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第10話

 取り調べ室での寝泊まり生活が、気づけば二週間に差しかかろうとしていた。


「……もうマジで帰りてぇ……」

 机に頬杖をつきながら、ぼやく。

 シャワーを浴びて、布団で寝たい。それだけのことが、今は果てしなく遠く感じた。


 ——ガチャリ。


 不意に扉が開き、見覚えのある声が耳を打った。


「おぉ、元気そうね。見舞いのリンゴよ、ほれ」

「所長!?」


 現れたのは、俺が所属する飛鳥探偵事務所の所長・中沢飛鳥さんだった。

 普段は俺とふたりきりでゆるく事務所を回し、酒を飲んで寝落ちするような生活をしているのに、ひとたび事件となれば豹変する。目の色が変わり、細部まで見逃さずに事実を掘り出す、そんな不思議な女性だ。


 飛鳥さんはドアを閉め、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。


「で、今度君が配属される事件、聞いた?」

「えぇ、たしか“零殺人事件”でしたっけ。でも俺、まだこの部屋から出られないんですけど」


「ふぅん、いいだろう。私が人肌脱いでやろうじゃないの」

 そう言ってスマホを取り出すと、誰かに電話をかけ始めた。


「……そこをなんとか。……本当? うん、それで頼むよ」


 短い通話を終え、にっこり笑って言う。


「よかったな、君はもう自由だ」


「え、まじで? どうやって交渉したんですか」

「ま、私は警視庁の上層部と仲良しでね。いろいろコネを使わせてもらったのだよ、少年」

 どや顔で胸を張る飛鳥さん。


「……よくわかりませんけど、わかりました」


零殺人事件捜査班


「おぉ、出られたんだな!」

 部屋に入ると、釜野が満面の笑みで声をかけてくる。


「……みたいだな」

 俺もようやく、肩の荷が下りた気がした。


「じゃ、私は帰るわ。せいぜい頑張りたまえ、少年」

 飛鳥さんは俺の肩を軽く叩くと、くるりと踵を返して去っていった。


「飛鳥さんって綺麗だよな。ああいう大人の女性、いいよなぁ」

「おいおい、それはあの人の普段の生活を見てから言ってほしいね……部屋の半分は酒瓶で埋まってるぞ」


「まぁ、それはそれとして——さて、お前がいない間に捜査が少し進んだ。まずはその説明から入らせてもらう」


 釜野は部屋の電気を落とし、他の刑事がプロジェクターを起動させた。画面に、複数の事件現場写真が映し出される。


「被害者は全員、自宅で腹部を矢で射抜かれ、出血多量で死亡している。そして——腹部には、刃物で刻まれた“0”の文字があった」

 釜野の声はいつになく沈んでいた。


「俺たちはこれを同一犯による連続殺人と見て捜査を進めているが……この犯人、痕跡を一切残していない。完全なプロだ。正直、お手上げに近い」


 静かな緊張が室内を包む。


「そこでだ。お前と、もうひとり。将棋棋士として知られながら、数々の事件で鋭い助言をしてきた男を呼んだ」

「……将棋の棋士?」


「どうも、こんにちは」

 扉の向こうから現れたのは、青のスーツに丸眼鏡をかけた長身の男だった。


「名取です。この事件の捜査に、本格的に協力させていただきます。よろしくお願いします」

 深々と頭を下げるその姿には、嫌味のない礼儀正しさがあった。


「お前は名取と組んで動いてくれ。よろしくな」

 釜野が言うと、名取がこちらに向き直る。


「君が浪野悠くんか。噂は聞いてるよ。武力で犯人をねじ伏せるという、非常に興味深いスタイルだ」


「……そりゃどうも」


「ふふ、これは面白くなりそうだ」

 不敵に微笑むその表情は、どこか底知れなさを感じさせた。


(……気持ち悪ぃ奴だな)


 とは思ったが、推理力には定評があるらしい。ここは謙虚に、協力を申し出るのが得策だ。


「まぁ、ともかく。一緒に頑張ろうな」

「こちらこそ。よろしく頼むよ」


 新たな事件、そして奇妙な相棒。

 この“0殺人事件”は、またひとつ別の闇へと続いている気がした。

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