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朝陽が屋敷の大きな窓から差し込み、食堂を明るく照らしていた。昨夜の舞踏会での婚約破棄という衝撃的な出来事を受け、ヴェルナは一晩中眠れなかった。心には怒りと悲しみが渦巻いていたが、彼女の姿勢は毅然としていた。アルヴィス侯爵家の令嬢として、感情を露わにすることは許されない。彼女は深呼吸をし、自分を落ち着かせてから食堂に向かった。
食堂では、父であるアルヴィス侯爵がいつものように新聞を広げて座っていた。母のマティルダも隣に座り、朝食の支度を整えていた。食卓には静寂が漂い、いつもの家族の朝の時間が流れていた。
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ヴェルナが席に着くと、侯爵は彼女に視線を向けることなく新聞を読み続けた。マティルダだけが彼女に穏やかな微笑みを向け、静かに挨拶した。
「おはようございます、ヴェルナ。」
「おはようございます、母様。」
しばらくの間、銀器が皿に当たる音だけが響いていた。ヴェルナは胸の奥に溜まった言葉を慎重に整理しながら口を開いた。
「父様、母様、昨夜の舞踏会で……セザール様から婚約破棄を告げられました。」
その言葉が食堂に落ちると、空気が一瞬にして凍りついた。侯爵の手が新聞をめくる動きを止め、マティルダの表情には驚きと心配の色が浮かんだ。
「婚約破棄?」
侯爵はようやく顔を上げ、冷たい視線をヴェルナに向けた。
「はい。セザール様はリリアン・ハーヴィー嬢との婚約を公表しました。」
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侯爵はしばらくヴェルナを見つめた後、再び新聞に視線を戻し、興味なさそうな声で答えた。
「それで?」
「……それで、ですか?」
ヴェルナはその冷淡な反応に一瞬言葉を失った。父親が怒りや悲しみを示すどころか、まるで他人事のような態度をとることにショックを受けた。
「お前が婚約破棄されたのは、自分に何か欠けていたからだろう。それ以上に何を話す必要がある?」
その言葉は、まるで刃物のようにヴェルナの心に突き刺さった。彼女はこれまで貴族としての役割を全うするために全力を尽くしてきた。それなのに、父親からの返答はこれほどまでに冷たいものだった。
「父様、それは私が努力してこなかったと言いたいのですか?私は社交界での立場を守るために、どれだけ自分を磨いてきたと思っているのですか?」
ヴェルナの声は震えながらも必死に訴えた。しかし、侯爵は眉ひとつ動かさずに言葉を返した。
「努力が足りなかったのだ。結果がそれを物語っている。」
ヴェルナの拳が震えた。これ以上何を言っても、この父親からは何の支援も期待できないのだと悟った。
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その時、母のマティルダが優しく口を開いた。
「ヴェルナ、大変だったわね。私にできることがあれば、何でも言ってちょうだい。」
その言葉に、ヴェルナの胸が少しだけ軽くなった。母はいつも彼女の味方だった。優しく、暖かなその存在は、彼女にとって唯一の救いだった。
「ありがとう、母様。でも……父様が言うように、私は自分でこの状況をどうにかしなければならないのかもしれません。」
「ヴェルナ……」
マティルダは娘の手を握り、そっと微笑んだ。
「それでも、私があなたの力になることを忘れないでね。」
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ヴェルナは食事を終えると、静かに席を立った。父親の無関心、母親の優しさ。それらが交錯する中で、彼女は自分の立場を再認識していた。
「私は一人で立ち上がるしかないのだわ。」
その言葉を胸に刻み、彼女は自室へ戻った。
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机に向かい、彼女は昨夜の出来事を振り返った。セザールの態度、リリアンの嘲笑。そして、周囲の貴族たちの反応。その全てが、彼女の中に新たな疑問を生じさせた。
「リリアンの家は多額の借金を抱えている。それなのに、どうしてセザールは彼女を選んだのかしら……?」
ヴェルナはペンを取り、紙に思いつく限りの疑問を書き出した。そして、彼女の中で一つの確信が生まれつつあった。
「これはただの婚約破棄じゃない。何か裏がある……。」
彼女の心には復讐心と同時に、真実を明らかにするための決意が芽生えていた。父の支援がなくても、彼女は自分の力で進む道を見つけるつもりだった。
「私はアルヴィス侯爵家の娘。これくらいのことで屈するわけにはいかない。」
ヴェルナは深呼吸をし、ペンを置いた。新しい一日が始まる。その日は、彼女の人生における転機の始まりとなる日だった。