事情を既に知っていた取り巻きも黙らせたのだろう。そして公爵が伯爵令嬢に暴力を振るった事実だけが伝えられ続けた。
確かに暴力はいけない。でも突き飛ばして猫と距離を取らせなければダイアナは踏み殺されていたのかもしれない。
「……それだけじゃない」
私に怯えることを止めたらしいジェラールが静かに口を開いた。
「婚約の継続条件としてダイアナの殺処分を提案された、だからこちらから断った」
「えっ寧ろその時点でその女を殺処分しましょうよ、人間如きがおこがましいにも程があるでしょう」
「ひっ」
隠しきれなかった殺意に驚いたのかジェラールが又怯えた声を上げる。
完全にその氷の仮面は溶け切っている。そもそも氷なんて元から無かったのかもしれない。
周囲が勝手に彼を冷たい人間に仕立て上げただけで。私はコホンと咳払いをした。
「でも当事者に聞くのがやはり一番ですね。これで貴方の婚約破棄理由は私にとって全く問題無いことが完全に分かったので」
「……もしかして、アニエス嬢は最初から私の悪評を信じていなかったのか?」
信じられないというように訊いてくるジェラールに私は少し考え込んで返事をした。
「以前までは多少信じていましたけれど、夫婦になるなら噂をそのまま鵜呑みにして最初から険悪になるのって馬鹿じゃないですか」
「うっ」
「調べもせずに好き勝手嫌ったりできるのは自分の人生に影響無いからですよ。冤罪で相手を罵って訴えられて負けるなんて嫌ですし」
「それは……俺を、訴えるのか?」
「まだ訴えませんよ、今回は私にも非がありますし一度目は許します」
「……まだ?」
「確かに私をよりにもよって猫ちゃん様に暴力をふるうような極悪人として扱ったことだけは数十年間じっとりと恨みそうですけれど」
「ひっ、すっ、すまない……」
「確かに今日こそはいけるかとダイアナちゃんに触ろうとした私が完全に悪いですけれど、思いっきり引っ掻かれたら悲鳴上げる権利ぐらいは与えて貰っていいですか?」
そう言いながら私は血で汚れた手の甲を彼に見せつけた。
ジェラールは顔を真っ青にして叫んだ。
「なっ、血っ、いっ、医者っ!」
「大丈夫です、血は気合で止めました。私は命の危険が無い限り猫ちゃん様を怒鳴ったりしません。本当それだけは理解してくださいね、私は死んでも猫ちゃん様にだけは危害を加えないので、いや本当にそれだけは譲れないので」
「わかった、わかった! ……アニエス嬢、君は……もしかして、いやもしかしないなもう、猫が好きなのか?」
私の発言を聞いた彼が恐る恐ると言った様子で質問してくる。
私は即座に答えた。
「好きとか嫌いとか考える領域は超えて、最早猫ちゃん様が存在するからこの世界を滅ぼさない感じですね」
「怖っ! 君は魔王か何かなのか?」
「いえただの悪女です。それで貴方との結婚を了承したのはこの屋敷で猫ちゃん様が幸せそうに暮していると知ったからです」
「えっ、完全に我が家の猫たち目当て? 俺でなく?」
「もしかして家柄や美貌目当てとか思ってたのですか? 自己評価高過ぎでは?」
私がそう言うとジェラールは恥ずかしそうに顔を赤くした。どうやら本当にそう思っていたらしい。
顔と家柄は確かに良いから多少なら自惚れる権利はあると思うが、私はそういう理由で彼を選んだわけでは無い。