音さえ、音に溶けていった。
颯一は膝をついていた。全身を、見えない力が押し潰すように圧してくる。
頭の中に無数の“声”が鳴っていた。
——たすけて。
——なぜわらった。
——わたしじゃない。
——あの子がさきに。
——おかあさん。
誰の声かわからない。
いや、全員の声だった。
「……俺が、受け取るって言っただろ……全部、俺が……」
立ち上がろうとした足が、音に絡まれていた。膝が砕けるような痛み。だが、それでも彼は立った。
「これが、“音を抱える”ってことなら……」
そう言いかけたとき、背後から手が伸びてきた。
「ひとりで、背負うなよ」
彩加だった。
「バカだな。あんたが全部やるって言ったら、誰も止められないじゃん。だから私も来た」
「彩加……」
「“共に喜ぶ”って、そういうことでしょ。音って、誰かひとりのもんじゃない。笑いも、泣きも、誰かと分けるもんだよ」
その瞬間、颯一の背から“音の糸”が抜けていった。
糸は空中で光に変わり、彩加の胸に吸い込まれた。
「……ありがとう。でも、俺がやるべきだったんだ」
「わかってる。でも、私が“あんたを思い出す人”になる」
その言葉に、颯一は笑った。
——心から、笑った。
***
同じ頃、村の各地で“鳴き面”が砕けていた。
あちこちの屋根裏、蔵、仏間、納戸、押し入れ……村中に隠されていた面が、ひとつずつ砕けて、黒い音を吐き出しながら消えていった。
老婆は縁側で空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「ようやく……終わるか」
その目には涙が浮かんでいた。
「これで、“笑ってもいい村”に、戻れるかのう……」
***
美緒は夢の中で、陽向と並んで立っていた。
「ねえ、なんか懐かしい音がする」
陽向が笑った。
「うん。“わたしの声”が帰ってきた。わたしの名前、だれかが呼んでる」
「誰だと思う?」
「……颯一だと思う」
その名を聞いた瞬間、世界が光に包まれた。
美緒は目を開けた。
現実の世界。窓の外で、風が吹いていた。だが、その風には“音”があった。
——葉の擦れる音。
——鳥の鳴き声。
——誰かの笑い声。
「……音、帰ってきたんだね」
陽大が呟いた。
美緒は静かに頷いた。
(第5章・終わり/