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第5章:笑った者と泣く者

 風が吹いた。

 それは、いつものように無音の風ではなかった。

 音が、あった。笛の音に似ていたが、それは誰もが知っているようでいて、誰の記憶にもなかった“懐かしい旋律”だった。

「誰が、吹いたの……?」

 美緒がつぶやいた。

 彩加は首を振る。

「わからない。でも……これ、“帰れる音”だって、思った」

「帰れる?」

「ううん、“戻れる”っていうより、“許される”って感覚に近い……」

 その言葉に、大智が眉をひそめた。

「音に“許される”って、どういうことだ」

「……わからない。でも、この村ではきっと、“音を立てること”そのものが罰だった。でも、もしその罰が終わるなら——」

「代償は、誰かが払うってことだ」

 颯一が静かに言った。

「俺が吹いた。あの笛を」

「……颯一」

「でも、まだ終わってない。“音の根”を開けなきゃいけない。蔵の中のあれを、完全に」

「それ、開けたら……?」

「“最後の器”が決まる」

「自分がなるつもりなの?」

「誰かを“泣かせて”終わらせるくらいなら、俺が“笑って”終わらせる」


 ***


 その夜、陽大は夢の中で“音の世界”にいた。

 空も地面もなく、ただ“音”が満ちていた。

 ささやき、叫び、笑い声、すすり泣き、すべての感情が“音”になって浮遊していた。

 そこに、美緒がいた。

「ここが、“音の器”の中?」

「そう。私、少しだけ残ってるの。きっと、あなたも」

「なら、ここから出られる?」

「……出るには、誰かが“音を抱えて”代わらなきゃいけない」

「じゃあ、俺が」

「だめ。あなたじゃ、ダメ。“愛された者”が代わらなきゃ、“音”は満足しない」

「愛された……?」

「そう。“陽大”って名前が、呼ばれたから、あなたは“音に選ばれた”。でも、“音に愛された”のは、別の人」


 そのとき、空間がひび割れた。

 白い光の中に、颯一が立っていた。

「……連れに来た」

 陽大は笑った。

「おまえ、やっぱりそういう役回りなんだな」

「違う。俺が“終わらせに来た”んだ」

「そっか」

 陽大の姿が、音の海に溶けていく。

「じゃあ、あとは頼むよ。“音を愛した”咎人さん」


 ***


 現実の蔵の中、颯一はひとり、木箱の前に立っていた。

「開けるよ」

 誰にも聞かれないような声で、静かに言った。

「俺は、忘れない。“声”も、“名前”も。笑い声も、泣き声も。

 全部、俺が覚えてる。だから、もう——誰も、消させない」

 箱の蓋を開けた瞬間、爆発のような“音”が村中に響き渡った。

 それは、風の音ではなかった。

 叫び声でもなかった。

 ただ一つ、赤子のような“笑い声”だった。






 木箱の蓋が開いた瞬間、村全体に“音”が走った。

 それは、ただの音ではなかった。

 笑い声、泣き声、怒鳴り声、囁き声、すべての“感情”が音として形を持ち、空を裂き、土を震わせた。

 蔵の屋根がはぜ、瓦が砕け落ちる音さえ、音に溶けていった。

 颯一は膝をついていた。全身を、見えない力が押し潰すように圧してくる。

 頭の中に無数の“声”が鳴っていた。

 ——たすけて。

 ——なぜわらった。

 ——わたしじゃない。

 ——あの子がさきに。

 ——おかあさん。

 誰の声かわからない。

 いや、全員の声だった。

「……俺が、受け取るって言っただろ……全部、俺が……」

 立ち上がろうとした足が、音に絡まれていた。膝が砕けるような痛み。だが、それでも彼は立った。

「これが、“音を抱える”ってことなら……」

 そう言いかけたとき、背後から手が伸びてきた。

「ひとりで、背負うなよ」

 彩加だった。

「バカだな。あんたが全部やるって言ったら、誰も止められないじゃん。だから私も来た」

「彩加……」

「“共に喜ぶ”って、そういうことでしょ。音って、誰かひとりのもんじゃない。笑いも、泣きも、誰かと分けるもんだよ」

 その瞬間、颯一の背から“音の糸”が抜けていった。

 糸は空中で光に変わり、彩加の胸に吸い込まれた。

「……ありがとう。でも、俺がやるべきだったんだ」

「わかってる。でも、私が“あんたを思い出す人”になる」

 その言葉に、颯一は笑った。

 ——心から、笑った。


 ***


 同じ頃、村の各地で“鳴き面”が砕けていた。

 あちこちの屋根裏、蔵、仏間、納戸、押し入れ……村中に隠されていた面が、ひとつずつ砕けて、黒い音を吐き出しながら消えていった。

 老婆は縁側で空を見上げ、ぽつりと呟いた。

「ようやく……終わるか」

 その目には涙が浮かんでいた。

「これで、“笑ってもいい村”に、戻れるかのう……」


 ***


 美緒は夢の中で、陽向と並んで立っていた。

「ねえ、なんか懐かしい音がする」

 陽向が笑った。

「うん。“わたしの声”が帰ってきた。わたしの名前、だれかが呼んでる」

「誰だと思う?」

「……颯一だと思う」

 その名を聞いた瞬間、世界が光に包まれた。

 美緒は目を開けた。

 現実の世界。窓の外で、風が吹いていた。だが、その風には“音”があった。

 ——葉の擦れる音。

 ——鳥の鳴き声。

 ——誰かの笑い声。

「……音、帰ってきたんだね」

 陽大が呟いた。

 美緒は静かに頷いた。


(第5章・終わり/


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