ヴェルナは母マティルダの提案で応接室へ向かった。日差しが差し込む部屋の中は暖かな空気に包まれていたが、ヴェルナの心にはまだ昨夜の舞踏会での出来事の余韻が冷たく残っていた。セザールから婚約破棄を告げられた衝撃と、父アルヴィス侯爵の冷淡な反応が、彼女の胸を締め付けていた。
「ヴェルナ、こっちに座ってちょうだい。」
母親の穏やかな声に促され、ヴェルナはソファの隣に腰を下ろした。マティルダは娘の手を優しく握り、目を覗き込んだ。
「辛かったわね。」
その一言が、ヴェルナの心の奥深くに響いた。
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「母様……」
ヴェルナの声は震えていた。冷静を装おうとしていたが、母の優しい声に触れた瞬間、涙が込み上げてきた。
「昨日の舞踏会で、婚約破棄を告げられました。」
涙を堪えながらも、ヴェルナは口を開いた。「それだけじゃないんです。セザール様はリリアン・ハーヴィー嬢との婚約を公表しました。」
「リリアン嬢と……?」
マティルダの表情には驚きと同情が浮かんだ。「それは……ひどい話ね。」
「それに、父様は……冷たい態度でした。」
ヴェルナは俯きながら続けた。「私はもっと支えてくれると思っていました。でも、父様にとって、私の努力なんてどうでもよかったんです。」
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マティルダは娘の言葉をじっと聞きながら、静かに頷いた。そして、少しだけ笑みを浮かべながら言った。
「お父様は、不器用な人なのよ。」
「不器用……?」
ヴェルナは首を傾げた。
「そう。あの人は感情を言葉にするのが得意じゃないの。特に、こういう家族の問題にはね。でも、あなたを愛していないわけではないのよ。」
マティルダはそう言いながら、ヴェルナの手をさらに強く握った。
「愛しているなら、どうしてあんな言い方をするんですか?」
ヴェルナの声には怒りが混じっていた。「私を見下しているようにしか思えません。」
「それは……あなたが自分の力で立ち上がれると信じているからよ。」
マティルダの目は真剣だった。「お父様なりに、あなたに試練を与えているのかもしれない。アルヴィス侯爵家の娘として、自分で道を切り開く強さを持ってほしいと思っているのよ。」
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その言葉を聞いても、ヴェルナはすぐには納得できなかった。だが、母親が父親を庇う気持ちも分かる気がした。
「でも、私は一人では無理かもしれません……」
ヴェルナはぽつりと呟いた。「昨夜の屈辱を乗り越えるには、誰かの助けが必要です。」
「そのために、私がいるのよ。」
マティルダは娘を抱き寄せ、優しく微笑んだ。「あなたは一人じゃないわ。私が力になるわ。」
その言葉に、ヴェルナの心は少しだけ軽くなった。母親が自分を支えてくれるという確信は、彼女にとって何よりの救いだった。
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「母様、どうしてセザール様はリリアン嬢を選んだんでしょう?」
ヴェルナは沈んだ声で尋ねた。「リリアン家は借金を抱えているはずです。それなのに、どうして……。」
「確かに、普通では考えられないことね。」
マティルダは少し考え込みながら答えた。「リリアン嬢が何か特別な理由でセザール様にとって必要だったのかもしれないわ。」
「特別な理由……?」
ヴェルナは疑問を抱いたまま考え込んだ。「でも、それが何なのか分かりません。」
「それを知るには、情報が必要ね。」
マティルダは静かに言った。「私の友人の中には、社交界の裏事情に詳しい人もいるわ。その人たちに話を聞いてみましょうか?」
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その提案に、ヴェルナの目が少しだけ輝きを取り戻した。母親が自分を支えてくれるという事実が、彼女に新たな希望をもたらした。
「本当に頼れるんですか?」
「もちろんよ。」
マティルダは優しく微笑んだ。「ヴェルナ、あなたは一人じゃない。まずはリリアン家の状況を調べましょう。そして、セザール様が何を考えているのか、その全てを明らかにするのよ。」
「ありがとうございます、母様。」
ヴェルナは小さく頷いた。「私、絶対に真実を明らかにします。そして、自分の誇りを取り戻します。」
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その日の午後、ヴェルナは母親と共に調査の計画を立てた。母親の人脈を活用し、リリアン家やセザール家の情報を集める手筈を整えた。そして、使用人たちの中で信頼できる人物を見つけ、彼らにも協力を仰ぐことを決意した。
「私にできることは全部やるわ。」
ヴェルナの目には冷静さと決意が宿っていた。
「彼らに、私がただの被害者じゃないことを思い知らせてやる。」
母親との時間を通じて、ヴェルナは自分が立ち直る力を持っていることに気づき始めていた。彼女はもはや泣いているだけの令嬢ではなかった。自分の未来を切り開くために、第一歩を踏み出そうとしていた。