アコード王子は、セリカ・ディオールとの婚約に初めて思い悩んだ時のことをよく覚えていた。彼女がまだ幼い頃、ディオール公爵家との強固な関係を築くために、彼の父であるリュミエール王国の王は、セリカとの婚約を提案した。その時、彼は幼いセリカをただ守るべき存在として見ていた。彼女は可愛らしく、知識欲にあふれ、時には王宮での行事で賢い返答をして周囲を驚かせることもあった。
アコードはそのような彼女を見守るのが好きだった。彼女の成長をそばで感じ、彼女がどれほど素晴らしい女性に成長していくかを楽しみにしていた。彼女が知識を深め、政治的な話題にも意欲的に取り組んでいく様子は、彼にとってまるで自分の妹や弟子のような存在に思えた。時折、彼はセリカが彼の婚約者であることを忘れるほどだった。
しかし、彼女が成長するにつれて、アコードの中にある疑念が芽生え始めた。それは、彼女にとって婚約が本当に幸せなのか、そして自分は彼女を真に幸せにできるのかという問いだった。彼が年を重ねるにつれて、政治的な婚約の意味や、王室における立場の重みがより強く意識されるようになった。そして、そのことが彼に大きな葛藤を生じさせた。
彼自身の年齢と、セリカの年齢差は無視できない問題だった。彼が大人になり、責任を負う王子としての道を歩む中で、セリカはまだ成長の途上にあった。彼女はこれから大人の女性としての道を進み、多くのことを学び、自分自身を見つける時間が必要だと感じるようになった。だが、その時間を彼との婚約という枠に縛り付けるのは、公正ではないように思えてならなかった。
ある日、アコードは自室の書斎でこの悩みについて深く考えていた。机の上には、彼が王室の仕事で扱うべき書類が山積していたが、それに手をつける気にはなれなかった。彼の思考は常にセリカへと戻ってしまう。彼は彼女のことを心から大切に思っていた。それは婚約者としてだけでなく、個人としての彼女を尊敬し、愛していたからだ。だが、その愛が婚約によって束縛されるものであってはならないという考えが、次第に彼の心の中で大きくなっていった。
「彼女にとって、これが本当に幸せなのだろうか…?」
彼は静かに呟いた。その瞬間、自分の心が既に答えを出していることに気付いた。彼がセリカを愛しているからこそ、彼女の自由を奪うことができないのだ。彼女は、これから多くの人々と出会い、様々な経験を積み、自己を確立していく時期にある。彼女には自分の道を選ぶ権利があり、その権利を守るのが彼の役割だと感じた。
婚約を破棄することが、彼女にとって最良の選択肢であることは明白だった。だが、その決定は容易ではなかった。婚約は単なる個人の関係ではなく、政治的な意味合いも強く、王室とディオール公爵家の結びつきは多くの者にとって重要だった。彼はその重圧を強く感じていた。
アコードは、父である王に相談することを決意した。彼は書斎を出て、王宮の奥にある謁見の間へ向かった。王は常に忙しく、多くの政治的な案件に取り組んでいたが、アコードが相談したいことがあると伝えると、すぐに時間を割いてくれた。
「父上、セリカとの婚約について話をしたいのです。」
アコードは静かに、だが確信を持ってそう告げた。王は眉をひそめ、息子の真剣な表情を見て、何か重大な決断が下されるのを感じ取った。
「お前の思いを聞こうか。」
王の言葉に促され、アコードは今まで自分が抱えてきた葛藤と、セリカの幸せを第一に考えた結果、婚約を破棄したいという決意に至ったことを伝えた。彼はその場で慎重に言葉を選びながら、自分の思いを父に打ち明けた。
「彼女は素晴らしい女性です。私も彼女の成長を見守ってきました。しかし、彼女にはまだ多くの可能性があり、その自由を奪うことができません。私は彼女を束縛する存在であってはならないのです。」
王はしばらくの間、黙ってアコードの言葉に耳を傾けていた。そして、深い息をついてから、重々しく頷いた。
「お前の気持ちは理解した。確かにセリカはまだ若い。お前がそのように思うのも無理はない。だが、この婚約は我が王国とディオール公爵家との結びつきにおいて重要なものだ。お前はそれを理解しているな?」
「はい、理解しています。しかし、私が思うに、真の同盟は心からの信頼によって成り立つものです。婚約という形に縛られなくとも、公爵家との関係は続けることができると信じています。」
王は息子の確固たる決意に再び頷いた。「お前の言う通りだ。政治的な枠組みに縛られるよりも、互いの信頼と理解によって結びつきを強化することが重要だ。お前がその責任を負うのなら、私はそれを認めよう。」
アコードは深く頭を下げ、父の許可に感謝した。これで、セリカの幸せを最優先に考えることができる。だが、もう一つの課題が残っていた。それは、セリカ自身にこの話を伝えることだった。
彼はセリカがこの話をどのように受け止めるかを考えた。彼女はまだ若いが、彼女の冷静さと知恵を知っている彼は、セリカならこの決定を理解してくれるだろうと信じていた。しかし、それでも心のどこかで彼女を失うことへの寂しさがあった。
数日後、彼はディオール公爵家に使者を送り、セリカとの正式な会談を取り付けた。そこで彼は、彼女に婚約破棄の決断を自分の口から伝えるつもりだった。セリカには、彼女が選ぶべき未来があることを知ってほしかった。そして、彼が彼女の幸せを心から願っていることを、誠意を持って伝えるつもりだった。
「セリカ、君には君の道を進んでほしい。そして、その道が私との婚約によって妨げられることは、望んでいない。」
アコードは心の中で何度もその言葉を繰り返しながら、セリカとの対話の場へと向かう準備を整えた。それが彼の最終的な決意だった。