和馬は貴也に、絶対についていかなければよかったと思った。
「ここですよ、ここ。“語り神様”が祀られていたっていう、旧神社跡」
貴也はキラキラした目でカメラを構え、古びた社務所の前に立っていた。今はもう鳥居すら残っていない。かろうじて“神”の字だけが読める腐りかけた看板が、風に揺れている。
「そもそも“語り神様”ってなんだよ。聞いたことないぞ」
「それが! 土着信仰の最深部、って感じでめちゃくちゃ面白いんだよ! この神様ね、“話を聞く代わりに記憶を食べる”らしいの」
「……うわ、なんか嫌な予感しかしねぇ」
「ちゃんと手順通りにすれば大丈夫。ちゃんと聞いてくれる神様だから、こっちが礼儀を守れば問題ないって!」
「いや、問題しかないだろその神様」
和馬はここ数週間の異常事件――笑う仏像、動く御札、喋る願い石など――を経験して、ようやく学んだばかりだった。
貴也が言う“問題ない”は、100%問題ある。
***
社務所跡は半壊していた。
貴也は床の一部を丁寧に掃除し、中央に白い布を敷いた。そこに、お供えと称して乾パンと缶コーヒーを並べる。
「ほんとに来るのか、神様が」
「うん。正しく呼びかければ、たぶん。“お話、聞いていただけますか”って三回唱えるんだって」
「カスタマーセンターかよ」
「じゃあ始めます!」
和馬が止める間もなく、貴也は神妙な声で唱えた。
「お話、聞いていただけますか」
「お話、聞いていただけますか」
「お話、聞いていただけますか」
風が止んだ。
カサ……と何かが動く音。
天井の梁から、細い人影のようなものが、ゆっくりと姿を現した。
顔はない。目も鼻も口もなく、ただ、頭部に口のような穴がぽっかりと空いている。
「……な、なにこれ……?」
「聞いてくれるんだよ……話を……」
貴也は震える声で言った。
語り神様は、しゃがみこむようにして白布の前に座ると、身じろぎひとつせずに待っている。
「……お話、聞いていただけますか」と、もう一度。
語り神様の口が、微かに笑ったように見えた。
そして、しゃくりあげるような音が、空気を振るわせる。
「はなして……」
「え……?」
「はなして……きいてあげる……おまえのこと、きかせて……」
和馬は口をつぐんだ。
貴也が、一歩前に出た。
「……じゃあ、僕が話します。僕が最初に“話すことの怖さ”を知ったのは、小学校のときで……」
その瞬間――語り神様の口が、異様に開いた。
ズズッ……という湿った音とともに、口の周囲が裂け、まるでスピーカーのように広がっていく。
中からは、誰かの笑い声、泣き声、怒鳴り声、独り言が入り混じった、意味不明の音の群れが流れ出した。
「やめろ貴也!! あれ、お前の記憶吸ってる!!」
「でも、話さなきゃ……!」
「馬鹿野郎!!」
和馬はとっさに乾パンの缶を投げつけた。
語り神様の口に当たると、ピタリと動きが止まった。
一瞬の静寂。
「……たべもの……だめ……おはなし……きかせて……つづけて……」
「やめろおおお!!」
和馬は貴也の腕を引っ張り、社務所から転げるように逃げ出した。
語り神様は動かなかった。が、後ろから、無数の声が追ってくる。
「はなして、はなして、はなして」
「ぜんぶ、きいてあげる」
「あなたの、ぜんぶ、ほしい」
「うるせぇぇえ!!」
***
逃げ切ったのは奇跡だった。
町の雑木林まで戻ってきたところで、貴也は膝をついた。
「……すまん、俺……頭がぼんやりする……」
「記憶、抜かれてんだよ。戻るかどうか知らんけど……!」
「いや……でも、ちょっと楽になった気もする。あの神様……全部聞いてくれたから、俺のどうでもいい悩みも……」
「代償がでけぇんだよ!」
貴也の目は、どこか虚ろだった。
和馬は、もう一度だけ振り返った。
雑木林の向こう。社務所跡の暗がり。
そこに、“誰か”が座っていた。
口元だけをにんまりとさせて。
(第5話『語り神様は聞いている』:End)